佐野眞一
(1)憲法は言論・表現の自由を保障している。しかし、これを表現の自由が確保されている証と理解する文学者がいたら、それは文学者の名に値しない。表現の自由はア・プリオリにあるのではなく、自らの表現活動そのものによって獲得してゆく者だけが文学者である。すなわち文学者にとっての表現の自由とは、天賦の権利ではなく、その範囲を広げ深めてゆくための職業的義務である。
(2)上記の理由によって、タブーや制約は基本的に一切ないと考えている。しかし、書かれる者のプライバシーに関しては最大限の配慮がなされなければならないし、裁判を含めた反論の自由も保障しなければならない。前項の考えにしたがって、私は『東電OL殺人事件』で被害者の実名を書いた。匿名ではむしろ死者を冒涜することになると考えたからである。私は、ペン習字の手本のような美しい文字で、渡辺の辺をわざわざ旧字の「邊」を使って書いた彼女が、自分の名前にどれだけ誇りと愛着をもっていたかを知っている。しかし、被害者の家族に関しては名前も住所も明かさなかった。『カリスマ』では、名誉毀損の裁判を起こされ和解で決着した。わが身がいつもこうしたぎりぎりの状況にさらされることを覚悟し、表現の自由について悩みつづけることが、作家たる者の矜持であり、最低の条件であると私は考えている。
(3)今国会で「個人情報保護法」なる耳ざわりのいい法案が可決されようとしている。高度情報化社会の到来によって、プライバシーを含む個人情報が、民間情報取り扱い業者などによって漏洩する危険性はたしかに増している。しかし、私たちは個人情報を最も多く管理しているのは国家だということを忘れるべきではない。そのことをまったく不問に付しておきながら、個人情報の保護という美名のもと、明らかに政治家、官僚、経済人などへの取材規制を狙ったこの法案は、政府に対する自由な言論の封殺をもくろんだ明治時代の讒謗律と何ら変わらない希代の悪法といわなければならない。違反すればたちまち逮捕され、六カ月以下の懲役もしくは三十万円以下の罰金に処せられる。この法律が施行されれば、言論人の手足がもがれ、文学者の口がふさがれるだけではなく、すべての日本人の目と耳が奪われる。一般には心地よく響く「報道被害」という言辞をあえてないまぜにして加勢させ、言論と表現の自由を縛ろうとする政府の悪辣さと時代錯誤は絶対許してはならない。
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