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会いたいときは、あの林に来てくれ。まだそのあたりをほっつき歩いているから――。五十を前にして病を得た記者の三十年の歳月。

暗い林を抜けて

黒川創/著

2,090円(税込)

本の仕様

発売日:2020/02/27

読み仮名 クライハヤシヲヌケテ
装幀 ヤドランカ・ストヤコヴィッチ(Jadranka Stojakovic)/装画、新潮社装幀室/装幀
雑誌から生まれた本 新潮から生まれた本
発行形態 書籍
判型 四六判
頁数 255ページ
ISBN 978-4-10-444410-6
C-CODE 0093
ジャンル 文芸作品
定価 2,090円

京都での学生時代、駆け出し記者だった頃の結婚、十年後の離婚、新たな家庭と四十代にして初めて儲けた息子。東日本大震災の激務を経ながら癌を患い、現役記者を続けて六年。いよいよ最後の日々が近づいてくる――。『鶴見俊輔伝』で大佛次郎賞を受賞した作家が、ままならない人生のほのかな輝きを描く最新長篇。

著者プロフィール

黒川創 クロカワ・ソウ

1961年、京都市生まれ。同志社大学文学部卒業。1999年、初の小説『若冲の目』刊行。2008年刊『かもめの日』で読売文学賞、2013年刊『国境〔完全版〕』で伊藤整文学賞(評論部門)、2014年刊『京都』で毎日出版文化賞、2018年刊『鶴見俊輔伝』で大佛次郎賞を受賞。おもな小説に『もどろき』『いつか、この世界で起こっていたこと』『暗殺者たち』『岩場の上から』、評論に『きれいな風貌――西村伊作伝』『日高六郎・95歳のポルトレ――対話をとおして』、鶴見俊輔・加藤典洋との共著『日米交換船』など。編著に『鶴見俊輔コレクション』全4巻、『鶴見俊輔さんの仕事』全5巻ほか。

書評

小説によって生かされる

平松洋子

 宙吊りにされた気分になることが、ときどきある。こうしていま自分は生の時間を刻んでいるけれど、死ぬまで生きて、死んで消えたら、それだけのこと。ただそれだけのこと――。
『暗い林を抜けて』は、ひとりの日本人の男が“ただそれだけのこと”を生きるありさまと意味を正面から問う長編小説である。歴史の時間のなかで、星の数ほど無数に交差する人間の営み。その痕跡が、黒川創にしか成し得ない小説手法によって肌理細かに描き出されてゆく。
 主人公、有馬章は大手通信社の文化部に勤務する記者。1965年生まれ、五二歳。五年前に早期大腸がんの診断を受け、開腹手術ののち復帰。会社に訴えかけて古巣の文化部に戻り、ベテラン記者として現場にしがみついている。三人家族で、再婚した弓子とのあいだに生まれた息子、太郎は育ち盛りの小学生だ。しかし、彼の目前には、がんの再発や転移の兆候がちらちらと見え隠れしている。
 現役生活の幕切れを射程に入れた有馬章は、入魂の試みを用意する。みずから企画した単独執筆の長期連載、タイトル「『戦争』の輪郭線」。一テーマを上・中・下に分けて三日間配信し、五カ月単位の続きものとする。まず第一部であつかうのは第二次世界大戦。戦争をテーマに据えた背景には、かねがね抱えていた忸怩たる思いがある――戦争を、日本人は自分の問題として受け止めないまま戦後社会を作ってきたのではないか。たとえば、警察官僚だった自分の父親にしろ、わかったふうな言葉は、しょせん神棚に祀られた借り物に過ぎない。翻って自分は、時間の層に潜む人間のおこないを見落としてこなかったか。
 小説中に、配信記事がそのまま登場する。戦争にあらたな輪郭をあたえようと試みる内容は、同時に、「ごく普通の人間」にまつわることを書き続けてきたひとりの記者の内面を照らしだす。第一回目は、外交伝書使クーリエとしてソ連に向かった若き経済学者、都留重人に端を発する事件について。第二回目は、戦時下の駐ポルトガル公使、千葉蓁一の知られざる消息について。第五回目は、周知のゾルゲ事件にたいする新たな見方について。これらの記事の奥底に蠢いているのは、家族や会社から距離を取りながら自身の立脚点を模索してきたもがきの跡。「書く」「問う」ことによって歴史と個人の接合点を見出そうとする、有馬章の懸命な姿を小説は描きだす。
 いっそ痛々しいほど、彼の半生は精確に、露わに描かれるのだが、複数の女たちの実在感がとてもふくよかだ。大学時代の同級生だった最初の妻、ゆかりと暮らした長崎での日々は、苦いのに、初々しい生の輝きをまとう。十一年間の結婚生活ののち離婚した彼女と、がんを患った有馬章がただ一度、邂逅する場面がある。そのせつなさと残酷。全編の行間から、ぷつぷつと絶え間なく湧く泡の音のように男女のエロスの気配が聞こえてくる。男と女の交差は、そもそもせつなさと残酷さを孕むものなのだろう。
 いっぽう、さまざまな歴史の断片が、海中から鉤で引き上げられるようにして提示される。老画家が体験したシベリアでの過酷な抑留生活。物理学者、湯川秀樹が書きつけた敗戦期の日記の一部。イギリスの宇宙物理学者、S・ホーキング博士のきわめて個人的な背景。長崎、雲仙普賢岳の噴火。京都の岩倉の土地で引き継がれてきた、ひそやかな習い。あるいは、足利十二代将軍義晴が都落ちして行き着いた滋賀の朽木で、寺の住職から聞いた十八歳の礼宮の孤独な言葉……歴史の断片の大小のあれこれは、小説のなかで、一方向に向かって収束されたりはしない。私は、しきりに小説の声に耳を澄ませる。これらの痕跡がなにか強烈なものとしてこころの深い場所を抉るのは、生身の有馬章が忘れてはならない確かなものとして記憶に留めたから。人間の生きた証しを見出そうと格闘しているから。
 暗い林のなか、いよいよ有馬章の輪郭は淡く滲み始める。しかし、生きていても、そうでなくても、ただそれだけのことであっても、ひとりの男が生きた実在の痕跡は確かなものとして誰かに繋がってゆくだろう。
 小説によって生かされるということを、読み終わってなおずっと考え続けている。

(ひらまつ・ようこ エッセイスト)
波 2020年3月号より
単行本刊行時掲載

目次

第I章 蜜の静かに流れる場所
第II章 覚えていること
第III章 暗い林を抜けて
第IV章 夢みる権利

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