オヤジギャグの華

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その21 東京三点倒立

オヤジギャグの華

 とうとう私たちが東京を去る時が来た。
「帰りたくない!」ガールフレンドのコジマがうめく。
 私もだ。
 元々は一か月の滞在予定だった。それがなぜか、一年半以上にのびた。それでもまだ二人とも、ついに決まったスケジュールに従って、東京タワーの下のささやかな賃貸しアパートメントに別れを告げニューヨークへ戻る気になれずにいる。
 避けようのないことを、私たちはさらにもう一週間先送りする。
「東京って、たしかに未来っぽいけど」セブン-イレブンで買った朝のおにぎりを食べながらコジマが評す。「でも、ちゃんと中心がある。それに、妙に古風なところも」
「幽霊もいる」私が口をはさむ。
「ええええ、偽の床屋の幽霊よね!」彼女は鼻を鳴らす。「まあとにかく、すごくチャーミングで心地いい。この近所の、シューマンがかかってて、いまの季節だと偽のヒイラギの枝が入口に掛けてある小さなスーパーみたいに」
「あそこの店の店員の一人、もう七十は行ってるよな。日本ってたしか、平均年齢が世界でもトップクラスなんだよね?」
 私の日本でのエージェントに勤務する我らが友ジュンゾーは、私がその話を持ち出すと首を縦に振る。これで最後と、私たちは有楽町のお気に入りの焼き鳥横丁に来ている。「東京の高齢者はたいてい郊外に住んでいます」とジュンゾーは言う。「孤独と認知症、これが大きな問題です。でも最近では、セラピーロボットが開発されてるんです。たとえば、パロっていう、撫でたり抱きしめたりすると反応する、本物そっくりのふさふさの赤ん坊アザラシとか!」。ジュンゾーはスマホを出して、びっくりするような映像を見せてくれる。
「ねえねえ、帰る前にロボット見られる?」コジマが甘い声を上げる。
 ジュンゾーが笑う。「お友だちの都築響一さんが手配してくれるんじゃないですか。あの方、あらゆるところにコネがあるみたいだから」
 次の晩、ポップカルチャー、キッチュ、アウトサイダーアートの通にして記録者、種々雑多な催しの企画者たる響一が陽気なお釈迦さまみたいにくっくっと笑う。今夜は彼との最後の晩、私たちは赤坂の居酒屋にいる。「うん、孤独に苦しんでる年寄りは大勢いる。パロみたいなロボット、見せてあげられると思うよ。でもまず、いますぐ、高齢者の暮らしのすごく特別なモデルを見せてあげるよ」
 酒とつまみをしっかり楽しんだ末に、響一はタクシーで我々を、渋谷にある薄汚いアパートに連れていく。みすぼらしい、だがくつろげる狭いアパートの中で、幽霊のような姿がちらちら揺れている。半分裸の、針金みたいに痩せたすごい高齢者で、長い白髪にもじゃもじゃの山羊ヒゲ、赤いストッキングキャップ、レインボーサングラス。
 ヤクザ映画の巨匠、鈴木清順の幽霊!
「そう見えるだろ、けど違うんだよ」響一がニヤッと笑う。そしてお辞儀しながら、私の言葉を日本語でチカチカ光る老人に伝えると、老人もニヤッと笑う。「これはね、ダダカンの若いときの幽霊」と響一が私たちに言う。「超ベテランのパフォーマンスアーティストだよ」
若いとき?」コジマが言い返す。「九十くらいに見えるじゃない!」
「本物のダダカン、こと糸井貫二は、仙台の老人ホームで百歳になったところだよ。いまもこのアパートを使ってるんだ。毎日の特別の儀式のために」
 響一が合図すると、偽ダダカンはTシャツを脱ぎ、短パンも脱いで――さらにはパンツも。コジマがきゃっと叫ぶ。ダダカンは椅子の方を向き、かがみ込んで、おそろしく老いた、骨ばった、ちろちろ光る体をゆっくり持ち上げ、三点倒立を始める。垂直になった裸の体の足指が天井を指す。
 コジマが悲鳴を上げる。
 ダダカンはしばらくそのポーズを保ち、やがてゆっくり体を降ろす。その流れのまま、服を着はじめる。
「これ、毎日やるんだよ」響一は言って、ダダカンにお辞儀する。私も何となくワクワクしてお辞儀する。「ほかの高齢者も習慣にするといいんだけどね」響一はさらに言う。「ダダカンが言うには、精神に良く、悟りに近づく助けになる。この人、布教者なんだよね。じゃ、あんたもやってみる?」
 ダダカンもうなずき、親指を突き上げて私に勧める。
「え、僕ですか? いえいえ結構、結構です、そういうの、僕あの、趣味じゃないから!」。コジマがせせら笑うのが聞こえる。
「じゃあまあいつかそのうち」響一が落着き払った声で言う。「あ、ところでさ……」
 ダダカンがもう何十年も「ストリーキング」をやってきたことを私たちは知る。もっとも有名なスキャンダルとなったのが、一九六四年の東京オリンピックの際に銀座を裸で走ったときだという。
「元祖古代ギリシャのオリンピックへのオマージュだよ」みんなでアパートを去りながら響一が言う。「俺、この若いダダカンの幽霊そそのかして、ここで二〇二一年にオリンピックが開かれるときに、裸の集団ランニングやらせようとしてるの」
「いいアイデアだなあ」私は言う。
「どうかなあ、なんか気持ち悪い」帰りの地下鉄でコジマが呟く。
 次の日、響一の神秘的なコネのおかげで私たちは新宿の静かな一画にあるロボット・ラボで、ふわふわの人造ウサちゃんを撫でている。フラッフォなる名で、ブルドッグみたいに大きい。
「カワイイ!」コジマが甲高い声を上げながらせっせと撫でると、フラッフォは鼻と大きな柔らかい耳をぴくぴくさせ、気持ちよさそうに身をくねらせ、嬉しそうなウサギ声を出す。「この子、あたしのこと好きなのよ!」コジマが叫ぶ。「連れて帰りたい!」
 白衣を着た若いラボの男がニヤッと笑う。「フラッフォは本当にお年寄りの気持ちを鎮めてくれるんです」
「どうかなあ、なんか気持ち悪かったよ」フラッフォ抜きで外に出てから私はコジマに呟く。
 その晩、私たちはアパートメントの裏の小さな寒々したバルコニーに出て、これまでずっと頭上高くにそびえていた東京タワーに乾杯する。やがて、私たちはぴたっと止まる。目をぱちくりさせ、まじまじと見る。
 痩せこけた、ちらちら揺れる裸の姿が見えるのだ。タワーの巨大な、光を放つ鉄桁の只中で三点倒立をやっている。
 幽霊ダダカン?
あんたのこと気に入ったんだよ+敬意を表してるんだよ」翌朝響一がショートメールで返事をよこす。
いきなり隣に現われた、太った獰猛そうな、やっぱり三点倒立してた幽霊二人は? さすがに裸じゃなかったけど」私は返信する。「この近くの霊廟にいる徳川将軍じゃないかな!
いいねえ!」響一が (^_^) を添えて返事をよこす。「ダダカン三点倒立、人気出てきたねえ!


その21 東京三点倒立


 コジマが正午近くに近所の小さなスーパーから戻ってきて、年配の店員が休憩時間に店の裏で三点倒立していたと私に告げる。「お行儀よく」と彼女は付け加える。「裸じゃなくて」
 ネット上に、東京のある郊外で高齢者たちが一人住まいの窓辺で三点倒立をやっているというニュースが報じられる。服を着ている度合いはさまざまだが、みんな楽しそうだという。
「流行だよ」私はコジマに言う。「東京、流行の街。ダダカン三点倒立フィーバー!」
 翌日の晩、フードライターのコジマがグルメ仲間と上野で早めの時間のサヨナラ女子会をやっているあいだ、私も私自身のサヨナラをもうひとつ告げるため、肌寒い薄闇のなか近所の浅草をぶらぶら歩く。やがて隅田川に出る。人はほとんどいない。と、ぽつんと一人たたずむ横顔が、じっと東の方を見ているのが目に入る。その姿がちらちら揺れる。旧式のホンブルグ帽をかぶって、黒っぽい外套を着た、馬面に眼鏡をかけた紳士。
 それが誰だか私は悟る。
「こんばんは、荷風さん」私は英語で恭しく挨拶する。「前に豊洲市場の屋上でお会いしました。覚えてらっしゃいます?」
 往年の東京とその歓楽を偲ぶ不機嫌顔の作家、永井荷風は軽いうなり声を漏らすのみ。私たちは二人とも無言でそれぞれの郷愁に浸り、くすんだ川の向こうを一緒に見やる。対岸には、アサヒビール本社ビルの屋上にフィリップ・スタルク作の巨大なオブジェが見える。一種エアロダイナミックな黄金のウンコが、暮れなずむ空で鈍く光っている。突然、もしやという気になって、私は隣の人物の方を盗み見る。
 やっぱり。
「ちょっと失礼」と小声で言って荷風は一歩うしろに下がる。回れ右し、体を曲げ、帽子を地面に置く。それから、ゆっくりと三点倒立の姿勢に上がっていく。外套の裾が地面近くまで垂れる。
「すごく詩的だったよ」一緒にアパートメントに帰りながら私はコジマにもう一度言う。
「まったく、あんたの幽霊たちときたら」コジマがくっくっと笑う。私たちはエレベーターから出る。コジマが凍りつく。
フラッフォ!」
 ロボットウサギが、私たちのドアの外で待っているのだ。
「わかってたのよ、あたしのこと好きなんだって。あたしたちが住んでるところ、見つけたのよ!」コジマは叫び、ロボットをぎゅっと抱き上げ、窃盗者の表情で急いで中に入る。
 彼女はそれを返そうとしない――はじめは。だがこのフラッフォ、ひとつのことしか頭にない。ひたすら、耳の長いふわふわの頭で、三点倒立をやろうとするばかりなのだ。朝になり、コジマは私に、新宿のラボに電話していますぐ三点倒立狂の逃亡ウサギを引き取りに来させろと命じる。「このウサギ、ストーカーだって言ってちょうだい!」
 私たちはまた、私の長年の翻訳者とも、最後にもう一度六本木で、酒に潤された夕食を共にする。四つ角で別れを告げながら、私は冗談に、まさか君まで三点倒立フィーバーに染まりやしないよね、と翻訳者に言う。彼は妙に歪んだ笑みを返す。彼が地下鉄の入口に向かうのを私たちは見送る。彼はこっちを向く。私たちは手を振る。すると彼は横を向き、体を曲げ、そろそろと三点倒立に入っていく。それからさっと立ち上がり、おずおずと慎ましく両手を広げ、地下鉄に消えていく。
 とうとう、出発の日の朝が来る。どうにか荷造りも終わった。Uberのタクシーが来る。私が特別注文した「サプライズ」車だ。ピンク色、一九六〇年型のダットサン・セダンの幽霊。運転手は、平岡瑤子――もしゃもしゃの金髪のウィグハットをかぶった、三島由紀夫の若き妻である。どうやってだか、私たちはダットサンのコンパクトな車内に荷物を詰め込む。
落着けよ」空港に向けて出発しながら私はコジマに言う。「サプライズ」車が現われたときからずっと、コジマは露骨に懐疑的な態度なのだ。「言っただろ、この人すごい運転上手なんだよ、たっぷり値引きしてくれたし、英語も達者なんだ」
 高速道路の渋滞のなかに私たちは入っていく。「残念ねえ、これだけ長くいたのに、富士山一度も見なかったなんて」コジマがため息をつく。
 途中で一目見えたりしないかな、と私は瑤子に訊いてみる。
「富士山が見たいの? オーケー――つかまって!」
 この一言とともにダットサンが轟音を上げて一気に飛び出し、小さなエンジンがすさまじい音を立てるなか車はものすごい速さでぐんぐんほかの車を抜いていき――そして突然宙に浮かぶ。コジマと私は悲鳴を上げてたがいにしがみつき、ダットサンは空に舞い上がる。
「ほらあっち!」車体が傾くとともに瑤子が叫ぶ。富士山の堂々たる白い円錐が彼方に立ち上がり、光を発している。
 そしていま、ダットサンが方向転換するなか、眼下に目を戻せば、我らが東京タワーのオレンジと白が突き上がっているのが見え、もう一方の窓越しに、エンパイアステートビルを真似たドコモタワーが見える。それから、新しいオリンピックスタジアム――その周りで、小さな裸の姿が列を成してひたひた走り、小さな警官たちがのろのろと追っていく。
 ダダカンの若いときの幽霊が仲間を率いて、オリンピック・ストリーキングの予行演習をしているのだ!
 この時点でダットサンがぐいと回ってバレルロールをやり出し――三点倒立空中版だ――コジマと私はまた新たに悲鳴を上げる。私たちも荷物も、どさっとひっくり返る。
 それから水平に戻って、ピンク色のちらちら揺れるセダンが青空を流れるように進み、下には東京とその川と車の流れが広がっている。
 成田で、最後の驚きが待っている。出国ゲートのそばの静かな一画に私たちが座っていると、ちらちら揺れる二人の姿が近づいてくる。
 私たちはあんぐり口を開ける。
 彼らはニヤッと笑う。
「そうだよ、あんたたちの若いときの幽霊だよ」過去のバリーが意気揚々請けあう。
「ほんの二日前の」かつてのコジマが陽気に言う。「さよならを言いに来たのよ。あたしたち、ここに残るのよ!」
 私は答えない。コジマも答えない。我々は呆然と見る。信じられない、自分たちの幽霊二人がこんなにみすぼらしいなんて。酒で体もやつれて。フォールスタッフの末路もかくや。この「私」が身につけている、古びたバケットハットとしみだらけのジャケットの何とむさ苦しいこと!
 東京――酒に関しては私たちが世界で一番好きな街。その街のせいでこうなったのか?
「あんた、ちょっとびびってるのかな?」過去のバリーがくっくっと笑う。「Pourquoi, mon vieux?(なぜだい、君ぃ)」。垢抜けた茶目っ気のつもりだろうが、もう底なしに野暮ったい。
「心配しなさんな、純米酒味わってるときあんたたちのこと考えるから!」偽コジマがからかい、がははと騒々しく笑う。
「まあとにかく、お見送りにひとつ披露しようと思ってさ!」偽バリーが叫ぶ。ウインクする。そして回れ右し、体を前に曲げ、よろよろ危なっかしい三点倒立をやり出し、帽子が下でぺしゃんこにつぶれ……突然どさっと派手に倒れ込む。
「ケッ、朝酒やりすぎたか」何やらもごもご言っている。「朝寿司、食べに行ったんだ。ま、とにかく、それじゃ」
 その一言と同時に、フライトの搭乗開始が告げられ、私たちは東京から出ていく。
「あんたの幽霊たちときたら!」席に身を落着けながらコジマがぶつぶつ言う。「まったく!」。首を横に振り、目をぎゅっと閉じるコジマの嫌悪はますます募るばかり。
 それから彼女は、思わずゲラゲラ笑い出す。
 ニューヨークに着くと、偽バリーからメールが届く。「あんたの東京物語の最終回、出発の場面は書かないでくれると有難いんだけど」とメールにはある。「やっぱりまあ、こっちも見栄とかあるからさ。ご理解いただければ!」
 この要求に私がどう応えたかは、ご覧のとおり。

(完)

FLOWERS OF OYAJI GYAGU by Barry Yourgrau
Copyright(C)2020 by Barry Yourgrau
波 2021年1月号より

著者紹介

バリー・ユアグローBarry Yourgrau

南アフリカ生まれ。10歳のときアメリカへ移住。シュールな設定ながら、思いつきのおかしさだけで終わるのではなく、妙にリアルで、時に切なく、笑えて、深みのある超短篇で人気を博す。敬愛する作家・アーティストはロアルド・ダール、北野武ほか、また「ヒッチコック劇場」「トワイライトゾーン」などのTV番組にも大きな影響を受けたという。著書に『一人の男が飛行機から飛び降りる』『セックスの哀しみ』『憑かれた旅人』『ケータイ・ストーリーズ』(以上、柴田元幸訳)『ぼくの不思議なダドリーおじさん』(坂野由紀子訳)などがある。

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