
大久保利通―「知」を結ぶ指導者―
2,420円(税込)
発売日:2022/07/27
- 書籍
- 電子書籍あり
独裁と排除の仮面を剥ぎ取り、その指導力の源を明らかにする!
旧君を裏切り、親友を見捨てた「冷酷なリアリスト」という評価は正当なのか? 富国強兵と殖産興業に突き進んだ強権的指導者像の裏には、人の才を見出して繋ぎ、地方からの国づくりを目指した、もう一つの素顔が隠されていた。膨大な史料を読み解き、「知の政治家」としての新たなイメージを浮かび上がらせる、大久保論の決定版。
出典・注釈
人物索引
書誌情報
読み仮名 | オオクボトシミチチヲムスブシドウシャ |
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シリーズ名 | 新潮選書 |
装幀 | 駒井哲郎/シンボルマーク、新潮社装幀室/装幀 |
発行形態 | 書籍、電子書籍 |
判型 | 四六判変型 |
頁数 | 528ページ |
ISBN | 978-4-10-603885-3 |
C-CODE | 0323 |
ジャンル | 歴史・地理 |
定価 | 2,420円 |
電子書籍 価格 | 2,420円 |
電子書籍 配信開始日 | 2022/07/27 |
書評
人物評伝を読む 日本を考える3冊
もしも私が人物評伝やエッセイを書くはめになれば、誰を取り上げるであろうかと、時々、考えたりもするのだが、いっこうに名前があがらない。見も知らぬ人物の生きざまにどっぷりと浸るには、相当な共感の持続がなければならない。どうも、それが私には欠落しているようだ。
関心を掻き立てられる人物や思想家は結構いるのだが、逆にいえばいすぎるのである。その結果、私の興味は、人物というよりも、彼の思想や、背景をなす思想史へと向かう。さらには、その思想の現代的意味が気になる。だから、人物評伝を読む場合にも、今日それを読む意味はどこにあるのか、などと考えてしまう。
ところで、ここにとりあげる三冊は、私にはすこぶる楽しい時間を与えてくれた。時代が新しい順でいえば、まず瀧井一博氏の『大久保利通―「知」を結ぶ指導者―』。
大久保といえば、どうしても盟友かつ宿敵である西郷隆盛との対照がよく知られ、「義と情の人、西郷」に対し「利と理の人、大久保」として脚色されるのが常であろう。こうなると西郷の方に分がある。私自身もその俗耳につられ、大久保の事跡や足跡にはほとんど関心がなかった。だが本書は、大久保に付きまとう西郷の影など目もくれず、大久保その人の歩みを実に丁重に描き出す。
明治維新の謎のひとつは、薩長志士の過激な尊王攘夷が、いかにして新政府の建設という難事業へ向かい、さらに徹底した欧化政策へと転換したかにあろうが、その中心にはいつも大久保がいた。本書は、大久保の歩みを日記でもひもとくように丹念に眺めることで、この謎を解きほぐす。

彼は、「利と理にたけた先進的リーダー」どころか、人々の調整役としてしんがりに座を構え国家の方向を展望し、公的な議論(公論)へ人々を誘う総合的プロデューサーであった。この大改革者を、「政治制度はその国の『土地風俗人情時勢』に従って構築されなければならない」という漸進的改革の思想の持ち主と見る著者の大久保像を、果たして、今日、「改革」や「変革」を叫ぶ政治家たちはどう評価するのだろうか。
次は先崎彰容氏の『本居宣長―「もののあはれ」と「日本」の発見―』。本居宣長論というと、まずは小林秀雄の同名の大著を思い出す。この書物で、とりわけ『古事記伝』を扱う際、小林は、(本人も述べているが)引用に次ぐ引用を重ねている。古語を頼りに古代人のこころや神の道を知るには、ただ古人の言葉遣いを知るほかないという宣長の徹底した思想に小林は共感したからだ。余計な解釈は「さかしら」に陥りかねない。

そこに宣長を論じる難しさがある。先崎氏の宣長論は、『古事記伝』には触れず、それ以前の『石上私淑言』や『紫文要領』などに限定して思い切った解釈をほどこしてゆく。たとえば「もののあはれ」とは、個人の私的な情緒などではなく、古代から続く「わが国びとの生活の記憶」、つまり伝統と歴史に共鳴することだ、というのだ。
これなど私にはたいへん面白く説得力をもっていた。それらが「さかしら」に陥らないのは、宣長に向き合う著者の態度が鮮明だからだ。つまり、外国の高度な文明(著者のいう「西側」)にすり寄る「からごころ」こそが、日本人のこころを空虚化してしまう、という宣長の危機感は、決して過ぎたことではない。グローバリズムの現代もまた、あの「宣長の時代」なのだ、と著者はいうのであろう。
最後に寺澤行忠氏の『西行―歌と旅と人生―』。本書は実に読後感がよい。決して奇をてらわず、強力な解釈意図など微塵もなく、実に誠実で丁寧な論述であるが、だからこそ、その和歌と共に西行のありのままの姿が浮かび上がる。

西行には私は何かあるなつかしさをおぼえる。いくつかの有名な歌しか知らないが、昔から、世俗の栄達を捨てて漂泊の旅に徹した西行という人物の苛烈な生に共感を持っていた。出家しつつも人恋しさに耐えられず、無常から逃れるためにまた無常の旅を続けるという西行には、日本人の深い心情を打つものがある。昔に読んだ小林秀雄の影響かもしれないが、どうやら、著者も同じ経験を持つようで、おまけに、著者は高校時代を奈良で過ごしたと記している。私も高校まで奈良にいた。何か、奈良の風土と西行が漂わせる無常の風には響きあうものがあるのかもしれない。いずれにせよ、本書が、このせわしない情報過多の現代日本において、多くの読者の共感を呼んでいるという事実はすばらしいことに違いない。
(さえき・けいし 京都大学名誉教授)
現実と切り結ぶ「円の中心」を見つめて
維新の三傑といわれるが、木戸孝允や西郷隆盛と比べて、大久保利通の印象は鮮烈ではない。木戸は俊英にして激情家という二面性を持ち、それによって長州藩出身者などの後進たちにも多大な影響を与え、また没後には顕彰された。西郷は人望厚き軍事的天才として、また西南戦争における潔き敗軍の将として名を残した。
これに対して、大久保には冷徹といった形容がついてまわり、彼が不平士族を弾圧した後の明治政府には、有司専制という批判も浴びせられてきた。そして、専制的な大久保自身は政策論に乏しく、内務省などでは十分な成果を挙げられなかったとも指摘される。
しかし、本書の著者である瀧井一博氏は、大久保を魅力なく描く見解はその才気や人望に注目しすぎており、とくに内務省を率いて勧業を重視した時期の彼は過小評価されているのではないかという。このような立場から、本書は大久保を伊藤博文に先立つ「知の政治家」として描き出す。
大久保は、幕末維新期という秩序の大変革期の政治指導者であった。錯綜し複雑を極める対立構図の中で、政局判断が優先され、時には権謀術数を駆使して政敵を打倒する必要もあった。だが、そのことは彼に理念や思想がなかったことを全く意味しない。むしろ、理念的な一貫性があったがゆえに、現実には相矛盾するような行動をとる場面が生じたというべきなのである。
瀧井氏は膨大な史料や先行研究を渉猟し、具体的な行動や発言を跡づけながら、大久保の思想を析出する。その中核には、「公論」が支える君民共治の国民国家像があった。「公論」は義や理にかなった物事の考え方であり、「衆議」「大勢」「因循」などと対比される。義も理もなく、激情や扇情によって形成された一時的な多数を恃む立場、陋習を墨守するだけで新しい環境や考え方を拒絶する立場を、大久保は一貫して忌み嫌った。
大久保のみならず、重要な維新指導者において「公論」が重視されていたことは、伊藤之雄氏などによる最近の研究でも注目されている(*)。しかし「公論」の内実は指導者それぞれに異なっており、瀧井氏が注目するのは、そこでの大久保の独自性である。
「公論」に依拠した統治のあり方を重視する立場は、ルネサンス期以降の西洋思想史において共和主義と呼ばれる理念と重なる。五代友厚らによってもたらされた薩摩藩の豊富な外国政治知識に言及しつつ、元々は列藩諸侯による会盟政治を指す「共和」に「義と理の政体」を読み込み、明治維新を「共和革命」だとする瀧井氏の見解は、もちろんこの点を踏まえているのだろう。
では、そのような「公論」はいかにすれば形成されるのか。それは身分や地位ではなく、義や理を追求しようとする姿勢、すなわち「知」を持つ人々の相互作用によってである。このような相互作用を可能にするつながり、言い換えれば「知のネットワーク」の構築こそ、薩摩藩内で、長州藩などと連携した倒幕の過程で、王政復古後の新政権で、そして内務省で、大久保が目指してきたものであった。
内務卿としての大久保が重視した勧業も、しばしば急進的過ぎる西洋技術の導入の試みと否定的に捉えられてきたが、実際には「知のネットワーク」を社会経済に実装する企てであった。瀧井氏はそれを、西南戦争中に開催された第一回内国勧業博覧会に見出す。大久保が「内国」「博覧会」にこだわった理由を解明する本書の叙述は、通説的見解への鮮やかな反論であり、著者の真骨頂だといえる。
大久保のこのような立場は、「公論」に背を向け「衆議」や「因循」に逃げ込む人々への苛烈な批判や排除にもつながる。共和主義者は、人数のみに依存した民主主義にも、血統のみに依存した君主主義にも批判的である。近代国家の建設初期という困難な局面にあって、大久保は本書にいう「断つ人」にならざるを得なかったのだが、それは冷徹な有司専制の権化という負のイメージにもつながった。
国家としての近代日本は、大久保暗殺後に彼の理念を実現していった。伊藤博文による明治憲法体制の構築、渡邉洪基による国家学会を通じた「知のネットワーク」形成などは、その制度的表現であった。それぞれの具体的なありようは、瀧井氏のこれまでの著作に詳述されている。
理念が実現されたとき、大久保が起点であったことは見えなくなる。彼は「円の中心」であるという著者の言は、明治国家を考え続けた研究者の結論のように聞こえる。
* 伊藤之雄「「公論」と近代天皇制の形成――木戸・大久保・岩倉の挑戦――」伊藤之雄(編著)『維新の政治変革と思想 一八六二~一八九五』ミネルヴァ書房、2022年
(まちどり・さとし 京都大学教授)
波 2022年8月号より
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著者プロフィール
瀧井一博
タキイ・カズヒロ
1967年福岡県生まれ。京都大学大学院法学研究科博士後期課程を単位取得のうえ退学。博士(法学)。神戸商科大学商経学部助教授、兵庫県立大学経営学部教授などを経て、2022年7月現在、国際日本文化研究センター教授。専門は国制史、比較法史。角川財団学芸賞、大佛次郎論壇賞(ともに2004)、サントリー学芸賞(2010)、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト賞(2015)受賞。主な著書に『伊藤博文』(中公新書)、『明治国家をつくった人びと』(講談社現代新書)、『渡邉洪基』(ミネルヴァ書房)他多数。