立ち読み:新潮 2017年11月号

第49回新潮新人賞受賞作
蛇沼/佐藤厚志

第一章

 徳宝寺の門の脇で新芽を見せ始めた柿の木が夜露に濡れてオレンジ色の電灯でぬらぬらと光っていた。門の下に佐山恭二と松井裕瞬ゆうしゅんは立ち、特にする事もなく本堂の方を眺めていた。深夜、経をあげる声が本堂に響いていた。弔問客や世話役の通夜振る舞いと、その後の片付けも済んで近親者だけが先代住職の裕玄ゆうげんを偲び食堂で空いた腹をおにぎりで満たしていた。
 汗の臭いにたかるシマ蚊や耳元をぶんぶん飛ぶアブから逃れるように「俺は帰るよ」と恭二は言い、裕瞬はちょうどたばこに火をつけ肺いっぱいに煙を吸い込んだところでうんうんと頷き煙を吐きながら「遅くまでありがとな」と言った。
 遠くからスピーカーの重低音が聞こえ、たいら駅の方から田んぼ道に沿って車のヘッドライトが連なりこちらに向かっていた。時々長い車体が道路のくぼみを踏むとヘッドライトが上に下に揺れた。恭二はポケットに手を突っ込んだまま門の外に出た。裕瞬も同じく何がやってくるのかわかっていて、吸っていたたばこを地面にこすって消し、門を出たところの用水路に投げ捨てて自分たちを照らし出して近づく車列を迎えた。車が次々と道路から寺の私道に折れて入ってくる。門の前にふてぶてしく並んだ八台の車のうち七台がアメリカ車で列の最後の車だけ国産のセダンだった。
 裕瞬はヘッドライトを消せと指差した。先頭のシボレーインパラからベースボールキャップの男が細長い体を揺らしながら降りた。二十歳の恭二と裕瞬よりも年上だった。アイドリングしたアメリカ車のそれぞれの開いた窓から爆音のヒップホップがたれ流され、田んぼの真ん中で音といえば蛙の鳴き声というほどの土地でそれらのエンジン音とカーステレオは異質で暴力的だった。
 にやにやしながらベースボールキャップの男は誰に話しかけるわけでもなくたばこに火をつけ、地面すれすれまで車体を低く改造した車に寄りかかった。
「川田さん、ステレオ勘弁してくださいよ、夜中ですよ」裕瞬は言った。
 川田と呼ばれた長身のベースボールキャップの男は何がおかしいのかくすくす笑い、車に残っている他の仲間をのぞき込んで頷き合った。
「ライトだけでも消してください」と裕瞬は言った。
 恭二は一番後ろのセダンの運転席で大沼りょうが開いたパワーウィンドウから肘をつきだしているのを見て体が火照るのを感じた。足下を探り手の平に収まるほどの石を拾ったが、これではだめだとすぐに落とし手を払うと、寺の門をくぐって木製のバットを手に戻ってきた。シボレーインパラのバンパーの前にバットを構えて恭二が立つと、川田は両手を広げて「待て待て」と恭二と車の間に立った。恭二はバットを川田に突きつけて「エンジンを切れよ」と言った。
 川田は自分の車のエンジンを切り後ろの仲間にも合図してエンジンを切らせた。エンジンが止まり、カーステレオの重低音が止むと蛙の声が再び聞こえるようになった。しかし一番後ろの大沼涼の車だけがまだエンジンを切らず音楽をかけ、ライトをつけたままだった。
 恭二は振り上げたバットを目の前のシボレーインパラのヘッドライトに叩きつけた。ライトカバーが砕け、もう一度叩くと中のライトが割れた。それを合図にアメリカ車から仲間がまるでこういう展開を今か今かと待ち、やっと出番が来たとばかりに怒号をあげて飛び出してきた。連中は一様にだぶついたパンツに、無地かあるいはNFLやNBAのチームTシャツを着て、首から太い鎖についた馬鹿でかいエンブレムをぶら下げている。肩をいからせながら近づいてくる。十人以上の怒声が犬の吠え声のように田んぼに響いた。その吠え声も、門に裕瞬の父で徳宝寺現住職である、熊のような巨体の裕光ゆうこうが現れると尻すぼみに止んだ。
 頭上の電灯に照らされた裕光を見るとほとんどのものが波紋のように広がる威光にたじろいで後退りし、反射的に車のドアノブに手をかけるものさえいた。裕光はチンピラには目もくれずゆっくりと草履で砂利の地面を踏みしめて一番奥の大沼涼のところへ向かった。寺の私道は狭く、皆裕光が通るときは車と車の間に避けるか車に乗り込んで道を空けた。窓越しに裕光と大沼涼が顔を近づけて一言二言話し、それが済むとエンジンが切られライトが消された。大沼涼は車から降りて裕光の後ろについてきて、今にも飛びかかりそうなほどの憎悪を込めて睨む恭二を見て笑みを浮かべると「ちょっと線香を上げさせてくれよ」と言い、境内への短い階段を早足に上がっていった。
 静けさが戻り、騒音の後でより際だつ蛙の鳴き声だけが響く中、恭二と裕瞬は涼の率いる男らとにらみ合っていた。彼らの半分は、涼が跡取りとなっている大沼蒟蒻店の従業員たちで、半分はただの地元のチンピラだった。大沼涼は堂々と門から出てくると車に乗り込み、乱暴にUターンしてタイヤを鳴らしながら走り去った。無駄に車体の長いアメリカ車の連中も徳宝寺の狭い駐車場に入って何度も切り返して方向転換すると慌ただしく去っていった。最後に残っていた川田が左側の運転席からくわえていたたばこを恭二のほうへ投げ「ヘッドライトのことは今度だ」と言い捨てて消えた。再びヒップホップの爆音で騒がしくなったが、帰りはどの車もまるで競争するようにものすごいスピードで遠ざかっていった。
 中に入れ、風邪ひくぞ、と裕光の腹に響くような声が聞こえた。
 手にしているものに今はじめて気付いたように恭二はバットを見て、棒きれを振り回して大人に叱られるほんの小さい子供のようだと思った。自分の親父の前ではそう思わないのに裕光の前に立つといつも自分が圧倒的に未熟で出来の悪い子供だと感じた。黒のストレートチップに泥がべったりついていたので指で拭い、げんこつでつま先をこすった。ネクタイにも泥が跳ねていた。恭二が汚れを気にするのを見て、裕瞬は自分の黒のスーツにも泥が付いてないか確かめ裾が汚れているのを恭二に見せた。
 また明日、と恭二は裕瞬にバットを渡し、歩いて三分の自分の家に帰った。

   ○

 恭二は革靴の紐をしっかり締めた。外に出て深く息を吸い込むと肺にちくちくと冷気が刺さるようだった。霧雨がじっとりと頬や髪の毛にまとわりつく。スウェットパーカのジップを上げ、ポケットに手を入れた。納屋の方を見ると父の郁男が田植機を前に後ろに動かしたりしてメンテナンスをしていた。十センチを越えたくらいの稲の青い苗がびっしり詰まったプランターがビニルハウスの前一面に広げられていて、近くで母の弓子と兄貴の総一がバケツリレーでプランターを軽トラックに積み込んでいる。恭二はその横を通り過ぎた。誰も恭二の方を見なかった。
 別の軽トラックが恭二と入れ違いに敷地に入ってきた。田植えを手伝いに来た、隣町の角田に住む叔父である。叔父はぶらぶらと歩いて外へ出て行く恭二を、眉を寄せて不思議そうに運転席から横目でみた。これから田植えの為に親戚一同が集結することになっている。
 木をいぶしたような臭いが漂ってきて、その元を探すように霞の向こうへ視線を上げると遠くで煙が一筋立っている。畑でゴミを燃やしているのだ。恭二は家の前の砂利道から道路に出て堤を右手に見ながら歩いた。佐山家の敷地のすぐ前に農業用水のため池が三つあり、家からも見える一番手前の堤が菱沼、コナラやクヌギなどの鬱蒼とした木立に囲まれ、真っ黒な水面をたたえている真ん中の堤が蛇沼、一番端のまん丸で小さい池は特に呼び名はない名無しの池だった。
 蛇沼のすぐ目の前で足を止めた。向こう岸からせり出すように生えるヤナギが黒い水面に柔らかい枝を垂らしていた。水面が影になって暗ければ暗いほど水中の魚の動きがわかった。じっと目を凝らすと大人の腕ほどの大きさの雷魚が現れ、緩やかに目下を横切った。雷魚が呼吸すると石が投げ込まれたかのようにちゃぽんと音がして波紋が広がる。雷魚は肺で呼吸しエラ呼吸をしない。長時間水中にとどまることができず、水面から口を出して呼吸をしなければ魚であるのにおぼれてしまう。蛇沼の水はいつまで眺めていても飽きることがない。魚影が交差するのを見ると気持ちが安らいだ。
 近くを歩いていても見えるのは山と田ばかりだった。山並みに目を這わせ徳宝寺の方に目をやると周囲の山より小さく、こんもりと丸みを帯びた山がある。杉の山だが中腹あたりの落葉樹の原生林が長靴の形にくり抜いたように見えるので「ながぐつ山」と地元で呼ばれ、麓には徳宝寺と並ぶように農産物直売施設「キリの子ミュージアム」があった。ミュージアムといっても、博物館や美術館の類でなく、野菜果実の直売所のほかにみやげや工芸品が売られ、レストランやカフェが併設された複合施設だった。平駅前の「大沼蒟蒻店」がこれを建てた。

(続きは本誌でお楽しみください。)

[→受賞者インタビュー 何答えのない問いの中で/佐藤厚志]