新潮 くらげバンチ @バンチ
プリニウスを探して―ナポリ「炎上」旅行記― vol.4

スリグループと遭遇し

 とまあ、愉しげな調子で書いてきたものの、現在のナポリの治安の悪さは有名で、スタビアエの辺りはギャング組織「カモッラ」の本拠地なのだ。「カモッラ」をモデルにして映画化もされた小説『死都ゴモラ』の著者ロベルト・サヴィアーノは組織から殺害予告を受けて、警察の保護下にあったが、海外に移住した。遺跡の場所を間違えて、麻薬工場にまぎれ込んでも不思議はない。北イタリアの人は、南イタリアには足を踏み入れたがらないという。

 この日の晩、われわれはスパッカ・ナポリで夕食を摂り、ワインをしこたま呑んで、ドゥオモの辺りの薄暗い路地をご機嫌で歩いていた。すると、星条旗シャツを着た若者を先頭に、原チャリが5、6台周囲をぐるぐる取りまいた。さすがに危険を感じ、足早に通り過ぎようとすると、ヤマザキさんが腕時計をぎゅっ、と握られたのだ! 幸い未遂に終わったが、どうやらスリグループのようである。

「以前日本からのグループ旅行の引率でナポリへ来たときは、夜間外出禁止でした」
雰囲気からしても、駅裏は危険地帯のようだ。ナポリの名誉のために、ガイドのラニエリさんの「危ない目に遭う人は遭うけれど、全然大丈夫な人の方が多い」という言葉を紹介しておくが、どうしても緊張は強いられる。すごい勢いで歩き続けるとりさんの背中は、日本では無用な殺気を発散していた(ので、ヤマザキさんの危機にも気づかなかった)。

 16日朝はヴェスヴィオ周遊鉄道に乗り、エルコラーノへ向かった。昨晩の余波が残り、スリとか出てこないか、気が気ではない。エルコラーノ駅辺りもカモッラの構成員がひそむ地帯で、われわれは息をひそめるように足早に歩いた。遺跡の入口に着き、われわれを出迎えてくれたのは......女子学生の太モモだった。ヨーロッパ太モモ見本市が開催されているようだ。

「この学校、遺跡見学は短パンを着用すべし、という校則なんじゃない!?」

 フランスの高校生の修学旅行のようだが、とりわけ女子は、東洋人のそれと違い、圧倒的な存在感を有している。

「ただいま!」

 ヤマザキさんが古代ローマの街に戻ってきた。崖の下のほら穴のガイコツたちが「お帰り!」と声を揃えている。カウンターに壺が並んでいたら食堂、その奥には地主の家があり、公衆浴場、旅館、洗濯屋など、さまざまな建物が並ぶ。エルコラーノは別荘が多いリゾート地だったので、公共の建物は少ない。道路にも車の轍の跡がほとんどない。

「私、日本で古代ローマ式食堂を経営しようかしら」

「店に行くとオーナーのヤマザキさんが出てくれば、流行るかもしれません」

「リストランテ・ヤマザキ」エルコラーノ店候補地
 スポンサー募集中です。ヤマザキさんの解説を聞きながら、遺跡を歩いていると、だんだん古代ローマの町が甦ってくる。イタリアという国のベースが2千年間、ほとんど変わっていないからだろう。似たような土地としてイスラム圏、特にシリアの遺跡は素晴らしい保存状態だったそうだが、しかし、現在の紛争でどのような状況になっているか、予断は許されない。2000年もの間守られてきた遺跡が現代人の蛮行によってあっさりと破壊されるとするならば、心が痛む。

 有名なフォロの公衆浴場は大混雑だ。脱衣場、サウナ、大浴槽。風呂釜から張り巡らされているお湯の管が、古代ローマ人のインフラ力を証明している。

「女湯の方が人気のようですね」

「やっぱり、色々想像するんでしょうか」

 残念ながら、今のイタリアにお風呂文化は継承されておらず、その空白を埋めた作品が『テルマエ・ロマエ』なのだ。

「風呂の遺跡から出ると、風呂上りという気持ちになるのが不思議ですね」

 確かに、みなさん上気した頬をしている。遺跡に入り、最初はあらゆるモノが珍しかったのに、だんだん飽きてきて、普通のお店やただの個人住宅には見向きもしなくなるのが可笑しい。

「2000年後、自分の家や店がタチの悪い不動産屋の客のような手合いの話の種になっているとは想像もできないでしょうね」

 まったくである。

 次の訪問先は国立考古学博物館だ。ヤマザキさん鍾愛のハドやん(ハドリアヌス帝)やカエサルの彫像、ポンペイやエルコラーノからの出土品など、値段を付けようもない逸品ばかりが数限りなく並んでいる。『テルマエ・ロマエ』の表紙画などのモデルの多くは、この博物館の展示物にあるそうだ。

カッリビーナのヴィーナス像に見惚れる
「古代ローマの彫刻には作者名がないんです。近代芸術とは意識が違います」

「アルティザン(職人)の仕事ですね。私もマンガ家としてはアルティザン派ですから、親近感があります」

 この晩も無事には済まなかった。博物館を出たあとタクシーでナポリ観光を試したのだが、ジェニーという3人の子持ちで、失業して2年で20キロ太ったと称する運転手の、ボロ車でカーブもぶっ飛ばしどんな狭い車間でも突っ込む手荒い運転を体験し肝を冷やした。帰りのタクシーでは、窓から公園をウロチョロする小動物が確認出来たので、セントラルパークや鎌倉を思い出し、私が「あれはリスかな」と口にすると、ドライバーからは冷たく一言「ネズミだ」と一笑に付されてしまった。


 

PAGE TOP