立ち読み:新潮 2023年2月号

エレクトリック/千葉雅也

 手を近づけると、紙が後ろにスッとさがった。
 レシートを折って折り目を奥にし、こちらへと図書館の古びた書物が開かれているみたいに、あるいはそれがひとりでに閉じようとしている、みたいにその小さな紙きれを机に立てた。そして達也は息を呑み、指を揃えて左、右の頬をなでて前に下ろすと、レシートは後ろにスッとさがった。空気を少しも揺すぶらないように、静かにすばやく手を下ろした。なのに、紙が動いた。
「ハンドパワーです」
 と、サングラスをかけたマジシャンがテレビで言った。
 それを見た芸能人たちは自分でも試してみて、ほんとだ、すごい! と口々に騒ぎ立てるのだが、その秘密を尋ねてはいけないらしく、ただ「ハンドパワーですか」、「ハンドパワーですねえ」と繰り返すばかりである。
「誰にでもハンドパワーはあるんです」
 マジシャンはみずからの目を、何ひとつ浮かんでいない宇宙の途中のような闇で塗りつぶしたまま言った。
「どんなに悲しいときでも、大変なときでも、あなたには不思議な力があるのだと思い出してください。握手は大切ですよ。力が伝わります」
 それは夏の終わりだった。
 ひどい雷の日があった。栃木県宇都宮市はなぜだか雷が多く、「らい」と呼ばれたりする。というのは地元の人間しか知らない話で、ここを「みやこ」だとそれとなく言いたいところに田舎者のプライドがかいま見えるわけだ。
 外の明るさが急に変わり、猛獣のようなうなり声が始まる。部屋は電気を消したように暗くなった。
 達也の母は、幼い頃、雷が来ると蚊帳の中に逃げ込んだのだという。
 母のその思い出を、達也は夏になるたびに思い出す。蚊帳の網は緑色。空き地を囲うフェンスのような緑色。らいさまの怒りは、その囲まれた中だけは避けてくれる。これが科学的に意味がないのはもちろんだが、子供は何かに囲まれていれば安心するものである。
 両親がいつから二人で寝なくなったのか、達也は忘れてしまった。
 幼い頃は、両親と川の字で寝ていたのだと思う。
 その三本の線を真上から見ている、見たことがないはずの光景を思い浮かべる。
 あの家――達也が生まれてから幼稚園のあいだ住んでいた和風の家は、二階が若夫婦の空間で、一階には父方の祖父母がいた。あの家の、細くてねじれた階段を上って右手、いつでもぼんやりと翳った寝室、麦茶のコップを通ったような光が満ちている寝室、その天井の真ん中にはコンセントがあった。そこからコードが何本も伸びている。白い四角のものがあり、二つか三つにコンセントを分岐させている。
 それはタコのようにクモのように脚を伸ばしている――などと、今の、高校二年になった達也ならば比喩を言うこともできるだろう。だが、言葉をしゃべり始めて間もない頃に、その小さな物体は、何とも言えないものだった。達也はそれがときどき怖くなり、布団をかぶって見ないようにすることもあった。
 小学校に上がるか上がらないかの頃、志賀達也の家族は、家を建て替えた。
 真っ白に塗られた豆腐みたいな、ただの容れ物のようなコンクリートの家ができた。それから達也は一人で寝るようになる。自分の部屋ができたからだ。そのあとしばらくは、両親はまた二人になって、同じベッドで寝ていたはずである。
 一九九五年のいま、達也は、親子三人の位置が変わったあの頃を思い出している。
 父が一人で寝るようになったのはいつだろう? 二人きりになり、新婚の頃に戻ったあの短い期間――その隙に、妹をこしらえたのだろうか?
 などと、口を滑らせるようにして思ってみるのだが、達也の妹、涼子は二歳年下で、現在中学三年である。だから彼女がこの世に発生したのは、当然、昔の家のときだ。家を建て替える前から妹はそばにいたのである。そのはずなのに、どうもその存在がぼんやりとしている。

 達也の父は、夜九時頃に、自分が経営する会社から戻ってくる。息子は今か今かと部屋で待ち構えている。英雄の帰還である。砂利を踏みしめる音と共に、ベッド脇のカーテンを透かして光の円がふわりとUFOのように立ち昇ったら、父の車だ。
 達也は一日のありとあらゆることを話したい。
 父は、家族団らんの時間をほどほどにすごし、風呂に入ったら、おやすみと言って焼酎のコップを手にベランダに出て、そこからつながる「スタジオ」へと一人消える。いつ頃からかそうなって、もう誰も疑問に思わない。
 この豆腐の家には、そのミニチュアのようなもうひとつの白い箱がついている。その離れを、志賀家では「スタジオ」と呼んでいた。それは高床式の建物で、一階部分の空洞はガレージになっていて、上の箱全体がひとつの部屋である。
 もともとは、そこは離れではなかった。昔の家の増築した部分で、達也が生を受けるより前、印刷会社を辞めてフリーのカメラマンになった父が、祖父母の援助を受けて撮影のためにつくったところだった。そこが建て替えの際にも残された。新たな母屋とはベランダの端から接続されており、いったん外に出なければ行けない。ベランダから一メートルほどの隙間を、欄干のある金網の「足場」でつないでいる。
 かつての家では、二階の寝室の反対側、階段から見て左の壁にある、灰色のドアを開ければその部屋だった。その一番奥には、まぶしいほど真っ白なスクリーンが吊り下げられ、床へと垂れてスキー場のように広がっている。ストロボの傘、三脚、カメラが入った銀色の箱。子供が押してもびくともしない重い箱。
 その頃は一九八〇年代に入ったばかり、バブルの勢いで広告業が華やかなりし頃で、カメラの技術を持つ者はひっぱりだこなのだった。達也の父は、幸いにも、独立してたちまち忙しくなり、会社を立ち上げることになって、宇都宮市街の中心部に事務所を借りた。だから自宅で撮影する必要はなくなったのだが、スタジオという呼び名は残ったのである。

(続きは本誌でお楽しみください。)