立ち読み:新潮 2021年6月号

マジックミラー/千葉雅也

 床は灰色。ビニールみたいな素材で、冷たい。土足禁止の境界線が黄色いテープで示されていて、靴を入れるビニール袋が用意されている。玄関の段差はない――だから造りが住宅用ではない。右に曲がる。二メートルほど先に黒い布が下がっている。右手の壁が受付で、マジックミラーの下にスリットがある。ここまでははっきりしている。で、これは記憶が曖昧なのだが、その下はガラスケースになっていて、ローションのボトルやたぶん競泳パンツとかが真っ白な蛍光灯で照らされていた。そこだけの明るさが不気味だった。
 その店は古いオフィスビルの一階部分で、窓は内側から黒いものを張って潰してあった。だから昼間に見たらヤクザか何かの事務所みたいで怪しまれていたはずだ。
 受付の先にある布をくぐると、廊下は闇の奥へ伸びていって、どこまで続くのかわからない。左側に壁がある。そのところどころにドアノブがあるのが見えてくる。音楽のボリュームは控えめで、どこのハッテン場でもハウスミュージックの類いがかかっているがそれより、ずっとうなり続けている空調の音に意識が行く。そしてすぐ右側からブラックライトの紫色の光が漏れてくる。そこがロッカールームになっていて、他の店に比べてその空間が妙に広かった。ガランとしていた。それを覚えている。素足になると床が染みるように冷たい。足の裏がペタペタする。細長い鏡がそこにあった。僕はその表面で、紫色に染まった僕の全身を見た。
 だがそのハッテン場の名前を思い出せなくなった。いつ頃その名前が意識から遠ざかったのかもわからない。
 いつ頃なぜそこに行くようになったのだろう。東中野にあったことは確かなのだ。駅から出て目の前を貫通する広い道路は山手通りで、細長いビルがあって、そこにはマクドナルドがあった。その脇、脇道を行くとあの古いオフィスビルに行き当たる。あの店の名前を思い出したい。いま。すごく思い出したいのだが、僕の記憶には手がかりがひとつもない。とくにあの店でそれほど「いい思い」をしたわけでもない気がするが、男たちの顔もひとつとして像を結ばない。
 あそこに行ったのはいくらか経験を積んだあとだった。最初に常連になった代々木のハッテン場が閉店してからだ。
 代々木のPは、九〇年代末にたぶん東京で一番有名だったビデオボックスで、流行りの格好をした若者で毎晩ごったがえしていた。その内側には、十個くらいの鍵のかかるボックスに仕切られた「島」があり、その周囲をぐるっと廊下が取り巻いていて、廊下の外側にもさらに部屋がある。
 各ボックスにはテレビが置かれ、ゲイビデオを流しているのだが、目的は当然それではない。左右の壁には腰ほどの高さに小さな穴があって、そこから覗けば隣の様子がかろうじてわかる。男たちはボックスを出たり入ったりし、その穴からサインを送り、いったん出てからひとつのボックスで合流したり、あるいは廊下で誘うのに成功すれば二人でどこかのボックスにシケ込んだりする。隣で関係が成立して使用中になると、丸めたティッシュで穴が塞がれる。
 あの頃は、大学進学で上京して一年は経っていた。初めてPの店内に踏み込んだときには仰天した。同年代の細身の男たちが廊下に所狭しと立ち並んでいたからだ。
 薄青い闇の中で、全員が全員イケメンに見えた。それはもちろん幻想だけれど、とにかくそんな数の若い男が男とただセックスをしたくてここに集まっているのだという驚くべき現実に胸が高鳴って、もう誰でもよかった。そのときの僕にとっては誰だろうとイケメンだった。
 少し甘い匂いが店内を満たしている。それは当時ブームだった柑橘系の香水と、若い男に特有の、パンをちぎったときの匂いみたいな穏やかな体臭が混じったものだった。男が男の手を引いて、すばやく個室に連れ込む――その甘やかな匂いの源へと連れ去るようにして。
 何をすればいいのかは徐々にわかってきた。
 さりげなく狙いの相手に近づいて、何も関心がないふりをして隣に立ち、ある瞬間、すべてを破り捨てるような決断によって太腿に手を伸ばす。ダメならばそいつは静かにその場を離れる。言葉は使わない。使うべきではない。
 灰皿のあるカウンターに寄りかかった色黒で髪の長い男がこちらを一瞥した気がした。傲慢な目だった。そしてその視線は僕からすぐ離れ、隣に立つ似た風体の男に笑いかける。
 彼らに僕は相手にされないのだとわかった。
 あれから二十年以上が経った。あの代々木の夜に集まっていたイケメンたちは今どこにいるのだろう。
 緑色の同じ酒瓶が無数に並べられた脇に、白い球体のものがある。その正面にひとつあるまん丸のものは……レンズだ。
「あれ監視カメラ?」
 と、布巾でグラスを拭くひこひこさんに声をかけた。
「そうなのよ」
「いつから? 録画してるの?」
 ひこひこさんは髭に囲まれた口を魚のように尖らせて「うん」と頷く。
 くり抜いたマグロの目みたいな球体。以前そんなものはなかった。ゲイバーの夜の証拠を残すなんて、ひどいじゃないか。ここは秘密の場所じゃないの?
「ごめんなさいね、半年前からよ。お客さん同士のトラブルもあるでしょ。警察が来てね、付けてほしいって。まあヤクザ対策なのよ」
「イヤだなあ僕は」
「そうおっしゃる方もいるのよね。
 でもあたしの家から様子がわかるのよ? こないだなんか店が終わったあとで真っ暗なはずなんだけど、なんか白いのがビャーッと飛んでたの」
「やだそれゴキブリでしょ。飛ぶのよ」
 と、若い店子みせこが横から口を出す。ストローみたいに細いタバコをせわしく吸っている。
「違うわ、オバケよ絶対。うようよいるからこの辺」
「オバケはあたしたちでしょ? オバケが帰ったからゴキブリが出てきたんだわ」
 そう吐き捨てて店子は僕のグラスに焼酎を足し、直接ペットボトルからジャスミン茶を入れ、青い透明なマドラーをカラカラと回した。
 東京を出てもう十年になる。新宿二丁目には年に数回出張のついでに寄ることがある。たいてい最後にはひこひこさんの店に行く。ひこひこさんも年を取ったはずだが、ずんぐりしたその体型は昔からそのままのような気がする。本当は昔はもっと痩せていたはずなのに、その現実感はいつしか完全に失われている。
「あんたも迫力が出たわね、昔はホストみたいだったのに」
 と言われて、僕はわざと眼鏡を外し、それから手持ち無沙汰におしぼりを畳み直している。眼鏡を外せば昔の自分とまだそんなに変わらないつもりだからだ。
「ホスト! 面影ありますよね」
 と、明るい声で隣の席に座るスーツ姿の男が言った。そいつはぜんぜんタイプじゃない。けれど、若いには若くてツヤツヤした顔の男だった。そのべつに好みでもない尖った顎を見やりながら、僕は自分のだぶついた喉元に手を当てた。

(続きは本誌でお楽しみください。)