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偉人たちの知られざる素顔。笑いと驚きに満ちた新しい歴史小説。

ヴォルテール、ただいま参上!

ハンス=ヨアヒム・シェートリヒ/著 、松永美穂/訳

1,728円(税込)

本の仕様

発売日:2015/03/31

読み仮名 ヴォルテールタダイマサンジョウ
シリーズ名 新潮クレスト・ブックス
発行形態 書籍
判型 四六判変型
頁数 154ページ
ISBN 978-4-10-590117-2
C-CODE 0397
ジャンル 文芸作品、評論・文学研究
定価 1,728円

華麗なる女性関係。泥沼の金銭トラブル。国々を股にかけての逃避行。思想家ヴォルテールとプロイセン王フリードリヒ二世の間には、恋にも似た熱い友情と、壮絶な駆け引きがあった――。実在のできごとを丹念に追いながら、鋭い洞察と巧みな構成で偉人たちの姿を鮮やかに描き出す。ドイツのベテラン作家による、新しい歴史小説。

著者プロフィール

ハンス=ヨアヒム・シェートリヒ Schadlich,Hans Joachim

1935年、旧東独南部ザクセン州・フォークトラント生まれ。東ドイツ・ベルリン大学およびライプツィヒ大学でドイツ文学と言語学を学び、博士号を取得。反体制的作品を執筆していたが出版には至らず、ギュンター・グラスの援助により、1977年に西ドイツで作家デビュー、高い評価を受ける。同年末に西ドイツに移住し、ポストモダン的作品など、一作ごとに雰囲気の違う作品を書き続けている。クライスト賞、ハインリヒ・ベル賞、ハンス・ザール賞、レッシング賞、シラー記念賞など、受賞多数。2014年にはベルリン文学賞および連邦功労十字勲章を授与された。

松永美穂 マツナガ・ミホ

1958年生まれ。早稲田大学教授。著書に『誤解でございます』など、訳書にベルンハルト・シュリンク『朗読者』(毎日出版文化賞特別賞受賞)、ジークフリート・レンツ『黙祷の時間』、へルマン・へッセ『車輪の下で』、ペーター・シュタム『誰もいないホテルで』など。

書評

こんなにおかしい人たちだとは!

中島京子

 ヴォルテールがおかしな人なんじゃないかな、というのは、うすうす感じていた。彼の小説『カンディード』を読んで、ぶっ飛んだ覚えがあったからだ。啓蒙思想の巨人がライブニッツの最善説に反論するために書いた哲学的作品と聞いていたのに、お尻を半分切り取られて食べられてしまったお婆さんが出てきて、とうとうと自分語りを繰り広げたりする。なんだかこう、型破りな書物だった。
 フリードリヒ二世に至っては、私の知識はすこぶる少なく、オーストリアの「女帝」マリア・テレジアの宿敵、といった断片的なことしか知らなかった。
 しかし、18世紀ヨーロッパ史に詳しくないからといって、この小説が楽しめないということはまったくなかった。それどころか、こんなにも、史実しか並べていないような小説であるにもかかわらず、いつしか私はその淡々とした歴史叙述的な文体(それにときどき小説家らしいチャーミングな人物描写がまじる)にハマってしまい、気がつくと、腹を抱えて笑い転げていた。
 ヴォルテールこと、フランソワ・マリー・アルエは当時40代。数々のスキャンダルのためにフランスに居られなくなり、ヴォルテールを尊敬するプロイセンの若き王、20代半ばのフリードリヒ二世に招かれて隣国に滞在する。小説は徹底して史実に基づいており、フリードリヒがヴォルテールの自尊心を盛んに刺激して招聘しようとする前段に第1部、プロイセン滞在の蜜月時代を経て、仲違いするまでの数年を第2部に割いている。
 短い、変わった小説と言ってもいいと思う。何年何月何日に、誰がどこへ行って何をしたという記述の間を埋めるのは、多くの場合、書簡からの引用だ。2人の文通は有名で、なんと生涯に245通もの書簡を交わしたのだそうだ。ヴォルテールが愛人のシャトレ夫人に書き送ったものからの引用もある。フリードリヒへの、いわば建前のからむ手紙と、愛人(これがまた傑物)への、本音をぶちまける手紙との間には、おのずとヴォルテールという人物の真の姿が浮かび上がる。作家は実に巧みに引用をちりばめて、読者が人物のおもしろみに自ら気づくように仕掛ける。小説家が懇切丁寧に、この人はこういう人なんですよと解説してくれるような小説ではない。御年80になろうとする老作家が、史料の中からおもしろいページを見つけ出し、つんつんと指差して、目配せとくすくす笑いを送ってくる。そんな雰囲気のある小説なのだ。
 崇高なる自由の信奉者であり、同時に凄まじい金銭への執着を見せるヴォルテールと、フランス新思想への憧れを抱きつつも専制君主の非情な顔を持ち、さらには男色の傾向もある複雑なプロイセン王。偉人2人がお互いに、互いの自尊心をくすぐり合っているうちはいいのだが、やはり反発し合うのが必然だったのだろう。面と向かって罵倒こそしないけれど、フリードリヒは友人に「余がヴォルテールを必要とするのは、せいぜいあと一年間だ。オレンジをぎゅうぎゅうに絞って、皮を捨てるようなものだ」と言い放ち、これを伝え聞いたヴォルテールは、頼まれていたフリードリヒのフランス語の添削について、「国王の汚れ物を洗う」と暴言を吐く。
 前半に見られる、ヴォルテールをめぐるシャトレ夫人との静かな心理的三角関係も興味深いが、何よりおかしかったのは、痔核で苦しむ側近に当てた、フリードリヒのドイツ語の手紙だ。国王は、フランス語で教育を受けていたため、自国の言葉で文章を書くのが下手くそだったらしい。それに比べれば「汚れ物」呼ばわりされたフランス語の文章は立派なものだったとか。ともかく、フランス語の教養のない側近のために、慣れない母国語で書いた手紙が、誤字だらけ、文法間違いだらけなのだそうだ。それでも側近を励まし思いやり医師と薬を都合するフリードリヒ。小学校低学年並みのドイツ語を日本語に置き換えるべく訳者が奮闘された結果出現した、「しゅっけつよくなる。だからなおるをまつ……」「またねつでた、きいてざんねんにおもた」「かみさまがまもてくださるように!」という拙い日本語が、どうにも笑いと涙を誘う。
 ああ、おかしい、しみじみ、おかしい。やはり小説が威力を発揮するのは、教科書に載らない真実を読者に提供するときなのだろう。
 またひとつ、とてつもなくおかしい小説を読んだ。そのことが本当にうれしい。

(なかじま・きょうこ 作家)
波 2015年4月号より
単行本刊行時掲載

まとめテーマでくくる 本選びのヒント

短評

▼Kyoko Nakajima 中島京子
また一つ、ものすごくおかしい小説に出会ってしまった! ほとんどが資料の抜粋に近い、史実が淡々と列挙される小説なのに、どうしてこんなにも笑えるのだろう。舞台は十八世紀、啓蒙思想家ヴォルテールとプロイセン王フリードリヒ二世の愛憎半ばする交流が描かれるのだが、人間とはかくも矛盾した生き物かと気づかされるエピソードの数々に苦笑、爆笑の連続。ヴォルテールの身と名声を危うくするほどの金への執着、フリードリヒ二世のフランス文化への傾倒と暴君振り、それに側近への無防備なほどの愛。意表を突く読み心地に、すっかりハマってしまいました。

▼Sehepunkte ゼーエプンクテ誌
ハンス=ヨアヒム・シェートリヒはテレビや映画にありがちな過剰な演出は一切用いない。なぜなら、歴史的な素材それ自体が持っているドラマ性を信頼しているからだ。そして彼は、そのドラマ性を表現する方法を心得ている。

▼Frankfurter Allgemeine フランクフルター・アルゲマイネ紙
ハンス=ヨアヒム・シェートリヒの歴史家の部分と作家の部分がコラボした、すばらしい結実である。シェートリヒは主人公たちを、忠誠心と利害の複雑な網の目のなかにたたずむ、今日のわたしたちと同じような人間として描いている。

訳者あとがき

 三年前の夏休み、ベルリンの書店でのこと。おもしろそうな新刊小説はないか、と探していて手に取ったのがこの一冊だった。シェートリヒ、という名前を見て、おお、と思った。健在だったんだ! 嬉しくて、いそいそとレジに持っていった。高齢の作家が書いた本には、それだけでリスペクトを感じる。彼の本ならどんな話でもOK、と思って買ってみたが、翌日読み始めてみたら、予想以上におもしろい。ページを繰る手が止まらなくなり、その日のうちに読み終えた。しかも、読みながら何度も大笑いしてしまった。意図して書いたユーモア小説というわけではなく、歴史的人物の、ほんとうにあった事件を切り取ってきただけなのに、どうしてこんなに笑えるのだろう? そう考えているうちに、ベテラン作家シェートリヒのまなざしの鋭さや構成力の高さが見えてきた。
 十八世紀のプロイセン国王フリードリヒ二世(フリードリヒ大王とも呼ばれ、ドイツでは最も親しまれている専制君主)と、フランスの百科全書派の一人で啓蒙思想家のヴォルテールが主人公になっている。二人とも、日本の世界史の教科書に必ず名前が出てくる「超有名人」。彼らをめぐる小説というだけで、スケールが大きい感じがして、期待が高まる(作者のシェートリヒは膨大な資料を参照しており、相当な準備をして執筆に臨んだことがうかがわれる)。ただ、シェートリヒはこうした資料から、二人の偉大さというよりは、知られざる欠点や人間的な失敗の部分をうまく取り出して編集している。この小説を読むとフリードリヒ二世の見栄っ張りやフランスかぶれ、ヴォルテールの金銭への執着や計算高さ(もちろんそれは、執筆家としての自立した地位を保つためでもあったのだけれど)がわかり、二人のイメージが読む前とはかなり変わる。ヴォルテールがフリードリヒの招きを受けてプロイセン宮廷に赴いたことは、わたしも以前から知っていたけれど、その招聘がどんな顚末に終わっていたかは知らなかった。ドイツとフランスの駆け引き、腹の探り合い、ヴォルテールが双方の宮廷で果たした役割。一国の君主をうならせる、ヴォルテールの思想とそれを支える筆力。個性的な人物同士の丁々発止のやりとりの背後に垣間見える、剣(国家権力)とペン(個人の思想)のせめぎ合い。比較的短い小説であるにもかかわらず、この作品はそうした大きなテーマをいくつも包含していて、おもしろさだけではなく、歴史への深い問いも読者に投げかけてくる。
 この本に描かれているとおり、実在のフリードリヒ二世とヴォルテールは、熱心に文通を続けていた。二人の書簡集はドイツ語でも翻訳出版されており(文通自体はフランス語)、シェートリヒもこの書簡集を参照し、作品中で何か所も引用している。最初に手紙を送ったのはフリードリヒ。当時はまだプロイセンの王子だった。手紙の日付は一七三六年八月八日。フリードリヒは冒頭から熱烈な尊敬の言葉を書き連ねている。
「ムッシュー、余はまだ貴殿にお会いする喜びを得ていないものの、貴殿はその作品によって、すでに旧知の方なのです。貴殿の作品は、あえて表現させていただくなら、エスプリの宝庫であり、すばらしいセンスと趣味のよさ、すぐれた技巧によって綴られ、その文章の美しさは、読み直すたびに新たに浮かび上がってきます。作品のなかに、書き手の独創的な才能が立ち現れています。貴殿は、今世紀、いえ、そもそもの人間精神にとって、真に敬意を表するに値する方です」
 一国の王子からこんな賞賛の手紙を受け取って、虚栄心をくすぐられない人間がいるだろうか? フリードリヒは当時、二十四歳。「兵隊王」とあだ名され、軍事増強に尽力したプロイセン国王のフリードリヒ・ヴィルヘルム一世の息子で、兄が二人いたが早逝したため、男の長子として国王の後継者に予定されていた。早くから音楽や文学、哲学に関心のあったフリードリヒは、厳格で暴力的な父に反発し、十八歳のときには後継者となることを嫌って宮廷から脱走しようとする。しかしすぐに計画が発覚し、王子の脱走に協力しようとした(かど)で、友人のカッテ少尉が処刑されてしまう。フリードリヒはその処刑を目撃するように強要され、「カッテ、わたしを赦してくれ!」と叫んだというエピソードも残っている。父王はフリードリヒをも処刑する意向であったらしいが、そのような厳しすぎる処罰を下さないよう、神聖ローマ皇帝がわざわざ密使を送って思いとどまらせた、とも伝えられている。
 その後、フリードリヒは自分の運命を受け入れて父王に恭順の意を示し、父の指示に従って二十一歳で結婚(ただし、妃との仲は冷淡なもので、跡継ぎも生まれなかった)。父からはその褒美としてラインスベルク城を与えられ、ヴォルテールに手紙を出した二十四歳のころには、そこで穏やかで文化的な生活を送っていた。フルートを演奏し、作曲もし、友人の建築家に城の増改築をさせ、哲学について友人たちとサロンで語り合う。会話はほとんどフランス語だった。フリードリヒはドイツ帝国の前身でもあるプロイセン王国の王子なのに、ドイツ語の読み書きが苦手であり、ドイツの文芸にも疎かった。シェートリヒはこの本で、侍従長のフレーダースドルフに宛てて書いたフリードリヒのドイツ語の手紙を何度も引用しているが、それらの手紙は文法やスペルの間違いだらけで、小学校低学年並みである。この拙さを表現するために、わざとひらがなを使って翻訳した。逆に、もともとフランス語で書かれた手紙の方は、原書でもちゃんとした文章で示されている。
 フリードリヒは女性嫌いで、サロンのメンバーは男性ばかりだった。城には図書室があり、フランスからたくさんの本が取り寄せられていた。そして、壁にはヴォルテールの肖像画が飾られていたという。ヴォルテールは正真正銘、若きフリードリヒにとってのアイドルだったのである。
 一方のヴォルテールは、手紙をもらった当時、四十一歳。本名のアルエから、ヴォルテールという筆名に変えたのは一七一九年だから、二十代半ばである。それ以来、作品が評価されてフランス国王の結婚式に招かれたり、フランス王妃から年金を授与されたり、戯曲が何度も大成功を収めたりというポジティブなできごともあったが、本書にも記されている決闘事件やバスティーユ監獄への監禁、イギリスへの亡命なども体験した。筆一本で勇名を馳せつつ、波瀾万丈の人生を送っていたわけだ。ヴォルテールは独身だったが、さまざまな女性たちともつき合っていた。当時のフランスでは上流社会の人々がオープンに愛人を作っていた、という本書の記述は興味深い。池田理代子のマンガ『ベルサイユのばら』からも、フランス革命前夜の華やかな宮廷の様子がうかがえるが、ヴォルテールは王からも認められた知識人の一人として、そうした社交界に出入りしていたのだ。ただ、彼にはいろいろと型破りなところがあり、愛人であるエミリーと堂々宮廷に出入りしたり、王妃のことで失言し、逮捕を恐れて逃げ出したりと、フランスの宮廷でも「お騒がせ」な人物であったことがわかる。ヴォルテールがフランス宮廷から賜暇を得てプロイセンの宮廷に移ったとき、ルイ十五世が「こっちの宮廷から狂人が一人減った」と語った言葉がいろいろなことを物語っている。すぐれた洞察力ゆえに封建社会のくだらなさも見えてしまうヴォルテールは、優秀だけれど扱いにくい廷臣であったに違いない。そのヴォルテール、プロイセン宮廷でもたちまちスキャンダルを巻き起こしてしまう……。
 彼が投資に熱心な人物であったという話もおもしろい。現代であればさしずめインターネットを駆使して投資に参加していたのではないだろうか。製紙工場に出資して利益を得、購買者を限定する宝くじが発売されれば販売総額と賞金総額を計算し、賞金総額の方が多いことを割り出して、くじを買い占めてしまう。フリードリヒにはちゃっかりプロイセンへの旅費や手間賃を請求する。そして、スキャンダルの元となったザクセン選帝侯国の債券買い取りの話。世界史の教科書ではヴォルテールはあくまで「知の巨人」であって、こんな下世話な話はまったく出てこない。しかし、当時の知識人とて霞を食べて生活していたわけはないし、原稿料収入だけでは生きていけない時代でもあった。裕福なパトロンを得るという方法もあったが(実際ヴォルテールも宮廷に仕えてはいるが)、パトロンに頼りすぎれば自由な発言が封じられる。ヴォルテールは作家としての自由を守るため、自分で自分の収入を確保しようとするのである。
 フリードリヒとヴォルテールの文通に戻ろう。フリードリヒの最初の手紙は、すでにかなりの長さである(ドイツ語のペーパーバック版で三ページ半、行にすれば百行以上にわたる)。それに対するヴォルテールの返事もほぼ同じ分量。それから二人は、最初の手紙に負けず劣らずの長い手紙をやりとりし続け、生涯に二百四十五通もの書簡を交わすのである!
 ヴォルテールは「回想録」のなかで、やや皮肉にこの文通を振り返っている。
「彼(引用者注:フリードリヒ)は暇にまかせて、世間に多少は知られているフランスの文人たちに手紙を書いた。その重荷の大部分が私に降りかかった。韻文の手紙があり、形而上学論、歴史論、政治論があった。彼は私を神人扱いした。私は彼を(イスラエル最盛期の賢君)として扱った。美辞麗句で形容するだけなら、お互いに一文も要らなかった。このつまらない往復書簡の幾つかは私の著作選集に集録されたが、幸いにして、総数の三十分の一も印刷されなかった。私は失礼をも顧みずマルタン(当時フランスで有名な一流漆工)の極めて美しい文具箱を王子に贈った。王子は忝けなくも琥珀製のガラクタを私に賜った。すると、パリの喫茶店に出入りする才子どもは、嫉妬に身を震わせながら、私の身代は既に出来上がったものと想像していた」(『ヴォルテール回想録』、福鎌忠恕訳、大修館書店、十八~十九ページ)
 その後、本書にもあるように、フリードリヒが即位した後、二人はライン河畔のモイラント城で最初の会見をする。もっとも、フリードリヒは折り悪しく発熱中で病の床にあった。フリードリヒが金銭獲得のためにリエージュを脅かしたことについても、ヴォルテールは耳にする。しかし、「回想録」には次のように書かれている。
「私の王に対する親愛の情は少しも減じなかった。なぜなら、王は才智があり、優雅で、その上に国王だったからである。人間的弱点といってしまえばそれまでであろうが、この最後の条件は何といっても大きな魅力である。通常の例では、君侯を褒め讃えるのがわれわれ文士である。ところが、この王は私を足の先から頭のてっぺんまで賞讃した。一方パリにおいては、デフォンテーヌ師やその他の恥知らず連中が、少なくとも週に一遍は私を辱めていた」(『ヴォルテール回想録』、二十七ページ)
 一国の王から熱烈な敬意を示されてまんざらでもなかったヴォルテールの気持ちが正直に記されている。またヴォルテールは、初めてプロイセン宮廷に滞在したときのことを「世界のどんな場所でも、かつて人類の諸迷信からこれほど解放されて自由に論ずることはできなかった」(『ヴォルテール回想録』、五十五ページ)と振り返っている。フリードリヒの宮殿ではリベラルな議論を行うことができ、ヴォルテールにとって(少なくとも当初は)居心地がよかったことがうかがえる。
 この小説は、ヴォルテールがプロイセン宮廷に三年近く滞在するうちに軋轢が高まり、ついにフリードリヒと訣別するところで終わっている。だが、交流が完全に途絶えたわけではなかった。ここで少しだけ後日談を紹介したい。ヴォルテールがマインツからフリードリヒに出した、プロイセン官吏の暴虐を訴える手紙(本書でも言及されている)は、二人の文通のなかの百五十七番目。この手紙に対するフリードリヒの返信はなかったようで、シェートリヒもここでしばらく文通が途絶えたと本文中で示唆している。ただ、中断期間は思ったほど長くはなく、翌年の三月、ヴォルテールの方からまた手紙を出しているのである! この手紙に対してフリードリヒはすばやく返事をし、ヴォルテールが送ってくれた著書への感謝の言葉も述べている。この後、二人の文通は以前ほど頻繁ではないにしても数か月おきくらいにぽつぽつと続き、ヴォルテールの死の年まで至っている。ヴォルテールがフリードリヒに出した最後の手紙(往復書簡の二百四十五番目)は一七七八年四月一日付けで、発信地はパリだった。日本語に翻訳された『ヴォルテール書簡集』(高橋安光編訳、法政大学出版局)は千三百ページ以上のボリュームを誇るが、フリードリヒへの最後の手紙がそこにも収められている。この年の二月に吐血をし、我が身の衰えをひしひしと感じていたヴォルテールは、啓蒙期の哲学の功績を振り返りつつ次のように書いている。
「したがって、陛下、まさしく人間たちはついにみずから啓発し、彼らを盲目にしたつもりの連中も自分らの眼をくり抜くことはできなかったのです。陛下に神のお恵みがあらんことを。あなたは迷信をご自分の敵のように打破し、あらゆる分野の体制を整えられました。あなたは迷信の征服者、ゲルマンの自由の支えであります。
 私よりも長生きされ、あなたが築かれたあらゆる支配権を固めてください」(『ヴォルテール書簡集』、千二百八十五ページ)
 ヴォルテールはその手紙から約二か月後、五月三十日に八十三歳で亡くなっている。フリードリヒは当時、バイエルン継承戦争に関与して忙殺されていたが、秋にはヴォルテールに対する弔辞を自ら執筆し、ベルリンのアカデミーで朗読させた。往復書簡集の巻末に収められたこの弔辞は二十ページにもわたっている。知性が正しく評価されて文芸が興隆したギリシャ古典時代のことから語り始め、ソクラテスやホメロス、ソフォクレスやアイスキュロスの名を挙げた後、ローマ時代に言及、さらにヨーロッパの宮廷における知識人の活躍に触れてから、フリードリヒはヴォルテールの生涯と作品をかなり丁寧に紹介する。そして、一七五〇年にヴォルテールがプロイセン宮廷に来たときのことについては、「彼には知らないことなどなかったし、彼との会話は愉快でもあり、学ぶところの多いものでもあった。想像力は豊かできらめいており、精神の働きは敏速かつ沈着であった。彼の優雅な夢想は、ある種の無味乾燥な話題にも潤いを与えた。一言でいえば、彼はどんな場にいても人々に至福の喜びをもたらしたのである」と絶賛した。ちなみに、彼がプロイセンを去ったときのスキャンダルには一切触れず、ただモーペルトゥイとの対立があったとだけ述べるにとどめている。
 ヴォルテールがプロイセンを去って以来、フリードリヒとヴォルテールは二度と相まみえることはなかったが、結局は文通を続け、生涯、愛憎入り混じるときはあったにせよ、ある種の友情で結ばれていたように見える。少なくとも、親愛と尊敬の念をもってフリードリヒが彼の死を悼み、弔辞において熱弁をふるう姿には、ヴォルテールとの知己をひけらかして自慢しようとするような卑しい野心はもはやうかがえない。フリードリヒもこの時点ですでに六十代となり、多くの友を失い、権力者の栄光と孤独をたっぷりと経験した後だった。若き日に傾倒した思想家の死を悼むプロイセン国王の姿は、ヴォルテールの著書などおそらく一冊も読まなかったであろうフランス国王に比べれば、はるかに共感を呼ぶのではないだろうか。
 このように、実際にはその後の人生において和解した二人だが、シェートリヒは両者の葛藤が最も高まった日々に焦点を当て、それぞれの個性を際立たせている。フリードリヒ大王は、現代でもドイツでは「フリッツ」という仇名で呼ばれ、大人気の歴史的人物である。ベルリンの目抜き通りウンター・デン・リンデンにはフリードリヒの大きな騎馬像が建っているし、第二次世界大戦で破壊され、戦後完全に取り壊されてしまったベルリンの城が、その近くに再建される予定にもなっている。ベルリンからローカル線で二十分ほどのポツダムへ行けば、サンスーシ宮殿など、フリードリヒが暮らした当時の建築物が、世界遺産として多くの観光客を迎えている。フリードリヒの墓もそこにあり、いつ行ってもバラの花やじゃがいもが供えられている(フリードリヒには南米のじゃがいもをドイツに導入することで、飢饉の年にも食糧を確保できるようにしたという功績があるため)。東西ドイツ再統一からほぼ二十五年が経ち、ドイツは新たな歴史ブームを迎えている。ナチ時代のネガティブな過去ではなく、もっと輝かしい過去に、人々の目は向けられようとしている。そんななかで、シェートリヒはそうしたブームに便乗するというよりも、「ちょっと待てよ」と声をあげているように見える。『反マキャヴェリ論』を書き、ヴォルテールに私淑しつつも、戦争による領土拡大という手段を捨てなかったフリードリヒ。そのフリードリヒの、政治家としての残酷さや虚栄心も、この本ではしっかりクローズアップされているのだ。
 この本の作者ハンス=ヨアヒム・シェートリヒは一九三五年十月八日にザクセン州のフォークトラントで生まれた。戦後は東ドイツのベルリン大学とライプツィヒ大学でドイツ文学と言語学を学び、博士号も取得している。一九五九年から七六年まで、東ベルリンの科学アカデミーで研究員を務め、音声学に関する学術的な著書も出している。一九七六年秋、作家でシンガーソングライターのヴォルフ・ビアマンが東ドイツの市民権を剝奪される事件が起こると、シェートリヒは他の多くの文化人と一緒に、政府に抗議する声明に署名した。しかし、そのことがきっかけで職を失い、秘密警察の監視下に置かれるようになる。フリーの翻訳家として糊口をしのいでいたが(オランダ語からの翻訳出版がある)、翌年夏にギュンター・グラスの援助で西ドイツにおいて作家デビュー。デビュー作は西では高い評価を受けたものの、東ではますます弾圧が強まり、ついにその年の十二月、出国許可を得て西ドイツに移住した。戦争と東西冷戦によって辛苦を味わった知識人の一人である。
 その後、西での作家活動によってハインリヒ・ベル賞やクライスト賞など多くの文学賞を受賞、昨年(二〇一四年)もベルリン文学賞と連邦功労十字勲章を授与されている。娘の一人スザンネも、二〇〇九年に自伝的小説で作家デビューした。
 わたしはシェートリヒが一九九二年に出版したポストモダン的な実験小説『ショット』について論文を書いたことがあり、シェートリヒに親しみを感じていた。一九九五年にカナダのバンクーバーで開かれた国際ゲルマニスト会議に参加した折り、シェートリヒがあるシンポジウムのパネリストとして招かれていた。テーマはたしか「言語と権力」だったと思う。その席でシェートリヒはいきなり、同じくパネリストとして招かれていた作家のモニカ・マロンを厳しく批判し始めた。彼女が東ドイツ時代に秘密警察に協力していた、という過去が明るみに出てから間もない時期である。弾圧を受け、出国を余儀なくされた苦々しい思い出が、彼のなかでまだ渦巻いていることが感じられる激しい攻撃だった。東ドイツ出身の作家たちのあいだに走る亀裂を目撃した印象的な体験だったが、シンポジウム自体は彼の発言のせいで寒々とした雰囲気になったという記憶がある。
 そんなシェートリヒの作品を、二十年後に訳す機会があろうとは。彼は器用な作家で、シリアスな歴史小説も、シニカルな老人小説も、ストーリーのない実験小説も書けてしまう人だが、本書はいわば「史伝」と呼びたくなる作品だ。淡々と歴史的事実だけを並べており、作者自身のコメントは非常に少ない。しかし、どのような事実をどんな角度で描くかで、彼の共感の所在は充分明らかになっているだろう。森鴎外が晩年に「史伝」というジャンルに親しんだことを、ふと思い出した。
 本書では短い記述からも、登場人物たちの特徴が生き生きと見えてくる。あとがきではヴォルテールとフリードリヒのことばかり書いたが、ヴォルテールの恋人であるエミリー・ド・シャトレもたいへん魅力的な女性であると思う。
 翻訳にあたっては、企画の段階から最後の最後まで、編集者の佐々木一彦さんに大変お世話になった。校閲者の岡本勝行さんには、ドイツ語とフランス語の固有名詞が入り乱れるテクストを綿密にチェックしていただき、たくさんのご教示をいただいた。フランス語のカタカナ表記に関して、若き同僚の堀千晶さんにも教えを乞うた。そして、元同僚のエーバーハルト・シャイフェレさんからは、フリードリヒとヴォルテールの往復書簡やフリードリヒの弔辞の存在を教えられた。これらの方々と、支えてくれた周囲の人たちに、心から感謝したい。

 二〇一五年二月

松永美穂

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