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湖の女たち

吉田修一/著

1,760円(税込)

発売日:2020/10/29

  • 書籍

『悪人』『怒り』を超える愛の衝撃! 吉田修一史上「最悪の罪」と対峙せよ。

琵琶湖近くの介護療養施設で、百歳の男が殺された。捜査で出会った男と女――謎が広がり深まる中、刑事と容疑者だった二人は、離れられなくなっていく。一方、事件を取材する記者は、死亡した男の過去に興味を抱き旧満州を訪ねるが……。昭和から令和へ、日本人が心の底に堆積させた「原罪」を炙りだす、慟哭の長編ミステリ。

  • 映画化
    湖の女たち(2024年5月公開)
目次
第1章 百歳の被害者
第2章 湖畔の欲望
第3章 YouTubeの短い動画
第4章 満州の丹頂鶴
第5章 美しい湖

書誌情報

読み仮名 ミズウミノオンナタチ
装幀 荻原美里/装画、新潮社装幀室/装幀
雑誌から生まれた本 週刊新潮から生まれた本
発行形態 書籍
判型 四六判
頁数 320ページ
ISBN 978-4-10-462807-0
C-CODE 0093
ジャンル ミステリー・サスペンス・ハードボイルド、文学賞受賞作家
定価 1,760円

書評

「生産性」を失った「上級国民」が殺された

中野信子

刑事と容疑者の間に生まれた異端の愛――これはミステリーか、それともポルノか。吉田修一の集大成ともいえる犯罪小説を、脳科学者が読み解く。

 吉田修一は、時代の陰にある者を嗅覚鋭く拾い上げ、そこに容赦なく光を当てるように描いていくのが巧みな作家である。まだ生々しい患部から血が流れているのを、冷たい視線でえぐるように描写していく。その筆致は時にサディスティックですらあり、強い嗜虐性と被虐性の混淆した世界に、読者は陶然とさせられてしまう。特に本作では、直接的に丹念に嗜虐と被虐の関係を描き出していくが、著者の本源的な部分にその歓びを感じたい何かが蠢いているような予感を覚える作品ともなっている。
 2019年4月19日、東京・池袋で死傷者11名を出す自動車事故が発生した。運転していたのは、当時87歳であった元通産省工業技術院長、飯塚幸三被告である。彼は、3歳の女児とその母親の2名の死者を出した死傷事故の加害者であったにもかかわらず、逮捕されることはなかった。
 さまざまな憶測が流れ、またTV等のメディアでも「元院長」などの呼称が使われて、「容疑者」とする報道が少なかったこと等から、彼は「上級国民」だから免責されているのに違いないと、ネットを中心に、彼に対して怒りを発する言説が盛り上がっていった。
 このころから、「上級国民」という言葉は巷間に流布していった。吉田修一はこういう微妙な時代の感情を掬い取る。果たして、本書にも、上級国民であっただろうと思しき人物が登場する。
 池袋の事故はただの事故ではない。自分たちは平均的な、普通の日常を送っている、と信じて、乏しい給料や劣悪な労働環境など、多くの不都合に耐えていたところに、国家の枠組みによって守られた、「上級」の存在がいるのかもしれない、と暗示するような出来事が起きてしまったのである。自分たちの忍耐や努力がすべて無に帰するような脱力感、真面目に生きる者は馬鹿を見るという絶望感、そして、被告に対して言いようのない嫌悪感と怒りを、覚えた人は多かったのではないかと思う。
 一方、これに先立つ2016年7月26日には、津久井やまゆり園で、入所者ら45人が殺傷される事件が起きた。植松聖死刑囚は、犯行を正当化しつづけ、「生産性のない人間は生きる価値がない」という主張を繰り返している姿が報道された。あまりに勝手で卑劣な犯行であるとして、メディアはこぞって植松死刑囚を糾弾した。
 本作では、上級国民でありながら、もはや「生産性」を失った人物が殺害される、というところから事件が始まっていく。吉田修一らしい、時代性を孕むキーワードの絶妙な配置である。この人物に対して、何者かが意図的に、その命が終わるよう、仕向けた。その犯人を捜していく、という物語である。
 持てる者と持たざる者、健常者と障碍者、そのコントラストを描きながら、吉田はさらにエロティックな要素をはめ込んでいくのを忘れない。これも、あとから無理矢理に読者サービスをすべきだから強引に配置した、というより、あえて地の文のようにして、被虐者(容疑者)と嗜虐者(刑事)の関係をねちねちと描き込んでいくのである。
 会いたかったって言えよ、という衝撃的な嗜虐者のセリフにもまた、被虐と嗜虐の交錯を通り一遍のものでなく、抗し難い人間の本性を深くえぐりだすものとして効果的に使おうという著者の野心が見え隠れする。
 吉田は、嗜虐者を単なる生まれながらの嗜虐者としては描かなかった。逆に、被虐者のしぶとさと、絶望的なまでの変わらなさを描いた。その被虐者の無意識の願いが、人間から攻撃性を引き出している、という仮説を、大胆にも吉田は本作で提示して見せているのである。
 生まれながらの嗜虐者が存在するのかどうか、遺伝的にその系譜は定まり、生産性のない人間となればどんな相手でも殺すことを辞さないという性質は失われることがないのか、被虐者は無意識的に自ら望んで嗜虐者にそう振る舞わせているのではないのか、上級国民の存在を許しているのは誰なのか――吉田は、現代社会に構造的に蓄積されたひずみを暴き立て、驚くべき構成力で本作に反映させている。これまで吉田の作品を読んだことのない人にもぜひ、読んでもらいたい作品である。

(なかの・のぶこ 脳科学者/医学博士)
波 2020年11月号より
単行本刊行時掲載

腐敗するこの国に放たれた救いの光

大森立嗣

刑事と容疑者の間に生まれた異端の愛――これはミステリーか、それともポルノか。吉田修一の集大成ともいえる犯罪小説を、映画監督が読み解く。

 この読後感をなんと伝えればいいのだろう。心落ち着かないざわざわした興奮。胸の奥が疼いている。漂う諦念と微かな望みと絶望。人が人であることと、人でなくなることへの欲求。人類の黙示録のようにも読める。ものすごい小説を吉田修一は書いた。
 人間は愚かだ。自分の生きる場所を、真綿で首を絞めるようにゆっくりと壊していく。いや、腐らしていくと言ったほうがいいかもしれない。警察署もその取調室も戦時中の部隊も週刊誌の編集部も両親が敷地内に建てたアパートに住む数学教師の男の家も風の抜けない湖も、おそらくこの国も。そしてこの星も。著者はその一つ一つが腐っていく様を腐敗臭とともに描き出す。例えではない。匂いが鼻腔に充満するのだ。この小説は腐敗臭と共にある。
「人間だけやなくて、やっぱり組織にもトラウマってあんねんな。もう、どうにもならへんかった」と元刑事の河井は言う。この諦念が腐敗臭と共に漂う。私たちが生きているところが腐っていく匂いだから、「クサイ!」と言っても仕方がない。自らが発生させた匂いなのだ。
 もう一方で著者はインモラルな性を描く。腐敗した警察署の刑事の圭介と琵琶湖の水を引く家に住む佳代は次第に奇妙な引力を感じ、密会するようになる。佳代は祖母の昔話で天狗が自分を連れ去ってくれることを夢想する。腐った俗世間から聖なる山へ連れ去って欲しいと思うのだ。圭介は佳代にとって天狗だった。
 圭介の妻は妊娠していて物語の途中で出産する。圭介は不倫している。社会常識に照らせばひどい男だ。しかし自分の欲求を抑えられない。どこまでも落ちていく圭介と佳代のインモラルなセックスは道徳、やがては法律、命さえも超えていこうとする。この二人をどう捉えるか。決して道徳や常識を振りかざして読まないで欲しい。これは私たちを試す踏み絵のようなものなのだ。天狗の連れていく聖なる山は命の輝きのみが大事にされるのだ。
 また伊佐美という圭介の同僚は腐敗の最たる者として描かれるが、彼でさえ、週刊誌記者の池田に自分が諦めた事件の真実を暴いて欲しいと願う。その池田は百歳の被害者の妻、松江と出会う。松江の部屋に飾られた花に見惚れる。戦時中、松江は腐敗した部隊に関わる夫のことを考えられない。だが夫との生活に愛を探し「こういう日がずっと続けばいい」と言う。さらに「どこまでも広がる氷の大地に、丹頂鶴の鳴き声だけが響いていた。大きな翼を広げた一羽が、ゆっくりと冬空に飛び立っていく。ただ、美しかった。世界はただ、美しかった」とある。こうして著者が描くのは人間という生物の持つ愛と生命の輝きと、人知の及ばない自然への憧憬と溶解とでも言ったらいいのか。人が人であることへの最後の砦のようなものに触れてくる。それは人間社会に深く絶望しているからだ。
 だからその絶望を証明するかのように「この与党議員がある雑誌の対談で、子供を作らないLGBTの人たちを生産性のない人間と呼んだ」ことや津久井やまゆり園で起きた大量殺人を報じるニュースを引用し、「生産性のない人間は生きる価値がない」と書かれるのだ。拙作「タロウのバカ」という映画でも津久井やまゆり園を想起させるシーンが出てくるが、本当に危険なのは経済的に見ると、この言葉が正しさを装って見えることだ。この小説は圭介と佳代がそうであるように、生産性とは違う自分の存在を際立たせる行為を描く。そしてこの二人に望みを託している。人間という生物は経済的合理性だけでは生きていけないのだ。繰り返すが、私たちが生きる社会がどれだけ腐敗しているのかという現実をこの小説は私たちに突きつけてくる。正論を振りかざす自粛警察やネット上の誹謗中傷、異物を排除しようとする力、同調圧力。どれもこれも腐っている。と言っても自分も生きてる社会なのだ。苦しい。
 そこで著者は救いの光を放つ。湖の夜明けを自然物のみで描くシーンだ。まさしく光が世界を包みこむ過程だ。人間が存在する前からあった自然。まるで人間の腐敗を浄化するようにある自然。私は本当に感動した。人が生きることの喜びさえ感じる。これは人間社会の全てを諦めざるを得ない状況にある私たちに、人間の想像は素晴らしいと表すための挑戦のように感じた。そして驚愕のラストは少女たちの不気味な歩みのように、今この時も腐敗が進んでいることを私たちに突きつけてくる。
 私は未だ腐敗と命の輝きの間で疼いている。

(おおもり・たつし 映画監督)
波 2020年11月号より
単行本刊行時掲載

著者プロフィール

吉田修一

ヨシダ・シュウイチ

長崎県生れ。法政大学卒業。1997(平成9)年「最後の息子」で文學界新人賞。2002年『パレード』で山本周五郎賞、同年発表の「パーク・ライフ」で芥川賞、2007年『悪人』で大佛次郎賞、毎日出版文化賞を、2010年『横道世之介』で柴田錬三郎賞、2019年『国宝』で芸術選奨文部科学大臣賞、中央公論文芸賞を受賞。ほかに『長崎乱楽坂』『橋を渡る』『犯罪小説集』『逃亡小説集』など著書多数。2016年より芥川賞選考委員を務める。映像化された作品も多く、『東京湾景』『女たちは二度遊ぶ』『7月24日通り』『悪人』『横道世之介』『さよなら渓谷』『怒り』『楽園』『路』『太陽は動かない』に続いて『湖の女たち』が映画化される。

判型違い(文庫)

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ミステリー・サスペンス・ハードボイルド
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文学賞受賞作家
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