立ち読み:新潮 2020年11月号

第52回新潮新人賞 受賞者インタビュー
濱道 拓/4年ほど前に見た夢が始まりでした

――「追いつかれた者たち」は、ある町の少年たちが引き起こした監禁・失火事件が題材です。事件の被害者・傍観者たちの回想を第三者が記した、というユニークな構成で、少年らの知られざる闇を伝えています。まず、この小説が書かれた経緯を教えてください。
 4年ほど前に見た夢が始まりでした。自分が、誰かを廃屋のような場所に閉じ込めて、追い詰めて殺してしまうという内容です。そのような夢を見たという恥の意識が強く残り、とにかくその夢を書き留めよう、書き留めなければならないという気持ちがありました。夢の正体を突き止めたいというか、夢の中の自分のような人間が、現実にどういった行動をとるのかを知りたかった。作中人物のひとりが、夢における私でした。ほかの人物は、彼が分裂した存在かもしれません。
 最初に出来上がったのは、到底小説とは呼べない断片的な文章でした。このイメージを、何とか一つの作品に仕上げたくて、4年かけて少しずつ膨らませていったのが本作です。
 これまでは、一気呵成に書ける文章しか書いたことがなく、作品を完成させられたことが一度もありませんでした。一気呵成に書けないということは、書こうとしている題材がその程度のものである、と思い込んでいたんですね。初めて書き上げた小説だったので、最終候補の知らせが来たときは、本当に驚きました。

――最初のイメージを膨らませていきながら、どのようなことを考えていらっしゃいましたか?
「序」の語り手は、里帰りをした際にたまたま里谷や斉藤と出会った人物です。一部の関係者から集めた断片的な情報なので、描かなかった空白の時間があります。その時間に起こった出来事はもちろん、作者である自分にはある程度分かっていますが、作中では省いています。小説においては何を書くべきかと同様に、何を書かずにおくべきかが大事なことだと考えていました。少し話からはみ出しますが、坂口安吾が「代用の具としての言葉、即ち、単なる写実、説明としての言葉は、文学とは称し難い」と書いていて、その言葉が頭にありました。
 初めのころは『藪の中』のように、異なる語り手によって、一つの事実が語られていくような構成を考えたこともありました。しかしそれでは、どうしてもドラマとして面白く書けない。また、最初に登場する語り手が、出来事をあらかた提示してしまうより、読み進めるにつれ徐々に明らかになっていく展開のほうが、面白いのではないかと思いました。自分の場合、そのほうがストーリーを引っ張っていけると。
 執筆中はカズオ・イシグロを読んでいました。彼の作品の、語り手を信頼できないところを取り入れてみたいと思いました。設定とタイトルは『イット・フォローズ』という映画に影響を受けています。この作品は、数十年前の世界を描いているようにも見えますが、電子端末で本を読んでいる場面があり、時代設定をぼかしたつくりになっています。今作の時代が読み取りにくいことの言い訳になってしまいますが、そういった世界をなんとか書いてみたいと思いました。しかし実際には、時代を限定するモチーフが逆の効果をもたらしてしまっていて……そのことには、選考会で指摘されるまで気づきませんでした。
 高校卒業まで熊本市で暮らしていたのですが、友人と郊外の山までバイクを2人乗りした記憶は、あるシーンの土台になっています。自分は免許がないので、里谷のように後ろに乗せてもらっていました。このように記憶や、他の作品からの影響を織り交ぜながら、なんとか一つにまとめ上げていきました。

――濱道さんの読書遍歴・来歴を教えてください。
 好きな作家は開高健ドストエフスキーです。開高さんはとりわけ闇三部作、そのなかでも『輝ける闇』を熱中して読みました。開高さんの作品は、日本語が非常に精緻で美しい。『輝ける闇』では米軍人との対話の中で「匂いを書きたい」と本人が言っているのですが、まさしくそれが出来ている。人物としても、世界各地を旅されたり戦場に行ったり、バイタリティがもの凄い方だったんじゃないかと思います。そういうところも、憧れます。
 ドストエフスキーでは『カラマーゾフの兄弟』『悪霊』『死の家の記録』『罪と罰』は何度も読み返しています。なかでも「スタヴローギンの告白」が最後に載っている、新潮文庫版の『悪霊』が人生のベストです。大学生の頃に徹夜で読み切ったのをよく覚えています。祭りが終わって、先ずシャートフが、次にキリーロフが死んで「スタヴローギンの告白」に至る、終盤の畳みかけがもの凄い。彼の作品は、主題こそ「神」「人間の葛藤」といかにも重くてジメジメしていますが、癖があるだけで、私にとっては少年漫画のような、優れたエンタテインメントです。見せ場を作るのが圧倒的に上手い。
 近年、小説はニッチなジャンルとされていますが、その立ち位置から脱する契機となるような作品を書きたいと、僭越ながら考えています。小説がいかに面白いものか、多くの人に知ってほしいのです。
 高校のころから日記のようなものは書いていて、いつか小説を書きたいと、ずっと思ってはいました。しかし、小説を書いたり読んだりするということを、今まで誰とも分かち合えたことがなく、ずっと後ろ暗いことだと考えてきました。実際、多くの人が、読書家や物書きを、異質でやや気持ちの悪い存在とみなしています。「ドストエフスキーを読んでる」と話して、鼻で笑われたこともありました。
 こちらもこちらで、彼の作品がどう面白いのかを端的に説明することができないんですね。説明しようとするとどうしても、聞き手に伝わりやすいように、作品を捻じ曲げることになる。それが作家に対してあまりにも失礼だから、自分としては黙るほかなくなります。新人賞を獲ったことも、正直なところ大声では自慢できません……。もちろん自分では本作の価値を信じていますが、本作を世間が評価してくれるとは、いまだにあまり信じられないんです。
 妻と二人の子供がおります。妻は私が書くということに頓着しない人です。だから私も彼女には「書いている」と打ち明けられる。もしかすると、そういう存在がいるから書けたのかもしれません。彼女と出会うまでは、先述のような世間の、小説に対する偏見を私自身、内在化しているところがあり、書くことに否定的な気持ちもかなり強かった。子供が生まれてからはさらに、自分の書いた言葉に自分で動揺することが、無くなりました。しかし、書くということに対しては未だに、一筋縄ではいかない思いがあります。

――小説以外のジャンルで、好きな作品を教えてください。
 最近、一気に『鬼滅の刃』を読みました。主人公たちがみんなまっすぐで、力をひけらかしたり、独善的になったりしない。そんな作品は今どき稀有で、そのせいでヒットしたんだろう、と個人的には思うんです。面白いですよ。
 漫画は小さい頃から好きで、手塚治虫は最近になっても読みます。多くの作品が、漫画でありながら、文学の域に達していると思います。『ブラック・ジャック』『火の鳥』は生涯読んでいたいし、子供にも読ませます。
 映画にも好きな作品がたくさんあります。クリストファー・ノーラン監督作は、設定の作り込みが凄い上に、ドラマに思いやりが深いものが多くて好きです。『セッション』などのデイミアン・チャゼル監督作も好きです。古いものだと、『タクシードライバー』『キング・オブ・コメディ』などのマーティン・スコセッシ監督作とか。古典的なホラーも好きで、『ザ・シング』『悪魔のいけにえ』はネット配信で目にとまる度に、つい観たくなります。

――次回作の構想を教えてください。
 次回とは限りませんが、できれば本作の続きを書きたいと思っています。続編の冒頭は、里谷と巽が自分たちの行為の結果を受け止めて、自白するか否かを激しく議論する場面です。選考会後に削った「十二」で、実は新たにある人物が死ぬことが提示されるのですが、それに至るまでの事柄も描きます。一方で、主人公の葛藤と更生が主題になっていくのかなと。そこまで考えてはいたんですが、自分が持ちこたえられなくなってしまったので、筆を置いていました。しかし今回の受賞を機に、再び書き始めても良いのかもしれないと、そんな気持ちになっています。

[→第52回新潮新人賞受賞作 追いつかれた者たち/濱道 拓]