ホーム > 書籍詳細:言語はこうして生まれる―「即興する脳」とジェスチャーゲーム―

言語はこうして生まれる―「即興する脳」とジェスチャーゲーム―

モーテン・H・クリスチャンセン/著 、ニック・チェイター/著 、塩原通緒/訳

2,970円(税込)

発売日:2022/11/24

  • 書籍
  • 電子書籍あり

言葉は、今ここで発明されている。認知科学が明かす、まったく新しい言語の姿。

相手に何かを伝えるため、人間は即興で言葉を生みだす。それは互いにヒントを与えあうジェスチャーゲーム(言葉当て遊び)のようなものだ。ゲームが繰り返されるたびに、言葉は単純化され、様式化され、やがて言語の体系が生まれる。神経科学や認知心理学などの知見と30年におよぶ共同研究から導きだされた最新の言語論。

目次
序章 世界を変えた偶然の発明
第1章 言語はジェスチャーゲーム
第2章 言語のはかなさ
第3章 意味の耐えられない軽さ
第4章 カオスの果ての言語秩序
第5章 生物学的進化なくして言語の進化はありえるか
第6章 互いの足跡をたどる
第7章 際限なく発展するきわめて美しいもの
第8章 良循環――脳、文化、言語
終章 言語は人類を特異点から救う
謝辞
訳者あとがき
注記と出典

書誌情報

読み仮名 ゲンゴハコウシテウマレルソッキョウスルノウトジェスチャーゲーム
装幀 ヤマダユウ/装画、新潮社装幀室/装幀
発行形態 書籍、電子書籍
判型 四六判変型
頁数 384ページ
ISBN 978-4-10-507311-4
C-CODE 0040
ジャンル 事典・年鑑・本・ことば
定価 2,970円
電子書籍 価格 2,970円
電子書籍 配信開始日 2022/11/24

書評

言語の起源はジェスチャーだった?

仲野徹

心理学や神経科学、遺伝学、コンピュータサイエンスなどの最新知見を統合し、言語学を二十数年ぶりに一新する一冊。

 我々はみな天才的な能力を持っているのかもしれない。それは言語だ。たとえば、人との会話。発される「音」から瞬時に意味を抽出し、相手の話が終わりそうなタイミングにはすでに自分の話す内容を組み立てている。日々あたりまえにおこなっているが、考えてみればすごいことではないか。さらに、言語を通じてさまざまなことを学習できる。それは、言語が相当に複雑であるからこそだ。
 人類の繁栄は、言語によるコミュニケーションが可能であるためだといっても過言ではない。だから、言語がいかに生まれたかというのは、人類を人類たらしめるのはいったい何かともいえる大命題だ。しかし、これは超のつく難問である。言語に化石などありはしないのだから。
 そこへ「普遍文法」という概念を持ち込んだのが「20世紀の知の巨人」ノーム・チョムスキーだ。「人間の遺伝的青写真には、言語を支配する抽象的な数学的原理が内包」されているという革命的なアイデアは、言語学を「文化系学問の範疇から引っこ抜いて」、「生物学の一分野と見なす」というとんでもない離れ業だった。この考えは、心理学者スティーブン・ピンカーがさらに『言語を生みだす本能』(NHKブックス)へと発展させる。
 大学院生時代から普遍文法の考えはどこかおかしいと感じていた二人の言語学者が巨人ゴリアテに向かって放つ石は「ジェスチャーゲーム」。言語は遺伝的に決定されたものなどではなく、身振り手振り、発声、あるいはその両方で自分の意思を双方向的に伝え合うジェスチャーゲームのようなものが起源なのではないかという斬新なアイデアだ。そこには普遍文法が入り込む余地などない。
 言ってはなんだが、普遍文法に比べると、なんだかちゃっちい学説のような気がしてしまう。しかし、読み進め、数多くのエビデンスをつきつけられているうちに、だんだんと納得させられていく。本書の冒頭に紹介されるエピソードは、クック船長がまったく言葉の通じない南米の現地人と交わしたコミュニケーションである。それはもちろんジェスチャーゲームだった。子どもが言語を学ぶのは、周囲の人との「言語ジェスチャーゲーム」を繰り返しながらだ。他にも、言語が生まれるためにはいかに双方向性のコミュニケーションが重要であるかの研究成果――言語学のような文系だけでなく、生物学やコンピューターサイエンスなど理系のデータも多い――が次々と紹介されていく。
 チョムスキーの考えを「神話」だとまで切り捨てながら繰り出す攻撃は鋭い。まずは言語の多様性だ。それぞれに複雑な言語が世界には7000種類もあり、じつに多彩で統一された傾向といったものなどない。となると、そのようなものに対応する遺伝的な本能があるとは考えにくい。
 わたしが長年たずさわってきた生命科学の分野には「言語の遺伝子」として有名なFOXP2がある。この遺伝子に異常のある家系は言語能力に欠陥があるし、ヒトとチンパンジーではその遺伝子に違いがある。これは当然チョムスキーらの考えを強く支持するものだ。しかし、最近の研究により、FOXP2は、言語能力そのものではなく他の脳の高次機能にも影響を与えるものであり、「言語の遺伝子」というのは過大評価であったことがわかってきている。
 試行錯誤的なコミュニケーションが成立し、その中から生き残ったジェスチャーや発声が記憶され、次第に抽象化されて言語に至るという自然発生的な考えの方が、全言語を理解できるような遺伝的能力が脳に内在しているというよりはるかに自然ではないか。もちろんジェスチャーゲームから言語に到る道のりは果てしなく遠い。だが、何百万年もかければ、そんな進化も可能に違いない。
「人間の脳はどうしてこんなにうまく言語に適応しているのか」というチョムスキー的な考えに対して、「言語はどうしてこんなにうまく人間の脳に適応しているのか」と真逆のベクトルで考え直したのがこの本だ。前者を言語への生物学的な適応とすると、後者は言語と脳の相互作用という見方ができる。そして、そこには文化の介在という新たなファクターが垣間見えてくる。なんと魅力的なんだ。
 専門家ではないので、この仮説の妥当性がどの程度あるのか、また、これから受け入れられていくかどうかもわからない。だが、もしかするとパラダイムの転換を眺めているのではないか。その興奮を禁じ得なかった。

(なかの・とおる 大阪大学名誉教授/書評家)
波 2022年12月号より
単行本刊行時掲載

納得から確信へ――新たな言語学の誕生

竹内薫

 われわれのような還暦を迎えた世代にとっては、言語学といえば、普遍文法の提唱者であるノーム・チョムスキーや、その影響を色濃く受けた心理学者のスティーブン・ピンカーの研究が強く印象に残っている。
 正直に告白すると、私はチョムスキーやピンカーらの論文や著作を読んでも、ピンと来なかった。生物進化の結果、ヒトという生物にだけ、生得的な文法が備わっていると言われても、疑念だけが残った。
 私は幼少時にアメリカに連れて行かれ、現地の小学校にいきなり放り込まれた過去があり、いわゆるバイリンガルになった。この経験は、受験でも海外留学でも翻訳の仕事でも大いに役立ち、いまでは小さなインターナショナルスクールを運営している。そんな私は、日本人の多くが英語をしゃべれない理由は、英語圏の子供たちのように学習していないからではないかと疑っている。
 そんな私の長年の疑念を晴らしてくれたのが、本書『言語はこうして生まれる―「即興する脳」とジェスチャーゲーム―』である。第1章「言語はジェスチャーゲーム」の冒頭にルートウィヒ・ウィトゲンシュタインの『哲学探究』が引用されている。おお? 大好きな哲学者だゾ。読み始める前から期待が高まる。
 続いて、クック船長とハウシュ族が「ジェスチャーゲーム」でコミュニケーションを図ったであろうという推測が語られ、すんなり納得。そうそう、初めてアメリカに行ったとき、私も確かにジェスチャーで会話を補っていたっけ。
 世界最高レベルの研究者たちが集うマックス・プランク心理言語学研究所で、本書の著者たちは「言語はジェスチャーゲームである」というひらめきを得たという。
 脳の記憶力や注意力はきわめて限られているのに「なぜ人間が言語の猛襲にこうもついていけるのか」? 言語は個々の文字や単語ではなく、チャンク(かたまり)を単位として会話を組み立てており、言語を学習するとは、このチャンクのレパートリーを増やすことなのだそうだ。そして、このチャンクをまとめた大きなチャンクも覚えてしまえば、ほとんど何も考えずに複雑な表現が可能となる。つまり、英会話ができるようになるためには、短い決り文句を覚え、さらに決り文句をつなげて覚え、単語のパーツだけ入れ替えて応用すればいい、ということになる。
 ちょっと笑ってしまったのは、「大人の話者は、およそ一〇〇〇語に一回は単語の発音を間違えたり言葉遣いを誤ったりする」という件だ。私はよくテレビやラジオで「噛む」のだが、それってあたりまえのことだったんだ。アナウンサーが特別なだけなんですねぇ。
 これだけ原著者の主張に納得がいく本も珍しい。さまざまな実験結果が紹介され、豊富な事例で主張が肉付けされ、言語は本当にジェスチャーゲームのようなものなのだな、という確信が高まってゆく。
「人間の言語は第一に詩であって、その次に散文なのだ」
「言語は骨の髄まで変則的なのだ」
「言語は人間に学習されるよう、とくに子供に学習されるように進化してきた」
「人がしている会話の約九〇パーセントはわずか一〇〇〇個程度の単語で成り立っている」
 これらを全部「標語」にして、学校の教室の壁に貼り付けておいたらどうだろうか。
 子供の言語習得に大切なのは、親がたくさんの難しい単語を使用してみせることではなく、「会話の順番交代の回数」だという指摘は意外だった。また、ヘレン・ケラーの先生であるアン・サリヴァンに「指文字」を教えたローラ・ブリッジマンの存在や、発音が母音ばかりで世界一習得が難しいとされる「デンマーク語の謎」など、言語学に関係した興味深いエピソードが続く。
 終章「言語は人類を特異点から救う」では、人工知能がジェスチャーゲームをする能力を持っていないことから、人間との違いが強調される。ちょっと安心しましたよ~。
 言語は数学的でなく、人工知能は創造ができず、言語こそが(遺伝子ではなく)文化の進化を生んだという本書の主張は、チョムスキーやピンカーに代表される古い言語学パラダイムからの脱却を促すだろう。そして、誰から見ても失敗としか言いようがない、日本の英語教育の見直しにもつながる可能性を秘めている。新たな言語学の誕生だ。

(たけうち・かおる サイエンスライター)
波 2022年12月号より
単行本刊行時掲載

インタビュー/対談/エッセイ

普段の会話こそ究極のフリースタイル!

いとうせいこう宇多丸

「言語はジェスチャーゲームである」という画期的な見方を提示して話題になっている『言語はこうして生まれる―「即興する脳」とジェスチャーゲーム―』。日本語ラップの先駆けであり、今も新たな表現に挑戦し続けるいとうせいこうさんと、ライムスターのラッパーで、ラジオパーソナリティとしても大活躍中の宇多丸さんが、本書をテーマに、ラップや和歌、ラジオまで縦横に語り合いました。

宇多丸 この本を読んだ時、いとうさんと話したいと思ったんです。

いとう うん。言語というと、ある言葉の「A」というイメージをそのまま運んで、相手がそれを受け取るという風に思ってしまう。でも、実際のコミュニケーションはそんなことはなくて、実は短波放送みたいにすごく雑多なノイズだらけの音の中から正しい歌詞を見出すみたいな作業をしているわけだよね。

宇多丸 そうです。さぐりさぐりで、なんとか工夫しながら、ジェスチャーゲームのようにお互いにメッセージを伝えていく……それが言語というものだ、というのが本書の論旨です。

いとう ただ、ジェスチャーゲームというのは、聞いてる側が「近い!」とか「そうそう!」とか反応するから軌道修正ができるわけじゃない。僕がこの本でちょっと足りないなと思ったのは、聞いてる立場の人たちがあまり見えてこなかったこと。かつて柄谷行人が指摘したように、語る立場と聞く立場があった時に、重要なのは聞く立場が理解するかどうかであって、語る立場には実は何の権利もない。「わからない」と言われたらおしまいなわけだから。そのことをジェスチャーゲームの比喩の中に導入しとかなきゃいけないと思った。

宇多丸 なるほど。僕はその「聞く立場」の話も込みで、ジェスチャーゲームのメタファーを理解していたのかもしれません。例えばこの本に繰り返し出てくるのは、相手に何かを伝えるときに大事なのは、「相手が何を知らないか」をこっちが類推することだと。つまりやはり、受け手がキャッチできる情報を投げてナンボ、という話ではある。また、これはすごく自分の実感と通じる部分だったんですが、会話って、実際こうやってポンポン言葉のやり取りをしてますけど、相手の発した言葉を本当に全部きちんと咀嚼してから返事してたら、こんなスピードにはならない。つまり相手の話を大づかみして、途中ですでに返答を考えだしているわけですよね。だから、基本すごく雑なコミュニケーションを我々は普段しているんだけども、そのやり取りの繰り返しの中に、互いの共通認識のようなものができてくる。

いとう 要するに35%ぐらい伝わっていれば会話は成り立つ的なことでもあるよね。

宇多丸 人間の認識能力的にも、リアルタイムで聞いた言葉は、文字みたいには記憶できなくて、どんどん忘れていっちゃう。だから、今おっしゃったように35%ぐらいをぼんやり薄づかみしてやり取りするのが、言語コミュニケーション。しかもそれは、「今、この場」でコミュニケーションをとる必要がある両者間で、「その都度」即興的に形成されてゆくものなのだ、ということ。それがすごく腑に落ちたんです。

詠嘆とフロー

いとう 著者はデンマーク人とイギリス人だけど、英語圏で活躍している人たちだよね。英語は大づかみしやすい言語とも言える。「私はそう思わない、なぜならば」という語順だから。でも日本語は「これこれこういうわけで、違うと思うんだよね」というように結論が最後につく言語。我々ラッパーが一番最初に困った日本語の特徴でもあるんだけど。

宇多丸 そうでしたね。

いとう さらに日本語は膠着語で、ほとんど「だ」とか「じゃない」で終わるから、韻が踏みにくい。それで「そうは思わない、俺は」と倒置法を使うようになった。ちなみに、この倒置法はほんの10年ちょっと前までは、ライブでは観客に伝わらなかった。だけどこの頃は伝わるようになってる。日本語を聞く能力が変わったんだよ。

宇多丸 それと、日本語は文語的なものと口語的なものの乖離が激しいじゃないですか。口語のふんわりした構造に対して、文語は、漢語的表現の枠をかっちり作って、あえてハードルを高くすることで社会階層を強化する、言ってみれば「お上」の論理から形成されたものでしょう。この本を読んで、そういう構造も僕の中では改めてクリアになった。

いとう その話を聞いて思い出したのは、文語の中の膠着語の話。文語では「〇〇なり」とか「〇〇けり」とか「〇〇ならん」とか言うわけじゃない。それって古文で教わったと思うけど、全部「詠嘆」って言われちゃうんだよね。「なり」と「けり」の細かい違いを教えてくれよって思うのに(笑)。

宇多丸 詠嘆ってファジーな言葉ですよね(笑)。

いとう もともとは英語のOhとかAhみたいなものが、文末にきちゃう言語だったんだよね。我々はその詠嘆が「だ」「である」で省略された近代以後にどういう面白い表現を考えるか。

宇多丸 日本語で喋ってると、終わらせ方が難しいというのは感じます。決まらないというか、バリエーションがないというか。ラップのときもそうですけど……僕は、普段のラジオはゲストやパートナーとの会話で進めますけど、映画評だけは一人で、しかも一度文字に起こしたものを、台本代わりにして喋ってるんです。それでもいつの間にか、やはり倒置が多くなるんですよね。「これは何とかなんですよ、誰々がこうしたから、この作品は」みたいな。リアルタイムで情報を詰め込もうとすると、日本語の語順を変えないとうまく伝わらない感じがある。

いとう やっぱり文の前半とか頭のところに結論を持ってきて強くしたくなるってことだと思うんだよね。

宇多丸 そうですね。それで、ここまで何の話をしてきたのか、という情報を改めて文の後ろに入れておく感じ。

いとう よくわかる。そして、それは小説の文ではできないことなんだよね。倒置による詠嘆を入れたら、語り手は誰だということになってくるから。語り手がいないかのように、嘘をつかなきゃいけないのが近代以降の小説。でもやっぱり書いていると、本当は詠嘆入れたいわけよ。それでこの頃、僕が頭の中で転がしてるのは能の謡。散文じゃない。

宇多丸 文章で、ラップで言う「フロー」(※1)が伝えられればいいのに、ってことですかね。

いとう そういうこと。でも長い韻文書いても受け取る側も大変だろうし、短いほうがいいってなると詩になっていく。今腕っこきのメンバーでバンド組んで、日本語ラップから即興的なポエトリーリーディングのほうにグーッといってることともつながるんだよね。一曲の中で、俳句ひとつ読んで黙っててもいいわけだから。ダブサウンドでワンワン飛ばしてもらって。

  • ※1 フロー……歌い方、歌いまわし

フリースタイルと連歌

宇多丸 いとうさんは、「フリースタイルダンジョン」の審査員をずっと務められてきて、若い子のフリースタイルバトルを、僕なんかよりいっぱい見てるじゃないですか。

いとう 見てる見てる。

宇多丸 ラップの仕方や内容に、何か変化って感じられますか?

いとう 高校生とか中学生くらいの子が、あまりにうまい入り、スタイル、切り返しとか、韻の踏み方とかをしてくるわけじゃないですか。もう完全に日本語というもののエンジンが変わったなっていう感じがある。いま彼らは、現実に会話してるときにはない脳の働きでやってるわけだから。サイファー(※2)で常に自分たちを鍛え、リズムの中でどれくらい韻が踏めるかっていうことを頭の中に叩き込み、言葉を喋っていく。それから相手の論理をどういうふうにいなすのか、ひっくり返すのか、脅すのかっていうようなことも同時にやっていく。

宇多丸 それこそ通常の会話以上に相手の言葉をしっかり聞かないといけないし、聞くのと出すのをほぼ同時に進めなきゃならないんだから、なかなか大変。

いとう そうなんだよ。だからそういう意味では、この本が言うようなノイズ性はほぼない。普段の会話の方がノイズだらけでしょう。

宇多丸 たぶんフリースタイルラップは、とは言え偶数小節単位のケツで韻を踏むとかオチをつけるとか、意外と決まりごとが多いというか、あくまで音楽的なルールの枠内で競う一種の「スポーツ」でもあるから、ひょっとしたらそこで何か一箇所、考えなくても済むスポットのようなものができるのかもしれない、とも思うんですけど。

いとう 脳の中に空いてる部分があって、そこで計算してるっていうことかな。それはあると思う。多分平安の歌人たちも、同じことをやってたと思うよ。たぶん音楽的にはありえないBPM(※3)32とかで、ものすごいゆっくり「ひさかたのー」って。絶対次に「光」が出てくるわけだから、みんながそれを共有して「何の光なわけ?」って映像的なものをゆっくり楽しむ。そこで「のどけき春の日に」とか歌うわけよね。その時間の中で、中国の漢詩から何から全部ワーッと共有してる。そしてオチで詠み手だけが言えることがドンッて出てくる。そうするとやっぱり「おー」って言ったはず。コールアンドレスポンスが歌の会の中でなかったわけがない。

宇多丸 たしかに!

いとう 五七五の場合は、「何何の」「うん」「何何何の」「う」「何何の」「うん」と、休符が一拍半拍一拍になっている。実はこの休符がすごく重要で、これはレスポンスのための休符なんだっていうのが俺の考えなのよ。「何何の」って言ったら「おっ」とか「うん」、「どうする」と合いの手を入れるコミュニケーションがあったと考えなければ、あの休符が生きないよね。五七、七五は日本語の伝統なんだっていう人は多いけど、なんでその伝統がエンジンとして素晴らしかったかは、やっぱり聞き手の側から考える必要があると思うわけ。

宇多丸 例えば祭りばやしが鳴ってりゃ、「よいしょっ!」とか「もういっちょ!」とか、自分もついやりたくなっちゃう感じ。普段の会話でも、それこそ五七五的ないいリズムで来ていれば、「それからどした!」って合いの手を入れたくなる。

いとう それなのよ。僕と宇多丸の世代は、いかにその休符をつぶして音頭に聞こえさせないかってことが本当に重要だった。「何とかの」「よいしょ」ってラップやったら、なんだよそれ民謡じゃねえかって言われちゃうから、絶対にやってはいけなかった。でも今はトラップっていう音楽が出てきて。

  • ※2 サイファー……複数人が円になり、即興でラップすること
  • ※3 BPM……一分間の拍数

トラップと地元

宇多丸 トラップは完全に「それからどした!」の世界ですもんね。なんならそっちがメインなくらい。

いとう そうそう。単独でラップしない。「俺が持ってる車」って言ったら、仲間たちが「超かっこいいぜ」とエンジン音の真似を出してくるとかさ。今若い子に聞いても、「休符怖くないっすね」って言うもんね。それがもう一番変わったことですよ、この数十年の間に。逆に言うと民謡はいったん忘れ去られたんだね。だからこそ今、民謡クルセイダーズとか俚謡山脈がかっこよく聞こえる。ひとめぐりしたんだよ。

宇多丸 僕らはその土着的なリズムからいかに脱するか、海外の先進的な文化をどう日本に合うかたちで根付かせるかっていうことに挑んでいた世代。だから、どちらかと言えば、さっきも出た文語的な発想のラップだったとは言えるかもしれない。ただ、文明開化のためには、いったんはそういうプロセスを経るしかなかったんですよね。

いとう そうね。それが今は、USの奴らもある意味、土着的な音楽をやってくるから。ブラックピープルの中にあるラテン出自であったりする感覚が出てきた。トラップを聞いたときは、完全にジャマイカの乗り方じゃん、レゲエセンスじゃんと思った。有色人種たちのリズム共同体みたいなもんがあるとさえ僕には見えちゃう。日本の民謡もその中にある。

宇多丸 確かに、ヒップホップの中心地がどんどん南部の方に行って、日本人の目から見ても、言っちゃえば田舎っぽい、泥臭いものになっていって。でも、それがどんどんシーンを席巻していった。

いとう 最初の頃のラップって都会のものというイメージだったじゃない。それがものすごく小さな都会になっていくと、結局田舎の中のちょっとかっこいい人っていうふうになるわけよ。それが都会っぽいということだから。日本にもあるような「いや、地元でまったりっすよ」の思想が世界のヒップホップを変えて、日本でもそういうヤンキーの子たちがヒップホップしか聞かないみたいなことになっていくのは当然のこと。なんだけど、そのときに宇多丸とか俺はどこにいればいいんだっていう話(笑)。位置取りの問題だよ、これは。

宇多丸 たしかにそこは考えちゃいますけど。ただ、この本にあるように、その人がその時に立っているコミュニケーション空間の中で、刻々と生成されてゆくものこそが言語なのだとしたら、僕はある種最初から「やっぱり地元」な皆さんと同一の場所にはいないのだから、それがトレンドだからというだけで追いかけてみたところで、フェイクなものにしかならないわけで。あと、僕はもともとの思考自体が文語的なタイプでもある。書物から得た言語体系が自分のベースだから、どこか「文章みたいなラップ」を書きたいという欲望が、僕の中にはすごくあるんです。それがホントに僕なりの「リアルな」言語体系なんだから、仕方ないというか。

いとう 例えば読んだ本とか誰かと話したこととか、ネットの中で出会った文章とか、そういうものが雑多に入ってくるから、ラップはその人が何を吸収したかってことがもろだしになっちゃうわけじゃん。

宇多丸 だから、結局は自分自身のリアルを追求するしかない、ということなんですけど。この本を読んでそれが改めて納得できた気もします。仮にそれがストリート的なヘッズの感覚からは乖離していたとしても、自分なりの言語空間というのは誰にも必ずあるはずだ、ということなんだから。

いとう だから俺がいまダブポエトリーをやるバンドにいて、あえて詩をラップ的には乗せずに、しかし大きなリズムを感じて朗読してるけど、それは自分が今のJラップの中にいなくていいなっていう気持ちがあるんだよね。突き詰めたら、ジャンルごと変わった。

宇多丸 うん。わかります。

いとう すげー楽だよ。むしろ俺たち「なりけり」って言っちゃった方がいいぐらいの感じじゃん。宇多丸も俺も平安時代の人みたいに思われてると思うよ、若い子たちには(笑)。

宇多丸 どっちにしろ昔の人って思われてるんだから、ここまで行ったってバレねえよみたいな(笑)。

いとう そうだよ。俺が謡とかに行ってるのは、そこで学んだことの方が自分の音楽に生きるからでさ。それが俺にとっての現在なんだよ、今そのものなの。

相槌とBPM

宇多丸 本当にそれはそうですね。その意味では僕は、毎日ラジオに違う人が来て、違うトピックについて会話してるってこと自体、ぶっ通しでフリースタイルのバトルロイヤルやってるようなもんだよな、と思う部分もあって。当然そこにも、ラジオならではの言語体系というのが形成されていると思うんですが。

いとう でさ、俺も宇多丸のラジオよく聞いてるけど、その時に重要なのは、ゲストが喋りやすいように、どう相槌を打つかじゃん。

宇多丸 さっき言った「よいしょ!」ですね。

いとう そうなのよ。そこが実は喋ることとほぼ等しく重要なんだよね。「国境なき医師団」の取材で海外に行く前に、英語をブラッシュアップしようと思って知り合いが作った英語学校に通ったんだけど、そのときの第一科目が相槌だったんだよ、「バックチャネル」。それが実は言語において一番大事なんだって教わって。

宇多丸 ほー!

いとう 相槌の位置とか、I seeっていうのか、Ahaというのか、Sorry? ってもう一回聞き直すとかも含めて、ここができていると、英語が実はすごくできるようになるんです、と。

宇多丸 その教え方、やばいですね!

いとう そう、すごいでしょ。日本語使ってラジオで喋るのも当然一緒だよね。

宇多丸 あと、意外と重要だと思うのは、うしろで流れてるBGM。あれのBPMに、結構支配されるんですよ。

いとう わかるわー。それこそBGMが自分たちの思考よりゆっくりだと、もうイライラする。でも相手は素人だからそれに飲み込まれちゃってる。こっちがそれを早くしたいと思ったら、相槌を早く打つじゃん、絶対。

宇多丸 またそういうときの相槌が、こっちの思考ダダ漏れ状態で。客観的に聴いてるリスナーからは、「宇多丸、先走りやがって」と丸わかりになっちゃってると思います。

いとう しかたないよ。そうやって相手のBPMを上げるしかない、会話のDJとしては。

宇多丸 おっしゃる通りで、次第に相槌のBPMをアップして、時間内になんとか収める、みたいなのはやっぱりありますよね。

いとう そうでしょう。そこのところも含めて、このジェスチャーゲームというものを広げて考えるべきだと俺は思った。聞く側の相槌って、コミュニケーションを大きく支配してる。

宇多丸 そういうことですよね。

いとう この本の重要なところは、言語っていうものは常に文法を逸脱したり、言い間違いがあったり、切り所間違えていたり、そういうことが常に起こっている。その中から、どのぐらいあぶり出し的に意味の繋がりを見出しあうかという、非常にスリリングでクリエイティブなもので、つまり詩のやりとりに近いんだってことを彼らは言っているわけで、それはすごく面白いと思った。一番はね、私は喋るのが下手なんだよなとか、うまく伝わらないんだよなって思ってる人は確実に読むべきだよ。だってそれで当たり前なんだ、全員そうだよっていう。

宇多丸 より良い喋りとか、より良い言葉、より正しい喋り方があるわけじゃないってことですよね。

言語の変化

宇多丸 あと、この本の中で面白かったのは、最近、英語圏で「like」の使い方が変わってきてる、という話。日本語で言う「みたいな」とか「的な」といったフワッとした表現が、英語圏でも同じように使われるようになっているというのは、興味深いなと思いました。

いとう そうだね。地球のかなりの人が「きつい言い方は嫌だ」ってなったってことだね。

宇多丸 ニュアンスがより繊細になっているというか。

いとう 最初は言うに言われぬことで、文法と違うlikeを使った人がいて、それは他人からは間違えた言葉遣いと思われてた。でも違う聞き手にはすごく刺さる言葉で、刺さった人はそのまま使う。それが広がっていくっていう感じはすごくよくわかる。

宇多丸 その意味では絵文字も、今や完全に世界中に広まりましたけど、あれもまさに言葉にしがたい、もしくはしたくないニュアンスを記号化したもので……それはまさしく、さっきいとうさんがおっしゃっていた詠嘆の部分なのかもしれないですね。

いとう そう、詠嘆なんだよ。「よろしくお願いします」って書いてメール出したいけど、これなんかきつい言い方かなって。辞書的な意味ではきつくないけど、「締め切りです。よろしくお願いします」とか、コミュニケーションによってはものすごい脅しに聞こえる場合もある。だから「よろしくお願いします」のところに、手を合わせてお願いしている詠嘆をつけたくなる。

宇多丸 インターネットは現状、文字が主流のコミュニケーションだから、世界中の人が言ってみれば「これだと詠嘆が足りないな」と感じていて、だから絵文字が流行る、ということですよね。

いとう そういうことよね。チョムスキーの生成文法では詠嘆のこと考えてたか。昔のことで思い出せないけど。文章のよろしくお願いしますは同じだけど、対話においてのよろしくお願いしますには無限の色合いがついてるんだよ。いわば音楽が。つまり詠嘆が。

宇多丸 声色とか声の大きさとか、それが発される文脈によっても全然違いますもんね。

いとう つまりコミュニケーションはきわめて個別的であるっていうこと。あと俺はね、間違い自体を即興で作ってると考えていいと思うんだよね。そうすると言語というのは常に逸脱していったり、がっしり捕まえられることもあったりという、楽しい「間違い伝達ゲーム」ですよね。その個別の即興が面白いわけだから、フリースタイルバトルとは真逆のものかもしれないね。会話は韻踏まなくていいしさ。

宇多丸 つまり、普段の会話こそが、究極のフリースタイル!

いとう そうそう。逆に言えばね。

宇多丸 我々みんな即興の魔術師を常時やってるんだよ、っていうね。

いとう よくこれで伝わってきたね、今まで人類やってこれたねっていう。それぐらい奇跡的なことなんだっていうことだよ。

(いとうせいこう ラッパー/作家)
(うたまる ラッパー/ラジオパーソナリティ)
波 2023年2月号より
単行本刊行時掲載

短評

▼養老孟司

「言語は即興の積み重ねで生じる。画期的な言語起源論である。難しいことは何もない。AI学習の時代によく適応した考え方というべきであろう。」


▼リチャード・ドーキンス 『利己的な遺伝子』著者

「驚くほどクリアだ。遊び心がありつつ、説得力もある」


▼ダニエル・L・エヴェレット 『ピダハン』著者

「非常に独創的で説得力がある。何より、読むのが楽しい!」


▼ティム・ハーフォード 『まっとうな経済学』著者

「魅力的なディテールの宝庫だ。読むことの喜びを感じる」


▼バーバラ・トヴェルスキー 『Mind in Motion』著者

「誰かに耳打ちしたくなるような洞察に満ちている」

著者プロフィール

デンマークの認知科学者。米コーネル大学のウィリアム・R・ケナンJr.心理学教授。デンマークのオーフス大学でも言語認知科学の教授を務める。ニューヨーク在住。

イギリスの認知科学者・行動科学者。英ウォーリック大学行動科学教授。単著に『心はこうして創られる:「即興する脳」の心理学』がある。オックスフォード在住。

塩原通緒

シオバラ・ミチオ

訳書にスティーヴン・W・ホーキング『ホーキング、ブラックホールを語る』、ダニエル・E・リーバーマン『人体600万年史』(共に早川書房)、スティーブン・ピンカー『暴力の人類史』(共訳、青土社)など多数。

この本へのご意見・ご感想をお待ちしております。

感想を送る

新刊お知らせメール

モーテン・H・クリスチャンセン
登録
ニック・チェイター
登録
塩原通緒
登録

書籍の分類