立ち読み:新潮 2018年10月号

対談 人間の外側へ/村田沙耶香×西 加奈子

人間を解体する

西 私は村田沙耶香さんの作品を読むと、いつも自分の常識を崩されます。ここからはいつものように沙耶香と呼ばせてね。沙耶香には、自分の奥底に居座っていた根深い偏見や常識という呪いを、「まだあったのか」と突きつけられる。『地球星人』もまさにそうで、私って本当に大衆側のことをしているなと痛感しました。例えば周りに妙齢の独身男女がいたら、これまで私はどこかで二人がお付き合いしたらいいなと思ってきたけど、それがどれだけ暴力的なことやったか。だから、私は沙耶香の小説を読むたび、毎回自分のことを許せなくなるんだよね。
 それでも、私は被害者としてはこの作品を読まなかった。むしろ加害者として読めたから、まだ許してくださいという気持ちになりました。もちろん主人公の奈月の側にも立ったけど、もしかしたら姉の貴世みたいなことを私はしているのかもしれない。ただ、貴世もお母さんも、実は奈月の知らないところでものすごく地獄を味わっているんですよね。具体的に書かれてはいないけど、きっとお父さんも地獄の中にいるんだろうと思う。
 あと、奈月のいとこである由宇とその母親の関係の描き方もグサッときました。私も息子がいるから一方的に母親の振る舞いを糾弾することはできないんだけど、自分も愛という名を借りた暴力を子供に働いてしまっているのではないかと考えさせられて。本当に、どこまで価値観を壊してくれたら気が済むんや、みたいな感じでした(笑)。

村田 ありがとう。西加奈子さんという人を、本質的には厳しい真摯な読み手だと思って信頼しているので、こうして改めて作品についてお話しする機会を頂いて感謝します。ここからは、私もいつも通り加奈子ちゃん、と呼ばせてください。この作品は、『地球星人』というタイトルから想像するより、ずっと重い作品だよね。

西 確かに重い作品ではあるけれど、同時にどこかユーモラスでもある。子供時代の奈月がおそらく自分の手で、通っていた塾の伊賀崎先生を殺したでしょう? でも、そのあと先生が誰かに殺されたことを知った同級生が「酷いよねえ。許せないよ!」と言っていると、奈月も一緒に「許せないよ!」と叫んだりするのには笑ってしまいました。あと、奈月の夫の智臣が父親に殴られ、「やめてくれ、助けてくれ!」とあえて芝居がかった言い方をするシーンも妙におかしかった。
 こうしたユーモアは大衆側の振る舞いをじっと見つめるときに生まれる面白さで、私も笑うには笑うねんけど、後からその笑いの意味をすごく考えさせられる。それに、沙耶香の作品に出てくる登場人物は主人公を含めて全員真剣やから、茶化せないところもあります。

村田 ずっと前にやはり「新潮」で作品を書いたとき、編集長がゲラに「ヒューモア」とメモしてくれたのが記憶に残っているんです。人間の奇妙さ、不思議な部分を含めての面白さ。私は「ヒューモア」という言葉を勝手にそう解釈し、自分の作品にそうした面白さをもっと書きたいと思ったのを覚えていて。だから加奈子ちゃんにそれを感じてもらえたならすごく嬉しいです。

西 沙耶香の小説は常に問題作ではあるけれども、誰かのことを批判しているわけではない。人間をひたすら解体していった結果こうなったという意味では、実は淡々と書かれた作品なんだと思います。普通こうした小説を書く作家なら、具体的な何かに批判的なのだろうという考えが働くものだけど、作中に沙耶香の「こんなことをしてはいけない」という叫びはひとつもないんだよね。だからこそ、逆に不気味なのかもしれないけど。私たちの共通の友人の小林エリカさんが、賛成や反対という立場を超え、作品を通して放射能の光を見ようとしているのと同じで、沙耶香は小説を書くことでただただ人間を解体していこうとしているんだと思う。そこに下手にメッセージ性を求めてしまうと、それは常識の範囲内での読み方しかできていないことになるわけだから、読者の側も問われますよね。

村田 確かに、私はメッセージを作品に載せることは得意ではないんです。たまに取材に来てくれたインタビュアーさんに、「世界を呪っている村田さん」「恨んでいる村田さん」と言われて否定するくらい(笑)、たとえ主人公が怒りを抱えていても、私自身はあまり怒っていないんだよね。怒りをエネルギーにして小説を書くことができない。『地球星人』の場合は珍しく、奈月に性的な暴力を振るった伊賀崎先生への怒りを強く感じていたけれど、一方で彼の人生とか、家族とかについても想像していました。しなければいけないと感じていた。

西 それも含めて書いているもんね。

村田 自分はどこか怒りきれないところがあって、世の中に対してちゃんと怒り、それを燃料に書ける人をむしろ尊敬しているんです。私は単純に人間がどういうものか知りたいという気持ちや、作品を書き終えたときに逆に自分がどれほど解体されているかを知りたいという気持ちでやっているから。それこそ加奈子ちゃんが言うように、作品をつくる過程で私自身の中の常識がどれほど崩れ、いかにしてそれまでとは違う人間、あるいは違う生き物になっていくかということを探しながら書いている。

西 沙耶香の思う、自分の常識って何なの? 話している限りで、沙耶香からバイアスみたいなものを感じたことは一度もないけどね。

村田 でも、私にもバイアスや固定観念はあると思うよ。例えば『コンビニ人間』を書いているとき、もし私が主人公の古倉さんに出会ったら、彼女に向かって「社員になったらどうですか?」って言っちゃうんじゃないかなという怖さがあった。『タダイマトビラ』も、自分が考える家族をテーマにしたつもりなのに、書き進めるうちに「そもそも家族って何だ?」「人間って何だ?」という方向に話が転がっていって、最後には思ってもみなかったところまで来ちゃったなという気がしたのを覚えてます。
『地球星人』も最初は長野を舞台にするという設定だけを決めていて、作品の中で奈月が受ける性的被害のシーンは削ってしまうことも一度は考えたのだけど、やっぱり私はその場面をどうしても描かずにはいられなかった。ずっと書きたいテーマでしたが、葛藤もありました。いつもはラストを決めないけれど、このテーマに特別な感情があって、書き始めた当初は読んだ人が最後に救われる話にしたいと思っていました。でも、結局そういう話にはならなかった。というか、奈月に拒否されたような感じです。彼女を安易な形で救うことがどうしてもできなくて。きっと、私自身が「救われない小説」に救われてきた人間だからですね。

(続きは本誌でお楽しみください。)