立ち読み:新潮 2023年2月号

狭間の者たちへ/中西智佐乃

 背中で電車の扉が閉まった。大阪の最南部から都会へと向かう車内の座席は全て埋まっており、入って来た扉に向き合った。リュックを身体の前に抱え直してからウィンドブレーカーを脱ぐ。額の生え際に浮いた汗によって痒みが起こったが、両手がふさがりすぐに拭えなかった。ウィンドブレーカーをリュックに丸めて押し入れた時には、開いた窓からの風によって額は半乾きになっていた。うねりが強くなった前髪を、手の甲で持ち上げてから額を引っ掻く。ひどい癖毛で、短くしていても根本が水分を吸うともう駄目だった。
 二十年ほど前、一度だけ縮毛矯正をしたことがある。しゃらしゃら落ち着かない前髪を整えてから大学の同級生三人に会った時、それぞれの顔に緊張が走ったのを素早く確認し合ってから、盛大に吹かれた。笑い声が萎んでから、美容師に練習させてくれって頼まれてと半端な作り話を口にし、一か月以内に床屋で短くした。小さい頃からの髪型に戻ったのを見て、これでいいと思った。それ以来、髪型を変えていない。
 快速が停まる駅で扉が開くなり、降りたプラットホームの向い側、左斜め前に進む。三両目三番扉停車位置では、二人ずつ二列になって並んでいる。彼女は先頭にいた。
 いつものようにポニーテールにした彼女の黒髪の先が、高校のブレザーを着た背中に垂れているのに、何かが違う気がした。紺のスカートの長さは膝より数センチ上、足首までの靴下は白、茶色のローファーも変わりない。彼女が鞄を肩にかけ直し、キーホルダーが揺れた。キーホルダー――この前までなかった。
 二つのキーホルダーが鞄の持ち手につけられている。二つともフェルト生地の手作りのようで、アルファベットが縫われている。一つは三文字、もう一つは二文字。三文字が何を意味しているのかはわからないが、二文字は彼女のイニシャルだろうか。判読が難しく、目を強く瞑って開く。Yが頭にあるようだった。
 電車が到着し、彼女はまっすぐ奥の扉の手前まで進んだ。自分は彼女の右斜め前に進み、座席の前に立った。自分の視界の左側に彼女の後姿が収まったところで、彼女の後ろにスーツ姿の男が寄ってきた。
 自分は後ろに立つのを週に二回と決めている。ショッピングモール内にある来客型総合保険会社には早番と遅番がある。早番の日しか彼女に会えない。
 彼女はスーツ姿の男が近くに立つことを許すだろうかと試すような気持ちになりながら、その実、許されはしないと望んでいる。彼女を離れた場所で意識するようになってから、彼女がたまに周りの人に対し、警戒している様子を感じ取ることがあった。スマホから顔を上げて相手を凝視するといった些細な抵抗が多いが、中には一駅で降りてしまう場合もある。自分にはそういった素振りはない。許されているのだと一年ほど経ってから彼女からの判定を受け取った。
 スーツ姿の男はジャッジが下されるより前にスマホに顔を落とし、彼女から距離を取った。もうすぐ彼女から元気をわけてもらえることに唾が溜まっていく。彼女からはいい匂いがした。咲きたての花のような、青みがかった甘い匂い。彼女からの元気を身体に取り入れると心がなだめられ、ごく稀にぼんやりとした熱を足の付け根におこしもさせられる。
 唾をそろそろ喉に落とそうとして、やめた。彼女の横を通る時に唾と一緒に飲んだ方が、より濃く味わえるのではないかと試したくなった。
 到着駅が告げられ、腹と足に力を入れる。あと一駅。自分の方が先に降りる。その時に彼女の横を通り、少しだけ元気をわけてもらう。マスクを直す素振りをして鼻を出した。マスクにこもった自分のにおいが、マスクをずらしてからより明確になる。鼻で長く吸って吐くことを繰り返し、外の空気と鼻の粘膜を馴染ませていく。嗅覚が蘇り始めた。

 松田が大きな声で相槌を打ったのがフロアに響いた。一つ席を挟んだところにいる松田の上半身は半透明のパーテーションに隠れ、椅子に座った短い下半身が突き出ている。今日もずんぐりとした身体にだぶついたスーツを着ていた。
 説明しているのは掛け捨ての医療保険で、客である若い夫婦が何の保険にも入っていないと言った時から、松田の声が上擦り始めたのには気付いていた。松田が椅子から尻を浮かせた。逃げられる、と反射的にわかる。
 プロ野球の消化試合のように数秒眺めてから、パソコンに目を戻した。三月末までの前期の成績表。自分が勤務する大阪南店は、大阪府下の十八店舗中十五番目であったが、十三位以下は団子状態だった。腕を伸ばして足元の鞄から水筒を取る。ここ一年、ルイボスティーを入れてきている。その前は黒ウーロン茶、さらにその前は何であったか忘れた。
 店舗前のショッピングモールの通路にエリアマネージャーの中畑が現われ、水筒から口を離す。胸まである長い茶髪を小刻みに揺らして歩いてくる。社内規定を超える明るさで、不潔に見える染め方だった。
「遅くなってすみません」
 そう言う中畑に、卑屈過ぎない笑みを返答にして立ち上がった。

(続きは本誌でお楽しみください。)