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無常という力―「方丈記」に学ぶ心の在り方―

玄侑宗久/著

1,210円(税込)

発売日:2011/11/25

書誌情報

読み仮名 ムジョウトイウチカラホウジョウキニマナブココロノアリカタ
雑誌から生まれた本 新潮45から生まれた本
発行形態 書籍、電子書籍
判型 四六判
頁数 127ページ
ISBN 978-4-10-445607-9
C-CODE 0095
ジャンル 古典、文学賞受賞作家
定価 1,210円
電子書籍 価格 968円
電子書籍 配信開始日 2012/05/18

八百年も昔に紡がれた古典が指し示す、乱世の現代を生きる術。

何が起ころうと悩まない。決めつけない。そして全てを受け容れ揺らぎ続ける。それが自由になることであり、強くなることであり、未来を楽しむことである――。幾多の天災人災を経験し綴られた鴨長明の境地を今に重ね読み解く。フクシマに暮らす著者だからこそ語れる、無常を力に変えてしなやかに生きぬくための智慧。

目次
はじめに 震災後に読む「方丈記」
無常という力
1 無常を生きる
2 天災と人災の果てに
3 人はこの世に仮住まいをしている
4 「賢き御世」でない時代
5 数えきれない死体の中で
6 大地震で人間は変わったか?
7 どこに住めばいいのだろう
8 五畳あまりの小世界
9 ものうしとても、心を動かす事なし
10 揺らぎつづけろ
11 手作りの、小さな自治のために
方丈記関係地図
玄侑宗久監訳「方丈記」現代語版
鴨長明「方丈記」原文
むすびに代えて 無常なるフクシマの未来へ

書評

波 2011年12月号より なぜ今、「無常」が心を強く打つのか

養老孟司

玄侑宗久さんが『方丈記』を論じている。お坊さんに『方丈記』、それこそピッタリ、相性がいいに決まっている。そう思う人もあるかもしれない。でももちろん、玄侑さんがいいたいのは、それだけではない。大切な背景がある。三・一一とそれ以降の東北のことである。玄侑さんのお寺は福島県の三春にある。お寺には被災者も集まっただろうし、さまざまな事情で震災後にも亡くなる方が多かったと聞く。さらに玄侑さんご本人も、お国の復興会議とやらに委員として出ておられたようだから、気持も身体もあれこれ大変だったに違いない。福島だから放射能のこともあって、いまでも大変であろう。そうしたもろもろが、『方丈記』という「よりしろ」を得て結晶化し、この本になった。
『方丈記』にはそういう作用があるのだと思う。よい前例がある。それは堀田善衞の『方丈記私記』である。昭和二十年三月九日夜半から、東京の下町は大空襲を受けた。堀田善衞は当時二十七歳、目黒洗足の友人の疎開先から、炎々と燃え続ける下町方向を見つつ、深川に住む「一人の親しい女」の身を案じていた。そのとき突然によみがえったのが、『方丈記』の記事だった。安元三年(一一七七)の大火に触れて『方丈記』は記す。「その中の人、現し心あらむや」。火災の中の人は、生きた心地がしないだろう、というのである。その追憶から始まって、堀田の場合には、戦災体験と『方丈記』が往復運動を繰り返しながら、一巻の書物となる。
今回の作品は、玄侑宗久の『方丈記私記』といっていいであろう。『方丈記』には、作家の心を深いところで動かす、なにかがある。私は生来野暮で、風流に向かう心はない。でも日本の古典のなかでは、『方丈記』がなぜか自分の心を強く打つことを知っている。玄侑さんもそうだと知って妙に嬉しいのである。
まだ大学勤めで現役の頃、たとえば経団連みたいなところから、「新入社員に勧める一冊」というアンケートを書かされた記憶がある。そのときに、私は『方丈記』と書くのが常だった。なにしろ原稿用紙二十五枚ほど、古典で確実に全文を見たといえるのは、これしかない。むろん半分以上は皮肉である。当時のことだから、これから会社に入って、末は社長か重役か、高度経済成長でお金を儲けて当たり前、そういう若者たちに「ゆく河の流れ」がなんの関係がありますかね。その上、ともあれ古文だから、いかに短いとはいえ、読みにくかろうと思う。その点、今度の玄侑さんの本はたいへん親切で、現代語訳がついている。これならいまの若者でも簡単に読めるではないか。今度は皮肉でなく、経団連に推薦したい。
仁和寺の隆暁法印が、飢饉の際、白骨を含む死者の額に「阿」の字を書いていく。その数、左の京だけで四万二千三百。堀田善衞も玄侑さんもそこを引用している。私も引用したことがある。それをいわば淡々と見つめる目が、鎌倉時代の目である。その目が日本人の心の奥底に隠れている。天災があると、その目が覚めて、あらためて世界を見つめる。玄侑さんの属する臨済宗も、この時代に生まれた宗派といってもいいであろう。そこでは当時と現在とが、まさに共鳴するのである。
平安時代から鎌倉時代への移り変わりは、歴史的必然などというものではなかろう。その革命的な変化は、心の時代から身体の時代への移り変わりだというしかない。私はそう思う。『平家物語』の最後は、壇ノ浦合戦に勝って、都に凱旋してきた範頼と義経が、平家の公達の首を四条の河原に曝すかどうかという議論である。結局は曝すのだが、これがまさに死刑がなかったという「平安」時代の終焉となる。
『方丈記』と『平家物語』の冒頭がよく似ているのは、偶然などではない。あれは日本の中世がはじめて意識化した思想である。思想は恒久だが、身体は無常である。本人はそう思っていないかもしれないが、作家はむしろ身体に触発されて書く。そういうものだと私は思う。玄侑さんはお坊さんだから、それをよく知っている。修行とはもともとそのことだからである。
『方丈記』は短く低声だから、うっかりすると聞き逃す。しかし耳を傾けてよく聞くなら、恐るべきことを語っている書物なのである。玄侑さんの本は、あらためてそれを教えてくれる。読了して、よいお経を聞いた、という思いがある。

(ようろう・たけし 解剖学者)

著者プロフィール

玄侑宗久

ゲンユウ・ソウキュウ

1956(昭和31)年、福島県三春町生れ。慶應義塾大学中国文学科卒。様々な仕事を経験した後、京都の天龍寺専門道場で修行。現在は臨済宗妙心寺派の福聚寺住職。デビュー作「水の舳先」が芥川賞候補となり、2001(平成13)年、「中陰の花」で芥川賞を受賞。著書に小説として『アブラクサスの祭』『化蝶散華』『御開帳綺譚』『アミターバ−無量光明』『リーラ 神の庭の遊戯』『龍の棲む家』『テルちゃん』『阿修羅』『四雁川流景』『光の山』など。他に『私だけの仏教』『まわりみち極楽論』『禅的生活』『多生の縁』『釈迦に説法』『禅語遊心』『現代語訳 般若心経』『禅のいろは』『荘子と遊ぶ』『無常という力』などがある。

玄侑宗久公式サイト (外部リンク)

判型違い(文庫)

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