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親ガチャの哲学

戸谷洋志/著

880円(税込)

発売日:2023/12/18

  • 新書
  • 電子書籍あり

「当たり」「ハズレ」 この人生は誰のせい? 『ONE PIECE』からアーレントまで気鋭の哲学者が示す、格差と分断を乗り越える思考。

もっと裕福な家庭に、魅力的な容姿に生まれたかった、いっそのこと生まれてこないほうがよかった……近年、若者の間で瞬く間に広がった「親ガチャ」という言葉。人は生まれてくる時代も場所も、家庭環境も選ぶことはできない。そうした出生の偶然性に始まる人生を、私たちはどう引き受けるのか。運命論と自己責任論とが交錯するなか、人気漫画からハイデガーやアーレントまで、社会と哲学の両面から読み解く。

目次
序章 運vs努力――人生を決めるのはどちらなのか
第1章 「親ガチャ」とは何か
誰も生まれる環境を選べない/若者を蝕む絶望感/松本人志「人生は全部ガチャ」/若者の宿命論/すべての人生を「当たり」に?/どんなガチャを引いても豊かに生きられる社会/社会に連帯を作り出すには
第2章 「無敵の人」の自暴自棄
秋葉原通り魔事件/「無敵の人」の二つの側面/自暴自棄型犯罪の増加/自分の人生を引き受けられない/無力感が責任を失わせる/「自分はどうでもいい人間」という嘆き/親ガチャと自己効力感/保障か、包摂か
第3章 反出生主義の衝撃
「生まれてこないほうがよかった」――『ONE PIECE』の場合/「生まれてこないほうがよかった」――『進撃の巨人』の場合/ベネターの「反出生主義」/食後のケーキを食べられなかったから/生まれなければ快楽も苦痛もない/反出生主義を論破できるか?/なぜ人々は反出生主義を求めるのか
第4章 ゲノム編集で幸せになれるか
ゲノム編集の衝撃/デザイナー・ベイビーと生命倫理/ミュウツーの苦悩/ナチスと優生思想/ゲノム編集が孕む危険性/「リベラルな優生学」の問題/責任と人生の物語/遺伝子操作では解決できない
第5章 自分の人生を引き受ける――決定論と責任
決定論とは何か/人間の行為も決定されている?/飛ぶ石の比喩/責任はどこへ行くのか/自由意志を前提としない責任/生き残った者の罪悪感/人間は自分以外ではありえない/「良心の呼び声」/自分自身を引き受ける
第6章 親ガチャを越えて
苦境のなかで責任の主体にはなれない/他者の声に耳を傾ける/「保育園落ちた日本死ね!!!」が意味すること/〈われわれ〉の空洞化/新しい中間共同体/ロールズの思考実験「無知のヴェール」/もっとも弱い人の立場から社会を考える/社会 as a Service/ナショナリズムの限界/〈われわれ〉を拡げていく/偶然性と連帯
終章 自己肯定感――私が私であるという感覚
あとがき

書誌情報

読み仮名 オヤガチャノテツガク
シリーズ名 新潮新書
装幀 新潮社装幀室/デザイン
発行形態 新書、電子書籍
判型 新潮新書
頁数 224ページ
ISBN 978-4-10-611023-8
C-CODE 0210
整理番号 1023
ジャンル 哲学・思想、思想・社会
定価 880円
電子書籍 価格 880円
電子書籍 配信開始日 2023/12/18

インタビュー/対談/エッセイ

「親ガチャ」を超えるために

戸谷洋志東畑開人

“生まれるのは偶然、生きるのは苦痛”と言うけれど――。自己責任論でもなく、責任概念の放棄でもなく、〈親ガチャ的厭世観〉から抜け出せるヒントとは。

東畑 戸谷さんの『親ガチャの哲学』(新潮新書)、大変面白く読みました。親ガチャという問題を扱おうと考えたきっかけは何だったんですか?

戸谷 「親ガチャ」の問題は、実は僕の中では結構前から気になっていたんです。2017年に南アフリカの哲学者デイヴィッド・ベネターの『生まれてこないほうが良かった』という反出生主義の本が翻訳されたとき、かなりのブームになったことに違和感を覚えたのが始まりでした。

東畑 本の中では、『ONE PIECE』や『進撃の巨人』から反出生主義を説明していましたが、要するに「生きることは明らかに快楽よりも苦痛の方が大きいので、人間は生まれてこない方が正しい」という考え方ですよね。

戸谷 はい。研究者の中では前から知られていて、学術的にはそこまで影響力のある思想ではなかったのですが、一般の人がシンポジウムに押しかけてくるぐらい、世間での反響が凄かったんです。そのギャップの激しさに僕自身打ちのめされてしまって……。

東畑 というと?

戸谷 反出生主義的な思想、つまり「人間は生まれてこない方がいいんだ」という思想を学術的に言ってくれることを、世間が求めている。僕には、それが救いのないニヒリズム(虚無主義)に見える。これは一体、何がもたらしているのだろうかと。

東畑 なるほど。ニヒリズムという言葉自体は結構手垢がついていて、今まで真面目に考えたことがなかったのですが、聞いていて切実な問題だなと思いました。よく考えてみると、心の問題を抱えるとは、ある種のニヒリズムに覆われるということでもありますね。希望が消えて、絶望に包まれる。

戸谷 一方で、「反出生主義」や「親ガチャ」に漂うニヒリズムを、単に個人の問題として終わらせてはいけないとも感じたんです。

東畑 親ガチャについて戸谷さんは「社会の責任」と「自分自身の責任」、両方の視点から扱っていましたよね。これは心の臨床でいう、社会モデルと個人モデルですね。車いすの人が階段教室に入れない。このとき、その人の足に問題があるわけではなく、教室にスロープがないことが問題である。そのように環境側に問題を見出し、改善をしていくのが社会モデルです。僕もカウンセリングに来る人たちと話していて、最初はそうやって外側の問題を考えます。暴力を止めたり、足りないものを供給するという発想です。ただ、時々社会の側ではなく、やっぱり自分内部の問題として引き受けなければいけない悩みもあるなと感じることがあります。そういうときに、個人の中に問題を見出す個人モデルが発動されます。

戸谷 近代哲学の枠組みの中では、人間というのは自由な意志を持っていて、自分の人生をその意志を持って選択ができる。だから、それによって引き起こされた結果については自分で責任を負わなければいけない、とされてきました。

東畑 いわゆる自己責任論的な考え方ですね。

戸谷 はい。ところが20世紀になってナチスドイツが台頭し、組織の命令に抗いがたく、集団に同調してしまう側面が人間にあると明らかになる中で、必ずしも我々は自分の意志で自分の行為をしているわけではないことが分かってきます。「責任の問題」は、実は未だに決着のつかないテーマなんです。

「自分の人生を引き受ける」とは?

東畑 「責任の問題」についてはハイデガーを引用していましたね。

戸谷 彼は『存在と時間』の中で、「無の問題」というのを提唱します。これは、私が行った行為は、確かに環境によって決定されているかもしれない。だけれど、その環境に生まれてきたのが私であったことには何も根拠がない、という主張です。少し難しいのですが、「行為の責任」はあるけれど、「存在の責任」はない、というわけです。

東畑 「存在の責任」って、どのようなものですか?

戸谷 自分の人生を、自分のものとして理解するとか、引き受ける、といったことを意味します。例えば、第二章では、自分の人生を引き受けられない、責任を取れない人の例として「無敵の人」を取り上げました。

東畑 「無敵の人」というのは、社会的に失うものがなく、他人を巻き込み犯罪を起こしてしまう人、とされていますね。本の中では、秋葉原通り魔事件の加藤死刑囚が取り上げられます。

戸谷 彼は裁判で「自分がこういう人格になってしまったのは、すべて親の責任だ。自分が何をしても、自分には責任がないんだ」と語っています。自暴自棄になって自分の行動の責任を自分で取れなくなってしまっている。これを反対側から考えると、「責任の主体である」ことは、ある種自分に配慮する気持ちや自尊心に繋がってくるのではないかと僕は思っていて、本書ではその重要性を強調しています。

東畑開人
東畑開人 臨床心理士。専門は、臨床心理学・精神分析・医療人類学。『なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない』『ふつうの相談』など著書多数。

東畑 責任があるからこそ、自分に配慮できるようになるということでしょうか。この箇所を読んでいて思ったのは、「悪いことをしたな」と思うためには、他者が必要であるということです。孤立しているときには、悪いことをしたと思うことは難しい。自分しか自分を肯定する人がいないときに、自分まで自分を否定してしまうことは致命的なことですよね。そういう意味で、壊れない関係性にある他者がいるからこそ、その関係を傷つけてしまった自分について振り返ることができると言えます。

戸谷 つまり、自分が傷つけてしまった相手ときちんとした関係性があるから、相手を傷つけたことをかえって受け入れられる。ひいては自分の行為の責任を自分で取ることができる、ということですか。

東畑 それが難しいんですけどね。

戸谷 それは考えたことがない発想で、すごく面白いです。加藤死刑囚は「もし私の話を聞いてくれる人がいたら、こんなふうにはならなかったかもしれない」ということを書いているんです。誰か関係性を築ける他者との出会いがあったら、彼も違った道をたどれたのかもしれないなとは思います。

東畑 他者を求める気持ちがあったということなんですね。最近読んだアウグスティヌスの話を思い出しました。彼はローマカトリックの司教であり、哲学者なんですが、若い頃に信仰していたマニ教を批判するんですね。すごくざっくり説明すると、マニ教の教えでは、世界には光と闇があって、悪い奴が闇に潜んでいて、悪いことはその存在によって起こっている――そんな考え方を持っている宗教です。だから自分が悪いことをしても、その責任は自分に帰属しないんですね。

戸谷 なるほど。

東畑 アウグスティヌスは同じ文脈で占星術を批判しているんです、つまり星ガチャです。本書で言及されている決定論と似ていませんか?

戸谷 確かに。この世界で起こる自然現象はすべてあらかじめ決定されている、というのが決定論的思想です。本書では、若者たちが親ガチャという決定論的な考え方によって自分の人生に絶望を抱いてしまう……というところから、いかに自己を肯定する方へ抜け出すかを論じました。

東畑 アウグスティヌスは、マニ教を批判して、「神は絶対的な善であって、悪を作らない。だからこの悪は、その人間自身が選んだものだ」と考えます。いわゆる自由意志論ですね。すべては善なのだけど、善の中でも低い善を選ぶのが人間の自由意志であり、そこに悪が顕現するのだと。これは悪の行為を主体性の結果として見ることです。占星術的価値観、つまり星ガチャに反対して、自分の悪なる部分を認め、自分の人生として引き受ける、これが戸谷さんのいう自己肯定感とつながるなと感じたんです。

肯定してくれる他者が必要だ

東畑 アウグスティヌスの書物を読むと友達の話がたくさん出てくるんですよ。彼は愛の人だと思います。人生の中に色々と愛する人がいる。中でも、若い頃にいい友達がいたんだけど、そいつが死んでしまったのを嘆き、それもまたマニ教からキリスト教へと回心するプロセスになっていきます。

戸谷洋志
戸谷洋志 哲学者。関西外国語大学准教授。専門は、哲学・倫理学。著書に『ハンス・ヨナス 未来への責任』『友情を哲学する』などがある。

戸谷 『告白』ですね。

東畑 そうそう。彼の思考で面白いのは、すごくいい友人に恵まれているにもかかわらず、結局友達はまやかしで、最終的には神と一対一で向き合うのが大事だ、みたいな考えに収斂していくところ。僕はこれが本質だなと思います。キリスト教というのは、横のつながり以前に、まずは縦のつながりなんですね。これはかなり厳しい思想です。対して、現代のメンタルヘルスケアは、まずは横のつながりという方向になっているように思います。自分を肯定してくれる友達がいる、その上で、自己と向き合うフェーズがやってくるという順序ですね。

戸谷 東畑さんの心理療法論であり、友人論である『ふつうの相談』(金剛出版)を読んだときにハッとさせられたのが、「そんなの普通だよ」という言葉でした。一方においては、普通はこうだから、みたいな形で排除する力になるけれど、もう一方においては、そんなことで苦しむのは普通だよ、という包括する力になるんだと。

東畑 臨床的に言えば、友達がいないときに自分と向き合うと、どうしても悪いことばかり考えるからよくないと思うんです。親ガチャの問題に戻ると、やっぱり「わかるよ」っていってくれる存在が必要なんです。戸谷さんの言葉を使うなら、「連帯できる他者」になるのでしょうか。

戸谷 僕は哲学カフェという対話型ワークショップをずっとやっているんです。半分遊びみたいなものなんですけど、愛とか正義とか友情とか、そういったテーマについて見ず知らずの人が色々と喋る。専門用語は禁止して、自分の言葉で話してもらうようにしています。そうすると参加者自身が、「自分ってこういう考え方をしているんだ」と気づくんですね。部屋に閉じこもって自分と向かい合っても、多分この認識にはならないんじゃないかな。

東畑 カウンセリングで一番重要なのは、誰かが一緒に考えてくれるっていうことだと思うんです。戸谷さんが本の中で自己責任論への批判をしたのは、要するに自分に責任があるとして、一人では責任を取り切れないことがあるからだと思うんですよね。

責任は誰のものか?

戸谷 そうなんですよ! 哲学の文脈だと責任は個人とか集団とか、あくまで単一の主体に帰属するものなんですけど、実際にはもっと重なりあっているんじゃないか。責任を取ることはそんなに単純ではない。

東畑 つまり責任を取るのがいかに大変かということですね。実際には、責任の分担ってある種の幻想ではあるんです。本当の最後の最後は、つまり司法の場になったら、自分の選択には自分で責任を取らなければいけないことになります。それは事実です。でも責任の分担という幻想があることが重要だと思うんです。それが人を孤独から守ります。切迫した時間を緩めてくれます。そういうつながりの中にあってはじめて、僕らは逆に責任を取れるのだと思うんですね。

戸谷 はい。ただ「親ガチャ」の問題の難しいのは、自分で「生まれてくる」ことを選択できないところにあると思います。「子ガチャ」とか「家電ガチャ」なんて言葉も登場しましたが、それらはあくまで主体的な選択が可能ですよね。

東畑 子供を産むかどうかを親は選べるし、家電を買うかどうかも選択可能ですからね。だけど、この世に生まれるかどうかは選べない、ということですか。

戸谷 そうです。だからこそ自己責任論だけで終わらせてはいけない、と強く思っています。

東畑 責任ということがいかに複雑なものであるかを考えさせられました。

戸谷 本書がこの重要性をもっと多くの人に考えてもらうきっかけになればうれしいです。

(とうはた・かいと 臨床心理士)
(とや・ひろし 哲学者)
波 2024年1月号より

担当編集者のひとこと

「親ガチャ」という言葉が話題になり、2021年の流行語大賞トップテンに入ってから2年、今やこの言葉を知らない人はいないほど浸透しました。著者の戸谷さんは2017年に『生まれてこないほうが良かった』(デイヴィッド・ベネター著)がブームになったことに違和感を抱き、「反出生主義」や「親ガチャ」といった一種のニヒリズムが社会に蔓延している原因はどこにあるのかと考え始めます。
 本書では『ポケットモンスター』や『進撃の巨人』『ONE PIECE』といった話題のコンテンツを基に、「親ガチャ」「反出生主義」「遺伝子操作」など、生まれの偶然性にまつわるテーマを読み解きます。
 菅前総理が「まずは自助を」と言ったように、近年日本では自己責任論が叫ばれていますが、虐待や貧困など自分ではどうすることも出来ない環境にいる子供たちが「もっと良い家庭に……」と考えることは、非常に当たり前のことです。一方で、全てを生まれた環境のせいにしてしまうと、今度は自分の人生に責任を持てないようになり、秋葉原殺傷事件の加藤死刑囚のような“無敵の人”を生んでしまうことになると戸谷さんは言います。
 親ガチャ的思考を乗り越え、「自分の人生を自分のものとして引き受ける」ためにはどうすればよいのか――非常に難しい問いかけですが、本書を読んで少しでも考えるきっかけになれば嬉しいです。(新書編集部HO)

2024/01/29

著者プロフィール

戸谷洋志

トヤ・ヒロシ

1988年、東京都生まれ。関西外国語大学准教授。専門は哲学・倫理学。法政大学文学部哲学科卒業、大阪大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。『ハンス・ヨナス 未来への責任 やがて来たる子どもたちのための倫理学』『未来倫理』『友情を哲学する』など著書多数。

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