立ち読み:新潮 2019年12月号

奈落/古市憲寿

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 62番目の染みの隣には、小さな窪みがある。ピアノ教室を休みたかった私が、メトロノームを天井に叩きつけた時にできた跡だ。あんなに嫌だったピアノなのに、今では鍵盤を叩く感触を思い出すと泣きそうになる。63、64、65、66。四つの染みは、カーテンレールのすぐそばに星座のように並んでいる。偽十字座という名前をつけたのは、目を覚ましてから2066日目。今日から4073日前。暗算ばかりが上手になってしまった。
 いびつな偽十字の隣では、色褪せたレースのカーテンが風に揺れている。施された花柄の刺繍が、一層デザインを土臭く見せていた。こんなに長く眺める羽目になるのなら、母が自慢げに買って来たその日に引き裂いてやれば良かった。当時から我慢できないほど野暮ったいと思っていたのだから。情けないのは「かわいいでしょう」と笑う母に思わず「ありがとう」と返事をしてしまったことだ。中学生の頃の私は、センスも知性もない母に何を伝えても無駄だとあきらめていた。どうせ数年で出て行く予定の、親から与えられた部屋に権利を主張するのも馬鹿らしいと思っていた。
 67、68、69。中学校の卒業アルバムの隣には、ピンクの背表紙の文集が並んでいる。70、71、72。高校三年生の三月で止まったままの壁掛けホワイトボードの上には、丁寧に額縁に納められた大学の合格証書。それがまだあの人たちにとっては大切なのか。73、74、75、76。真っ黒いテレビデオの横には、無造作に置かれたたくさんのビデオテープ。きっとほとんどが当時の出演番組なのだろう。77、78。アンモニアの消毒液と、排泄物の混じった匂いには今でも慣れない。79。いくらそれが自分のものだったとしても。80。あの人たちは何も思わないのだろうか。
 79、80、81。数字を数えるのはピアノを弾くのに少し似ている。ミソラソラ。何気なくピアノで弾いていただけなのに、ラの音が鳴った時に自然と涙が出そうになって、その勢いで一曲を作ってしまった。私が初めて作った曲は、今でも頭の中で急に響き出す。
 間違いない。天井の染みの数は今日も81だった。起きるたびに、必ず81を数えるようになって、もう何千日が経つだろう。鍵盤の数には7つ足りないけれど、何度も私を救ってくれた魔法の数字。
 そういえば子どもの頃は、頭を打った時、自分が正常であることを確かめるために、よく九九の七の段を復唱していた。奇数が多くて、法則性に乏しい上に、リズムの取りにくい七の段。しちいちがしち。しちにじゅうし。「しち」ではなく「なな」だっただろうか。なないちがなな?
なないちはなな? やっぱり、しちいちがしち?
 すぐに思い出せないことはたくさんある。サザエさんに出てくる伊佐坂先生の娘の名前。島根県の県庁所在地。1は煙突、2はアヒルで始まる数え歌の3。逆立ちをすると軽くなる生き物。うみくんの電話番号。気になったことをすぐに調べられないのは、いつまで経っても慣れない。姉や母が持つあの小さな板を使ってインターネットに接続すれば、答えはすぐにわかるはずだ。
 子どもの頃から、図鑑で調べものをするのが好きだった。もう題名はおぼろげにしか思い出せない。毎日のように何度も読んだはずなのに。あの黄色い背表紙の本は何だっただろう。表紙にドーナツ型のスペースコロニーが描かれた小学館の図鑑。写真のようにこびりついているページならいくつもある。観光用のスペースシャトルで宇宙旅行を楽しむ人々。4・3光年離れた恒星へ向かう光子ロケット。
 この部屋からさえ抜け出せなかった私にとって、途方もない規模で語られる宇宙の物語は胸が躍った。いつか大人になったら、この家やこの街どころか、地球さえも脱出できる。しかもその日は、あまり遠くない未来。そう思うたびに早く大人になりたいと思った。それがまさか大人になってからまた、この部屋に閉じ込められることになるなんて。
 だから、やたらこのベッドで宇宙の夢を見てしまうのだろうか。一日に何度も朝が訪れる地心軌道上のホテルから、無数の光が明滅する地上を眺める夢。
 女の子なのに宇宙が好きなのね。そう言ったのは祖母だったか。手を伸ばすことができれば、図鑑はすぐそこにあるはずだ。金属の本棚の二段目。きっと卒業アルバムの二冊隣。それにもかかわらず、もう一生、そのページを繰ることができないのだろう。だけど、その程度のことならあきらめるのは容易たやすい。図鑑で得た知識や、抱いた感情はとっくに自分の一部になっているはずだから。
 今日も時間通りにインターフォンが鳴る。月曜日の朝だから清水くんだろう。小太りで猫背の上に、歯並びが悪いせいでまるで垢抜けない見た目だが、痩せれば悪くない外見をしている。整形と矯正でもすればいいのに。
 整形手術をするにしても、目と鼻と口の位置を動かすことはできない。清水くんの顔は整形向きだ。整形といえば、去年まで来ていた山崎はひどかった。プロテーゼを入れて尖らせた鼻に合わせて、おでこや頬にヒアルロン酸を注射したせいか、顔全体が球体のようになっていた。介護の仕事だけで整形費用がまかなえると思えないから、夜はきっと西小岩や葛西あたりで働いていたのだろう。
 仕事も雑だったので、彼女が結婚を機に止めると知ったときは嬉しくて仕方がなかった。頼んでもいないのに山崎は結婚相手の写真を見せてきた。彼女と同じく、鼻とあごからプロテーゼが飛び出しそうになっている金髪の男。お似合いだと思った。結婚相手を探す時に、イメージをよくするためのアリバイとして介護職に就いているのだろうという見立ては外れたけれど。
「香織さん、おはようございます」
 大きくウサギがプリントされた格好悪いエプロンをした清水くんが部屋に入って来た。エプロンの下には長袖のスウェットとデニム。縫製は悪くないものの、サイズが身体と合っていない。清水くんは足が細いのだから、スキニーでも穿けばいいのに。パンツさえ絞れば、誰でも多少はお洒落に見せることができる。できれば腕まくりもさせたい。手首をきちんと露出させたほうが、バランスがとれて痩せて見えるから。太った人のファッションは、首や手首、足首といった細い部分をきちんと見せるのが基本だ。家庭科の教科書にでも載せれば、この国から見苦しい人の数が少しは減ると思う。
 今日も外は暑いのか、うっすらと汗をかいている。中年男性の加齢臭は問題外だが、若い男の汗の匂いは嫌いではない。まだ大学を卒業して間もないはずだから20代前半のはずだ。
 遅れて父も部屋に来る。着古したポロシャツと、随分と高い位置でベルトを締めたスラックス。美術館通いが好きなはずなのに服のセンスは皆無だ。
 清水くんと父は手際よくスリングシートを身体の下に敷き込み、リフトを使って私を車椅子に乗せる。清水くんの汗がシャツ越しに私の肌にも滲んだ気がした。唐辛子のような匂いがする。まるで父の臭いをかき消してくれるようで嬉しい。腕には、安いカシオの時計が巻かれていた。物価が変わっていなければ1200円くらい。私が車椅子に乗ったのを確認すると、父は自室へ戻っていった。
 清水くんに押されて玄関前の廊下を通りリビングへと向かう。昔は玄関には大きな姿見が置かれていたのに、今では私のポスターが貼られている。ロンドンのバタシー発電所の前で、真っ赤な服を着て、おもちゃの銃を構えていた。白い大きな文字で「KAORI FUJIMOTO」「1998.8.5 in stores」と書かれている。CMとプロモーションビデオの撮影を兼ねて行ったイギリスでは、結局予定の映像を撮りきれなくて、足りない部分は川崎の工業地帯で何とか補った。もともとセピア色の写真だから、今でも色褪せて見えないのが嬉しい。きっと清水くんの年齢だと、私をリアルタイムで観たこともないのだろう。
 リビングでは姉がテレビを観ていた。どこに行く予定もないだろうに、真っ赤なサテンシャツを着ている。この数年、好んで着ているグッチのはずだ。襟から首の肉がだらしなくはみ出ている。世界一不幸なグッチだと思った。彼女は私を一瞥すると、テレビに視線を戻す。朝のワイドショーでは、東京オリンピックまでついに二年を切ったというニュースが放送されていた。
 8畳のリビングには無造作にいくつもブランドのバッグが置かれている。その高級品とは不似合いなインテリアは、私が子どもの頃から変わっていない。ビニール製の安いテーブルクロスの掛かった平井の島忠で買ってきたテーブル。明るいだけが取り柄の真っ白な蛍光灯。ピンクの食器棚。日に灼けた壁紙。天井から吊された黄土色のハエ取り紙。調和という概念が一切存在しない部屋。
 服やバッグに使うお金があるなら、家をリフォームするなり、インテリアを買い換えるなりすればいいのに、姉たちにその発想はないらしい。金遣いは荒いくせに保守的な人々。彼らは最も資産を残せない。
 この家を出て一人暮らしをしていた頃の私は、部屋に一つとしてセンスの悪いものを置きたくなかった。マイケル・ヤングのソファに、ペインティングしてもらったイームズのシェルチェアを並べて、壁には奈良美智よしともの絵やロバート・フランクの写真を飾る。もちろん、何が格好よくて、何が格好悪いかなんて主観でしかないし、時代と共に移り変わってしまうけれど、あの時の私の部屋は間違いなく素敵だった。なぜなら、私がいいと思うものを、少なくない人々がいいと思ってくれていたから。雑誌では、私が選んだファッションやインテリアの特集が何度も組まれた。ヘルムートラングのシャツとかコズミックワンダーのデニムとか、流行させたものは一つや二つではないと思う。

(続きは本誌でお楽しみください。)