立ち読み:新潮 2024年10月号

ローレライ/高山羽根子

 これは、あんまりにもバラエティに富んだやっかいな申請処理の仕事を大量にこなしすぎたからなんだと思う。どんなにそうならないようにと意識したって、個人的な優しさは社会活動によって多少はすり減っていってしまうだろうし。と、意識すればなんとなく微笑に見えるくらいの無表情がすっかり貼りついてしまっている受付職員の顔を見ながら、僕は自治体の窓口で行われる業務の九十%以上がいまだ人間によって行われているとかいうウェブ記事のことを思いだしていた。あれは、はっきりフェイクと決めつけることまではできないにしても、かなり意図のある情報だったと思う。現在でも労働者の各種申請を受理する仕事にボディが携わることは、本来あまり良いことじゃないとされているはずだ。補助として多少の通信型チセイを操作することはあっても、それは病院なんかで警備や巡回に監視用ボディを使いながらも、実際に患者とのやり取りをするのは人間じゃないといけないのと同じことだ。これは僕らが生まれる前に決まってしまったことだからこの時代にはあまりそぐわないようにも思うけれど、きっとその決まりが確定したときに何度も何度も研究や会議が行われてそうなったんだろうから、それを覆すには同じくらいかそれ以上の研究や会議をこなして決め直していかなくちゃいけないんだろうし。
 申請書類を記入するためのテーブルは立った状態で文字を書かないといけないから、頭を下げ、腰を曲げる慣れない作業にくたびれる。というか気づけば文字をペンで書くという行為自体、このところだいぶやっていなかった。テーブルの脇に何本か立てられていた備えつけのボールペンは、最初手に取った一本がインク切れだかペン先の具合が悪いだかで書くことができなかった。自分の家から筆記用具を持って来ればよかったと思った直後に、家のボールペンだってもうまともに使えるものなんてないんじゃないかという気がしてくる。申請書類だってオンラインで情報を入力してファイルを出力して来ているんだから、こんなことをする必要なんかないはずなのに、いざ来てみるとほかのいろいろな用紙にも情報を書き入れる必要があって、あれこれ渡されては記入して提出することを繰り返した。ふだんPCに紐づけられた情報は自動で記入されるから、知っていて当然みたいに自宅の住所や電話番号、自分の本籍地や生年月日、職業なんかを調べることなく出先で記入しろと言われてしまうと、うまいこと頭の中とペン先が繋がってくれなかった。何度も端末を出して、文字を確認しながら記入していく。
 嶋守恭介
 三十二歳
 職業欄のところでいつも迷う。三年ほど前から個人で受ける撮影仕事の収入が派遣エンジニアの収入を上回ったものの、いまだに公的な書類にカメラマンと書くのにはためらいがあった。これはたぶん自意識の問題だけじゃない。別の国に行くときに記者に近い職業を記入してしまうと、たとえそれがシンプルな観光だったとしても妙な勘繰りを受けてしまうんじゃないかという不安があった。
 何度書類のやりとりをしただろう、番号が窓口に表示され、僕が慣れたようすで申請書類を受け取るためカウンターに向かうと、申請が通ったことが告げられた。説明を聞きながら書類の控えを受け取るとき、ふと触れてしまった受付職員の指先がとても冷たかったことに驚いて、ついあわてて書類を掴み引き寄せてしまう。職員の毎日の暮らしを心配してしまった僕は、やっぱり若干あの記事に思考が引っ張られているのかもしれない。ベテランのソーシャルワーカーに、向精神薬を過剰摂取する事例が増えているという記事も読んだことがある。人間をこんな状態にしてしまうくらいの仕事なら、ちょっとぐらいエラーがかさんだってボディに任せてしまったほうがよっぽどましだ。人間の指示ミスに由来しないボディのエラーはパッチを当てれば減っていくけど、人間のほうは、こんな状態を放っておいたらどんなサプリを与えたってエラーが増えていく一方なのはわかりきっている。だいいち、こんなふうに体温が低くて表情の固まった人間がやるのなら、現行で使われている中でもいちばん旧式の、胸に案内モニターがついたほとんど張りぼてみたいなボディにやらせたって充分じゃないか。

 そのフランチャイズの喫茶店は、窓、というよりは外に面したすべてがガラス張りになっていて、その曲面に沿って長くカウンター席が作られている。透明な壁の外側は、人やものが絶えず動いている大通りだった。僕はそこで軽い食事をとりながら、さっき受け取った書類の控えを取り出して、確認するでもなく眺め、そのままガラスの外に目をやった。こういった役所が集中しているターミナル駅の周りなら、もうだいぶあちこちの経済活動の中にボディが溶けこんでいる。古いものでは、音声案内を流しながら動くキャスターワゴン型もまだ飲食店の中なら現役で働いているし、飲食店の並ぶ目抜き通りの路上では、比較的古いけれどもかろうじて人間の外見を目指して作られたタイプのボディが割引チラシを配ったり、店内全品四割引と書かれた大きなパネルを掲げて呼び込みをしていた。中にはちょっとした広場で歌い踊っている最新式のボディもいる。

(続きは本誌でお楽しみください。)