ホーム > 文学賞 > 三島由紀夫賞 > 過去の受賞作品 > 第11回 三島由紀夫賞 受賞作品

第11回 三島由紀夫賞

主催:一般財団法人 新潮文芸振興会 発表誌:「新潮」

 第11回 三島由紀夫賞 受賞作品

カブキの日

小林恭二

 第11回 三島由紀夫賞 候補作品

 神無き月十番目の夜 飯嶋和一
 調律の帝国 見沢知廉
 草の巣 角田光代
 夫婦茶碗 町田康
 カブキの日 小林恭二
 国民のうた リービ英雄

選評

石原慎太郎

石原慎太郎イシハラ・シンタロウ

大きな収穫

 文学の社会的需要とは何なのかを時折考えることがあるが、読書や観劇といった手段は読者や観客にとって一種の代行であって、各々の人生の中でもっと他にさまざま在るべき事柄や生き方への希求を作品が満たす、あるいは啓発、暗示するという関わりともいえるだろう。

 ということでいえば、現代文明が提供したいろいろなメディアが提供する情報の氾濫は、特にその接取の一番容易な視覚的手段によって、見る側の者にそれを咀嚼したり反芻して情念化し、さらにはそれを精神の領域にまで高揚させたりすることが困難な状況を到来させている。

 当然、小説という古来の方法への需要は乏しくなろうが、それがそのまま文学の不毛の原因ということでは決してない。要は社会的需要があろうが無かろうが、書く側の人間の内的な需要の強弱であり、文学をたつきの術としようとするなら別の話だが、それにしてもなお書く側の者の内的な需要にもともと欠けているような作品が、いかにジャーナリスティックなマーケッティングに依ったものだろうと、高い評価という形で世間の期待に応えられる訳もない。

 新しい作家の作品を読むと往々そうしたことを改めて考えなおさせられるようなことが多いが、今回の候補作のいくつかはそうした最低必要条件を優に満たしてい、その限りで読み応えもあった。

 リービ英雄氏の『国民のうた』は一体何がこの作品の主題なのかよくわからない。ということは、小説なるものが必ず何かの形で備えているべき筈のドラマツルギーが全く感じられない。

 角田光代氏の『草の巣』は、退屈さに潜む裏返しの劇性をということなのかも知れないが、世間は当節こうした小説には食傷しているような気がする。私自身もそうだが。収録されている二つの作品の後者『夜かかる虹』の姉妹の今風の姿にはある印象が残ったが、風俗なら風俗としてもっと書きこめばいいのにと思う。

 飯嶋和一氏の『神無き月十番目の夜』は緻密な考証の上に描かれてはいるが、歴史に閉ざされていた中世のジェノサイドは、ただの文献を読まされた後ああそういうこともあったのかという程度の印象を出ない。時代を隔てても過去の人間たちに起こった悲劇の余韻がこの今に一向に伝わってこない。

 町田康氏の『夫婦茶碗』はまたしても同じパンク・ロック調の語りだが、選考委員の誰かが、「この作者自身ももう飽きてるんじゃないかな」といっていたが、同感である。収録の『人間の屑』は従来の作品に比べやや印象が異なるが、それにしても作家としての飛躍にまではいたっていない。

 見沢知廉氏の『調律の帝国』は、その題名、記されているエピグラフ、さらに後記までがなんともおどろおどろしくいかにも余計だが、描かれている作者の獄中でのまがいない体験は圧倒的なもので、作者がそれを書かぬ訳にいかぬ内面の需要は強く感じられるが、むしろ出獄の後にもう少し時間を置いて書いた方が筆先が獄中での記憶に引き摺り回されずにすんだのではなかろうか。

 選考委員の中でこの作品にある強い意味合いを認めたのは私くらいだったが、私にはこの作品よりも、十二年という獄での拘禁の後作者がまみえた現代社会の中で、殺人と懲役という彼の体験がどういう化学反応を起こしながら発酵していくのか、むしろ、それを描かずにいられぬに違いない次の作品に期待している。

 小林恭二氏という若い作家の『カブキの日』を久々に小説として楽しみ、次の頁を開くに期待しながら読んだ。

 歌舞伎といういかにも閉鎖的で、それ故さまざまに不可解で、虚偽、矛盾、背徳にさえ満ちた虚構的な世界に、さらに小説としての虚構を持ちこみ、豊富なペダントリーを駆使しながら、ある所はグロテスク、ある部分はリリック、そしてまた幻想的でもある特異な世界を、時間と空間を敢えて倒錯させながら、さらにまたサスペンスィヴに描いている。

 そして、歌舞伎というある意味で完璧に近い様式に、さまざまに抑圧され歪められている人間たちの姿をもあぶり出している出来栄えはなかなかなものだ。テンポのある筆致は誰かがいっていたが、当節大人たちも夢中になる巧妙なプロットの組みこまれたテレビゲイムのゲイム展開の魅力にも通うものがあって満喫させられた。

 選者も読者もこの作品の受賞に異議ある者はいないに違いない。

筒井康隆

筒井康隆ツツイ・ヤスタカ

甘美なる胎内めぐり

 あり得べきもうひとつの世界を描いた小説は、SFでは多元宇宙ものと呼ばれ、P・K・ディックには第二次大戦で日本とドイツが勝ち、アメリカを占領する「高い城の男」があり、小生には戦後の日本が映画産業立国となる「美藝公」がある。小林恭二「カブキの日」は、戦後の日本の最大の大衆娯楽が歌舞伎となった世界を描いているが、SFではないので、なぜそうなったかという社会科学的考察もなければ、疑似科学的合理性もない

(多元宇宙は量子力学から導入された概念)。そのかわりこの作品には、現代文学で日本人の精神世界を抉るのに歌舞伎以上の題材はないという確信がある。主人公の少年少女が「世界座」と呼ばれる巨大な歌舞伎小屋の三階(「三階」はいわゆる大部屋。大部屋役者のことを「三階さん」と言うのは一種の差別語である)に迷い込んで彷徨するのだが、日本人の無意識世界とも言うべき三階を胎内めぐりの趣向でさまよわせ、日本人の内面へ食い込むことに成功している。

 この三階めぐりがまことに甘美である。おどろおどろしく怪奇美に満ちていて、石川淳の世界に似た超現実体験をさせてくれる。通常、歌舞伎界の怪奇美を表現する場所としては奈落を聯想するが、これを三階にしたため日本人の死生観や差別意識など、より奥深い日本人の精神構造が表現できたのであり、この着想を得ただけでこの作品の成功はなかば約束されたと言える。ウヌしてやられたと思わぬでもない。

「カブキの日」が全選考委員からほぼ満票に近い支持を得たのも、町田康「夫婦茶碗」が全員から二位に推されたのも、票の割れることが多い本賞始まって以来の珍らしい出来ごとだった。町田康の作品に対しては小生、前作「くっすん大黒」にドゥマゴ文学賞をさしあげた際いろいろ書いているので繰りかえしを避けるが、前作の延長線上にある「夫婦茶碗」よりも併録の「人間の屑」の方が、今までの「下降への意志」に加えて狂気への志向があり、新機軸が感じられ、面白かった。受賞してほしかった作家だが、小林恭二に一日の長があった。

 推す委員もいた飯嶋和一「神無き月十番目の夜」は、優れた歴史小説として小生も面白く読んだ。ディテールのペダントリイにも感心させられる。同様の百科全書派作家としては、SFなら小松左京がいる。彼のペダントリイを喜ぶSFファンがいるように、歴史小説の細密な描写を喜ぶ歴史小説ファンもいるのだろう。その他のあらゆる点でも、本賞の候補となった前作「雷電本紀」からは格段の進歩と言える。しかし本賞は優れた「現代文学」に与えられる賞であると小生は理解している。ではこの優れた歴史小説が、優れた現代文学になり得る要件とは何なのだろう。小生には思いつかないのだが、あるいはそれは他の委員が指摘するように、この作品には皆無の「笑い」なのか(ユーモアは、必須ではないものの、現代文学の極めて大きな要件である)、この歴史的事実がなぜ抹殺されたかという批評的考察または歴史観なのかもしれない。そして現代文学の他の要件である実験性や幻想味などは、この作品には望み得べくもない。

 つまり、ここから先は作家の資質が問題なのであり、小生としてはこの作家が進歩してきた道程をそのまま直進し、優れた歴史小説の作家、物語作家になられることを望みたい。近代小説のいちばん古い形式が冒険小説であるように、物語のいちばん古い型が歴史物語である。共に、現代文学とするには至難のジャンルであることをご一考願いたい。

 見沢知廉「調律の帝国」は、こちらにも作家として相応の想像力はあるので、長期囚である主人公の苦しみを苦痛として感じながら読み続けた。しかしこの苦痛は文学的な不快さにつながるものではなく、優れたノンフィクションを読んでいる時の重苦しさに似たものだ。こういう作品はノンフィクションのようにただ事実を列挙するだけでも主人公の苦しみは充分読者に伝わるのであり、その上さらに作者が読者にそれを感じてほしいと望むような「魂の叫び」を表現しようとするなら、一般的に激烈であるとされている普遍的な、日常的な、結果として自動的になってしまう言語でいかに叫び続けても陳腐になってしまう。「魂の叫び」というのは極めて個人的な、他の誰のものとも共通するところのない、その本人だけの特殊なもので、これを無理に他人に伝えようとすれば勢い、奇ッ怪な、異常な言説になってしまう。だから小説にしようとするならもうひと工夫あるべきで、作者はやりたくないかもしれないが、ユーモアを加えるという手法もある。あまりにも非道な話を聞かされると、たいていの人は笑ってしまうものだが、この作品には読者のそうした笑いを誘発するユーモアがない。

 また、せっかく主人公が獄中で小説を書いていながら、その内容がほとんど書かれていないのはなぜだろう。作品に重層性が伴い、メタフィクショナルになったかもしれないのに。

青野聰

青野聰アオノ・ソウ

選評

 歴史小説を読むことはめったにない、というときの歴史小説は、だいたいは頭のうえに髷があった時代の出来事を、その時代を再現するタッチで書かれたもので、作者の「いま」あるいは「現在」とのつながりは、はぶかれている。はぶくも、けずるも、そういう発想はもとからない、という言い方ができるのかもしれない。だからといって、これは現代文学でない、とあっさりシマツすることには抵抗がある。「神無き月十番目の夜」である。時代が徳川になって、税金取り立ての仕組みがかわる。北関東に、その制度をよしとしない個性のつよい村があって反乱をくわだて、全員がいのちをおとし、村は地図から消える。その村には聖地がある。外部の者にはさがしえぬ「奥」がある。作者は、歴史文献のなかに、反乱に関したほんの数行の記述をみつけて、この物語の「素」としたようだ。調べ方はじつにこまかい。創作するうえで、調べる、という行為は意味がふかく、それもまた創作の一部である。だが、調べられたことが、おおくは小道具類や固有名だが、真っ正直に文章となってあらわれると、それが歴史小説の歴史小説たるゆえんかもしれないが、小説世界に入っていくうえで、くぐっていかなければならない二重、三重、あるいは五重、六重の「のれん」になって、わけてすすんでいくうちに、そのことにつかれる。残念である。私は「奥」を書こうとした小説と読んだ。歴史の奥。日本人の奥。こころの奥。山の奥……など。それらはどんなに入っていっても裏にでることはない。そして「奥」は、けっして中心にはない。だが作者の本意はちがうところにあると察する。いきつくのはモチーフのとらえかた、ということになるようだ。この村を書こうとした契機はなにか。それがよく作者に検討されていて、歴史のなかに入っていく通路として書きこまれていたら、そのぶんきっと「のれん」はその量をへらす。そうすれば現代文学になるというわけではないのだが、これだって現代文学だといえる地平をみつけたいのである。

「夫婦茶碗」の文体は、炊事場のおしゃべりである。女性的なるもの、といっていい。水道の栓をきっちりしめないがための、チョロチョロながれでる音。まないたのうえで野菜をきざむ音。たまごをかきまぜる音。それらのリズムを背景に、炊事場の感性で、つぶやき、主張し、なげき、うたう。こういうおしゃべりに価値があるのは、こうでなければ語りえない世界がある、しかもそれはとても大切であるという認識があってのことだ。はたして世界といえるほどのものであるのかどうか。いままでの小説が、書きこぼしてきたことを、ていねいに、ことばにしていくだけではものたりない。表題作は、単調さがあまりなので「人間の屑」にすすむ気になれなかったが、候補作であるからには苦行であっても読まなければならない。そして読み、感心した。炊事場の感性の限界をよく承知して、なんとかしようとした気配は、環境ホルモンがうんぬんされて男も女もない時代において、背骨に力をとおそうとする果敢な営みと読めた。ゴダールの「気狂いピエロ」を意識したとみるが、一人称で書かれていて、最後に爆死のような死に方をするとなると、つぶやきが六○から八○パーセントをしめるこの文章は、どうしてここに存在しえるのか、という疑問がのこる。おおきな、おおきな疑問である。理屈っぽくはない。そういうことに関心をむけていないということが、炊事場のおしゃべりのレベルからぬけだせない理由だと、私はみる。

「世界座」というカブキ座で展開される劇的な一日を書いた「カブキの日」は、選考会で高く買う声がいきかい、よいシルシがあつまった。カブキをつうじて日本の文化をかたる、その力量はなみのものではないという評価である。おめでとう、小林恭二さん。といっておいてから、受賞者への礼儀として、ほめてばっかりはいられない理由にふれておく。「世界座」は迷路という設定になっている。そうでなかったら、この世界は成立しない。エーコの「薔薇の名前」がだぶったのははじめのうちで、迷路が迷路になっていないことがすぐにわかる。迷路というからにはオリエンテーションをきっちりやって書いてもらいたい。ここでの迷路のありようは、まるでテレビゲームである。作者に「世界座」の三階の設計図を書いてくれといったら、おそらく書けないだろう。それで迷路というのではなさけない。話をひっぱっていく若い男女にしても、純愛ものの図式である。一方のカブキ世界にそそいだ力と、質の高さとのバランスがわるすぎる。作者はなにかに媚びていて、その点が気になる。

宮本輝

宮本輝ミヤモト・テル

力技の劇

 小林恭二氏の小説を初めて読んだのは、十年前の第一回三島賞においてであった。

 確か筒井委員が推したと記憶しているが、私はその「ゼウスガーデン衰亡史」が、いかなる小説であったのか、まるで思い出せない。

 今回、「カブキの日」の最初のページをめくりながら、あれから十年たったのかという思いと、またこんなに長い小説を読まされるのかという思いが重なったが、数ページも読まないうちに、この迷宮とも言うべき「世界座」へと強引にひきずり込まれて行った。

 小林氏の思考と嗜好が、この世とも、宙空ともつかない世界を合体させて、形式、儀式、つまるところ生と死の「化儀」の表裏へとのぼりつめて行く力技は見事というしかない。

「カブキの日」という小説そのものが、壮大なカブキの舞台劇となって進行するが、そのなかで主役とも黒子ともつかない動きをする二人の若者に魅力が溢れていることにも私は感心した。

 大団円で、登場人物のひとりがこう言う。

「藝ほど儚いものはないの。あたしはいつだってカブキは藝だと言ってきた。藝こそカブキだと言ってきた。でもカブキの、いやすべてのお芝居の根本にあるのは、むしろ藝ではなくてこの混沌の力なの。(中略)そしてそのときはじめてみんな気づくのよ。藝はどうしたって。あの素晴らしい藝はどこへ行ったって。お気の毒さま。いったん混沌に蹂躙された藝は二度とよみがえらない。それは永久に失われたまま。すべての藝術がそうやって滅んでいったわ」

 この言葉を、ここ十数年の日本の文学にあてはめてみるといい。

 小林氏は意思的に自分の「カブキ」に花道を使わなかったように思われる。花道は、この小説においては水の上の船舞台にデフォルメされて、自在にあらわれては消えるが、その自在さも、これがあの「ゼウスガーデン」の作家かと吃驚させるほどの域に達している。

 読み終えて、私は小説の長さを感じなかったが、第一回三島賞から十年という歳月には重みを感じた。

 その長い歳月が、ひとりの若い作家に、方法論や観念では達し得ない「人間」としての力量、もしくは精神的ポーションをつちかわせたとしたら、これまでの三島賞にも、これからの三島賞にも、きわめて意味深い今回の受賞だったと思う。

 小林恭二氏の「カブキの日」という立派な力技に敬意を表したい。

 飯嶋和一氏の「神無き月十番目の夜」も、緻密な考証と描写で最後まで読ませる。

 しかし、前回の「雷電本紀」と同様に、読み物ならばこれで充分だがという問題が残っている。「歴史上、このようなことがありました」という域から出ていない。その点は、飯嶋氏の今後の大きな課題だと思う。

 見沢知廉氏の「調律の帝国」は文章があまりにも悪い。文学青年の悪しき見本のような文章でありながら、あとがきでそれを自己弁護するのは、一種の媚びではないのか。

 扱った舞台に思い入れが強すぎるのは理解できるが、「文章」や「文体」を避けて文学は有り得ないと思うし、内容にもほんの少しのカタルシスは必要ではないだろうか。

 町田康氏の「夫婦茶碗」については、私はこの風変わりな才気も、たった二、三作でもうマンネリ化したのかという思いだけが残った。

 この文章、この筋立て……。読む者はいったいいつまで飽きずに支持してくれるだろうか。「俺は俺だ、どんなに飽きられようと、俺はこのやり方で書きつづける」

と町田氏は言うかもしれないが、小説そのものの濃度の薄まりは否定できるものではない。

 角田光代氏の「草の巣」は、よくある小説が、なんだかよくわからない終り方をしたといった印象だった。

 自分の世界というものを充分に認識しないまま、思いつきで小説を書いているのではないかという気がする。素材を醗酵させる時間が必要だ。

 リービ英雄氏の「国民のうた」は、私のものさしで言えば、小説になっていない。「私小説といえども、つくって書く」と言った人がいるが、リービ氏だけの、あまりに個人的なこだわりだけを押し出して、そこにドラマツルギーをまったく排除した書き方をするのは、一部の勉強のよくできる人たちにはよろこばれるだろうが、リービ氏の湿潤な特質までもが稀薄になっていく危険性を孕んでいる。

 以上、六作について、えらそうにご託を並べてきたが、今回は粒が揃っていて、久しぶりに小説を読む楽しみを味わわせてもらった。

選考委員

過去の受賞作品

新潮社刊行の受賞作品

受賞発表誌