2026年3月3日、つげ義春さんが亡くなりました。漫画表現の域を拡げたその作品群に惹かれ、描かれたさまざまな土地を旅してきた評論家が追悼として捧げる一文──

つげ義春は、いつもうらぶれた風景のなかに人を置く。ひっそりとした町のたたずまいのなかに人を置く。そこから淡い詩情が生まれる。
描かれる人はしばしば世の中の隅のほうで生きる余計者である。ときには世捨人のように見える。
「近所の景色」(1981年)という作品では作者自身を思わせる主人公が、町内散歩者となって多摩川の土手下にある、バラックが無秩序に立ち並ぶ「朝鮮の人たち」の住む一画を訪れる。通路は迷路のように入り組み、敷地には雑草が生い茂る。普通なら忌避される場所である。しかし、主人公は違う。
「そのたたずまいはいかにも貧しげでいずれは朽ち果ててしまいそうだが、自然のぬくもりが感じられ、私はこの一角に足を踏み入れるとほっと気持ちの安らぐのを覚えた」
壊れかかった土塀、洗濯物が干したままになっている裏通り、傾いた家並。真新しい風景の対極にある、時代に取り残されたような末枯れた風景のなかにこそ入り込む。その姿勢は初期から後期まで一貫している。中心より周縁に惹かれる。
「近所の景色」には梶井基次郎の「檸檬」のこんな一節が引用されている。
「何故だか其頃私は見すぼらしく美しいものに強くひきつけられたのを覚えてゐる。風景にしても壊れかかった街だとか、その街にしても他処他処しい表通りよりもどこか親しみのある、汚い洗濯物が干してあったりがらくたが転してあったりむさくるしい部屋が覗いてゐたりする裏通りが好きであった」
暗い感受性といえばいいか、世の中の片隅に追いやられた“はずれの風景”につげ義春は惹きつけられてゆく。
ただし、それはあくまでも描かれた隅の風景である。懐しいという感情を通してみたうらぶれた風景である。「リアリズムの宿」(1973年)で書いているように「貧しげでみすぼらしい風物にはそれなりに親しみを覚えるのだが、リアリズム(生活の臭い)にはあまり触れたくないのだ」。
つげ義春が好んで描くうらぶれた風景は、あくまでも作者の暗い感受性によって育まれたものである。
戦後の漫画家の流れを大別すると、手塚治虫を代表とする児童漫画と、白土三平を代表とする貸本漫画に分かれるが、つげ義春は後者に属している。児童漫画が学童児童の読む表通りの漫画とすれば、貸本漫画は中卒や高卒の働く若い世代に読まれた裏通りの漫画である。児童漫画がスポーツ漫画に代表されるように明るく、前向きで啓蒙的な作品が主なのに対し、貸本漫画には犯罪や貧困、社会悪を描く暗い漫画が多い。親や教師が見たら眉をひそめるような作品である。
中学校もろくに出ていないようなつげ義春には、貸本漫画のほうが自分の体質、“暗い感受性”には合っていると判断した。
「苦節十年記」(1991年)というエッセイのなかで、当時、「漫画少年」に拠った児童漫画家たちには馴染めなかったと書いている。
「しかしどういうものか、同じ手塚調でも『漫画少年』の常連投稿家たち、石森(章太郎)、松本(零士)、藤子(不二雄)などには殆んど刺激されることがなかった。マンガの絵はストーリィと一体になったもので、当時の彼らのストーリィがどこか優等生的に思え、そのため絵も物足らなく思えたのかもしれない。その点、俗悪視されていた貸本マンガのほうに魅力があった」
児童漫画よりも貸本漫画のほうが自分の資質にあったし、何よりわずかとはいえすぐに原稿料を払ってくれるのが、すでに漫画で生活をたてようとしていた生活者のつげ義春には有難かった。
そうして貧困を描く「おばけ煙突」(1958年)、犯罪を描く「殺し屋」(1960年)、残酷な時代もの「鬼面石」(1960年)などが書かれる。その多くは全集にも収録されていない。
しかし、正直なところ私などは貸本漫画時代のつげ義春は知らない。貸本漫画はマイナーな出版社が手がけるもので一般の書店では手に入りにくいという事情があった。文字通り、一般書店より格が低いと見なされていた貸本屋で借りて読むものだった(当時、家の近くにはネオ書房という貸本屋があったが読むのはもっぱらハヤカワ・ポケット・ミステリだった)。
つげ義春をはじめて知るのは、1964年大学一年生の時、月刊の漫画誌「ガロ」が青林堂というマイナーな出版社から刊行されてから。
「ガロ」は、児童漫画より貸本漫画の系譜を受けた雑誌だった。白土三平の「カムイ伝」を核とし、一流出版社の漫画誌にはおさまり切らないようなマイナーな漫画家の作品を発掘してゆき、大学生のあいだでも人気になっていた。
そのなかにつげ義春の作品があった。
時代もの「噂の武士」(1965年)、「西瓜酒」(1965年)、「運命」(1965年)あたりはさほど惹かれなかったが、水辺にたたずむオカッパ頭の少女が魅力的だった「沼」(66年)、貧しい若いカップルが文鳥に寄せる愛情を描いた「チーコ」(1966年)、里に降る雨が作り出す不思議な風景を子どもが見る「初茸がり」(1966年)、鳥語を話すという飄々とした李さんがユーモラスな「李さん一家」(1967年)などが次々に発表され、どこか私小説風の作品が心に残った。
そして個人的に大好きになった旅ものの数々──、房総の夏の海辺で少女と知り合い、雨の海で泳いで見せる「海辺の叙景」(1967年)、渓流釣りにやってきた青年が村の少年と少女(キクチサヨコ)の幼ない交流を遠くから見つめる「紅い花」(1967年)、さらに旅ものは「西部田村事件」(1967年)、「長八の宿」(1968年)、「ほんやら洞のべんさん」(1968年)と続き、すっかりその田舎町への一人旅に魅了された。
そのあと、意識下の幻想世界をシュールな手法で描いた「ねじ式」(1968年)が発表されるや詩人や若手文学者のあいだで大評判になり、つげ義春の名前は若い世代のあいだで一気にカルトになった。
とはいえ個人的には旅もの漫画のほうが好きだった。作者自身を思わせる主人公(釣り人であることが多い)が田舎町を旅する。有名な観光地などにはまず行かない。どちらかといえば観光客など行かない普通の町が多い。東北のひなびた漁師町、ホテルなどまずないような山里、温泉というより湯治場と呼んだほうがいい湯の里。
暗い感受性に惹きつけられたうらぶれた土地が多い。旅をすることによって、つげ義春は自らの、周縁の風景に惹かれる感受性を磨いていったといえる。
「海辺の叙景」の房総の大原、「西部田村事件」のやはり房総の大多喜、「長八の宿」の伊豆・松崎、「二岐渓谷」(1968年)の会津の二岐温泉、「リアリズムの宿」の青森県の鰺ヶ沢などなど。
個人的にはつげ義春の漫画を読んでその舞台となった土地を旅するのが、ひとりの楽しみごとになった。
「ガロ」が創刊された1964年といえば第一回の東京オリンピックが開かれた年である。日本は高度経済成長期の頂点にあった。
そんな明るく豊かな時代に背を向けるようにつげ義春は、日本の山里のなかにかろうじて残っているうらぶれた土地を訪ね歩いた。そこにつげ義春の旅の真骨頂がある。
おそらく、その陽の当らない場所への旅は、つげ義春が少年時代を過ごした、まだ戦後の貧しさが残る葛飾区の立石の町の記憶を辿る旅でもあったろう。つげ義春の青春ものに繰返し描かれる安アパート、戦後のヤミ市を思わせる飲食街、堀割……つげ義春にとっては下町というより場末というべき立石の町の記憶が、その後の暗い感受性の支えになっている。それは時代が明るく豊かになってゆくにつれ、かえって強まってゆく。
「ガロ」と並んでつげ義春にとって重要な雑誌に1984年から1987年に日本文芸社から刊行された季刊誌「COMICばく」がある。
編集長を務めた夜久弘の回想記『「COMICばく」とつげ義春』(1989年、福武書店)によると、二年間筆を断っていたつげ義春が夜久氏の依頼に応えて「散歩の日々」を描きあげ、その作品を載せるために作られた雑誌である。
なんとこの雑誌につげ義春は毎号作品を発表することになる。まさに事件だった(ちなみにこの雑誌には私も漫画評論を連載した)。
「散歩の日々」(1984年)をはじめ「ある無名作家」(1984年)、「池袋百点会」(1984年)、「隣の女」(1985年)、「石を売る」(1985年)、「無能の人」(1985年)、「鳥師」(1985年)、「探石行」(1986年)、「カメラを売る」(1986年)、「やもり」(1986年)、「蒸発」(1986年)、「海へ」(1987年)、そして最後の作品となる「別離」(1987年)。力作揃いである。
この後期の作品群の大きな特色は、つげ義春のなかでいよいよ世捨人志向が強まっていること。もともとつげ義春の描く主人公にはうらぶれた風景に対応するように、無用者、余計者、世捨人、隠者のような世の中に背を向けた人間が多いが、それが後期になっていよいよ強まっていったように思う。
「石を売る」や「探石行」の、およそ世の中の役に立たない石を売って暮そうとする主人公。「鳥師」のどこからともなく多摩川べりの町にやってきて、またいずこともなく消えてゆく鳥を捕える名人。
そして「蒸発」では、幕末から明治の放浪の俳人で信州・伊奈で行倒れのように逝った、井上井月を思いをこめて描いている。
辞世の句「何処やらに寉の声聞く霞かな」はつげ義春の句としてもおかしくない。
(かわもと・さぶろう)
波 2026年5月号より































