ホットミルク
2,420円(税込)
発売日:2022/07/27
- 書籍
灼熱のバカンス地で、病身の母とふたり。夏の幻の果てに、娘が出した答えとは?
原因不明の病で歩けない母の治療のために、イギリスから南スペインの町を訪れた夏。介護のために学者の道を諦めた25歳のソフィアは、母親を怪しげな医師ゴメスに診せつつ、地元の男子学生と謎の長身女性に惹かれてゆく。私の人生って何なんだろう? やがてソフィアは本当の痛みと向き合う。ブッカー賞最終候補作、映画化決定!
書誌情報
読み仮名 | ホットミルク |
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シリーズ名 | 新潮クレスト・ブックス |
装幀 | Misato Ogihara/イラストレーション、新潮社装幀室/デザイン |
発行形態 | 書籍 |
判型 | 四六判変型 |
頁数 | 320ページ |
ISBN | 978-4-10-590182-0 |
C-CODE | 0397 |
ジャンル | 文学・評論 |
定価 | 2,420円 |
書評
奇妙な痺れと痛みの書
将来の夢を思い描き、数えきれないくらい修正してきた。能力がなければ、夢は諦めるしかない。たとえその力があったとしても、自分だけではどうにもならない現実もある。置かれた場所で咲ける人は幸福だ。
本書の主人公、二五歳のソフィアは人類学の博士課程まで進んだが、母ローズの介護のために修了を断念した。母一人、子一人の家族で、母の面倒を見るのは娘の自分しかいない。
ソフィアはいわゆる「ヤングケアラー」だ。幼いころから母が患う病を慮っている。母は娘なしでは生きていけないと彼女を支配し、娘はそんな母から離れられず、自分の道を見失っている。共依存状態にある。
「もっと大きな人生を生きてみたい」
「職業と呼べるものはないんだけど、私の仕事は母のローズなの」
あきらめた希望を抱いたままのソフィアの言葉は物悲しい。このままでは母が亡くなるまで、彼女は母の支配下にいるだろう。職業の選択は許されず、何者にもなれない。そんな時に不自由な母の脚を治療してくれそうな医師・ゴメスの存在を知り、治療費を捻出するためにローズの家を抵当に入れなおして、南スペインの医師の元を訪ねる。
母のためとはいえ怪しげな医師に頼るのは、あきらめの境地? 藁にもすがる思い? もしくは自棄になった末の行動にも思えるが、これはソフィアによる無意識の反乱の始まりかもしれない。
実際ここからソフィアの人生は変わり始める。
偶然出会ったフアンといい関係になったかと思えば、ドイツ人女性のイングリッドと恋に落ちる。こうしてソフィアは母の介護だけの人生からはみ出していく。
人はつながりの中で生きているが、ソフィアは恋愛というつながりが生まれたことで、外の世界へ連れ出される。一方、母とソフィアを縛り付ける鎖のようなつながりも同時にある。頑丈な鎖をほどくのも、やはり人なのだろう。
十一年も前に切れたはずのつながり=父との縁を追っていくと、赤ん坊の妹へたどり着く。知らぬうちに生まれた姉妹というつながりがそこにあった。
生きている限り人のつながりは途切れないし、万が一切れてしまったら自分という存在を証明することが難しくなるだろう。人のつながりは複雑に絡み合い、時に自然にほどける場合もある。それは別れを示唆する場合もあり、新たなつながりを生み出す基軸にもなる。
先に「ソフィアによる無意識の反乱」と記したが、人はどんな環境でも順応し、置かれた場所で花を咲かそうとする。しかしどうしたって咲けない土壌もある。
つまり反乱とは、生存本能ではないだろうか。
ソフィアは母と一体化した自らを脱皮して、行き場を求めて揺れ動く。遅れてやってきた反抗期を超えようとする少女のように。
生まれる場所も親も選べないけど、何を求めて、楽しむかは自分が捜すもの。間違いや寄り道に思えても、人生は必要な回り道を辿っていく。すべての回り道には意味がある、とソフィアの姿は物語る。
そんな彼女が恋するイングリッドの思いがけない罪の告白は、巡り巡ってソフィアに思いがけない行動を起こさせる。これも回り道? 実際の行動に移さずとも、人は自立しようとする時にソフィアと似た行為をするのではないだろうか。
娘を支配する母ローズもまた、病という鎖につながれる罪人だ。誰かに頼ることで自らのレーゾンデートルを保つ、というやり方もある。娘にとっては不幸だが、母本人も不幸であることに気づかされる。
ソフィアの自立と成長を描きながら、周囲の人々の変化も浮かび上がらせていく。人はつながっているから相互に影響するのも当然である。
ところで読み終わって、冒頭でクラゲにさされる場面を思い返した。あの時のクラゲは、ソフィアを通して読み手にも毒を放っていたような気がする。
読書中、毒は体内をめぐり、手足から心まで奇妙な痺れと痛みを届けた。
(なかえ・ゆり 女優/作家)
波 2022年8月号より
単行本刊行時掲載
短評
- ▼Nakae Yuri 中江有里
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生まれる場所も親も、人は選べない。ある人生を選ぶことは、別の人生を捨てることでもある。ソフィアが選んだのは、母のケア――その選択に断念と後悔、諦めきれない感情が付きまとう。「彼女の体は何を求めていて、誰を楽しませるものなんだろう?」母に対するソフィアの問いかけは、やがてソフィア自身、そして読み手にも降りかかる。生まれる場所も親も選べないが、何を求めて、楽しむかは自分が捜すもの。間違いや寄り道に思えても、人生は必要な回り道を辿るのだ。
- ▼Observer オブザーバー紙
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ヴァージニア・ウルフを彷彿とさせるような鮮やかさで描かれた、力強い内面小説である。この小説はメデューサのような、すべてを石に固めてしまう視線と、最後のページをめくった後も長く燃え続ける恐ろしい刺戟を秘めている。
- ▼Bernardine Evaristo ベルナルディン・エヴァリスト
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美しく豊かで、鮮やかな雰囲気と心理的な複雑さとを備えた桁外れの作品。すべての男女が読むべき小説だ。
- ▼The New York Times ニューヨーク・タイムズ紙
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溢れんばかりの想像力、詩のような言葉、日常の中に驚きをみつけ、少ない言葉で豊かに語る文章、そして悲劇とユーモアとの間を優雅にたゆたう感覚がこの上なく素晴らしい。
著者プロフィール
デボラ・レヴィ
Levy,Deborah
1959年生まれ。幼少期を南アフリカで過ごし、9歳でイギリスに移住。劇作家としてキャリアを積み、2022年7月現在までに8冊の小説を執筆。なかでも『Swimming Home』(2011年)と『ホットミルク』(2016年)はマン・ブッカー賞の最終候補作品となっている。2018~2019年、コロンビア大学フェロー。短編集『Black Vodka』(2013年)がフランク・オコナー国際短編賞の最終候補作に残った。
小澤身和子
オザワ・ミワコ
東京大学大学院人文社会系研究科修士号取得、博士課程満期修了。ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン修士号取得。「クーリエ・ジャポン」の編集者を経て翻訳家に。訳書にリン・ディン『アメリカ死にかけ物語』、リン・エンライト『これからのヴァギナの話をしよう』、ウォルター・テヴィス『クイーンズ・ギャンビット』など。