立ち読み:新潮 2021年9月号

あなたたちはわたしたちを夢みる/川上弘美

 夏の匂いが空気の中にまじるようになったころ、移動遊園地がやってきた。
 ぶうん、という音が響き、移動遊園地の設置がはじまる。町の東側にある空き地は、それまでわたしたちの遊び場だったけれど、ある日柵で囲われ、大きな車が何台も出入りするようになった。生い茂っていた草は電動の芝刈り機で刈られ、でこぼこの地面は、ローラーで均されてゆく。何本もの杭が打ちこまれ、やがて灰色の天幕が、地面から生え出たもののようににょきにょきといくつもあらわれ、その下に電気仕掛けの回転式遊具が設置されるのだ。
 わたしたちの学校は丘の中腹にあり、教室の窓から空き地を見渡すことができた。授業中、空き地の草を刈る電動の芝刈り機の音を聞いていると、眠気がさした。昼休みになると、わたしたちは屋上にのぼり、さらなる高みから空き地を見下ろした。遊園地を設置してゆくのは体格のいい男たちだったが、屋上から見ると、男たちは猫ほどの大きさしかなかった。猫たちはせっせと杭を打ち、草を刈り、地面を掘り、丸太を組み、屋根を張ってゆくのだった。
 移動遊園地は、設営を始めてから一週間後、金曜日の夕方に完成した。放課後、校門を出て広場までくると、木材がぷんと匂った。移動遊園地の入り口のすぐ横に、真新しい小屋が建てられていた。中からは、くぐもった音が聞こえてくる。人の声とも動物の鳴き声ともつかない音だった。覗こうとしたが、屋上から眺めた時には猫の大きさに見えた男たちが、その立派な体でわたしたちの視界をさえぎった。
「明日おいで。九時に開くから。ちゃんと小遣いを持ってくるんだよ」
 男たちは言い、わたしたちを蹴散らすように歩いてきて、幾つもの砂袋をどさりどさりと入り口の横に積み上げていった。首をのばして小屋の中をどうにか見ようとしたけれど、だめだった。
 明日朝、八時に、市場のところにある大クスノキの下で待ちあわせよう。
 アサが言い、わたしの手をひっぱった。うん。小さな声で答え、アサに引かれるままに、広場を後にした。その夜は興奮してなかなか寝つかれなかった。色のついた夢を、いくつも、みた。

 土曜日と日曜日は、学校がお休みだ。母さんの勤め先も休みなので、今朝はまだ母さんは眠っている。父さんの方はすでに起きていて、七時に家を出て仕事に行くと言った。
「母さんは疲れているから、寝かせておいてあげよう」
 父さんはそっと玄関の扉をしめ、音をたてないよう鍵をしめた。市場までは歩いて十分ほどだ。わたしたちはたいがい市場で食事をとる。朝食は朝市で、夕飯は夜市で。昼ごはんは、母さんか父さんがお弁当をつくってくれる。段重ねの丸い銀色の弁当入れにおかずとご飯と果物をつめて、わたしは学校に行く。でも今日は学校がないので、昼ごはんも、たぶん市場で食べることになるだろう。
 朝市はひっそりとしていた。週末なので働きに出る大人が少ないからだ。父さんとわたしは、いつもの屋台に行き、コインを三枚さしだした。すぐに温かいスープと小さな丼が出てきた。
「今日はじめてのお客だから、サービスだよ」
 そう言って、屋台のウミセおばさんは丼の肉を少しよけいによそってくれた。
 がたぴしする椅子に座り、父さんと二人で並んで食べた。食べる時、母さんはよく喋るが、父さんは黙って食べる。いつもなら、わたしは父さんよりは喋り、母さんよりは寡黙なのだけれど、今日は移動遊園地のことで頭がいっぱいで、ずっと無言でいた。お隣に住むエナおじさんが、すぐ隣のテーブルにやってきた。
「天気がいいな」
 エナおじさんは言った。父さんは黙ってうなずいた。エナおじさんは炒めた青菜を皿いっぱいによそってもらい、もりもりと食べた。しばらくしてからエナおじさんはふところからパンをとりだし、ナイフで半分に割った。青菜炒めをパンにのせ、またもりもりと食べる。エナおじさんは肉や魚を口にしないのだ。
「肉も魚もおいしいよ」
 いつか言ってみたことがあるが、エナおじさんはにっこりと笑い、
「知ってるよ。前はたくさん食べてたからね」
 と答えた。
 食事を終え、父さんとわかれたあと、わたしは大クスノキの根元まで歩いていった。大クスノキはよく葉を茂らせていて、根元のあたりの土はいつも湿ってひんやりしている。地面を走っているごつごつした根に腰かけて、アサを待った。

 アサは花の模様の帽子をかぶっていた。
「なんかそれ、へん」
 とわたしが言うと、アサは笑った。
「イカのを借りてきた」
 イカは、アサのお姉さんだ。わたしたちの学校でいちばんおしゃれな女の子である。
「イカって、そういう帽子が好みなんだ」
「イカがかぶると、かっこよく見えるの」
 アサは怒るでもなく、おだやかに言った。アサはイカととても仲がいい。イカはアサにお化粧を教えてくれるそうだ。
「お化粧すると、きれいになるの?」
 聞いてみたら、アサは首をふった。
「イカみたいにはならない。やたらにまつげが重くなるだけ」
「つけまつげもするの?」
「そう。ちょうちょみたいなつけまつげを、イカはたくさん持ってるの」
 そんなつけまつげはいやだなと思いながら、でもアサがひらひらとふるえるようなまつげになったさまを、一瞬想像してみた。なかなか、いい感じかもしれない。

(続きは本誌でお楽しみください。)