ホーム > 書籍詳細:墨のゆらめき

墨のゆらめき

三浦しをん/著

1,760円(税込)

発売日:2023/05/31

  • 書籍
  • 電子書籍あり

実直なホテルマンは奔放な書家と文字に魅せられていく。書下ろし長篇小説!

都内の老舗ホテル勤務の続力は招待状の宛名書きを新たに引き受けた書家の遠田薫を訪ねたところ、副業の手紙の代筆を手伝うはめに。この代筆は依頼者に代わって手紙の文面を考え、依頼者の筆跡を模写するというものだった。AmazonのAudible(朗読)との共同企画、配信開始ですでに大人気の書き下ろし長篇小説。

書誌情報

読み仮名 スミノユラメキ
装幀 shikafuco/彫刻オブジェ制作、石井勇一(OTUA)/ブックデザイン
発行形態 書籍、電子書籍
判型 四六判変型
頁数 232ページ
ISBN 978-4-10-454108-9
C-CODE 0093
ジャンル 文芸作品
定価 1,760円
電子書籍 価格 1,760円
電子書籍 配信開始日 2023/05/31

書評

文字を通じて歩み寄る、「書く男」と「見る男」

酒井順子

 あるパーティーの招待状が届いた時、宛名に「酒井川夏子様」と書いてあったことがある。はて? と思ったが、次の瞬間に理解した。パーティー主催者は、おそらく手書き・横書きで招待者リストを作成。その時、酒井順子の「順」の字の偏とつくりが離れていたため、リストを見た筆耕士は別の文字と判断し、かつ「頁」が「夏」と読めたので「酒井川夏子」となったのではないか、と。
 いつも何気なく眺めていた招待状の筆耕文字だが、そこには文字を書いた生身の人がいる、ということを感じたのは、この時が初めてだった。酒井川夏子、何やら素敵な名前ではないか。どんな人が書いてくれたのか。……と想像が広がったのであり、三浦しをん著『墨のゆらめき』を読みながら、久しぶりにその時のことを思い出した。
 物語は、老舗ホテルの従業員である続力と、書道教室を営む書家の遠田薫の出会いから始まる。招待状の宛名書きなど、ホテルでは、筆耕の仕事を発注する機会が多い。遠田に依頼をすることになった続は、その自宅兼書道教室を訪れて、書の現場に初めて触れるのだ。
 古く味わい深い一軒家に住む遠田は、ワイルドなイケメン。書道教室に通う子供達からも大人気である。真面目な続は、遠田の自由な言動にひやひやしつつ、気がつくと彼のペースに巻き込まれ、小学生から依頼された手紙の代筆を手伝うことになっていた。
 その後も、二人の付き合いは続く。磊落だがどこか謎めいた遠田の雰囲気、そして「文字を書く」という行為の魅力に惹かれて、続は彼の家に通うようになっていった。
 遠田が漢詩を書く姿を、続が初めて見るシーンは印象的である。遠田の筆運びは、「筆を通して画仙紙に伝った墨の最初の一滴が、自動的に文字の形のとおりに繊維のあいだに染み入り、黒い軌跡を浮かびあがらせているのではないかと思うほど」に、なめらか。続は完成した書から音色が聞こえてきたかのように思うのだ。
 かつて書道を習っていたことがあるが、師が書く姿にはいつも、続のようにほれぼれしたものである。「書く」というよりは、筆から黒い線が「出てくる」かのような姿を見る快感を、本書を読みつつ私は久しぶりに味わうことができた。
 文字は、書いた人の内面を如実に示す。書については素人の続だが、彼は書き手の心、そして文字の背景にある空気を、その書から読み取ることに、長けていた。そして遠田は人の心に敏感だからこそ、小学生の文字から唐代の書家の文字まで、その人になりきって書くことができる。
 遠田はきっと、続の気質を見抜いていたのだろう。全く性格の異なる二人の距離は、次第に縮まっていく。……のだが、ある時から遠田は続と音信を断つ。果たして遠田は、何を思っていたのか。
 今は、紙に手で文字を書く機会がめっきり減った時代である。ペーパーレス化も盛んに訴えられ、パソコンやスマートフォンのキーを「打つ」ことが、今は「書く」ことになっているのだ。
 そんな中で三浦しをんは、「書く」という行為が本来はどのような意味を持っていたかを、軽快に進む物語の中で、浮かびあがらせようとしている。文字とは単に情報を伝えるための道具ではなく、書き手の精神をなまなましく伝える、肉体の一部のようなもの。太古の昔の人であっても、手書きの文字が残っていれば、その人がどのような人であるかが、伝わってくるのだ。
 書家達は、いにしえの名筆家達の筆跡と同じように書くことによって、その精神に寄り添おうとしているのだろう。「まねぶ」ことはすなわち、学ぶことなのだ。
 白い紙に、黒い墨で線を書く。書とはただそれだけのことなのに、墨の濃淡、線の太さ、かすれ具合ににじみ具合……と様々な要因によって、その人にしか書くことができない字が現れる。どんな人でも筆を持てば、職業も外見も過去も関係なく、その人だけの字を書くことができるという平等さ、自由さを、この小説は示すのだ。
 ちなみに私、三浦しをんが書いたサインを見たことがあるが、不思議なクラシックさを湛えるその字の個性は唯一無二。文字って本当にその人を表すものであるよ、と思わされたことだった。

(さかい・じゅんこ エッセイスト)
波 2023年7月号より
単行本刊行時掲載

墨色のきらめきが、胸に押し寄せてくる

吉田伸子

 もしあなたが書道経験者なら、本書を読み終えたらすぐに、インターネットで「書道教室 おすすめ」「書道教室 ○○」(○○には住んでいるエリアが入る)と検索するはずだ。少なくとも、書道経験者である私は、した。書道経験者でなくとも、八割くらいの読者は検索するのではないか、と思う。なぜなら、本書はとびきり極上の「書道小説」だからである。
 とはいえ、書道初心者が書道に開眼していく、といった物語ではない(そちらには、河合克敏さんの『とめはねっ! 鈴里高校書道部』という書道漫画の傑作アリ。お勧め!)。本書の真ん中にいるのは、二人の男だ。一人は、西新宿にある、三日月ホテルに勤務するホテルマン・続力で、もう一人は書家・遠田薫。物語は、力が京王線下高井戸駅に降り立つところから始まる。遠田は三日月ホテルの筆耕士として登録されていたものの、連絡先としてメールアドレスしか登録されていなかったため、宛名を書いてもらう封筒を、力が直接届けに行かなければならなかったのだ。かくして、二人は出会う。
 もうね、この時の、自宅である「遠田書道教室」までの行き方を伝えた、遠田のメールからしてたまらないんですよ。「玉電の線路を右手に、線路沿いの道を三軒茶屋方向へ五分ほど進む。それまでのあいだで一番ボロいと思われる家が見えたら、そこがたぶんうちです」。どうです、このざっくり感。案の定、こんなざっくりな書き方では力が一発で辿り着けるはずがなく、途中には五叉路までがあらわれる始末。線路沿いの道、というのなら、普通は一本道なのではないのか、と憤りつつも、なんとか正解を見つけた力。そんな彼を出迎えたのは、「役者のようにいい男」という形容がぴったりの美丈夫だった。
 小学生相手の教室が長引いてしまっていたため、力は教室の隅で待つことになるのだが、教室での遠田と子どもたちのやりとりのくだりが、これまたたまらない。ここの描写だけで、遠田と子どもたちとの関係が一発でわかるだけでなく、書家としての遠田の卓越した才能もわかるのだ。
 なにより素晴らしいのは、全編を通じて、力の目を通して語られる「書」の描写の豊かさだ。かつて、これほど見事に「書」を活写した物語があっただろうか。否、ない。
 遠田に渡した封筒に宛名が書かれて送り返されてきた時の、力の感想はこうだ。宛名の文字は「黒曜石を砕いて溶かした墨液を使ったのかと思うほど、鋭くも深い光を帯びて」いながら、「あくまでも『お別れの会』の開催を告げる郵送物、という慎みを保ち、調和が取れている」。
 遠田が依頼された、漢詩「送王永おうえいをおくる」の書を見た時はこうだ。「活字のようにかっちりした書体で、神経質なほど端整なのに、全体としてなぜかぬくもりと体臭が感じられる」。その書を眺めていた力は、なんだか悲しくなってくる。「いや、漢詩の意味はしかとはわからないが、文字の連なりから静かな悲しみが押し寄せて、俺自身が悲しいかのように錯覚されたのだ」。
 凄くないですか? 遠田の書ももちろんだが、その書をこんなふうに受け止める力の感性の真っ直ぐさたるや。そんな力だからこそ、訳あり(なんですよ!)の遠田が自分のフィールドに受け入れるのだ。
 ここから先は、まぁ、色々あるのだが、それは実際に読んでください。代筆業でバディを組んだ遠田と力の「作品」をはじめ、思わず声を出して笑ってしまうかと思えば、胸の奥がぎゅうぅぅぅっ、となったり、読み応えたっぷり。本書はAmazonのAudibleとの共同企画として書き下ろされたもので、実際に耳で聴いても素晴らしい作品になっていて、今の今、作家・三浦しをんがどれだけの充実にあるのかがわかるのも、またまたたまらない。読んでから聴くも、聴いてから読むも、お好みで。文句なしの傑作です!

(よしだ・のぶこ 文芸評論家)
波 2023年6月号より
単行本刊行時掲載

著者プロフィール

三浦しをん

ミウラ・シヲン

1976年東京生まれ。2000年『格闘する者に○(まる)』でデビュー。2006年『まほろ駅前多田便利軒』で直木賞、2012年『舟を編む』で本屋大賞、2015年『あの家に暮らす四人の女』で織田作之助賞、2018年『ののはな通信』で島清恋愛文学賞、2019年に河合隼雄物語賞、2019年『愛なき世界』で日本植物学会賞特別賞を受賞。そのほかの小説に『風が強く吹いている』『光』『神去なあなあ日常』『きみはポラリス』など、エッセイ集に『乙女なげやり』『のっけから失礼します』『好きになってしまいました。』など、多数の著書がある。

この本へのご意見・ご感想をお待ちしております。

感想を送る

新刊お知らせメール

三浦しをん
登録
文芸作品
登録

書籍の分類