立ち読み:新潮 2018年6月号

小説の現在地とこれから/高村 薫

 実は、こうした場で本業の小説の話をさせていただくのは久しぶりでございます。一年に数回、地方の図書館や自治体、あるいは最近ではお寺さんのお招きで講演にまいりますが、そこで私に求められるのは小説の話ではなく、政治や社会状況についての時評や仏教の話が大半だからです。ひょっとしたら私、高村薫は小説家というより、評論家もどきの印象のほうが強いということでございましょうか。そうだとしても日ごろの私自身の言動によるものですから、自業自得ではございますけれども、見方を変えますと現代の日本においては、小説そのものについての「論」、もしくは特定の小説についての「作品論」が一般にそれほど求められていないことの証でもあるかもしれません。
 小説論や作品論が求められないとは、どういうことか。一つには、小説そのものが昔のように読まれなくなり、小説が時代や社会に占める役割が相対的に小さくなったということでございましょう。かつて小説が占めていた位置の多くが、マンガ、アニメ、映画、種々のゲーム、あるいはYouTubeやインスタグラムなどに取って代わられたいま、わざわざお金と時間をかけて小説の何たるかを深く知る理由もないのは当然でございます。
 小説論が求められないもう一つの理由としては、小説作品そのものの内容が昔とはだいぶん変わってきて、あらためて作者や評論家に読み解いてもらわなければ十分に中身を咀嚼できない、といったものではなくなっていることもあろうかと存じます。端的に、昨今の小説は誰でもおおむね読めば分かるし、あえてそのように書かれているということでございます。これは小説観そのものに直結する変化ですので、本論のなかでもう少し具体的に取り上げることにいたしますが、ともあれ、この私を含めていまどき「小説家」を自負している人間は、何につけてもあまりお呼びでない時代になったようではございます。
 さて、そのような時代に、本日は小説家が小説の話をさせていただこうというのでございますが、現役の書き手として、さらには幾つかの文学賞の選考委員として、最近よく考えさせられることを取っ掛かりにしながら、日本語で書かれる小説の現在と未来を俯瞰してみたいと考えております。
 順序としては、まず初めに2018年の「小説の現在地」がどのようなものであるかを概観し、同時代の小説に起きている変化が、日本語の小説の受容のされ方、ひいてはこの国の小説観そのものの変容をもたらしている実態を見てゆこうと思います。次に、そうした現実に抗うものとしての小説―――ありていに申せば、従来の文学はいまなお可能であるのかについて、現役の書き手である私の考えを述べさせていただきます。それはすなわち「小説とは何か」という私の個人的な小説論になりましょうし、この私の「現在地」ということにもなるだろうと考えております。
 もっとも、小説の書き手は文芸評論家や文学者と違って、自身の小説作法を分析する思考を基本的にもっておりません。言い換えれば、なぜそう書くのか、なぜそういう表現にするのか、なぜそういう筋の運びにするのかを自分では説明できないということですが、一方で頭のなかには確固とした見えざる道があって、そこから逸れたものは直感によって拒絶され、破棄されたり修正されたりして、一行一行文章を紡いでゆくのです。職人の手仕事に似て数値化はできないけれども、身体のなかに揺るがない物差しがある。また、そういう人が小説家という生きものになるのですが、ともあれそういう小説家が語る小説の話でございますので、多少の独断と偏見はお含みおきいただければ幸いでございます。

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 さて、まずは2018年の「小説の現在地」でございます。一つはっきりしておりますのは、恣意的な分け方であれ、便宜的な分け方であれ一昔前まで一般に了解されていた純文学とエンターテインメントの境界が、いよいよ溶け出してしまったことです。これは「溶け出している」ではなく「溶け出してしまった」という、まさに完了形の話です。現に、純文学の文学賞である芥川賞や三島賞の候補にあがってくる作品の顔ぶれを見れば、境界があいまいになっているのはここ数年の顕著な現象でございますし、織田作之助賞という文学賞では、もともと芥川賞受賞者が次の文学賞を取るまでの中継ぎ的な意味合いの性格だったものが、ここ数年は純文学とエンターテインメントが完全に同じテーブルに載せられるようになっておりまして、私などは選考委員として戸惑うことも少なくありません。
 こんな状況になっている理由は、純文学とエンターテインメントを分けること自体が難しくなってきた小説そのものの変化にあります。いつの時代も小説の書かれ方、読まれ方は変化してゆくものですから、ある時代には有効だった境界線がやがて意味を失ってゆくのは不思議なことではございません。21世紀の今日、芥川賞と直木賞、三島賞と山本賞を分けることが難しくなっているのは、具体的には両者の候補作の間に内容や小説作法の差がないケースが増えたということでございますが、もう一歩踏み込むならば、書き手や読み手が小説に求めるものが変わった、すなわち小説の姿が変わったということなのです。
 もっとも、かつて存在していた純文学とエンターテインメントの境界線も、確たる定義があったわけではありません。そのため両者の混じり合いは以前から見られたものでもありました。たとえば一つ例を挙げますと、1998年上半期に直木賞を受賞した車谷長吉氏の『赤目四十八瀧心中未遂』という作品がそれでございます。当時もたいへん驚きましたけれども、私はこれが直木賞である理由が分かりませんし、いまも間違いなく芥川賞のほうがふさわしいと思っております。また逆も然りで、どう読んでも直木賞ではないかと思う芥川賞の例もたくさんございます。
 ともあれ、そういう視点で既存の文学賞の現状を眺めてみますと、かろうじて新人かベテランか、短編か長編かの違いで分かれているだけで、昔もいまも、純文学とエンターテインメントの間には、一般に考えられているような差はないと断じてもよいのかもしれません。とくに純文学は、実験的手法や文体に固執するあまり、極端に狭い世界になりがちなところがございますし、文芸誌に作品を発表していても、そうした狭い世界に閉じこもることに積極的な意味を見いだせないと考える若い書き手が増えているのも、自然な流れではあるだろうという気がいたします。
 もちろん、こうした状況を正しく眺めるためには、そもそもこの国で語られてきた「純文学」とはどのような小説のことを指していたのかを把握しておく必要がありますが、結論から申しますと、純文学とは何かを定義するのはまさに不毛な試みでしかありません。たとえば、近年たいへんなベストセラーになった又吉直樹氏の『火花』が、ひとまず純文学に分類されている理由は何でしょうか。『火花』という作品は、作者が太宰治の愛読者を自負しておられるとおり、業界で独り立ちを目指す若い芸人たちの苦悩や葛藤を描いた典型的な青春小説でございます。小説作法としても物語としても、ある意味たいへん古風な雰囲気の文芸作品ということができますが、実際には、太宰がとりあえず純文学の範疇に入っている限りにおいて、『火花』も純文学ではあるだろうというに過ぎません。一方で、これが純文学だという定義などは存在しない以上、太宰が純文学である明確な根拠はございませんし、同様に『火花』も、これが純文学であるかどうかは、同時代の文学状況のなかで何となくそういうふうに色分けされている、ということが言えるだけなのです。
 もっとも、『火花』に感動した読者にとっては、これが純文学であろうとなかろうと大した問題ではないことでございましょう。純文学とエンターテインメントの境界が溶け出してしまった一因も、まさにそこにございます。純文学とエンターテインメントという二種類の小説があるということは、小説の書かれ方・読まれ方に二種類あるということであり、小説に求めるものが違うということでございますが、昨今は書き手も読み手もそのことにあまり頓着しなくなりました。こだわりがなくなれば、両者の差異が埋もれてゆくのは当然でございます。
 しかしながら、両者の差がなくなって境界が溶けだしてしまったことの真相は、二つが融合して一つになったということではありません。AとBが一つになってCになったのではなく、AがBに近づいた、もしくはAがBに吸収されつつある、というのが真相です。もちろんAが純文学、Bがエンターテインメントです。2018年、小説の現在地で起きているのは、ひところ言われたようなジャンルを超えた両者の融合ではなく、簡潔に言えばエンターテインメントの隆盛であり、小説の主流ではなくなった純文学の後退であり、エンターテインメントに吸収されてもとのかたちを失った末の純文学の変容なのです。両者の間にある小説の書かれ方の差、読まれ方の差そのものが消えたのではなく、書き手も読み手もその差にこだわらなくなった。それと同時に、純文学の書かれ方・読まれ方のほうが大きく後退し、結果的にエンターテインメントに引き寄せられてゆく作品が増えたことで、あたかも両者の境界が溶けだしたように見えているということなのです。

(続きは本誌でお楽しみください。)