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アンケート
 
(1)文学者として表現の自由は確保されていますか。そう考えるのは何故ですか。
(2)表現の場で、自らに課している制約ないしタブーがありますか。それはどんな、制約ないしタブーですか。また、何故ですか。
(3)文学表現と司法の関係について御意見をお聞かせください。

李恢成

(1)日本は高度に発達した資本主義国であり、一般民主主義の力はかなり強い。
 そこから文学の場における表現の自由も基本的には確保されていると思う。ただし、タブーは温存されている。たとえば、「天皇」もしくは「天皇制」さらには「天皇の戦争責任」これらを徹底的に書こうとすれば、作家は先人のたび重なる筆禍事件を思い出さざるを得ないだろう。これは、目に見えぬ統制によるものであり、それが自己規制をもたらしやすい。近年のナショナリズムの台頭も不気味である。
(2)右のタブーにめげてはならないと自分に言いきかせている。かって私は『追放と自由』という長編小説を「新潮」(一九七四年八月号)に発表したことがある。天皇のテロを企てる帰化朝鮮人青年の生活と心理がモチーフであった。そのおり編集部の人が身辺に用心してほしいといってくれた。有難かった。さいわい、何事も起らなかったが。
(3)柳美里氏の『石に泳ぐ魚』をめぐる裁判で、東京高裁が「出版差し止め」にしたのはまことに遺憾であった。
 文学者の作品にたいする「出版差し止め」は、よほどのことがなくてはかなわない。よもやの感があった。こういう判決がはたして民主主義と人権を守る判例としてこれから社会的に十分に機能するかどうか、私は危ぶんでいる。人権は守らなくてはいけないが、文学も擁護せねばならない。本件では、「在日」とは何かを根源から問い直す条理が欲しかった。最高裁による大岡裁きを切望したい。
 私は九五年夏、「新潮」編集部の仲介で柳美里氏と会ったおり、「十年間、出版を自発的にストップしたらどうか」と提言した。「なぜですか?」と柳美里氏は質問した。「『モデル』が身障者です」と私は言った。『モデル』が芸術家をめざすかぎり、自立する日まで出版の日を遅らせたほうが友情があると私は考えていたのである。
「私も身障者です」間髪を入れず柳美里氏はそう反論した。そして気分が悪くなってその場で倒れた。私と編集者は彼女をのせた救急車が病院に向うのを見送った。

佐野眞一

(1)憲法は言論・表現の自由を保障している。しかし、これを表現の自由が確保されている証と理解する文学者がいたら、それは文学者の名に値しない。表現の自由はア・プリオリにあるのではなく、自らの表現活動そのものによって獲得してゆく者だけが文学者である。すなわち文学者にとっての表現の自由とは、天賦の権利ではなく、その範囲を広げ深めてゆくための職業的義務である。
(2)上記の理由によって、タブーや制約は基本的に一切ないと考えている。しかし、書かれる者のプライバシーに関しては最大限の配慮がなされなければならないし、裁判を含めた反論の自由も保障しなければならない。前項の考えにしたがって、私は『東電OL殺人事件』で被害者の実名を書いた。匿名ではむしろ死者を冒涜することになると考えたからである。私は、ペン習字の手本のような美しい文字で、渡辺の辺をわざわざ旧字の「邊」を使って書いた彼女が、自分の名前にどれだけ誇りと愛着をもっていたかを知っている。しかし、被害者の家族に関しては名前も住所も明かさなかった。『カリスマ』では、名誉毀損の裁判を起こされ和解で決着した。わが身がいつもこうしたぎりぎりの状況にさらされることを覚悟し、表現の自由について悩みつづけることが、作家たる者の矜持であり、最低の条件であると私は考えている。
(3)今国会で「個人情報保護法」なる耳ざわりのいい法案が可決されようとしている。高度情報化社会の到来によって、プライバシーを含む個人情報が、民間情報取り扱い業者などによって漏洩する危険性はたしかに増している。しかし、私たちは個人情報を最も多く管理しているのは国家だということを忘れるべきではない。そのことをまったく不問に付しておきながら、個人情報の保護という美名のもと、明らかに政治家、官僚、経済人などへの取材規制を狙ったこの法案は、政府に対する自由な言論の封殺をもくろんだ明治時代の讒謗律と何ら変わらない希代の悪法といわなければならない。違反すればたちまち逮捕され、六カ月以下の懲役もしくは三十万円以下の罰金に処せられる。この法律が施行されれば、言論人の手足がもがれ、文学者の口がふさがれるだけではなく、すべての日本人の目と耳が奪われる。一般には心地よく響く「報道被害」という言辞をあえてないまぜにして加勢させ、言論と表現の自由を縛ろうとする政府の悪辣さと時代錯誤は絶対許してはならない。

村田喜代子

(1)確保されていない。
 理由は、新聞に寄稿するとき、用語の制約がある。
 そしてこの制約も各社まちまちで、一貫性がなく、わずらわしい。
 例えばA社「処女」――処女航海などもダメ。
    Y社「片手落ち」――片落ち、と変えて掲載されていた。
    N社「朝鮮」「骨董屋」「八百屋」。これらが他社では通用する。
(2)エッセイ・小説共に、自分以外の人物を多少でも書く場合は、本人と知れぬよう徹底的にデフォルメして造形する。それがムリな場合は書くことを断念する。これは家族、肉親の場合も同じ。自分ごときの文章で、たとえ我が家の犬一匹たりとも迷惑はかけたくない。文学は普遍的産物と同時に、個人的事業なので、周囲の個人を脅やかしてまで商(あき)なうことはしたくない。
(3)文学の営みと司法は対極にある。
 接触すればミもフタもない結末になりそう。
 深酒した者が法廷に立ってしゃべらされるようなものだ。
 こちらも困るが、向こうも困る。