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四角い光の連なりが

越谷オサム/著

1,705円(税込)

発売日:2019/11/20

  • 書籍

同じ車両の誰かの、今日はかけがえのない一日。きっと毎日、そうなんだ――。

恋と作文に悩む小学生も、夫を亡くしたおばあちゃんも。日本を訪れたポーランド人夫妻も、人気急上昇中の落語家も。故郷に帰る激務のサラリーマンも、熱狂的な阪神ファンも。人生の大切な瞬間、笑うときも泣くときも、気づけばいつも列車があった。忘れられない出会いや別れ、あなたの大切な記憶が溢れ出す五つの物語。

目次
やまびこ
タイガースはとっても強いんだ
二十歳のおばあちゃん
名島橋貨物列車クラブ
海を渡れば

書誌情報

読み仮名 シカクイヒカリノツラナリガ
装幀 げみ/装画、新潮社装幀室/装幀
雑誌から生まれた本 小説新潮から生まれた本
発行形態 書籍
判型 四六判
頁数 256ページ
ISBN 978-4-10-472306-5
C-CODE 0093
ジャンル 文学・評論
定価 1,705円

書評

鉄道がなければ存在しなかった感情

吉田大助

 熱心な鉄道ファンである市川紗椰さんのコラムで知ったのだが、日本でいうところの「鉄ヲタ」を、アメリカでは「foamer」と揶揄的に表現するそうだ。その意味は、「鉄道に興奮して口から泡を吹いている人」。
 鉄道(列車)をモチーフにした作品集であることが、装幀やオビ文からも明らかな越谷オサムの最新作『四角い光の連なりが』は、書き手も鉄道ファンであるというシグナルが作中のそこかしこに埋め込まれているものの、泡は出ていない。鉄道にさして興味がない読者の顔や心情を、作者がきちんと思い浮かべているからだろう。そして、鉄ヲタ的な「鉄道と共にある人生」の話ではなく、「人生のある瞬間に訪れた、鉄道にまつわる思い出」の話揃いだから。
 例えば、東北新幹線で運行されている列車名をタイトルに据えた第一編「やまびこ」。三八歳の佐々木真人(「僕」)が初春のある日、東京駅からやまびこ号に乗り込み、故郷である岩手県の一ノ関駅のホームに降り立つまでのわずか数時間の物語だ。窓際の指定席に座った彼は、流れゆく車窓の風景や、同じ車両に乗り合わせた人々の様子をぼんやりと観察。その過程で出合ったモノが、彼の記憶のスイッチを次々に押していく。三三年前に新幹線で初めて東京へ向かった家族旅行、最初の就職に失敗した後のモラトリアムの日々、父が二代目だった実家の写真店の思い出……。最後に現れる慎ましやかなサプライズは、彼の人生行路を一緒に経巡ってきたからこそ、読者に大きな感動をプレゼントしてくれる。電車が記憶のスイッチになるという視点は、第三編「二十歳のおばあちゃん」でも採用されている。東京で唯一の路面電車・都電荒川線の旧車両が、愛知県豊橋市で今も走っていることを知った、七二歳のおばあちゃん。「引っ越していった電車にもう一度乗りたいから付き合ってほしい」。願いを聞いた高校生の孫娘が触れた、おばあちゃんの秘密の記憶とは――。過去と現在が重なり合う幻想的なシーンは、本書随一の美しさだ。
 電車は、人と人との意外な繋がりももたらしてくれる。第二編「タイガースはとっても強いんだ」は、熱烈なタイガースファンの新米会社員・浜野努(「おれ」)が、気になる同期の中井さんを甲子園球場に誘い、二度目の観戦デートを試みようとしているところからスタート。ところが、北大阪急行が地下鉄御堂筋線に乗り入れる江坂駅から乗り込んできた人々の中に、自分が助けなければ誰が助けるのだ、という乗客の声を耳にしてしまう。手を差し伸べたらデートに遅刻は必至。さあ、どうする? かわいい恋物語を書かせたら、越谷オサムは天下一だと再認識させられた佳編だ。第四編「名島橋貨物列車クラブ」は、鉄橋を走る貨物列車を見ることが大好きな小学六年生が主人公。鉄ヲタ仲間の松尾君の他に、優等生の女の子・伊藤萌香さんも「クラブ」活動に参加し始めて――。クライマックスで主人公が目撃する、列車絡みの「初めて見る光景」は、読み手の脳裏にも焼き付けられるはず。
 四編はいずれもあったかくて滋味深い、極上の人間ドラマだ。単に人間を目的地へ運ぶ乗り物というだけではない、電車というメディアの魅力をたっぷり堪能できる。などと感じていたところで現れた、最終第五編「海を渡れば」が途轍もなく素晴らしかった(今から泡を吹きます!)。落語家の匂梅亭一六が独演会で、本題に入る前のまくらを喋り出す。その語りが、「えー」「ヘヘッ」といったノイズも込みで、文字に起こされていくという体裁だ。〈うん、私、一度ね、落語家辞めてんですよ。/ええ、夜逃げみたいなもんです。前座の頃の話です〉。そこから時計の針は巻き戻り、香川の少年が匂梅亭一昇へ会いに東京へ行き、弟子入り志願した顛末と、不遇の前座時代とが語られていく。エピソードの一つ一つがリアリティたっぷりで人間臭く、合間のくすぐりも絶妙だ。本物の落語家のまくらを聞いているような語りに魅了され、この一編が鉄道をテーマにした作品集に収録されていることを忘れかけたところで、ふっと空気が変わりとある列車がクローズアップされる。ドラマのギアが一段上がり、泣いていいんだか笑っていいんだか、なんとも言えない感情が次々に連鎖していく。
 鉄道がなければ、これらの感情、これらのドラマは、この世界に存在しなかった。小説を読んで、人類の発明の歴史に感謝したくなったのは初めてだった。

(よしだ・だいすけ ライター)
波 2019年12月号より
単行本刊行時掲載

「タイガースはとっても強いんだ」試し読み

 勝ってもらわなければ困るのだ。

 梅雨の晴れ間の抜けるような青空。緑が眩しい外野の天然芝。1点を争う好ゲーム。でも負けました。それでは困るのだ。

 今日勝てば、阪神タイガースは開幕カード終了時以来の二位浮上。このところ負けが込んでいる広島を抜くだけでなく、首位を走る巨人の背中もうっすら見えてくる。ただ、今日はそれだけじゃない。チームだけでなくスタンドでただ試合を見守るしかないおれにとっても、今後を占う重要な一戦なのだ。だから、勝ってもらわなければ困るのだ。

 いつの間にか確立していた自分なりのルーティンに従ってタイガースのレプリカユニフォームに袖を通し、右足から靴を履き、ショルダーバッグを背中に回して、それからダイニングキッチンに声を掛ける。

「じゃあ、行ってきまーす」

「はーい」母親の、のんびりした声が返ってきた。「今日は一人観戦やったっけー」

「あー……、会社の同期とー」

 こういう“ザ・サラリーマン”風の呼び方は、社会人二年目のおれにはまだなんとなく口はばったい。

「なんや、具体名出てこんのもめずらしいな。もしかして『同期』って、つとむの彼女ー?」

 あんたにはおらんやろと、高をくくっているのが声色に滲んでいる。

「ほっとけ」

 捨て台詞を残してはま家の玄関を出ると、おれはルーティンに従って軽くベルを鳴らしてから自転車に跨った。

 夏至を過ぎたばかりのやる気に満ちた太陽が、頭の真上からのしかかってくる。こんなこともあろうかと銀傘の下の内野指定席を買っておいて正解だった。なかさん、紫外線を避けて歩く人だしな。そばかすができやすい体質だって言ってたしな。

 同期の気になる女性社員のことをつらつら考えながら、地元の駅を目指して自転車を走らせる。ペダルの回転が、毎朝の通勤よりも自ずと速くなる。急いでいるわけではない。恥ずかしいからだ。

 Tシャツの上に羽織ったレプリカユニフォームが、風に煽られてパタパタと音を立てる。おれのタイガース愛を知っている地元の友達ならともかく、挨拶程度の関係の人には極力見られたくない姿だ。

 試合開催日の阪神電車の中であれば関西の風物詩の一つとして受容される縦縞のユニフォームも、住民の高齢化が進むほくせつのニュータウンではきっちりと違和感を醸し出す。〈Tigers〉のロゴなどにあしらわれたチームカラーの黄色と黒の取り合わせが、静かな日常の光景の中で悪目立ちするのだ。さすが、警告色と言われるだけのことはある。

 せめて梅田で阪神に乗り換えてから羽織ればいいものを、とはおれだって思う。それで勝てるのならば、おれだってもちろんそうする。そう、勝てるのならば。

 北大阪急行桃山台駅の駐輪場に自転車を停め、改札を通ってホームに出る。土曜日の正午過ぎなので、幸いにも人はそれほど多くない。見知った顔もない。しかし、暑い。この駅は屋根の一部が採光用に半透明になっている上に左右から国道の高架線に挟まれていて、六月ともなると熱がこもるのだ。

 今度の電車は十二時二十分発。大阪の中心部を目指してほぼ真南に走る電車は、途中の江坂から地下鉄御堂筋線に乗り入れる。その先の梅田で阪神電車に乗り換えて、特急で西へ走ること十分少々。急行でも十五分ちょっと。乗り換え途中の小休憩の時間を計算に入れても、午後一時ちょい過ぎには甲子園駅に着けるはずだ。

 待ち合わせ場所に決めた球場そばの広場までは、駅から歩いて三、四分。試合開始時刻の二時はもちろん、約束の時間の一時三十分にもたっぷりと余裕がある。余裕はあるけれど、電車には早く来てもらいたい。なにしろ暑い。エアコンの効いた待合室もあるにはあるが、中は人でいっぱいだ。

 ユニフォームを脱ぎたいのをじっと我慢していると、ステンレスの車体に赤い帯を巻いた電車がホームに駆け込んできた。巻き上げられた空気が、自転車漕ぎで汗ばんだ体に心地いい。

 ドアが開くのを待ち、ルーティンに従って右足から電車に乗り込む。座席にはいくらか空きがあったけれど、おれはあえて座らずドアの脇に立った。

 いや、ユニフォームを羽織った入れ込みすぎの阪神ファンがとなりに座ってきたら怖いだろうなーと、周りの客に配慮したわけではない。球場に向かう電車の中で座らないのも、おれのルーティンの一つなのだ。靴を履く順番、家の前で自転車のベルを鳴らすこと、電車内での位置取り、すべてはチームの勝利のためにある。

 体のそばでドアが閉まり、なかもず行きの電車がなめらかに動きだした。並走する国道が坂を下り、視界が開ける。「タタン、タタン」と車輪がレールの継ぎ目を踏む音を聞くともなしに聞きながら、おれは進行方向の右手、はるか先に甲子園が控える西側の景色を眺め続けた。これもまた、ルーティンの一つだ。反対の京都側を向いて淀川を渡るとタイガースが負けてしまう。

 こんなしちめんどくさい験かつぎをするようになったのも、阪神が不甲斐ないせいだ。生まれて初めて甲子園に行ったのが十二歳の夏の終わりだから、観戦歴ももう十二年になる。その間、Aクラス入りは八度果たしているものの、リーグ優勝は一度もなし。あとはだいたい四位か五位あたりをうろついている。当然、現地観戦も勝ったり負けたりの繰り返しで、五割ちかい確率でくやしい思いをさせられる。

 野球にかぎらず、スポーツチームのファンというのは無力なものだ。声のかぎり応援することはできても、勝負に直接関わることはできない。声援や拍手のほかにできることといえば、バッターがチャンスで打ってくれて、ピッチャーがピンチをしのいでくれるのを祈るくらいのものだ。ましてや我らが阪神タイガース。チャンスで打てず、ピンチで打たれる。

 そんな悲喜こもごもの観戦歴を重ねるうちに、おれはある傾向に気づいた。チームの勝敗と、自宅を出てからの己の振る舞いにはある種の連関がある――ような気がする――のだ。

一、地元の友達と一緒に桃山台からレプリカユニフォームを着て行ったら勝った。

一、梅田駅のジューススタンドでミックスジュースを飲んでから阪神電車に乗ったら勝った。

一、御堂筋線は上流側、阪神電車は下流側とどちらも淀川を渡るが、いずれも川下の方向を向いた状態で乗車したら勝った。

一、時間に余裕をもって球場に到着したら勝った。

 

 こういった成功体験が積み重ねられる一方で、

 

一、試合観戦中にはっと思い出してユニフォームを着たとたんにマートンの怠慢プレーが出て、それをきっかけに試合が壊れた。

一、梅田で降りず、その先の心斎橋まで寄り道してから甲子園に向かったら、すがに完封負けを食らった。

一、淀川の上流方向を向いて電車に乗ったら、ベンチの継投策がことごとく裏目に出て高橋周平に逆転満塁ホームランを食らった。

一、試合開始時刻後に甲子園に到着したら、広島打線に2ケタ得点を食らった。

 

 という哀しい学びも同時に積み重ねていった。

 この法則性に気づいたおれは、以後ルーティンの奴隷と化してしまった。

 もちろん、こんな験かつぎが非科学的な思い込みであることは重々承知している。本格的な野球経験のない食品メーカー勤務の二十四歳男性がルーティンを守ろうが破ろうが、チームは勝つときは勝つし負けるときは負けるのだ。とはいえ、自ら進んでルーティンを破る気にはなれない。それでみすみす負けたりしたら、大きな悔いが残るではないか。

 それに、無視できないデータも存在する。

 この十二年間の阪神の勝率はトータルで5割1分と7、8厘。対して、おれが甲子園で観戦した試合の勝率は5割8分3厘。この差は単なる偶然だろうか? 偶然な気もするが、ここはあえて「否」と言いたい。思えば世の中には「バタフライ・エフェクト」という言葉もあるではないか。おれのルーティンは阪神タイガースの勝利に、おれもなんだかよくわからない形で寄与しているのだ。たとえばおれが阪神電車の改札手前のスタンドでミックスジュースを飲むことによって、風が吹けば桶屋が儲かる式に球場の風向きや選手の体調に何かしらの好影響が生まれるのだ、きっと。

 国道を左右に従えて高架を走ってきた電車が、減速を始めた。床下のモーターの音が徐々に低くなり、やがて緑地公園駅に到着する。梅田まではあと六駅。途中の新大阪では新幹線からの乗り換え客がどっと乗ってくるが、流れに押されて上流側を向くことがないように気をつけねば。

 まったく、手のかかる球団を好きになってしまったものだ。

 巡り合わせというのは不思議なもので、十二年前の夏の夜に見たあの試合が凡戦だったら、おれもここまでタイガースにハマることはなかったにちがいない。生まれて初めて訪れた甲子園の光景は、「球技といえばサッカー」という国で育ったおれにとってはすべてが衝撃的だった。

 再び走りだした電車の窓に、東欧の澄んだ夏空が映った気がした。

 まばたきしているうちに、反対方面行きの電車に視界を遮られる。銀色の対向列車が走り抜けると、空はもう湿気の多い大阪の梅雨の晴れ間に戻っていた。

 こんな関西人の煮しめのようなユニフォームこそ着ているが、おれは帰国子女だ。父親が自動車部品メーカーに勤めていて、その関係で四歳から十二歳の初夏までをポーランドで過ごした。

 幼年期から少年期という大事な時間を送ったのだから、ポーランドはおれの第二の故郷と言えるだろう。それどころか、関空に降り立った日からしばらくは、「帰国」というよりも「来日」に近い気分でいた。

 ワルシャワ郊外の自宅では日本語で会話をし、現地の日本人学校に通ってはいたものの、道行く人々は体の大きなポーランド人、バスやマーケットで話すのはポーランド語、テレビを点ければ映るのはポーランド語の放送で、口に入れる物の半分ちかくをライ麦パンやジャガイモ料理が占めるという生活を送ってきたおれにとっては、大阪の街はいちいちすべてがもの珍しくて新鮮だった。

 いたる所にあってシャッターの閉まることのないコンビニエンスストアにも、梅田の地下街の迷宮ぶりと人の多さにも、電飾と立体看板に埋め尽くされた道頓堀の猥雑さにも、それぞれ驚かされた。しかしとりわけ心を鷲掴みにされたのが、「アウト三つで攻守交替」程度のルールしか知らぬまま両親に連れて行かれた、阪神甲子園球場の光景だった。

 日本の夏の厳しい暑さもいくらかやわらいできた、九月のナイターだった。

 半欧州人の目から見ればずいぶん奇妙な形のフィールド。それを取り囲む巨大なスタンドと、およそ四万七千の大観衆。女声の場内アナウンス。「おとなしい日本人」の先入観を覆す、外野応援団の大合唱。焼鳥。やきそば。ビールの匂い。夜空に放物線を描く白球の美しさ。七回の攻撃前に放たれるジェット風船の密度と甲高い音色。そして、タイガース打線の大爆発。

 十二の夏の終わりにそんな体験をしてしまったら、阪神ファンにならないほうがどうかしてるというものだ。

 すぐさまファンクラブに入会したおれは、秋が終わるや春を待ちわびるようになり、選手名鑑は毎年欠かさず買い、シーズンが始まれば親や友達を誘っては甲子園に繰り出した。時間と小遣いの制約がある中学高校の頃は、年にせいぜい三度か四度。大学生になるとそれが五度六度に増え、やがて一人観戦の気楽さを知ってしまってからは、十五度十六度に増えていった。

 そして今日。人と連れ立っての観戦は今シーズン二度目なのだが、なんだか緊張してきた。中井さん、楽しんでくれるかな。心配だな。初めて誘った四月のナイターは途中から小雨が降ってきてチームも負けて、控えめに言っても最悪だったからな。あの人、口元で微笑んでいてもまなざしに憤懣が出るタイプだからな。なにしろ宝塚在住のお嬢だからな。

 今日の対戦相手は中井さんではなく横浜なのだが、一番から九番までのどの選手の出来よりも中井さんの出来のほうが気になってしまう。いや、出来というか、機嫌か。

 千里丘陵を下ってきた電車が大阪平野の北端に差し掛かり、窓の外に高い建物が増えてきた。もうすぐ江坂駅だ。このあたりから車内も混雑しはじめる。

 人ごみに巻き込まれる前に、方針を確認しておこう。不安だが、今日はルーティンを一部省略しなければならない。待ち合わせ場所に縦縞のユニフォーム姿で現れたら、野球を観慣れていない中井さんは引くかもしれない。だから、阪神電車に乗り換えたら忘れないうちにユニフォームを脱いでおく必要がある。もう一度袖を通すのは球場に入ってからにして、その分ほかのルーティンを念入りに遂行しよう。寄り道は論外。ミックスジュースは一滴残さず飲む。この先の御堂筋線でも阪神電車でも、淀川を渡るときは川下方向を凝視。よし。勝つぞ。中井さんに喜んでもらうぞ。

 ドア脇の手すりに肩を預けてこっそり拳を固めていると、電車が江坂駅に到着した。桃山台や緑地公園よりも、ホームに人が多い。

 ドアが開き、乗り込んでくる人々がおれの前を横切る。その中に、白人の男女の姿があった。六十を過ぎたくらいだろうか。

 この駅の周りにはビジネスホテルも多く、外国人観光客の姿はめずらしくもない。日本人に比べれば大柄で薄着の、よくいる欧米人だ。ただ、なんとなく目を引くものがあった。

 発車メロディが鳴り、ドアが閉まる。電車がホームを離れ、陽射しの中に飛び出す。

『本当に、この列車でまちがっていないだろうか』

『きっと大丈夫よ。きのうも乗ったじゃない』

 日本語とはまったく異なる言葉が、耳にスッと滑り込んできた。英語じゃない。フランス語でもドイツ語でもない。ポーランド語だ。声がした左うしろを振り返りそうになり、ルーティンを思い出して首の動きを止める。

『まったく、この国では水族館に行くのもひと苦労だね』

『ええ、本当に。地下鉄だけでも何路線走っているのかしら。私たちのような年寄りは、数の少ないヴァルシャヴァのそれだって乗りこなすのがやっとだというのに』

 ヴァルシャヴァ!

 本物のポーランド語、本物のポーランド人だ。日本では「W」をローマ字読みして「ワルシャワ」と発音されるけれど、「ヴァルシャヴァ」はまさしくポーランドの首都をさす言葉だ。おれの家とおれの学校があった街。なつかしい。

『施設の名前はなんと言ったかな。日本語はどうにも覚えきれない』

『ええと』妻と思われる婦人が、おれの斜めうしろで地図かガイドブックをめくる。『「カイユカン」ね』

 カイユカンこと海遊館は街の西側、大阪港にある巨大な水族館だ。なんでも世界有数の規模だそうで、熱帯魚店に毛の生えた程度のポーランドの水族館しか知らなかったおれも、初めて遊びに行ったときは度肝を抜かれたものだ。

『そうだ、カイユカンだった。無事にたどり着きたいものだね』

『きっとなんとかなるわ』

 どうも、乗り換えに不安を抱いているらしい。会話から想像するかぎり、翻訳機の類は持っていないか、持ってはいても使いこなせていない様子だ。パッと振り返って『ホンマチでチューオーセンに乗るんだよ』と言ってあげられればいいんだけど、それをしたらルーティン破りになってしまう。いや、一瞬なら問題ないか。しかし今日は球場に着く前に一度ユニフォームを脱ぐのだから、これ以上ルーティンをないがしろにするのは避けたい。

『ねえちょっとあなた』妻が声をひそめ、夫に話しかけた。『そこの人の袖の紋章、虎の顔よね?』

『君も気になってたかい? サッカーチームのサポーターだろうか』

 おれ、会話のネタにされてますね。

『でも、サッカージャージにしてはブカブカだわ。きっとあれよ、ええと、ほら、ああ、ベイズボル』

『ああ、ヤポニアでは人気のあるスポーツだそうだね。きっと今日は試合があるんだろう』

 謎の虎男がポーランド語スピーカーであることを知る由もない夫婦は、自動音声の車内放送が始まると急に口をつぐんだ。日英二ヵ国語のアナウンスに耳を澄ませ、案内が終わるとため息まじりに言葉を交わした。

『カイユカンの名は出てこなかったようだね』

『ええ。日本語はともかく、私たちがせめて英語をもう少し理解できたらと思わずにはいられないわ』

 ホンマチでチューオーセン。ホンマチでチューオーセン。

 遥かポルスカより不思議の国ヤポニアへとやってきた夫婦に向けて、肩越しに念を送る。……せやな、わかってる。通じるはずないやんこんなん。

 いっそ、ひとり言を装って『ホンマチでチューオーセンに乗るんだよ』と呟いてみようか。いやいや、ただでさえ虎のユニフォームで悪目立ちしているのに、突如外国語を口走って車内にいらぬ緊張感をもたらすのは本意ではない。それに、藁にもすがる思いの夫婦は『君はポーランド語が話せるのかい!?』と食いついてくるはずで、そうなれば振り向かないわけにはいかなくなるだろう。

 振り向いたら負けだ。現地観戦二連敗では中井さんもがっかりするだろうし、三度目を誘うのはかぎりなくむずかしくなる。だから、振り向けない。でも、手助けができる立場でしないのは、人としてどうなんだろう。いろいろな旅先の候補からせっかく日本を選んでくれたのに、海遊館にたどり着けなかったらこの二人はがっかりするだろう。

 ドアの脇に突っ立ったまま心の中で右往左往するおれを乗せた電車は東三国、新大阪、西にしなかじまみなみがたと停車し、ホームで待つ人を飲み込んではまた走りだす。

 夫が、不安を振り払うように明るい声を発した。

『とりあえず、きのうと同じ駅で降りてみよう。大きな駅だから、きっと何か手がかりがあるはずさ』

『そうね。きのうもそうやってナラにたどり着けたものね』

 いやいやいや、「きのうと同じ駅」ってどこ? 本町? 本町やったら問題ないけど、奈良に行くルートとしては考えにくいしなあ。でも、ほかの駅で降りたら海遊館へは遠回りになるぞ。

 一人で気を揉んでいるうちに、電車の走行音が「タタン、タタン」から「ダダン、ダダン」に変わった。淀川を渡る鉄橋だ。並走する国道の向こうに、青空を映す水面が見える。ルーティンの重要ポイントだけど、どうも意識は甲子園ではなく大阪港方面に向かってしまう。

 夫婦が目指す海遊館までのルートは乗り換えが一回だけの簡単なものではあるけれど、日本語はおろか英語も不得意だとすると、難度はぐんと上がる。日本語に苦労しないおれだって、出張でたまに東京に行くと駅の構内やまちなかで立ち尽くしそうになるくらいだ。

 ホンマチでチューオーセン。ホンマチでチューオーセン。

 届かないとわかっていながら、せめてもの国際ボランティアとして念を送る。

 鉄橋を渡り終えた電車はカーブを描きながら坂を下り、地面の下に潜った。大阪メトロの名のとおり、梅田も本町も駅は地下にある。その梅田駅にはもう間もなく到着する。おれはそこで電車を降り、阪神電車の改札手前のスタンドでミックスジュースを飲み、甲子園に向かう。ポーランドからの夫婦とはお別れだ。

 でも――。

 ゴーゴーとトンネル内に轟音を響かせ、地下鉄御堂筋線は走る。

 黙って降りていいのだろうか。手を差し伸べなくていいのだろうか。この車内でポーランド語を理解できる日本人は、きっとおれだけなのに。

 二人がいつまで日本にいるかわからないけれど、滞在中にテレビ中継かスポーツニュースで同じユニフォームを目にする機会もあるだろう。袖の虎のエンブレムを見たら、今日のことを思い出すかもしれない。二人の脳裏にはこの先、「カイユカン」にたどり着けなかった苦い記憶が、虎さんチームのユニフォームとセットで刻まれるのだ。それは、つらい。気の毒だ。阪神ファンは冷たい人間だと思われるのもつらい。でも、二位浮上が懸かっているのだ。おれと中井さんの今後も懸かっているのだ。このチャンスを逃せばまたズルズルと四位五位に後退しそうな気がしてならないし、中井さんの中のおれの評価もズルズルと後退していくだろう。でも――。

 頭の中で堂々巡りを繰り返すおれをよそに電車は大阪の街の下を着々と南下し、最初の地下駅の中津を経て、やがて照明の光の中に飛び込んだ。梅田駅だ。

 電車が停止し、ドアが開く。いつになく心臓を高鳴らせながら、人に押されるようにホームに降りる。JR大阪駅に隣接し、地下鉄のほかに二社の私鉄が集結するこの巨大ターミナルは乗降客がとくに多く、電車の横腹から吐き出される人の流れはなかなか止まらない。

 その中に、例のポーランド人夫婦の姿があった。

「ああ」

 おれは口の中で呻くと、上り階段に向かった。二人を車内に押し戻したいけれど、寄り道はルーティン破りだ。

 逃げるように階段を上がり、改札を抜ける。土曜の昼下がりの梅地下は、いつもと変わらず種々雑多な人々が思い思いの方向に歩いている。

 えー、お客様の中にポーランド語が話せる方はいらっしゃいませんか!?

 地下街に大きな声を轟かせ、勢いに呑まれて手を挙げた人にすべてを託して立ち去りたい。

 できもしない空想を頭の中で転がしながら、地下街の右手、幅の広い階段を下りた先にあるジューススタンドに向かう。買い物途中のお姉さんやヒマそうなおっちゃんや親子連れの後ろに並び、カウンターの中の店員に「ミックス」と告げて小銭を渡し、玉子色の液体で満たされたプラスチックカップを受け取る。ルーティンどおりだ。順調だ。

 おれは順調に行っているけれど、あの夫婦はどうだろうか。いや、もう心配するのはよそう。きっと、ミスに気づいて次の電車に乗ったはずだ。そうじゃなければ、困っている様子を見た駅員がどうにかしてくれたにちがいない。そうだ、おれが心配したってしょうがないじゃないか。心配すべきはポーランド人観光客のことじゃなくて、待ち合わせに遅れることだ。そうだそうだ。

 そう自分に言い聞かせつつ壁際に移り、カップの中身を飲む。

 なんやこれ。

 味がおかしい。地下街のジューススタンドと侮れぬほどよい甘さが、舌にも鼻にもまったく伝わってこない。とろみをつけた砂糖水を飲んでいるみたいだ。

 この感じ、どこかで覚えがある。

 記憶を探りながら二口、三口と飲む。ああ、思い出した。近所のヨアンナおばさんの家でごちそうになった、インカコーヒーだ。

 インカコーヒーはポーランドではよく飲まれる穀物コーヒーで、色は黒いものの原料にコーヒー豆は含まれていない。転勤前からの習慣で我が家ではずっと普通のインスタントコーヒーを飲んでいたこともあり、注ぎ足した牛乳の奥にある麦の香りとあっさりした味わいに、八つか九つのおれは肩透かしを食わされたような気分になったものだ。あのときの感じに、このミックスジュースは似ている。

 カップを手にしたまま眉間に皺を寄せるおれに「普通のコーヒーよりも体にいいのよ」と微笑みかけるおばさんの丸い顔が、ずいぶん久しぶりに脳裏によみがえった。なつかしい。

 あそこは、親切な人の多い土地だった。何かにつけ家に上がり込んでくるアジア人の少年の相手をしてくれたヨアンナおばさんだけではない。道路工事の影響で博物館行きのバス乗り場が変更されたことにおれたち一家が気づかなかったときは、見知らぬ青年が臨時乗り場まで案内してくれた。虫垂炎で入院した母が死んでしまうのではないかとおれが廊下で泣いていたときは、通りかかる医師や看護師たちがみな声を掛け、肩を抱いてくれた。通りすがりのクズに「中国に帰れ」となじられたときは、たまたま周りにいた人たちがおれ自身もたじろぐほどの剣幕でそいつに言い返してくれた。

 で、おれはあの夫婦に何ができた?

 石の色をした静かなワルシャワの街並みが、人で溢れた騒々しい梅地下と重なる。

 やっぱり、戻ろう。あの二人の所に。手を貸さないのは阪神ファンの名折れだ。

 そう決めて最後の一口を飲む。いつものミックスジュースのやわらかな味わいが、当たり前のように舌に戻ってきた。

 JR大阪駅方面に急ぐ人たちをかわし、阪急方面に向かう人たちをよけ、歩いてきた道を戻る。人の流れがふと途切れ、御堂筋線の自動改札機が見えた。

 いた。

 改札を出たこちら側で、あのポーランド人の夫婦がブースの中の駅員に何かを尋ねている。しかし意思の疎通がうまくいっていないことは、両者の表情を見ればあきらかだ。

 代打に起用された新人選手のような硬い足の運びで、東欧からやってきた迷子の夫婦の元に向かう。

「ジェン・ドブレ」

 極東の地下鉄の改札口でかけられた「こんにちは」の声に、二人が弾かれたように振り返る。

『ええと、あなたたち、困ってる?』

 口から出てきた言葉は、ずいぶん幼いものだった。十二歳相当のポーランド語しか使えない上にそれすら何年も話していなかったのだから、退化していて当然か。

『あなた、私たちの言葉がわかるの?』

 妻の目が、およそ三倍の大きさにまで開かれる。

『わかるよ。昔ポルスカに住んでたから。でも話すのは下手になった。でも聞くのはまだ上手』

 緊張していた二人の顔が、おれの言葉にたちまちゆるむ。

『君はたしか、同じ列車に乗っていたね』

『うん』

 夫に向かって頷いてみせる仕草までが、言葉につられて子供じみてきた。

『そうか。もし君が私たちを助けてくれるととてもありがたいんだが、君はカイユカンへの行き方はご存知かな?』

『カイユーカンね。知ってるよ。ホンマチで、チューオーセンに乗るの』

『そのホンマチというのは? ここからどうやって行くんだい? なにしろ私たちは初めてヤポニアに来たんだが、それもおととい到着したばかりでね。まったく途方に暮れてしまっているんだ。それで、なんといったかな、そうだ、チューオーセンとは?』

『あなた、そんなに次々と尋ねるのはよくないわ。彼を困らせてしまうじゃない、ねえ』

 頷きかけられておれが『うん』と答えると、妻は妻でコミュニケーションが取れることによほど感激したのか、喜びを言葉に変えて次々と浴びせてきた。

『私たち、なんて幸運なんでしょう。あなたと出会えて本当にうれしいわ。私たちが行きたいのは水族館なのだけど、そこはカイユカンではなくてカイユーカンと読むのね。正しい読み方を教えてくれる人もいなくて、とても困っていたの。この街の地下鉄路線はヴァルシャヴァのそれと比べてとても複雑だし、あまりにも人が多いから。それで、なんだったかしら。そう、問題はカイユカンへの行き方よ。いいえ、正しくはカイユーカンだったわね。ぜひとも私たちにそこまでの行き方を教えてちょうだい、親切なヤポニアの若者よ』

 二人が期待に満ちた目でおれを見つめる。役に立てているようでうれしい。では、さっそく応えようじゃありませんか、その大きな期待に。

『あのね、ホンマチで、チューオーセンに乗るんだよ』

『…………』

『…………』

 あかん。こんなんおれ、ただの九官鳥や。実地の会話が久しぶりすぎて、複雑な言い回しがさっぱり出てぉへん。

 巨大な地下街の雑踏の中、三人の間に秋のビャウォヴィエジャの森を思わせる静寂が訪れた。

 腕時計に目を落とす。十二時四十五分。パッと電車に乗ってパッと大阪港駅で二人を降ろせば、試合開始には間に合う。

『ええとね、カイユーカンまで連れてってあげるよ』

 ほかに手もないやろ、と自分に言い聞かせる。

『本当かい? そうしてくれるととても助かるよ!』

『素晴らしいわ! これでもう迷わずにカイユーカンに行けるのね』

 二人はおれに抱きつかんばかりの勢いで喜びを表した。さすがポーランド人。底抜けに気さくだがジャパニーズ・スタイルの遠慮というものを知らない。

『じゃあ、行こうか。さっきと同じ電車に乗ればいいよ。あなたたち、降りる駅をまちがえちゃったんだよ』

『やはり、そうだったのか。何かおかしいと思った』

 おれの父親よりも年上らしい夫が、照れくさそうにはにかむ。

『あー、気にしないで。でも、切符をまた買わないとね』

 言葉のつたなさを補おうと両手の指先で乗車券の形を作ると、妻が手に握りしめていた大阪メトロの一日乗車券を見せてきた。

『これは使えるかしら』

『もちろん。よく買えたね』

『エサカ駅の切符売り場に、これの買い方についての英語の説明書きが貼ってあったのよ。五分もかけてどうにかこうにか解読したわ』

 やっぱり、日本語はおろか英語も不得意らしい。

 ホームに戻り、やってきた御堂筋線の電車に乗る。おれが勧めた空席に腰を掛けたところで、妻が気遣わしげに見上げてきた。

『案内してくれるのはうれしいけれど、あなた、ほかに行く所があるんじゃないの?』

『あるよ。でも、ゲームには間に合うよ。大丈夫だよ』

 中井さんのかわいらしくもおそろしいふくれっ面が、地下鉄の窓に映った気がした。

 待ち合わせに遅れそうなことを、中井さんに伝えなければ。そう思い立ってポケットの中の携帯電話に触れたところで、横合いから夫が話しかけてきた。

『ゲームというのは、ベイズボルのゲームかな?』

『そう』

 夫がレプリカユニフォームの胸元を見下ろし、質問を続ける。

『「タイガーズ」というのは、チームの名前かい?』

『うん』

『強いチームなのかい? タイガーズは』

 一瞬躊躇してから、おれは力いっぱい頷いた。

『もちろんだよ。タイガースはとっても強いんだ』

 これには注釈が必要だ。主催試合の有料入場者数やテレビ放映権料、フリーエージェントの獲得実績などから期待される成績を球団が残せているとは言いがたいのが現状だが、そういった事情を説明できるポーランド語の語学力などおれにはない。だが、なに、相手は旅行者だ。ここですべきは正確な回答ではなく、景気のいい返事だろう。

 妻が、にっこりと微笑んだ。

『今日も勝つといいわね』

 そこですわ。チームは現在二連勝中なので、勝率が5割前後であることを勘案すれば、今日は確実に負ける日ということになる。二位浮上の好機も、阪神が勝ち上がってきたのではなく広島が転げ落ちてきたからやってきたに過ぎない。ちっとも強くはないのだ。

『どうしたの?』

 顔つきが憂いを帯びてしまったみたいで、妻に案じられてしまった。

『ううん、なんでもない。今日も勝つよ、きっと』

『私もそう願うわ』

 話しているうちに電車は淀屋橋を過ぎ、本町に到着した。

『こっちだよ』

 甲子園に向かうルートからは完全に外れた、キタとミナミの境のオフィス街にある駅で電車を降りる。エスカレーターに乗ったところで手早く〈遅れます〉と入力し、中井さんに送信する。詳しい説明はこの二人と別れてからだ。中井さんなら許してくれるだろう、育ちのいい人だから。そう信じたい。

 大阪の大動脈とも称される御堂筋線とはちがって、森ノ宮や堺筋本町、阿波座といった地味な街を東西に貫く中央線は、ホームも車内も比較的人が少ない。

『このくらいの混雑ぶりなら、私たちも多少は落ち着いて道探しをできたと思うわ』

 乗り換えという難関をクリアできたからか、空席もある車内を見回す妻の表情にはくつろいだ様子が滲んでいた。

『そういえば、あなたたちどうしてウメダで降りちゃったの?』

 尋ねると、夫がばつが悪そうに眉根を寄せた。

『あまりにもたくさんの人が降りるから、私たちもそうすべきなのではないかと考えてしまったんだよ』

 その心情はわかる。土地勘のない所で予想外の人の流れに出会うと、案内表示やガイドブックが信じられなくなるものだ。おれも大学生の頃、東京ドームに行くのについ品川で新幹線を降りてしまって焦ったことがある。ちなみにその試合は負けた。

 そんなことを話している間にも電車は西に進み、やがて窓から陽が射し込んだ。と同時に、走行音がふっと小さくなる。地上に出たのだ。街の中心から離れるに従い、車内の空席も少しずつ増えていく。

『それにしても私たち、きのうはよくナラに行けたものだわ』

 窓の外を並走する阪神高速を眺めるともなしに眺め、妻がおかしそうに肩をすくめる。すると、夫がおどけて『ナラ、ナラ、ナラ』と繰り返した。

 笑い合う夫婦から聞き出したところによれば、奈良行きはきわめて初歩的な方法で成功したらしい。人の流れのあとについて梅田で降り、駅員らしい制服を着た人を片っ端から捕まえては『ナラ、ナラ、ナラ』と繰り返し、相手が指さす方向に歩くうちに奈良方面行きの電車に乗れたというのだ。二人が話す順路を頭の中でトレースすると、梅田駅と隣接するJRの大阪駅まで案内され、立たされたホームに折よくやってきた大和路快速に乗れたのだと想像できる。この夫婦、お人好しそうに見えてけっこうな幸運と押しの強さの持ち主らしい。

『期待どおりの厳粛で素晴らしい場所だったわ、トーダイジもカスガタイシャも』

 目を細める妻に、夫が頷く。

『鹿たちにエサを与えることもできたしね。想像していたよりもはるかに貪欲なんだ、彼らは。ただ、トーショーダイジに行けなかったのは残念だった。どうやって行けばいいのかよくわからなかったよ』

 奈良公園あたりから唐招提寺へは、日本語か英語が読めればバスでも電車でもそれほどむずかしい経路ではない。でも、この二人には江坂から海遊館へ行くのと同じくらいの険しい道のりだっただろう。

『それはかわいそうだね。でも、ナラからホテルまで帰れたのはすごいよ。でも、どうやって?』

 おれの質問に、夫がニヤッと笑みを浮かべて答えた。

『エサカ、エサカ、エサカ』

 なるほど。

『今日はあなたの助けを借りられなければカイユーカンをあきらめなければならないところだったけれど、明日はまたこの方法でキョートに行ってくるつもりよ』

 妻が息巻く。

『まあ、幸運を祈るよ』

 この行動力なら、なんとかなるような気がする。

 電車はやがて、大阪港駅に到着した。海遊館の最寄り駅だ。あとは人の流れについて行けば迷うこともないはずだけど、おれは夫婦と一緒にホームに降りた。折り返しの電車に乗らなければならないからだ。

 一帯には大きな観覧車や遊覧船の乗り場もあって、土曜の午後ともなるとこの駅で乗り降りするのは家族連れやカップルばかりになる。高架上に設けられたプラットホームの中、改札口に向かうどの顔もハレの日の高揚感に満ちている。

 最後ぐらいは年相応の言葉で別れよう。そう考えて脳ミソの中にあるポーランド語のひきだしを探っていると、壁面にプリントされた写真を指さした妻が、満面の笑みでおれに頷きかけてきた。

『見て。イルカだわ。きっとカイユーカンまでもう少しなのね。さあ、行きましょう』

『おやおや。まるで君は十歳の女の子に戻ってしまったようだね』

 苦笑しながら夫があとに続く。

 いやいや、ええとですね、ボク、現地までついて行かないとダメですか? そろそろ戻らないと、さすがにまずいのですが。

 あ、でもおれ、『オーサカコー駅まで』じゃなくて『カイユーカンまで連れてってあげるよ』って言ったな、たしか。相手はすっかりそのつもりみたいだし、おれにはここで円満に案内を打ち切れるほどの表現力はない。二人とも楽しそうにしているのに「ハイここまでよ」は、ちょっとかわいそうか。

 腕時計に目を落とす。午後一時九分。海遊館の入り口までは歩いて十分弱。建物が見えるあたりまででもだいたい五分かかる。そこでグズグズしなければ、試合開始にはどうにか間に合う。中井さん、ごめんなさい。もうちょっと待ってて。

 人の流れについて歩きだした夫婦を、おれは小走りで追いかけた。

 改札を抜けてエレベーターを下り、電柱のない広い歩道をしばらく進むと、建物の屋根の向こうに大きな観覧車が見えてきた。

『あれに乗ってみたいわ』

 声を弾ませる妻に、夫が頷く。

『ああ、それも素敵だね。しかしまずは水族館だ。太平洋の魚たちがお待ちかねだぞ』

『あなたこそ、十歳の男の子に戻ってしまったようだわ』

 将来こんな会話を中井さんとできたら幸せだなーと夢想しながら、おれは潮の香りのする街を足取り軽く歩いた。

 いや、待て。考えごとなんかしてる場合か。将来も何も、待ち合わせの時間に遅れるのは確実なのに、なんて都合のいい妄想を。府内有数のデートスポットが醸し出すハッピーな雰囲気にあてられてどうする。

 歩みを続けながら、おれは腕時計を何度も見た。もう、ルーティンをやり直す時間はない。梅田始発の阪神本線はあきらめて、阪神なんば線経由の最短ルートで甲子園に行くしかない。

 道が丁字路に突き当たり、視界が大きく開けた。妻が左手を指さす。

『ガイドブックに載っていた建物だわ。あれがカイユーカンね』

『そう! あれがカイユーカンだよ。あとは、大丈夫だよね』

 時間を気にするあまり、ちょっと余裕のない言い方になってしまった。急いでいることを察した夫が立ち止まり、おれに手を差し伸べる。

『本当にありがとう。何もかも君のおかげだよ』

 妻もおれの手を握る。ふかふかしたやわらかい手だ。

『とても助かったわ。何かお礼がしたいけれど、残念なことに時間がないようね』

『お礼なんていらないよ。じゃあ、ヤポニアを楽しんで』

『ありがとう。それじゃあ、元気で』

『あなたたちも』

 大阪港駅へ戻るおれの背中に、夫のよく通る声がかけられた。

『タイガーズに勝利を!』

 おれは振り返って手を振り、来たときの倍の速さで歩道を引き返した。

 大阪港駅から本町方面行きの電車に乗り、本町の二つ手前の九条駅で阪神なんば線に乗り換える。この駅は少し奇妙で、地下鉄のホームが高架にあって、阪神のホームは地下にある。

 一本でも早い電車に乗ろうと地上五階相当から地下三階相当へと階段を駆け下り、おれは阪神のホームに躍り出た。次の電車は三分後。本線直通の快速急行だ。しかし、いかにも速そうなこの名前に期待してはいけない。途中駅に優等列車を追い越させる設備がないせいで、この阪神なんば線では快速急行といえども前を走る各駅停車のあとを辛抱強く進むしかない。その名にふさわしいスピードを出せるのは、尼崎で本線に合流してからだ。

 狭い地下ホームに立ち、時間にならないとやってこないのはわかっていながら電車が走ってくるはずの方向を尋常でない頻度で窺う。周りの利用客からは電車が大好きなアホにしか見えないだろう。

 そして、らすような速度でやってきた快速急行に足音を立てて乗り込む。周りの乗客からは騒々しいアホにしか見えないだろう。ごめん。

 神戸三宮行きの電車が地下から地上に出て、いくらか落ち着きを取り戻したところで、とても大事なことを思い出した。中井さんに状況を報告しなければ。でもその前に、何時何分に到着できるのか調べるのが先だ。さっそく、携帯電話の乗り換え案内アプリで検索する。到着予定は午後一時五十四分。試合開始予定時刻の六分前。泣きそう。

 続いてメッセージアプリを開く。気づかぬうちに、〈中井すみ〉からの返信が届いていた。

〈了解しました〉

 だけ。

 ああ、中井さん、静かに怒ってはる。

 どこからどう言い訳していいかわからぬまま、言葉を入力する。

〈遅れて本当にごめんなさい。事情があっていま阪神なんば線に乗ってます。甲子園に着くのは1時54分。もうしばらくかかってしまいます〉

 送信してしばらく待ってみたけれど、返信は来ない。それどころか、読まれた様子もない。怒っているのだろうか。怒っているのだろうなあ。

 釈明をしたいけれど、相手が反応してこないことには手の出しようがない。返答を待たずに言い訳を一方的に送りつけたらますます怒らせてしまいそうだ。中井さんはさっぱりした性格の人だから、しつこくされるのは苦手だろう。

 だいたい、おれはすでにしつこくしてるのだ。前回誘った試合が雨まじりの負けゲームという最悪の展開だったのに、懲りずにまた甲子園に誘ったのだから。

 その件について、中井さんはどう思ってんねやろ。あのそぼ降る雨の中の観戦を多少なりとも楽しいと感じてくれたのだろうか。両親ともスポーツ全般に関心がない人で、家からけっこう近いのに一度も球場に連れていってもらったことがないと言っていたから、彼女の目には初めての甲子園が新鮮に映ったのかもしれない。でも、あの雨と寒さと拙攻拙守とで構成された試合を経験したら、たいがい一度で懲りるよな。

 じゃあ、野球じゃなくて、おれといるのが楽しかったとか?

 いやいやいや、そらないわ。それだけはない。試合はつまらなかったし、会話も弾まなかったし。

 考えてみたら、こっちは営業部であっちは宣伝企画部と、部署も別で接点の少ない中井さんとたっぷり会話が弾んだのは一度だけ。三月の同期会のときだ。彼女が一度もプロ野球を現地観戦したことがないと知り、酔ったおれが球場で飲むビールのうまさや天然芝の美しさ、絶体絶命のピンチで相手の主軸を打ち取った瞬間のカタルシスなどをとうとうと語ると、「行ってみたい」と興味を示してくれたのだ。それだけでなく、「特技がポーランド語っていうくらい地味な浜野くんに、そんな熱い一面があるなんて意外」と褒めてくれさえした。いや、褒め言葉としては微妙だったけれど、言われてこそばゆくなったのはたしかだ。

 結局、試合当日は寒くてビールどころではなかったし、相手の主軸には序盤三回のピンチできっちりセンター前に弾き返されたのだけど。

 だからやっぱり、今日こそは勝ってもらわなければ困るのだ。梅雨の晴れ間のつややかな青空の下で、スカッとする勝ちゲームを中井さんに見せてほしい。そのためにおれにできるのは、今からでも可能なかぎりルーティンを――。

 そこまで考えたところで、電車は淀川の河口部を渡りきった。ルーティンとは正反対の上流側を睨むおれを乗せて。

 ダメだ。もうあかん。すべての要素が負けるほうへ負けるほうへと傾いていく。自分から誘ってきたくせに同期の男は遅刻するし現地観戦二連敗だし、中井さんも今度こそ愛想を尽かすだろう。無念だ。さようなら中井さん。聡明なあなたのことが好きでした。二度も試合観戦に付き合ってくれてありがとう。お元気で。また月曜に会社で顔を合わせることとは思いますが。

 大阪湾沿いをチンタラ走ってきた快速急行が、ようやく尼崎駅に到着した。ドアが開き、梅田方面からの乗り換え客がどっと乗ってくる。

 大好きな野球観戦に向かう途中とは我ながら思えぬほど意気消沈したおれと大量の老若男女を乗せ、快速急行は大阪神戸間の下町をかっ飛ばす。車内の多くの客が甲子園に行くことは、身に着けたタイガースグッズや鞄の口から覗く黄色い応援バットを見ればあきらかだ。海遊館の客と同じように、その表情はどれも明るい。が、この人たちみんながこのあと一敗地にまみれることになるのだ。おれがルーティンを破ったばかりに。

 永遠にも思える六分間の所要時間ののちに、いくつかの途中駅を通過してきた電車は甲子園駅に到着した。ホームに飛び出し、黄色い人波の間をすり抜けて出口に向かう。

 駅前の遊歩道を競歩並みの早足で通り過ぎ、高速道路の高架の下をくぐったところで、球場の高い外壁の向こうからアップテンポの音楽が聞こえてきた。選手がベンチから守備位置に向かうときに流れる曲だ。ああ、試合が始まってしまう。息を弾ませながら外壁沿いを右手に進み、待ち合わせ場所のこぢんまりとした広場に足を踏み入れる。

 中井さんは、いた。待っていてくれた。山桃の木陰に立っている。白いブラウスと黄色いスカートが、今日の青空によく映える。かわいいなあ。

 おれは小走りで彼女の元に向かい、パチンと鳴るほど強く両手を合わせた。

「ごめん! 遅くなりました」

 顔を上げた中井さんが、ため息に言葉を添える。

「試合、始まるよ」

 疲れた様子だ。椅子の少ない場所で三十分ちかくも待たせてしまったんだから当然だ。

「ああ、うん。じゃあ、行こか」

 営業先にも見せたことのないフルパワーの愛想笑いを浮かべ、背後の球場を指さす。時間もないのでできれば席まで走りたいけれど、静かに怒っている中井さんにそんなことを呼び掛けられるはずもない。

 勇壮な音楽と四万七千人の拍手の下、4号門の短い列に並ぶ。チケットを手渡すと、中井さんが尋ねてきた。

「切符代、席に着いてから精算でもいい?」

「うん」試合はちゃんと観たいからできればプレー中ではなくイニング間に、とお願いしたいけれど、静かに怒り続けている中井さんにそんな注文をつけられるはずもない。「なんか、バタバタになってごめん」

 場内アナウンスが、始球式に招かれたどこかの少年野球チームの子供の名を告げる。

 少し間があってから、中井さんが質問を続けた。

「なんで、こんなに遅くなったの?」

「ああ、うん、迷子のポーランド人を道案内してて……」

「もっと本当っぽい言い訳ないん?」

 きつい一言が、少年への温かい拍手にまぎれて飛んできた。

 似合わぬ人助けをしてきたところなのにその言い方はないんじゃないかと苦言の一つも呈したくなったけれど、考えてみればおっしゃるとおりだ。たまたまポーランド語を喋れるおれがたまたま迷子になったポーランド人の夫婦と出くわしたなんて、信じろというほうがおかしい。

 ゲートで手荷物検査を受けていると、場内アナウンスが横浜の先頭打者の名を告げた。遠くレフトスタンドからはベイスターズファンの合唱。始まった。ゲートを順番に通り、はやる気持ちを抑えてスタンドの下の通路を進む。

 カーン

 

 木製のバットが硬球を叩く乾いた音と、遠くで上がる歓声。銀傘に反響し、スタンド下の通路まで伝わる重いざわめき。

 ああ、この雰囲気。ホームランや。先頭打者ホームラン。しかも、おそらくは初球。負けた。

 通路を抜けて、一塁側スタンドに出る。スコアボードの横浜の欄には〈1〉の数字。ホームインした先頭打者が、三塁側ベンチの前で手荒い祝福を受けている。

「何が起きたの?」

 中井さんが、おれの顔を見上げて小首をかしげた。

 横浜の攻勢は、ソロホームラン一本に留まらなかった。この回さらに二本のタイムリーが飛び出し、いきなり0対3。さすが、ルーティンを片っ端から破っただけのことはある。対する我らがタイガースは、チーム初ヒットが四回二死からやっと出るという体たらく。

 スポーツ全般に疎い中井さんも、五回に2点、六回にさらに1点を追加されたところでさすがに試合に見切りをつけたらしい。それまで「2ストライクからなんでわざとボール球を投げるの?」「あの選手のヘルメットはなんで汚れてるの?」「なんでタイガースは打てへんの?」と、初歩的なものから核心を衝くものまで不思議そうに質問をしてきたのが、話の内容が「この前、初めてCM撮影に立会わせてもらえて」とか「社食のピッチャーの水、さらにまずくなった気がする」といった、野球から離れたものに変わっていった。

「でも、ここのビールはおいしいわ」

 そう言って、中井さんは2イニングかけてちびちびと飲んできたビールを飲み干した。アルコールのおかげか、静かな怒りはだいぶ緩和された様子だ。

「まあ、それだけでも喜んでいただけたのならうれしいです。試合はこんなんやけど」

 横浜の青いユニフォームばかりが躍動するグラウンドを、悟りきった半眼で眺める。

「いや、楽しんでますよ。大勢で同じ色の物を身に着けて応援するのって、不思議な高揚感あるもん」

「そう?」

 おれに気を遣って言ってくれたのはわかっているけど、それでもうれしくなってしまう。

「まあ、浜野くんがユニフォーム姿で現れたのにはちょっとびっくりしたけど」

 そうだ。焦っていたおれは阪神電車の中で脱ぐという段取りも完全に忘れていたんだ。それどころか、この恰好で大阪中を移動していた。まるっきしアホや。

「まあこれは、数あるルーティンの一つでして……」

「ルーティン?」

「いや、こっちの話。それより」中井さんの膝元に目を落とす。「そのスカート、チームカラーに合わせて着てきてくれたん?」

 バタバタしていたから触れられなかったけれど、ずっと気になっていたのだ。

「あ、気づいてくれてた? 公式グッズじゃないからガチのファンの人に失礼かなって思ったんやけど、私も参加してみたくて」

 中井さんがはにかむ。かわいいなあ。きれいだなあ。

「あ、や、うん。ぜんぜん失礼ちゃうよ。めっちゃかわいいと思う。チームの公式グッズのなんやくすんだ黄色より、ずっときれいなんとちゃう?」

「えへへへへ」

 なんか、ちょっといい感じ。午後の青空、白球、となりには黄色いスカートの素敵な人。これで勝ちゲームだったら言うことない土曜日やったのに。

 心地よい風とビールと退屈な試合展開にうつらうつらしていた中井さんが目を覚ましたのは、0対6のまま迎えた八回裏のことだった。この試合で初めて先頭打者が出塁したのだ。糸を引くような気持ちのいいレフト前ヒットだった。さらに内野安打が出て、無死一・二塁というチャンスらしいチャンス。しかも打順はクリーンアップ。

 あきらめの悪いファンばかりが残ったスタンドの中で、中井さんが声をひそめておれに尋ねる。

「ここでホームランが出たら3点差やん? そしたら追いつく可能性出てくる?」

「いっやー、それは――」

 おれの疑義は、鋭い打撃音にかき消された。夢と希望と歓声の掛け算から導き出されたような速度と角度で、打球がライトの頭上を襲う。

「おおっ!? おっ!? おっ!?」

 中井さんが見上げる中、浜風をまともに受けたボールが天然芝の上空で失速する。フェンスに張りついたライトの力強い跳躍が視界に入る。しかし白球はグラブの先をかすめ、スタンド最前列にポトリと落ちた。

「おーっ! 入った!? 入ったよね!」

「入った! 入った! おーっ!」

 気づけば二人とも立ち上がっていて、遅い午後の空の下で快哉を叫んでいた。ありがとう野球の神様。この負け試合に一瞬でも盛り上がれる場面を作ってくれて。

 後続が倒れたあともどよめきの治まらない球場の中でそんなことを考えていたおれは、ルーティンを気にするあまり悲観主義者になっていたのかもしれない。

 続く最終九回の裏。

 ヒットとフォアボールで二者が出塁するものの、続く二者が打ち取られて二死一・三塁。「ひょっとしたら」という観衆の期待が「もうあかん」という諦観に戻ったところで、打順は再びクリーンアップ。

 初球のことだった。

 これがまあ、ボッテボテのピッチャーゴロ。

「んあーっ……」

 おれと中井さん、そしてフィールドを取り囲むすべての阪神ファンが、示し合わせたように落胆の声を発する。ところがボールを掴んだピッチャーの送球は、一塁手の頭のはるか上を飛んでいった。

「うおーっ!」

 中井さん、雄叫びまでもがかわいい。

 2点差として、二死ながら二・三塁。そこからはもう、夢のような時間だった。四番打者は敬遠気味のフォアボール。外野席はもちろん、比較的おとなしい内野指定席の観客たちも皮膚が真っ赤になるまで手を叩き、声をらす中、五番打者が右打席に立つ。

「うわー、なんや楽しいなあ。野球楽しい」

 中井さん、ボクはあなたのその言葉が聞きたかったのです。

 カウント2-2から放たれた打球の軌道を、おれは死ぬまで忘れないだろう。ボールは左中間を深々と破り、怒号のような大歓声の中を二者が悠々と生還。なんと、終盤2イニングで6点差を追いついた。

 結局、試合はそのあと二死満塁からのパスボールでタイガースがサヨナラ勝ちを収めた。最後のプレーこそ腰のくだけそうなものだったけれど、おれの観戦歴でも屈指の劇的な試合だった。

「あー、おもしろかったー」

 入場規制のかかった甲子園駅の改札前の列に並びながら、中井さんが晴れやかな声で三時間半の大逆転劇を振り返る。同じ感想ももう五度目か六度目だ。

「おれも、こんなすごい試合は初めて観た。感動した」

 駅員たちの誘導で、列が徐々に進む。長々と待たされているのに、誰もが笑顔だ。

「もう六時やのに、空明るいねえ」

 言われて見上げると、露草色の空に薄墨のような雲がかれていた。

「ほんまや。夏至過ぎたばっかやしね」そう答えてから、おれは勝利の余勢を駆って中井さんに切り出してみた。「まだ明るいし、どっかで食事してく?」

「あ、行く行く。行こう。梅田でも難波でもええよ。今日の試合のこと語りたいし、浜野くんが言ってたルーティンのことも聞きたいし」

「ああ、ルーティン、ですか。まあ、聞きたいなら話すけど、『こいつアホや』って呆れんとってほしい」

「それは楽しみ」

 梅田に行くか難波に行くかはホームに来た電車に決めてもらおうということになり、おれたちは難波に行くことになった。お互い家までは少し遠くなるけれど、ま、こんな日は都会都会したキタよりも庶民的なミナミのほうが合ってるか。

 五時間近く前にジリジリしながら通ってきた阪神なんば線を、この上なくフワフワした気分で戻る。名前も聞かずに別れてしまったあの夫婦は海遊館を楽しんでくれただろうかと、はるか昔のことのように思える出来事を振り返る余裕も出てきた。

 ほっとけばえびすばしからダイブしかねない浮かれた阪神ファンたちを乗せた電車は九条駅の手前で地下に潜り、大阪難波駅に到着した。地上に出ると、露草色だった空は藤色に変わっていた。

「どの店行く?」

 空から中井さんに視線を戻し、尋ねる。

「勢いで来たけど、当てはないわ」

「おれもや。適当に歩いて決めよ」

 戎橋筋をのんびり北上し、飲食店の立体看板がひしめき合う道頓堀通りを渡る。と、中井さんの肩がすれちがう人に当たってしまった。

「あっ、すみま……」相手を見上げ、とっさに英語で言い直す。「エクスキューズ・ミー」

「オーッ、タイガー・ボーイ!」

 聞き覚えのある声に、相手の顔をあらためて見る。なんと、あのポーランド人夫婦だった。

『やあ! また会ったね』

 口調がたちまち十二歳に戻る。

『こんな所で君と再会できるとは! 私はとてもうれしいよ!』

『なんて素敵な偶然なのかしら! ああ、そうそう、タイガーズは勝った?』

 感激した様子でおれの肩を叩き、手を取り、黙っていればキスまでしてきそうな夫婦の様子を見て、中井さんが目をしばたたいた。

「迷子のポーランド人、ほんまにおった……」

「目移りするなあ」

「目移りするなあ」

 大きな水槽の中で泳ぐ色とりどりのスズメダイやチョウチョウウオたちに視線をさまよわせながら、おれと中井さんは同じ言葉を繰り返した。

 あのいろいろあった土曜日から、ちょうど一週間。

 生まれて初めてのお好み焼きをつつきながら海遊館の素晴らしさを語るヤツェク&マリア・カミンスキ夫妻に感化されて、おれと中井さんはこうしてポーランド人推薦スポットにやって来た。地元民なのでこの巨大水族館を訪れるのは二人とも初めてではないけれど、来てみると思った以上に楽しい。いや、中井さんと一緒なら楽しくて当然か。

 道頓堀での再会を祝し、「せっかくなら大阪らしいものを」ということでお好み焼き店に入ったおれたち四人は、国籍や世代のちがいを超えてすっかり意気投合した。

 夫妻はおれがいかに親切な青年であるかをポーランド語のわからぬ中井さんに滔々と語り、おれは照れながらも褒め言葉の一つひとつをきっちり通訳し、中井さんは翌日からしばらく京都に通うという夫妻におすすめの寺や店をジェスチャーを交えて紹介した。

「マリアさんたち、えらいパワーやったね」

 南太平洋の魚たちを目で追いながら、中井さんがおかしそうに微笑む。

 おれは深々と頷き、ワルシャワからやってきた小さな住宅建築会社の社長夫妻の様子を思い浮かべた。

「あれで六十五歳と六十二歳やもんなあ。信じられへんわ。おれ、三条京阪前で置いてかれそうになったもん」

 豚玉や鉄板焼を頬張り、ことあるごとにビールで乾杯していい気分になったおれと中井さんは、翌日の日曜に京都を案内することになった。

 定番の伏見稲荷から、京阪電車と市バスを乗り継いでこれまた定番の金閣寺、そして中井さんおすすめの大徳寺のたっちゅうのいくつかと、二人はゆっくり時間をかけて歩き、苔や玉砂利や青もみじを見ては『美しい』と繰り返し、四条河原町の喫茶店では抹茶アイスに子供のように目を輝かせ、夕方になったからそろそろ大阪に戻るのかなと思いきや『ニシキイチバは近いのかい?』と言いだし、買い食いを繰り返しながら観光客でごった返すアーケード商店街を練り歩いた。

「楽しかったけど、あれは疲れた。錦市場にとどめを刺された。月曜なんか一日ボーッとしてたわ」

 中井さんが、低い声で先週末の出来事を振り返る。

「おれも。帰りの阪急電車、ほぼ気絶してた。まあ、あの二人は月曜以降もほぼ毎日京都に通ったらしいけど」

「もう、うちらとはヒトとしての規格がちがうわ」力なく笑ってから、中井さんは声の高さを戻した。「で、今は東京?」

「うん。きのう無事に新幹線で移動できたらしい。夕方電話掛かってきたわ、『オーサカとキョートではありがとう』って。帰りの飛行機が出る木曜まで、またいろいろ見て回るらしい。地下鉄だけやなくて京阪も阪急もJRもまずまず乗りこなせるようになったし、まあ、向こうでもなんとかなるんちゃう?」

 中井さんにはまだ話していないけれど、夫妻から言われたことはもう一つある。

『ツトムもいつか、スミノと二人でポルスカに遊びに来て』

『ツトムとスミノなら、いつでも大歓迎だよ』

 おれたち、二人で旅行しそうなほど仲睦まじげに見えたのかなあと、その言葉を思い出すたびに小鼻が膨らんでしまう。

「浜野くん、なにニヤついてるん?」

 いぶかしげに眉根を寄せ、中井澄乃さんがおれの顔を覗き込む。

「ああ、いや……」

「わかった。阪神が勝ちっぱなしやからや」

 いや、そうじゃない。でも、絶好調なのは本当だ。首位巨人とはなんと1・5ゲーム差。街でも会社でもテレビでも、今や「阪神どうしたんでしょう」の言葉が挨拶代わりに交わされている。

「まあ、あまり顔に出さないように気をつけます」

 あなたとの旅行を妄想してましたとは言えないから、タイガースのせいにしてしまえ。

「きのうでたしか、八連勝やったっけ」

 あ、うれしい。タイガースのこと気にかけてくれてる。

「そう。もう十日近く、一個も負けてない」

 今度は、本当に阪神のことでニヤついてしまった。

「ちなみに今日は?」

「東京ドームで巨人戦。ちょっと待って」携帯電話を取り出し、野球速報アプリを開く。「うおっ。三回終わって7対1でリード! 本物や、この強さ」

「なんかもう、ほっといても勝つ感じやね」

「ほんまにそう。バタフライ・エフェクトやなんや理由つけてちまちまとルーティン守ってたのがアホらしなるわ」

 いやはや、ニヤニヤが止まらん。

 大きな水槽を泳ぐ美しいチョウチョウウオを見つめ、中井さんが呟く。

「幸運を運ぶ蝶は、浜野くんちゃうかったみたいやね」

「うん?」

 思案げにまばたきすると、おれが好きな人はこっちに顔を向けた。

「阪神の連勝が始まったのって、先週の木曜やったっけ?」

「うん」

「ヤツェクさんとマリアさんが来日したのは?」

 思わせぶりな口調に、なにやら気持ちがざわめく。

「たしか、同じ木曜日」

「つまり、ヤツェクさんとマリアさんが来てからは負け知らずか」

「せやね」

 おれが頷くと、中井さんはそっと目を伏せた。

「ということは、あの二人が帰国してしまったら――」

「……あっ」

著者プロフィール

越谷オサム

コシガヤ・オサム

1971(昭和46)年、東京生れ。2004(平成16)年、日本ファンタジーノベル大賞優秀賞受賞作『ボーナス・トラック』でデビュー。他の著作に『階段途中のビッグ・ノイズ』『陽だまりの彼女』『空色メモリ』『金曜のバカ』『せきれい荘のタマル』『いとみち』三部作『房総グランオテル』『まれびとパレード』など。

判型違い(文庫)

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