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論争 大坂の陣

笠谷和比古/著

1,815円(税込)

発売日:2025/10/22

  • 書籍
  • 電子書籍あり

「関ヶ原」でなく「大坂の陣」で家康はようやく天下を取った!

「西軍敗戦で豊臣家は一大名に転落」「征夷大将軍は唯一の天下人」「家康は豊臣滅亡を虎視眈々と狙っていた」「方広寺鐘銘問題は言いがかり」「大坂方は騙されて内堀まで埋めさせられた」。諸説せめぎあう中、「二重公儀制」論を掲げる近世史の第一人者が、関ヶ原から「戦国最後にして最大の激戦」に至るまでの真相を明らかにする。

目次

まえがき

第一章 関ヶ原合戦後の政治世界
1 関ヶ原合戦後の地政学的状況
徳川系大名の西国不在
【論点1 西国における徳川譜代大名の不在の意味】
2 豊臣家と秀頼の政治的位置
A 大坂城中における和睦の盃事
B 領知朱印状の不在
C 伊達政宗の秘密提案の書状
【論点2 秀頼と豊臣家は関ヶ原合戦のあと一大名に転落したか?】
大坂衆の知行地─西国各地に散在─

第二章 徳川家康の将軍任官
1 征夷大将軍任官の宣下を受ける
【論点3 「江戸幕府」の成立という表現について】
徳川家、自前の江戸城/江戸城下町の風景
2 豊臣家と秀頼の地位
【論点4 征夷大将軍は唯一の天下人か?】
軍事関白制

第三章 関ヶ原合戦後における豊臣家と大坂の栄華
1 慶長九年、豊国社臨時大祭礼
2 黄金都市大坂の繁栄─エッゲンベルク城大坂図屏風─
大坂町中屋敷替え
【論点5 豊臣家と大坂の街は落日の風景であったか?】

第四章 徳川秀忠の将軍就任
1 徳川秀忠の将軍継承
【論点6 秀忠の将軍継承は、秀頼の天下人への芽を摘むものであったか?】
2 秀頼の右大臣昇進
【論点7 豊臣秀頼は関白に就任する可能性はあったか?】

第五章 慶長一一年、江戸城築造と豊臣家
1 江戸城の天下普請
2 秀頼家臣二名、江戸城普請に参画

第六章 慶長年間の二重公儀体制
1 東西二重国制の歴史的根拠
2 二重公儀体制の根拠
【論点8 豊臣公儀と徳川公儀、その公儀性の得失】
3 徳川公儀の「至高性」の欠如
4 外国人の観察

第七章 宥和から敵対へ、開戦危機
1 西国への初の譜代大名配置
【論点9 家康は何故に慶長一三年を境に、豊臣家に対して敵対的施策をとるようになったのか?】
2 秀頼重病と諸大名の見舞い

第八章 二条城会見と三ヶ条誓詞
1 二条城会見
【論点10 二条城における秀頼に対する接遇および座配】
2 三ヶ条誓詞
【論点11 二条城会見後の国制をどのように位置づけるか?】

第九章 大坂冬の陣
徳川家にとって悪夢のシナリオ
1 方広寺梵鐘銘文問題
【論点12 大坂冬の陣の開戦経緯】
鐘銘問題をめぐる交渉/片桐且元の立場/分断策は無かったとする説/開戦命令
2 大坂城包囲
豊臣方の開戦準備
【論点13 大坂方に味方する大名がなぜ皆無の状態であったのか?】
牢人たちの大坂城入り/家康による軍事動員/徳川勢の進軍路
3 籠城戦から講和へ
鴫野・今福の戦い/木津川口砦の戦い/博労淵砦の戦い/真田丸をめぐる攻防/谷町口の戦い/本町橋の夜討ち/大砲攻撃/大坂冬の陣の大砲/女性による和議交渉
【論点14 城堀破却条件をめぐる通念の誤り】

第一〇章 大坂夏の陣
1 再戦へ
【論点15 大坂夏の陣の開戦理由】
家康、徳川方の方策/豊臣方の対応/豊臣軍の供揃え
2 前哨戦
大和郡山城攻め/樫井の戦い─堺・岸和田方面の戦い─/家康出陣/道明寺の戦い/誉田の戦い/道明寺の退き口─豊臣軍の撤退─/若江・八尾の戦い
3 最終決戦
天王寺・岡山の戦い/豊臣方の布陣/徳川方の布陣
【論点16 最終決戦の開戦時刻、戦闘時刻の推移】
開戦─天王寺口─/伊達の味方討ち/家康本陣の危機/茶臼山の戦い/真田、家康本陣突入説について/毛利勝永隊の撤退/岡山口の戦い/大坂落城/戦後処置/家康の終焉

むすびに─大坂の陣の歴史的意義─

後注・参考文献

書誌情報

読み仮名 ロンソウオオサカノジン
シリーズ名 新潮選書
装幀 駒井哲郎/シンボルマーク、新潮社装幀室/装幀
発行形態 書籍、電子書籍
判型 四六判変型
頁数 240ページ
ISBN 978-4-10-603937-9
C-CODE 0321
ジャンル 歴史読み物、歴史・地理・旅行記、日本史
定価 1,815円
電子書籍 価格 1,815円
電子書籍 配信開始日 2025/10/22

書評

抗戦派・豊臣秀頼の面目

山内昌之

 大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼした徳川家康は、慶長20年(1615)5月8日、京都・二条城に凱旋した。まもなく仏教諸宗の僧侶を集めて、しきりに論義(論議=法門問答)を行い、自らも熱心に聴聞した。天台論義が開かれ、真言論義、浄土法問、曹洞宗法問も催されている。真言論義の題には、「肉身をさして即身成仏か、肉身を捨てず成仏か」「清浄の行者は涅槃に入らず、破戒の比丘は地獄に堕ちず」などが散見される。大坂の両陣を終えた家康は、いまや死への旅立ちを強く意識していた。明らかに、豊臣滅亡後、彼の関心は現実政治から死後の世界に変わったのである。私も、数年前に出した『将軍の世紀』上巻(文藝春秋)のなかで、大坂の両陣を扱ったことがある。その時、家康が孫婿の豊臣秀頼を母淀殿とともに死に追い込み、秀吉による託孤の遺命に背いた因果の重さを、諸宗論義によって深省しようとしたのではないか、と解釈したものだ。
 笠谷和比古氏の新著『論争 大坂の陣』でいちばん興味を魅かれたのは、5月7日の最終決戦当日、陣立てが完了した朝方から、いざ総攻撃に移る午後1時頃まで異様に長い時間が経過した事実である。家康は、戦闘命令を発するまで6時間も部隊がじりじりするほど待機させた。軍法として異例のことだ。そもそも家康の出陣は、豊臣の無力化が目的であり、家を滅すまで決意していなかった。家康は命令を下すのを逡巡したのである。そして笠谷氏は、次のように明言する。「想像を絶する大激戦となってしまった結果、秀頼と淀殿の命まで奪わざるを得なかった展開に深い悔悟の念をいだいていたことであろう。秀頼の行く末を哀願した秀吉に対する罪責の念も、ひとかたならぬものがあったに違いあるまい」。
 もっとも、豊臣滅亡には家康だけが責任を負うべきでなく、秀頼の不退転の決意も与かって大きかった。笠谷氏の新著は、母淀殿の孝子のイメージが強い秀頼が母の和平指向を一蹴するほどの徹底抗戦派だった点を強調している。一般的な理解では、秀頼が淀殿の強烈な反徳川意識に引きずられて開戦に走った印象が強い。しかし、織田有楽斎(信長の弟)の証言によれば、淀殿と家老の大野治長は豊臣家の存続をはかるために決戦の回避を望み、淀殿が人質として江戸に移るので戦を思い止まるように、秀頼に「哀願」した。にもかかわらず、秀頼はいちばん強硬な態度を崩さなかったのである。秀頼は、「命を惜しんでの屈服恭順のごとき戯言は、わが髑髏に向かって言え」とまで語気を強めた。豊臣秀頼は、決して文弱の徒ではなかったのである。この秀頼像は、新著の機軸ともいうべき重要な見方だろう。
 そもそも家康は、関ヶ原合戦に勝利を収め、まもなく征夷大将軍になっても、笠谷氏が東西二重国制や二重公儀体制と呼ぶように、西国には徳川の親藩譜代大名をあえて置かず、豊臣系領国大名を配置する政治体制を維持した。西国における豊臣家の権威を尊重したのである。豊臣への遠慮を象徴するのは、関ヶ原合戦前の石高の2倍、3倍の大封を得た黒田・池田・福島・両加藤・浅野・山内らの国主大名に家康が領知宛行状を出さなかったことだ。“出せなかった”というべきかもしれない。笠谷氏は、関ヶ原合戦時に九州で西軍大名の領地を切り取った黒田如水が藤堂高虎に、切り取り分の拝領を内府様(家康)から秀頼様に取り成すように頼んだ書状を紹介している。秀頼は単純な一大名ではなかったのだ。しかも、秀頼家臣団の知行地は大坂周辺だけでなく西国各地に広く点在していた。氏は、豊臣色の強い西国の中でも、とくに畿内から備中(岡山県)にかけては、豊臣領国の観を呈したといっても「過言」ではない、と形容している。
 大坂の陣の開戦理由となったのは、方広寺の鐘銘に「国家安康」「君臣豊楽」の八文字が含まれ、家康の諱を切断し、豊臣の繁栄を祈る呪詛に充ちているという猜疑であった。これは徳川の言いがかりとばかりはいえない。笠谷氏によれば、鐘銘文の撰述者・清韓による「家康」の字の切断は意図的な行為であり、人の諱をそのまま使うのは当時の礼法上まことに非礼なのであった。氏は、「豊臣」の豊を織り込んでいるが苗字を使うのは非礼ではないという。秀吉や秀頼という諱には「秀」や「吉」のように祝賀の文章にふさわしい字が入っているのにこちらは使わない。清韓や豊臣方に悪意があったのか、単なる不注意だったのか今では分からないにせよ、不見識のそしりはまぬがれない。
 いまや神話化した真田信繁隊による家康本陣の急襲と旗本らの潰走は、実は天王寺口の毛利勝永隊との混同である。三里ほども家康本隊が退却した戦は、島津家久という信頼できる情報伝達者が本国に伝えたものだけに、広く信じられてきた。「真田日本一のつわもの」なる島津の有名な証言は、一次史料ながら伝聞によっている。それは直接体験ではないと史料学の厳しい教えも忘れない。大坂の陣と豊臣滅亡の悲劇の多面性を改めて論争風に示してくれた労作として、本書は多くの読者に迎えられるだろう。

(やまうち・まさゆき 東京大学名誉教授・武蔵野大学客員教授)

波 2025年11月号より

著者プロフィール

笠谷和比古

カサヤ・カズヒコ

1949年神戸生まれ。京都大学文学部卒業。同大学院博士課程修了。博士(文学)。国際日本文化研究センター名誉教授。専門は歴史学、武家社会論。著書に『主君「押込」の構造』、『関ヶ原合戦』、『徳川吉宗』、『江戸御留守居役』、『武士道と日本型能力主義』、『関ヶ原合戦と大坂の陣』、『武士道 侍社会の文化と倫理』、『豊臣大坂城』(黒田慶一氏との共著)、『徳川家康』、『論争 関ヶ原合戦』、『近世の朝廷と武家政権』など多数。

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