立ち読み:新潮 2018年2月号

〆太よ/原田宗典

〆太のことを話してもいいかな少し長くなるかもしれないけど。

 〆太のことを話してもいいかな少し長くなるかもしれないけど。分かってる小さな声でだろ分かってるよまあ聞いてくれ。
 〆太っていうのは人の名前だちょっと変わってるだろう。奴は生まれつき目が見えないんだそうさめくらだよそしておれの友達だ文句あるかよ大事なのは〆太がめくらだってことじゃなくておれの友達だってことだろ。おれはどうせ下らない人間だけどさ〆太はすごくいい奴だよ頭もいいしおれなんかよりずっと勇気があるあいつの糞度胸には感心したもんな。めくらだなんてそんなこと今じゃおれには全然関係ないよ。
 〆太と初めて逢ったのは去年のちょうど今頃だ。前の日東京にしちゃ珍しく雪が積もってさその雪がまだ残ってたのをよく覚えてるよ。おれは二週間ぶりに“天使”が手に入ってぎんぎんにキマっていたまるで自分のいない世界を垣間見てるみたいに客観的に冴えまくって大変だった。ようするに普通じゃなかったのさだから〆太と知り合えたんだ。普通だったらおれは〆太に声をかけたりしなかったかもしれないだって奴は白い杖をついていたんだぜ及び腰にもなるよ。
 とにかくその日おれはぎんぎんにキマった状態で明治通りを歩いていた爪が掌に食い込むくらいぎゅっと拳を握りしめてさ湧いてくるそばから発散しないと血管がキレそうなほどの力が全身に漲っていた。光はとにかくきれいに見えた車のヘッドライトも街灯もやたら輝いていた。でも明治通り沿いの風景は最悪で何だかボール紙で作ってあるみたいにかすかすだったビルも壁も道路もおれの拳の一振りでばこんと穴が開きそうな感じだった。おれは一つのことをただ一心に考え続けていた平和についてだこの世界がどうやったら平和になるのかおれはその手掛かりを掴みかけている気がした。天使がキマるとおれはいつもそのテのことを真剣に考えるつまりスケールのでかいことをさ。平和とか神とか死とか愛とか宇宙とか時間とかそういうことを考えるとやたら気持がいいんだ。もちろん妄想さそんなことは分かってる。でもキマってる時はそれが妄想に思えないんだな自分がいい線いってるように思えるんだよあとほんの少しで人類最大の謎を解き明かすところまできてる気がするんだ。おれは冴えて冴えて冴えまくり二日間ぶっとおしで飯も食わずに冴えまくってオナニーをこいたり風俗で女とやったり泳いでみたり日焼けサロンへ行ったりしながらも意識の大半はやけに深遠なことを考え続ける。挙句にこれは体がヤバイと気がついて今度はハッパをキメて無理やり眠るそれがいつものパターンだ。目が覚めると吐きそうなくらいだるくて疲れきった自分を発見して心から反省するんだこんなことはもう止めようと。その繰り返しだよ。そんなことを二十歳の頃から五年も繰り返してるんだ最悪だろう。最悪の最低だ。でもだからこそ天使が手に入ればまたやっちゃうんだな最悪で最低の自分から逃れるためにさ。まっとうな方法じゃおれの最悪さは解消できないんだよ。
 話が横道へ逸れたけど気にしないでくれおれはいつもこうなんだ。思いついた順にそのことを話していくからこうなるんだ。右から左へ聞き流してくれればそれでいいんだぜどうせタメになることなんか話しやしないんだから。
 〆太の話だったな。
 とにかくおれはぎんぎんにキマった状態で明治通りを歌舞伎町に向かって歩いていた。おれの巣から歌舞伎町までは歩いても三十分くらいだ大した距離じゃない。世界の平和について考えながら歩くにはちょうどいい距離だ。時間は夜明け前だったから四時半頃だと思うけどよく分からない何しろおれはキマってたからな時間なんておれの気分ひとつで加速がついたりのろくさく流れたりするんだ。舗道の端っこには前の日の雪がまだたんまり残っていたおれは時々その雪をわざと靴先で蹴ったりして歩いた。悪くない感触だったからだ。だけど擦れ違う連中はどいつもこいつも馬鹿面を下げてて蹴るのもバッチイ気がした。誰も彼も自分のことしか考えてないのがよく分かったおれは世界平和について考えていたわけだからそういう連中が許せなかった。
 けれど途中で気がついたおれが考えている平和ってのは結局そういう下らない連中と共有するためのものだってことに。この矛盾はその時のおれにとって少なからずショックだったまいったよ実際。だからおれは平和について考えるのをチャラにして何について考えるべきなのかを考えることにしたまるで自分の脚を食う蛸だな。おかげでおれは混乱して何が何だかわけが分からない状態に陥って脂汗を流しながら明治通りから職安通りへ曲がった。
 ところで職安通りを歩くとおれはいつも何だか後ろめたいような気持になる何故ならその名前の通り左側に職安があるからだそしてそこへ行ったことがあるからだ。あれは三年前二十二歳の時だったかな半端じゃなくバッドにキマったことがあっておれは頭から地面にめり込みそうになったウルトラバッドってやつだ。たぶん混ぜものがしてあったんだろう確かに普通多かれ少なかれ混ぜものはしてあるんだけどあの時のは最悪だった。おまけにおれは馬鹿だからよせばいいのにわざと血圧を乱そうとして風呂に入って出たところでぶっ倒れて脳味噌を絞られるような感じになった。あれは何て言ったらいいんだろうおれの脳味噌はすっかり機械仕掛けになって中には0と1がいっぱい詰まっててその0と1が全部ぱたぱたと裏返っておれの世界が逆転するような気がした。人間は柔らかい機械なんだとおれは悟ったそしてこの機械を創造した神様に罰を与えられたことをはっきり自覚して死にもの狂いで平謝りに謝った。おれはがたがた震えながら謝り続け眠れない夜を二晩過ごした後十九時間二十五分も眠ってようやく目覚めた。目覚めてからは何も考えないようにして部屋の掃除をし食器を洗い便器まで磨いてどこもかしこもぴかぴかにしてプロテインとビタミン剤をしこたま飲み近所のファミレスでハンバーグランチを食ってから職安へ行った。
 おれは真面目になろうと思ったんだきちんと働いて給料をもらいまっとうな金で三度三度飯を食おうと思ったんだよ。そうでもしないとおれは神様に許してもらえないと思ったのさだから職安へ行ったんだ本気だったあんなに本気になったのは大学受験の時以来だ。ところが職安の建物に入るなりおれはたちまち一昨々日のウルトラバッドな状態に引き戻された素面だったにもかかわらずだ。西田さんの話だとフラッシュバックってのはよくあることらしいけどおれはそんなふうになったことは一度もない職安の時だって違うと思うおれは完全にまともだったつもりだが思いっきり落ち込んだ。職安のあの雰囲気。改装工事をしたばかりだったのか何なのかよく分からないけどとにかく建物の中は薄っすらペンキの臭いがして清潔でどこもかしこもきちんとしていた。職のない連中のためのシステムみたいなものが出来上がってる感じがしたマイナス1足す1は0みたいな感じのシステムだ。白いデコラ板を張ったカウンターの向こう側には職員がわんさといてコンピュータの端末をいじったり電卓を叩いたり書類に何か書き込みをしたり電話をかけたりしていたみんな真面目だすごく生真面目だ。そして御丁寧にもロビーの壁にはアイドルタレントがニカッと笑って「確定申告は3月15日までにネ。国民の義務ですもの」なあんて書いたポスターまで貼ってあった。しかもそのポスターの真下の長椅子には赤んぼうを背負ったおばさんとおれの親父くらいの歳のおっさんが座っていて二人とも額に青筋を立て目を吊り上げて政府広報か何かのチラシを読んでいた。おれはもうたじたじとなってすぐに踵を返し職安から逃げ出した。職安にはおれの大好きな真実はこれっぽっちもなくて強烈な現実だけがある。あの現実にはおれは耐えられない顔が歪むそばへ寄っただけでどかんと落ち込む。大学の時の友達の友達の友達で完璧なベジタリアンがいたんだがそいつが三年半ぶりに禁を破って鮨屋で甘海老を食ったらたちまち卒倒して死にかけたっていう話を聞いたことがある。ちょうどそういう感じだったつまりおれは完璧なベジタリアンで職安がおれの鼻先へ突きつけてくる現実が甘海老ってわけだ。おれは自分がもうまともには働けないんだってことを厭っちゅうほど思い知らされた断言はできないけれど少なくともいきなり甘海老を生で食うのは無理だと分かったのさ。
 また話が横道へ逸れた。
 職安通りをやや後ろめたい気分で歩いたおれは早くその気分から逃れたくて今度は区役所通りへ曲がったこの辺りまで来るとすれ違う人種が明治通りとはかなり変わってくる。酔っぱらいの数が圧倒的に増えて水商売系の女やフィリピン系の女やコリアン系の女やオカマ系の男なんかがかなりデカイ面をしてうろうろしている。どいつもこいつも小さい嘘でせこく誰かをだまそうとしているのがおれにはよく分かった嘘はでかけりゃでかいほどバレにくいのにみんな臆病で本当はお人好しだからでかい嘘はつけないのさ何だか気の毒だ。貧乏人同士が麻雀をやってるような感じだせこい金が四人の間をぐるぐる回って結局誰も儲からないのと同じでせこい嘘が歌舞伎町の中をぐるぐる回ってるだけなんだ。まったく頭にくる一体誰がでかい嘘をついてやがるんだおれは許さねえぞ何が区役所通りだこの野郎チョーパンをお見舞いしてやるめためたにしてやるぞと思いながら歩いていく内におれは強烈な音を耳にした。

(続きは本誌でお楽しみください。)