波 2019年12月号

波創刊600号記念座談会

 文士の子ども被害者の会 Season3 前篇

 

 阿川弘之長女 阿川佐和子 × 新田次郎次男 藤原正彦 × 檀一雄長女 檀ふみ

〈Season1 前篇後篇 / Season2 前篇後篇 / Season3 前篇・後篇〉

Image

アガワが同類〈文士の子どもたち〉の哀歓を聞く大好評シリーズ。しかし今回はややオモムキが異なって……。

阿川 ひそかに「文士の子ども被害者の会」というものが結成されておりまして、かつていた文士という種族の子どもたちがいかにヒドイ目に遭って育ったか、「うちはもっとヒドイ」とか言い合って互いに慰め合おう、あるいは貴重な記録として残しておこうという趣旨の会でございます。
 今日は新田次郎さんのご子息の藤原正彦さん、大変著名な数学者であり、またベストセラーになった本も何冊も出しておられます。もうお一方、檀ふみさんは女優であり、檀一雄さんのご長女ですね。やはり本も書かれます。この三人の顔合わせで喋るのは初めてですね。

 私、新田次郎さんにインタビューの仕事でお目にかかったことありますが、素敵な紳士でいらっしゃいました。

阿川 みんな、外では紳士なのよ。

藤原 私は阿川弘之さんには何度かお会いしました。瞬間湯沸かし器なんて仇名があるけど、実に英国紳士的な紳士で。

阿川 「外ヅラ仮面」とうちでは呼んでおりました(会場笑)。父が新田次郎さんとどれほどお付合いがあったか存じ上げませんが、藤原正彦さんのことは、書かれるご本も含めて大好きでした。

藤原 阿川さんとか檀さん、遠藤周作さん、吉行淳之介さんあたりは、みんな大正生まれでしょ?

 檀一雄は、実は明治四十五年生まれでございます。

藤原 では、そこは勘違いしていたことになるんだけど、父はよく「大正生まれはダメだ」と見下していました。もちろんユーモアでね。

阿川 するとお父様は明治?

藤原 檀一雄さんと同じ明治四十五年です。でも、明治生まれを威張るわりには、生まれたのが六月六日。明治天皇が亡くなったのは一カ月余り後の七月三十日だから、ほとんど明治生まれとは言えないんです。

 でも、明治生まれと大正生まれはまったく違うんでしょうね。

藤原 父はそう言うんですがね。大正をバカにしていました。

阿川 どういう理由でバカにしてらしたんですか?

藤原 要するに、今あるもの――僕と父が話していた当時だから昭和後半のことですよ――、つまり男女の同棲とか性の乱れとか、日本のよき伝統を忘れ、欧米文化にかぶれ、根性なしになったのは大正デモクラシーの時代からだと。

阿川 明治の人間は厳格でしっかりしていたぞ、と。

藤原 そうです。「だから大正の人間は軟弱で頼りない」と。もっとも、私の尊敬する昭和元年生まれの心理学者は、いつも大正生まれの人に「昭和っ子だからなあってバカにされていた」、と言っていました。私は昭和十八年生まれですから、戦後生まれをことごとくバカにしております(会場笑)。で、うちの息子は昭和の末に生まれたから、平成生まれをとことんバカにしてます。

阿川 古代より、若者はダメと言われ続ける運命にあるのです。

藤原 でも、若い人をバカにすることは重要ですよね。むしろ、若い人に迎合する年寄りが一番恥ずかしいです。わが家は阿川家と同じで武士道の家系で……。

阿川 うち、違いますよ。祖父はもともと山口県の農家の生まれですし、祖母も大阪の商家の娘です。

藤原 うちは武士道と言いながら、家の中は母が完全に仕切っていて、父は母に頭が上がりませんでした。
 というのは、満洲からの引き揚げの時――1945年8月9日に、いきなりソ連が日ソ不可侵条約を破って満洲へ攻めてきましたね。その翌十日の深夜に、私たちは今の長春の駅に集まれと言われて、そこから日本へ向けての逃避行が始まるわけです。父母と子どもが三人、兄は五歳、私が二歳になったばかり、妹は生まれて一カ月。ところが、父は駅まで私達を送って来て、突然「俺は一緒に日本へ帰れない」と言い出して、一人で勤め先の気象台――満洲では観象台と言ってました――へ戻っちゃったんです。

阿川 部下たちを守る責任がおありになったから……。

藤原 父は満洲気象台の高層気象課長で、部下が何人もいたんですよ。

 そこは武士道ですよね。

藤原 しかも、気象って軍事機密なんです。記録や機器は全て焼いたり壊したりしないといけない。父だって家族と逃げたいのは山々だけれど、やるべき仕事があって、部下がみんな残っている時に、自分だけ家族と日本へ逃げ帰ったら最後、そんな卑劣な男は一生日陰で暮らさなければいけない。そんな思いで残ったんですね。
 母は父に泣いて懇願したんです。幼い子どもを三人抱えて、大混乱の中を無事に引き揚げる自信がない、と。でも、父は気象台へ帰ってしまった。それから一年以上かけて、われわれは死ぬ思いをしながら帰国した。その後にソ連の収容所に入れられていた父も日本へ戻ってこられましたが、母にはずっと頭が上がらなかったんです。

阿川 その詳細は、みなさんご存じと思いますけれども、お母さまの藤原ていさんが『流れる星は生きている』という名著に記しておられます。私は高校時代に読んで泣いたね。正彦さんたち子どもは一つ間違えたら中国残留孤児か、体力が弱って死ぬか、殺されたかしたという中で、みんなを無事に連れ帰ったという母親の逞しさたるや!

藤原 似たケースの子どもたちの大半は死にました。だから高校生の頃、母と喧嘩したら、「おまえなんて北朝鮮の山の中に置いてくればよかった」(会場笑)。

阿川 お父さまもお母さまに似たようなことを言われたんでしょ? 正彦さんのエッセイによると、お父さまがお母さまの機嫌を損ねると、「誰のおかげで、子どもが三人共無事だったと思ってるの?」って。

藤原 その繰り返しでしたね。

阿川 そう言われると、お父さまは何も言えなくなって、どこが武士道精神なのかわかんないですけど、黙って二階の書斎へ逃げちゃう(会場笑)。

藤原 やはり母にすれば、妻と子ども三人を見捨てたと思っていたのでしょう。自分の死は覚悟して、どうにか子どもたちだけは助けてやりたいという一心でしたでしょうね。実際、多くの日本人が生きて帰れなかったわけですから。

阿川 お母さまは、それをずっと恨みに思っていらして……。

藤原 恨みに思っていたかどうかは知りませんが、夫婦喧嘩の時には必ず最後にそれを持ち出す。水戸黄門の印籠です。父はうなだれて二階に逃げていく(会場笑)。

阿川 どんな感じで仰るんですか?

藤原 迫力ある声で、「あなたは家族を見捨てたじゃないか!」。

阿川・檀 おおっ。

 でも、お母さまに言わせるままにしていらしたお父さまも立派ですよ。

阿川 息子としては、どちらの気持ちもわかる?

藤原 父はやっぱり武士道精神ですからね。私が父の立場でも、部下が残っているのに、自分だけその人たち――彼らの家族も含めて――を置いて、妻子と日本へ逃げ帰ることはできなかったと思う。ただ私にとっては、父が満洲に残ってくれてよかったんです。母の代わりに父が子ども三人を連れて引き揚げの逃避行をしたら、百パーセント全滅したでしょうね。

 それはなぜ?

藤原 父は武士道精神ですから、例えば朝鮮人の畑から芋を盗んでくるとか、絶対にできない。卑怯なことをするくらいなら死んだ方がましという人ですから。母の方は縄文時代からの百姓ですから、自分の子どもを生かすためなら何でもやる。

 女は、そういうところ逞しいですよ。特に子どもを持ったらね。

藤原 まさにその通りで、世界中の子どもが死んでも、自分の子どもだけは生かすという迫力で連れ帰ってきてくれた。

阿川 夫婦喧嘩の時以外のお父さまはどんな方でしたか? 父と息子の関係はいかがでした?

藤原 父はあまりガミガミ細かいこと言わない。ただ、武士道に反すること、例えば弱い者いじめをするなどというのは以ての外で、万死に値することと言っていました。もっと言うと、父は弱い者がいじめられているのを私が見て見ぬふりをすることも許さなかった。「この卑怯者!」と。どんな手を用いてでも、絶対に助けろと。

阿川 喧嘩をしてもいいわけですね?

藤原 ええ。私は子どもの頃喧嘩が強くて、弱い者がいじめられていたら直ちに吹っ飛んでって、いじめてるやつらを殴る蹴る、ひどい暴行を加えて、家へ帰ると報告するんです。そのたびに、父から褒められました。特に貧しい子を救った時は「よくやった」と絶賛されました。ほかのことで褒められた記憶がほとんどないから、よく覚えています。

阿川 藤原さんのエッセイによると、イギリスにいらした時、ご子息がいじめられたと聞いて、「復讐してこい」と言ったという。

藤原 あの時、女房は「すぐ先生に言いなさい」と息子に言ったんですね。私は「それは告げ口だ」と許さなかった。当時の私自身が、数学という戦場でケンブリッジの天才たちと命がけで戦っていた。そんな時に息子が学校で泣かされて帰ってきた。もちろん許せません。そこで「イギリス野郎を叩きのめせ」と言って、殴り方を伝授しました。

阿川 殴り方?

藤原 藤原家伝来の「水車戦法」というのがあるんです。

 何ですか、それは。

藤原 (実演しながら)こうやってひたすら高速で両腕をぐるぐる回しながら敵に向って突進していく(会場笑)。

 ただポカポカ、ポカポカ?

藤原 そうです。小学校低学年だと、それでみんな逃げちゃいます。しかも、ただ両腕を振り回すだけじゃなくて、「ワーッ」と叫んだりしながら、ものすごい形相で突き進んでいく。

阿川 それ、藤原家伝来なんですか?(会場笑)

藤原 父から私が教わったんですね。私が神田の小川小学校へ入学すると、同級生たちはみんな地元の幼稚園から上がってきたんです。わが家だけ幼稚園へ行くお金がなかったから、小学校から入った。するともう親分子分が全部決まっていたんですね。私は絶対そういうのに入らないから、みんなに遊んでもらえなくて、休み時間には教壇の机の下に隠れて過ごす毎日でした。気象台の官舎では私はガキ大将なのに、小学校ではそんな屈辱的な立場になった。それで二学期になってすぐ、トップの親分へ殴りかかったんです。その時に父が教えてくれたのが藤原家伝来の水車戦法。

 お父さまに相談されたんですね?

藤原 ええ。小学校では、何より多勢に無勢だった。他クラスの連中に取り囲まれこづかれたりもした。父に相談すると、「大勢に囲まれた時に、みんなを相手にしたら絶対に負ける。一番強いやつだけをめがけて、水車戦法で突進しろ」とアドバイスされた。それで一番腕っ節の強い魚屋の息子、これがワダってやつなんです。

阿川 まだご健在?

藤原 全然知らない(会場笑)。そのワダが腰を低くして喧嘩の格好でやってきたから、私は水車戦法で、ものすごい形相で迫って行ったら、ワダはすぐ降参しました。土下座して「すみませんでした!」。まだ殴る前ですよ。

 ワダ君は殴られる前に、形相に負けたんだ。

藤原 それで私が親分になったんですね。あの頃、軍人将棋というのが流行っていまして、一番上の駒が「大将」。それに倣って、みんなの位をつけていきました。生意気なやつは、もう人間じゃなくて「地雷」とか「タンク」とか。

 それ、いじめじゃないですか。

阿川 まあ、少くとも武士道精神じゃないわね。

藤原 そう?(会場笑)

今日は自慢話を聞く会である


 お父さまに叱られたことはおありですか?

藤原 父に叱られたのは、小学校低学年の時、どこかの置物屋さんの店前に、小さな置物を大量に道端に捨てたみたいに重ねてあったんです。それを私は捨てられたものと思い、一つ持って帰ってきた。そしたら夕飯の時に、「それどうしたんだ? 百パーセント捨てたものかどうかわからないじゃないか。すぐ戻してこい!」って激怒されたことがあります。これ、父が同じことをやっていたんですよ。上諏訪ってあるでしょう?

阿川 はい、長野県の。

藤原 駅からさらに四キロも山へ入ったところに父の実家があります。父が八歳くらいの時、夕方の上諏訪で火事があって、山道を往復八キロ駆けて見に行った。見た証拠にと、父は焼けた木を持って帰ってきたんですね。そしたら父の祖父、私の曾祖父が江戸末期の生まれで武士なんです。父に武士道の教育をした人ですが、「絶対に焼け跡から物を持ってきちゃいかん。火事場泥棒というのは泥棒の中でも最も恥ずべきことだ。死んでもやっちゃいかん。直ちに置いてこい!」と烈火のごとく叱った。まだ小さかった父は真っ暗な山の夜道を歩いて返しに戻ったそうです。

阿川 父子で同じことをなさったわけですね。でも、その程度なんですか、叱られたこと?

藤原 ええ、父はあんまり怒らなかったですよ。

阿川 (檀さんに)いやあね、本当に。

 なんか全然、被害者じゃない(会場笑)。

藤原 被害者ですとも。最近、私、「お父さんによく似てきた」とか「年々どんどん似てくる」とか、もっとひどいと「瓜二つね」とか言われるようになったんです。

 容姿のことですか。

藤原 容姿です。父の遺伝子の被害者です。ご存じのとおり、父はひどい顔で。

 いや、そんなことなかったですよ。

藤原 私はもっとセクシーでしょ?(会場笑)
 私がミシガン大学で教えている時、父が『アラスカ物語』の取材にアラスカへ行った帰途、ミシガンへ寄ってくれたんです。空港まで迎えに行くと、コンコースのずっと向こうから、足の長さが身長の四分の一ぐらいしかない生き物がお腹を振って歩いてきた。(あ、近くの山のタヌキか)と思っていたら、それが近づいてきて父とわかった時の衝撃はなかった。その時は既に一年くらいアメリカにいて、自分がアメリカ人になり切っていたんですね。アメリカ娘にモテまくって、当時「オリエンタル・プレイボーイ」と仇名されていたくらいです。そこへ父の姿を突き付けられて、これが血を分けた肉親だと思い知って本当にショックでした。

阿川 そのときすでに、自分はお父さまに似ているという自覚はおありだったんですね。

藤原 その時は全然ありません。私は突然変異だとずっと思っていますからね。頭脳や才能はともかく、顔だけは父とも母ともまったく違うと思って、絶大な自信があるんです。ところが最近、やたらと「どんどん似てくる」「瓜二つ」って、本当に心外。

 お話を伺っていると、だんだん藤原さんのお子さんが「文士の子ども被害者の会」に入ったほうがいいんじゃないかしらと思えてきました(会場笑)。

阿川 藤原家は息子さんばかり?

藤原 でくの坊三人です。女の子も欲しかったので、四人目は女の子を産んでくれって女房に頼んだら、「外で勝手に産んで」と拒否されました。

阿川 外ではお作りにならなかった?

藤原 あ、ざ、残念なが……。

阿川 そんなに動揺なさらなくても(会場笑)。

藤原 いやいや。水上勉さんみたく、老境に入ってから見知らぬ中年の男が「お父さん」なんて出てくれば、それは勲章だと思うんだけれど、今のところ出てきそうもないです。もし出てくるとしたらアメリカからですかね。

阿川 よっぽど、あちらでモテたと言いたいらしい。

藤原 アメリカの女性には、近づいてくる男はいつも自分の肉体目当てに寄って来ているに違いないという警戒心があるんです。だから、まずその武装を解除しないといけない。私はユーモアで一気に笑わせて武装解除するんです。

阿川 そこで押し倒すんですか。

藤原 ええ。それと僕、体臭がきついんです。

 何を突然。

阿川 まさか、ここで嗅いでみろと?(会場笑)

藤原 それがアメリカの女性にはたまらなくセクシーな芳香のようなんですね。彼女たちにすれば、たいへんなフェロモンが私から滔々と流れ出している状態。だから、向うではたいへんなモテ方でした。帰国時にはアメリカから女性が私を日本まで追いかけてきたり……。体臭のおかげです。

 あら、「舞姫」みたい。

藤原 父からはある時、「結婚するまでは俺もおまえの兄貴もみんな童貞だった。おまえだけだ、不潔なのは」と言われました。

阿川 えー、今日は被害ではなく、自慢話を聞く会になっております(会場笑)。

 確かに藤原さんの場合は被害者というより……いま伺っていても、新田次郎さんっていい方みたいじゃないですか。佐和子さんのお父ちゃまとか、うちの父とかとはちょっと違う感じがしますね。これは男の子だからですかね。

藤原 僕、中高でサッカーをやって、「西の釜本、東の藤原」というのは家族の者はみんな知っていました。家族以外は誰も知らなかったけど。僕は学芸大附属小金井中学校にいて、附属大泉中学校へ試合に行ったら、檀太郎さんがいました。

阿川 ああ、ふみさんのお兄さん。

藤原 チームメイトが「あいつ、檀太郎っていうんだ。檀一雄の息子だよ」って。すごく体大きかったですよ。

 まあ、大男、大女の家系ですから。うちの兄、サッカーやってました? ちっとも知らなかった。

藤原 で、僕は都立西高でまたサッカー部に入って、早稲田高等学院へ試合に行ったら、今度はそこのセンターフォワードが石川達三さんの息子。作家の息子はみんなサッカーをやるんだなあと思った。

阿川 うちは兄弟三人いるけど、サッカーやるのは一人もいない。

 「檀さんのお父さんはサッカーやってらしたんですね」って、中国人のマッサージの先生が勘違いしてたことはある。

阿川 ああ、作家とサッカーね。うちの父も何かの賞をもらってニュースが流れた時、末弟の友人が聞き間違えて、「アガワのお父さん、サッカー選手だったの?」と言ったそうですよ。

 新田さんは原稿が書けなくて荒れるとか、そんなことは?

藤原 それは苦しそうでした。やはり父は武士ですから、荒れたり八つ当たりしたりするよりは、忍耐型でした。だけど、よほど苦しい時もあったのでしょう。太宰治とか三島由紀夫とか川端康成とか、いろんな作家が自殺しますよね。その理由について世間はさまざまなことを言いますが、父は断言していました。「書けなくなったからだ。作家が自殺する理由はそれ以外に絶対ない」。

阿川・檀 はぁー。

藤原 父が亡くなってから書斎を調べたら、大きな茶封筒いっぱいに原稿が入っていて、表に「書いても書いても突き返された時代の原稿」と書いてありました。デビューしてからしばらくは書いても書いてもボツになっていたようです。とくに新潮社が一番多かった。

阿川 新潮社にいっぱい突き返された!

藤原 そう。新潮社にボツにされた原稿が山になって残っていました。

阿川 偉かったんですよね、昔の編集者って。

藤原 みんなそうやって苦労してきたんですよね。ただ、父は誰にこぼすわけでもなく、荒れるでもなく、じっと我慢していました。没後にボツ原稿の山を見つけて吃驚したくらいだから、家族にも言わなかった。

阿川 そんな父の恨みがありながら、「週刊新潮」で長く連載したり、新潮社でよくお仕事されるのは武士道?

藤原 そうですね。いつもかわいい女性編集者がついてくれて。

阿川 それは別に武士道ではなかろう(会場笑)。

 新田さんは家族に当たり散らさなかったけど、佐和子ちゃんのお父さまは大変だったんでしょ?

阿川 うちはもう常に機嫌が悪いですから。父の書斎の前にお手洗いがあったんですけど、その戸がガチャッと開く音だけでもう「誰が行ったんだ! 俺が行こうと思ってたのに!」って。だからお手洗いもコソコソ。家が狭かったから逃れようもなかったです。

藤原 でも、その気持ちは、佐和子さんもお書きになる人だからわかるんじゃないですか? 書けない時に当たり散らしたい気持ちはありますよね。

 だから今、佐和子さんが「小弘之」と呼ばれてるらしいです。

阿川 一番かわいそうなのは母でしたね。大弘之と小弘之の間に挟まれて。

藤原 阿川尚之さんは穏やかな方ですよね。

 佐和子さんのお兄さまね。

阿川 兄も外ヅラ仮面ですよ。四人きょうだいで「おまえが一番お父ちゃんに似てる」って、みんなでなすりつけあうんです。でもまあ、みんなそれぞれ似てますね。

藤原 尚之さんとは何度かお会いしたけど、お父さんに似て英国紳士ふうですね。お二人とも英国大好きですよね。

阿川 アメリカもイギリスも大好きです。カブレてるとも言える。
 檀一雄さんは書けないからイライラ、というのはなかったの?

 それはもちろんありました。でも、あの……うちはけっこう広かったんですよ。

阿川 あ、はいはい。今日は自慢話大会ね(会場笑)。

 書斎を作るのが趣味なくらい、自宅以外にもたくさん書斎を持ってたの。つまり、それは書けないから……。

阿川 転地療法をするわけ?

 そう。それで結局書けたかどうかは知らないけど。

藤原 ポルトガルにも書斎があったんじゃないですか?

 サンタ・クルスって町です。

藤原 父の絶筆となった『孤愁』を書き継ぐため、ポルトガルへ取材に行った時、そこに寄ったことがあります。石碑があって檀一雄さんの「落日を拾ひに行かむ海の果」という句が彫ってありました。なぜかその時の私の琴線に触れ涙ぐんでしまいました。檀一雄さんはあそこに一年半もいたのですね。

 ええ、各地で原稿を書いていましたね。

阿川 じゃ、お家で書いている姿というのは?

 書いている姿を直接見たことはありません。でも時々、書けなくてお手洗いなんかへ出てくる時の、もう鬼のような形相は何回か見ています。私はもう大きくなっていたので、ここは触っちゃいけないところだと思って、自分の気配を消していました。

阿川 檀さんのお家は大きいでしょうけど、家族も多いでしょ?

 藤原さんがサッカーの試合で一緒になった一番上の兄の太郎は早くに結婚して家を出て、二番目の兄はずっと寝たきりでしたけど、やはり早く亡くなりました。残った三きょうだい、すぐ上の兄と私と妹はひとつの部屋に押し込められていましたね。たくさん部屋がある大きなうちでしたけども、子どもの部屋は小っちゃかったの。

阿川 お父さまは『檀流クッキング』という名著があるくらい、料理も大変お得意で、だからふみさんはものすごく料理の作り方に詳しいんですよ。

藤原 太郎さんは料理の専門家ですしね。

阿川 ふみさんは、作り方は完璧に知っているけど、自分で一から最後まで作ったことがない、という時代が長かったわよね。

 というのは、父の手伝いしかやっていませんから。例えば「ごまを擂るから擂り鉢を押さえなさい」と言われて、ずーっと押さえてるとか、ずーっとおかかを削るとか、切り干し大根を切り続けるとか、玉ねぎを炒めるとか、そういうことしかやってきてなかったんです。父が元帥で、私たち子どもは三等兵って呼ばれていました。

藤原 軍人将棋みたい(会場笑)。

 あとは、片付けとお皿洗い。お米をとぐのもやらせてもらえなかった。

阿川 え、三等兵はそれはまだ?

 三等兵にはお米はまだ早いの(会場笑)。

阿川 いくつからやらされたんですか。

 生まれてからずっとやらされていたんじゃないかしら。気がついたときにはもう擂り鉢を持っていましたから。

阿川 お客さまをお招きするとなると、お父さまは最上級の料理を作ろうと思って、最良の材料を求めて北海道なら北海道まで出かけて二、三日帰ってこなかったという話がありますね。

 そういう伝説は聞いていますけど、私はそれは知らないの。よくそういうことを仰る方がいらっしゃるので、実際にあったことかもしれないなと思います。

阿川 それだけ食事を大事にしていらしたから、子どもが好き嫌いを言うなんてことは断固許さなかったんでしょ?

 もちろんです。藤原さんのお宅はいかがでした?

藤原 兄はネギが食べられなかったんですが、そしたら母が「乃木大将はやっぱりネギが嫌いだった」と。

 乃木大将?(会場笑) すごく古くないですか?

藤原 母は古いんです。「乃木大将のお母さんは毎日ネギしかあげなかった」って、ネギばかり出してました。そういう点、父より母が厳しかった。

 そうか、藤原ていさんも作家ですからね、それも文士の子どもの受けた被害かもしれない。

(後篇に続く)
於・神楽坂 la kagu
波 2019年12月号より