波 2026年7月号

特集「新潮文庫の100冊」の50年

僕が小冊子を作った頃/大森 望

座談会にも出席した翻訳家は元新潮文庫編集者だった! いっぷう変わった青春記──。

「新潮文庫の100冊」過去の小冊子

 生まれて初めて買った文庫本は、1971年5月に出た新潮文庫の新刊、星新一の『ボッコちゃん』だった。値段は一三〇円。小学五年生だったから、こんなに安くてお得な本があるのかと感動した記憶がある。
 十二年後の1983年4月、その新潮社に入社して、新潮文庫編集部で働きはじめた。「新潮文庫の100冊」は、まだ七年の歴史しかないとはいえ当時から新潮文庫最大のお祭りで、すでに由緒正しい伝統のフェアだった。もっとも、入社するまで、そんなに興味があったわけではない。ひねくれたSFマニアだった学生時代の僕にとって「新潮文庫の100冊」は、教科書に載っているような定番の名作を集めて夏休みの読書感想文を書く小中学生向けに売るフェアというイメージだったのである。
 実際、「100冊」全点を紹介する小冊子の初年度版を開くと、〈……若い読者の皆さんのために一〇〇点の作品を厳選しました。どの作品も、若者の心をとらえ、多大な共感をもって迎えられた名作、話題作ばかりです。人間形成の上に大きな役割りを有する若き日の読書のお役に立てば幸いです〉などと書いてある。この小冊子には、書店で無料配布される一般用と別に学校用があり、巻末にはその年の国語教科書に採用された新潮文庫収録作の一覧がついている。それを参考に、学校の先生に本を注文してもらおうというわけですね。
 新潮文庫編集部に入って最初の仕事のひとつは、その一覧をつくることだった。先輩社員と一緒に新宿区だか文京区だかの東京都教科書センターに行って、一冊ずつ教科書の現物にあたり、紙のチェックリストに書きこんでいくという、たいへんアナログな作業。いまならネットで検索すれば一発なのに──と思ったら、つい先週、現役の若手社員から、「いまでもやってますよ。わたし、今年も江東区の教科書図書館に行きました!」と言われて驚いた。さすがに手書きじゃなくて持参したノートPCにエクセルで記入しているそうだが、半世紀前から毎年(推定)同じ作業をくりかえしているとは。さすが老舗と言うべきか。
 新潮文庫では月ごとにフェアがあるが(僕の在籍当時だと、「ビジネスマンの本」フェアとか「ミステリー&サスペンス」フェアとか)、夏の「100冊」は中でも最大で、一セットあたりの冊数も多ければ、セット数自体も圧倒的に多い。当時は、「100冊」のメインリストに入ると、それだけで二万部とか三万部とかが全国の書店にフェア配本されるので、そのために大増刷がかかる。1970年代くらいまでの新潮文庫は全国津々浦々の常備店で棚差しの回転率が高く、「新潮文庫に三冊入れば一生食うに困らない」みたいな根拠不明の伝説があったと年配の編集者に聞かされたが、そのベスト100にあたる「新潮文庫の100冊」に選ばれるというのは、当時の物書きにとってはそれこそNHK紅白歌合戦出場くらいの快挙だったんじゃないかと思う(のちに新潮文庫が年末フェア「紅白本合戦」をはじめたのはそこからの連想かもしれない)。

 ここで話は脇道にそれるが、僕が新潮文庫で最初に担当を命じられた本は、長くベトナム戦争を取材してきた報道写真家・中村梧郎氏の文庫書き下ろしフォト・ルポルタージュだった。テーマは、ベトナム戦争で米軍が散布した枯葉剤に含まれていたダイオキシンによる環境汚染と人体への影響。中でも、1981年に結合双生児として生まれたベトちゃんドクちゃんにスポットライトが当てられていた。入社早々、副部長の吉武力生氏(故人)に呼ばれて、中村氏が撮影した大量のポジフィルムを見せられ、「この本をあなたに担当してもらおうかと思います。どうですか?」と言われて絶句したのをよく覚えている。
 のちに新潮社初の月刊サブカル誌「03ゼロサン」を創刊する吉武さんはたいへんアクの強い人柄だったが、編集者としてはまさに辣腕というか剛腕だった。編集実務はほとんど編集プロダクションのINO企画が担当したので僕はもっぱら社内との調整係。タイトル案を出せと吉武氏に言われて必死に知恵を絞ってかっこいい題名を考えたが当然ことごとく却下され、この本は『母は枯葉剤を浴びた ダイオキシンの傷あと』と題されて1983年9月に刊行された。カバーには、これまた吉武氏の指示で、広島で被爆した母と子を描いたいわさきちひろの絵が使われた。こんな硬派なフォト・ルポルタージュを文庫書き下ろしで出すというのは(当時も今も)異例中の異例だと思うが、その分(吉武さんの目論見通り)大きな話題になった。
 初版は六万部。ずいぶん刷ったなあと思うでしょうが、そうでもない。なにしろこの当時は五万五千部が新潮文庫の最低初版部数だったのである。夢のような時代だが、逆に言うと、五万五千部刷れない本は企画が通らなかった。
 名ばかりとはいえ僕の初の担当本である『母は枯葉剤を浴びた』は、翌年から八年連続で「100冊」に入り、累計二十数万部を刷るロングセラーになった(現在は、増補版が『新版 母は枯葉剤を浴びた』として岩波現代文庫に収められている)。

 さて、前述したように、初代「100冊」小冊子は、いかにも真面目でシックなイメージだったが、翌年から著名人の写真を使った大々的なキャンペーンが始まり、まずはヘミングウェイのモノクロの顔写真。そして1978年には、新潮文庫本体のイメージ戦略と軌を一にして、「100冊」広告も思い切ってポップな路線に舵を切る。そう、イメージキャラクターとして桃井かおりが起用され、仲畑貴志の歴史的なキャッチコピー「知性の差が顔に出るらしいよ……困ったね。」が誕生したのである。それを使って、「100冊」史上初のテレビCMもオンエアされた。もっとも、「100冊」広告に使われたのはその姉妹編みたいなコピー「知性って、すぐ眠りたがるから、若いうちよ。」だった。今回調べてみてはじめて知ったのだが、仲畑さんのインタビューによれば、このコピーには、“野性”押し(前年の角川映画「野性の証明」ほか)の角川文庫に対して“知性”をぶつけるという戦略的意図があったらしい。なるほど。
 1981年には「100冊」小冊子の表紙にもイメージキャラクターの坂本龍一を起用(「ひとりになったら本を読む。」)。僕が入社した1983年には江川卓が表紙だった(「やる時は、やります。読む時は、読みます。」)。
 そして1984年、コピーライターが糸井重里に代わり、「想像力と数百円」という、これまた歴史に残るショルダーコピーが誕生する。その年の「100冊」小冊子の表紙は、氷の宮殿をバックに帽子・手袋・黒眼鏡に防寒服姿で新潮文庫を持つ井上陽水の写真。糸井重里のコピーは、「100冊ぜんぶ読むと、とんでもないことになると思う。」だった。
「ほぼ日」掲載のインタビュー、「糸井重里のコピー10」で、糸井さんはこの写真のロケについて、「然別湖は全部結氷してるんで、切り出した氷をブロックにしてホテルを作っ」たと語っているが、新潮社にそんな予算があったとしたら、よっぽど景気がよかったのか。まじまじと写真を見ても、ホントかどうかよくわからない。
 毎月のフェアに関しては、広告を手掛けるサン・アドのチームが新潮社本館の会議室に毎回やってきて編集部や営業部に広告プランをプレゼンするのが恒例で、僕もその末席に小さくなって座っていたが、予算の話は聞いたことがない。ちなみに僕はその後、糸井さんの担当になり、『家族解散』の文庫化と、糸井さんが作ったRPG「MOTHER」の小説版(ノベライズは旧知の久美沙織さんにお願いした)に携わるが、それはまた別の話。

「100冊」小冊子は、全国の書店だけでなく、全国の中学・高校に大量に無料配布されるので、たぶん数百万部(もしくはそれ以上)刷られていたと思う。にもかかわらず、文庫編集部の新米社員が編集する慣例になっていて、1984年、初めて糸井さんのコピーが使われた「100冊」小冊子は、入社二年目の僕の担当だった。
 まあ、小冊子なんて、一〇〇冊分の書影と内容紹介がメインだし、毎年同じようにつくるんだから簡単でしょ──と思うかもしれませんが、これが意外とめんどくさい。この年の小冊子は、モノクロ全六四ページのうち二七ページ分が読み物だった。基本的な編集方針は、新潮文庫の生き字引みたいな担当デスクの(筒井さんの日記によく出てくる)中村淳良さんから指示された気がするが、このうち二〇ページ分は「写真は語る──十人の作家たち」と題する見開きコラム十本。日本の文豪たちのモノクロ写真におもしろおかしい文章を添え、当時人気絶頂だった新潮社の写真週刊誌〈FOCUS〉風に紙面を構成した。写真部のアーカイブからどうやって写真を選んだのかはもう覚えていないが、文章は向井敏・藤田昌司両氏に依頼し(人選はデスクからのアドバイスだったと思う)、送られてきた原稿と写真の紙焼きをああでもないこうでもないとレイアウトした。新米編集者が見様見真似でトレスコ使ってあたりをとって入稿したコラムが何百万部も刷られるのだから恐ろしい。残り七ページが、小林信彦、黒柳徹子、赤川次郎、南伸坊、羽仁未央など多彩な顔ぶれによる一ページの署名コラム(何本か自分で埋め草記事も書いた)。原稿依頼と受け取りはそれぞれの担当編集者にお願いしたが、羽仁未央さんだけは自分で依頼して、届いた手書き原稿の解読がなかなかたいへんだった。いや、といっても、当時はまだみんな手書きで、文庫と単行本の編集部全体で使えるワープロ専用機(たしかオアシス100Gだか100G2だか)が一台しかなかった。携帯電話もPCも、インターネットどころかパソコン通信もなく、原稿のやり取りは主にファックスだった。
 だからというわけでもないが、小冊子の六四ページ分の原稿を写真と一緒にレイアウトして入稿するのに、まるまる一週間、新潮社本館三階の会議室にひとりで泊まり込んだ。まだ二十三歳だったからできたとも、要領が悪かったからそうなったとも言えるが、けっこう楽しかった。いまにして思えば、会社の設備と経費と看板を使って同人誌を作ってるようなもんでしたね。部数は数百万部だけど。
 その後、新潮文庫のイメージキャラクターの変遷に含わせて「100冊」のキャラクターは実在の有名人からパンダのYonda?になり、ロボットのQUNTAになり、今年からはヨムムことヨムム・ブックパッカーになった。小冊子もいつからかフルカラーになり、いまは本文デザインもプロのエディトリアル・デザイナーの手が入って昔とくらべると飛躍的におしゃれになっているけれど、よく見れば中身はそんなに変わらない。小学五年生の僕が読んだ『ボッコちゃん』は、初刊から五十五年経っても、いまだに今年の「100冊」に入っている。そう言えば今年の『ボッコちゃん』は限定プレミアムカバー付きだそうで、真鍋博のカバーの古い『ボッコちゃん』を持ってる人もこの機会にぜひ。

(おおもり・のぞみ 翻訳家)
波 2026年7月号より