ホーム > 書籍詳細:ルクレツィアの肖像

ルクレツィアの肖像

マギー・オファーレル/著 、小竹由美子/訳

3,080円(税込)

発売日:2023/06/29

  • 書籍

優しくしてくれる夫。でも、今夜、あなたは私を殺そうとしているでしょう?

15歳で結婚し、16歳で亡くなったと、わずかな記録しかイタリア史に残されていない主人公ルクレツィア・ディ・コジモ・デ・メディチ。『ハムネット』でシェイクスピアの妻を鮮やかに蘇らせた著者が、政略結婚の末に早世した少女の「生」を力強く羽ばたかせる。スリリングな展開と大胆なラストで、イギリス文学史に残る傑作長篇小説。

書誌情報

読み仮名 ルクレツィアノショウゾウ
シリーズ名 新潮クレスト・ブックス
装幀 Lucrezia de’Medici(detail) by Agnolo Bronzino/Cover image、DeAgostini/Photo、Getty Images/Photo、新潮社装幀室/デザイン
発行形態 書籍
判型 四六判変型
頁数 448ページ
ISBN 978-4-10-590189-9
C-CODE 0397
定価 3,080円

書評

一枚の肖像画の、その先に

南沢奈央

 美術館に行くのが好きだ。特に絵画に惹かれる。平面の上の、額縁の中に収められた、一つの世界。画家の目を、手を通して描き出されたその世界は、そこにしか存在しない。そして見る者をどこか違う場所へ連れていってくれる。知識は無いなりに少しは絵の魅力を知っているはずだが、これまであまり興味が向かなかったものがある。それが、肖像画だった。風景画、歴史画、静物画、風俗画とさまざまな絵画の種類がある中で、肖像画だけは描かれている対象に興味が湧かず、よっぽど有名な作品でない限り、足を止めることはなかった。
 それが今回、こんなに一つの肖像画と向き合うことになろうとは。時間をかけて、深く、深く、そしてその先まで――。その作品が、本書のタイトルと表紙になっている、ルクレツィアの肖像だ。〈不安げで心細そうな表情が何かを語りたがっているように思え、ならば小説で語らせよう〉と、本書は一つの肖像画から生まれた壮大な物語だ。
 ルクレツィア・ディ・コジモ・デ・メディチ。今日のフィレンツェの景観を作り上げたとされる初代トスカーナ大公・コジモ一世の三女である。のちに、ロバート・ブラウニングの詩「先の公爵夫人」のモデルにもなるほどの人物。にも拘わらず、著者はその肖像画を見つけ出すのに苦労したという。彼女の両親やきょうだいの肖像画が展示されている美術館にはなく、他の美術館の小さな部屋に、消火器の陰に隠れるようにして壁の下の方に掛けてあったのだ。
 謎めいているのは、彼女について残っている史実も同様。1545年に生まれ、1560年フェラーラ公アルフォンソ二世と結婚するも、一年経たずして、1561年に16歳で急死。死因は病気とされたが、夫に毒殺されたという噂もあった。
 物語はこの1561年の場面から始まる。人里離れた砦での夫と二人きりの食卓、ルクレツィアは、夫に殺されるのだと予感を超えて確信している。夫を観察する。恐れおののきながらも〈上手におやりなさいね〉と妙な冷静さを持ち、二人の様子が細やかに描写される。3ページちょっとの短い場面だが、いきなり読者は緊張感と不穏な空気に震えることになる。
〈エレオノーラはこの先ずっと、五番目の子を身ごもったときのことをいたく悔やむこととなる〉。時代は1544年に移り、ルクレツィアの母の受胎にまつわる話から、ルクレツィアの人生を辿っていく。野生児のように誕生し、他のきょうだいと離れて育った幼少期。親から見向きもされず、きょうだいにも馴染めず、その中で類まれなる絵の才能が開花していく。やがて結婚が決まり、新しい生活が始まる――。
 この随所随所に、ルクレツィアの運命を予感させるようなエッセンスが入ってくる。たとえば、古代学の授業の内容。ギリシャ船団が先へ進めるよう神々に追い風を吹いてもらうために、結婚するのだと娘を騙して生贄に差し出すというもの。亡くなった姉の代わりに結婚することになるルクレツィアの未来をも感じさせる。また、宮廷での結婚の祝宴の席で演じられた歴史劇が、妻を毒殺してしまう王の話。これまたルクレツィアの最期と重ねてしまう。
 さらにそこに、例の1561年の場面が合間に短く差し込まれるのが、構成の妙。迫りくる死を背後で常に感じながら、読み進めていくことになる。だから、出会った頃のアルフォンソが紳士でユーモアもあり優しいことも、結婚して手に入れた、好きなときに出歩いて絵を描けるという自由な生活も、やけに不気味に感じられる。そしてついに、1561年のまさにその日に追いついたとき、ぞくりと背筋に寒気を感じた。
 この物語で生きるルクレツィアは、鋭い感覚と豊かな感性を持っている。人々の表裏、さまざまなものを見てしまう。だが事実や本音は隠しておくことがすべて。檻に入れられた雌虎のように、彼女は窮屈な世界で心に持つ炎を隠して生きていく。その炎を下絵にして、その上からまた別の絵を描き重ねて誰の目にもつかないようにすることは、彼女にとって生き延びるための術だったのだろう。
 やってのける。強い意志を持ち続けた彼女は、自らの力で一歩踏み出す。その物語の最後がこの上なく煌めいていて、涙が堪えられなかった。
 本を閉じた時、あらゆる思いを持って表紙のルクレツィアを見つめることになる。もしかしたら、ルクレツィアの切実な願いに一つだけ応えられたのかもしれないと思うと、彼女が少しだけ微笑んだように見えた。
〈誰かに、特別で貴重な存在であるかのように見つめてもらいたい〉。

(みなみさわ・なお 女優)
波 2023年7月号より
単行本刊行時掲載

短評

▼Minamisawa Nao 南沢奈央

見えているものだけが真実ではない。一つの絵の下に幾つもの下絵が隠されているかもしれない。ルクレツィアにまつわる僅かな史実をもとに、その知られざる16年の人生を丁寧に描き出していく。ルクレツィアは鋭い感覚と豊かな感性で、あらゆるものを捉える。彼女だけには見える、人々の心の内が。自分の心が必要としているものが。そして、迫りくる死が。全ての真実が見えたら幸せとも限らない。その事実が胸を突くが、物語の最後、緊張感と不安のざわめきから解き放たれたときに見える世界が、真に煌めいていて、生命力に満ちているのだ。


▼The Boston Globe ボストン・グローブ紙

最後の展開はじつに意外で見事なので、読んでいて涙ぐんでしまった。オファーレルはかような具合に、フィクションの持つ力を行使して、一般に認められている歴史に反論し、我々の前に豊かな想像の世界や身震いするような可能性を広げてみせてくれるのだ。


▼The Globe and Mail ザ・グローブ・アンド・メイル紙

権力、力関係、そしてひとりの女性による主体性確立のための戦いを描くこの素晴らしい物語は、『ハムネット』の作者の新たな傑作だ。


▼The Christian Science Monitor クリスチャン・サイエンス・モニター紙

オファーレルの最新作は、自分が閉じ込められた金ぴかの檻を破ろうと、断固たる決意を固める女性の絢爛たる肖像画を描き出す渾身作だ。

著者プロフィール

マギー・オファーレル

O’Farrell,Maggie

1972年、北アイルランド生まれ。ケンブリッジ大学卒業。2000年『アリスの眠り』(世界文化社)でデビューし、ベティ・トラスク賞を受賞。2005年『The Distance Between Us』でサマセット・モーム賞を、2010年『The Hand That First Held Mine』でコスタ賞を受賞。2017年には幾度にもわたる臨死体験などをつづったメモワール『I Am,I Am,I Am : Seventeen Brushes with Death』がベストセラーとなった。2020年に刊行した『ハムネット』で英女性小説賞と全米批評家協会賞、ドーキー文学賞を受賞、映像化も決定している。

小竹由美子

コタケ・ユミコ

1954年、東京生まれ。早稲田大学法学部卒。訳書にマギー・オファーレル『ハムネット』、アリス・マンロー『イラクサ』『林檎の木の下で』『小説のように』『ディア・ライフ』『善き女の愛』『ジュリエット』『ピアノ・レッスン』、ジョン・アーヴィング『神秘大通り』、ゼイディー・スミス『ホワイト・ティース』、カリ・ファハルド=アンスタイン『サブリナとコリーナ』、ジュリー・オオツカ『屋根裏の仏さま』(共訳)、ディーマ・アルザヤット『マナートの娘たち』ほか多数。

この本へのご意見・ご感想をお待ちしております。

感想を送る

新刊お知らせメール

マギー・オファーレル
登録
小竹由美子
登録

書籍の分類