立ち読み:新潮 2024年11月号

第56回新潮新人賞受賞作
ダンス/竹中優子

 今日こそ三人まとめて往復ビンタをしてやろうと堅く心に決めて会社に行った。実際、行ってみると三人は三人とも出社しておらず、「あ、なんかお休みらしいよ」と垂れ目の山羊みたいな顔をした係長が声をかけてきた。最後に休みの連絡を入れてきた下村さんに対して係長が優しく「無理しないで、ゆっくり休んで」と声をかけているのを聞いて、山羊のその善良さを私は恨んだ。同じ係の同僚たちが揃いも揃って会社を休むことが続いていた。下村さんなんて、ここ三ヶ月間、週一で休むのは当たり前、こないだは週に三日も来なかった。そのしわ寄せは完全に山羊および私に及んでいる。山羊に分かるようにあからさまにため息をついて、自分の席についた。
(そうだ。今からひとりずつの家を回って、ひとりずつビンタしよう)
 そう思いながら私は黙って三人分の仕事をこなした。
 私がこの会社に新卒で採用されて丸二年。下村さんは、仕事で分からないことは何でも教えてくれた。短気なところがあるけど、一回りも年齢が離れているわりに話しやすい頼りがいのあるお姉さんだった。
 それから私が山羊に別室に呼ばれて、「仕事に慣れるより、職場に馴染むことを目標に頑張って」と優しく指導をされた日。「そんなことを言われるってことは、職場から浮いているんだ、私は……」とその時はじめて気づいてしまった私は、眉間に深い皺を作って山羊の話を聞いた。私は確かに「馴染む」というはっきりしない状態が苦手だった。毎日のように小さな遅刻を繰り返すだらしない人が職場に「馴染んで」いることで一度も怒られたところを見たことがないとか「馴染んで」いない新入社員が「表情が暗いよー。毎日鏡見て」などと声をかけられているところとか「馴染む」ってそんなに偉いのか、むしろ糞喰らえって感じなんですけど、と思いながらこんなにもはっきりと「馴染んでいない」のハンコを押される自分の立ち位置が心配にもなる。小心者の自分が嫌になって、山羊との対話終了後、肩を落として部屋を出て給湯室に行ったところで下村さんと顔を合わせた。ことの顛末を話す私に、雑な感じで相槌を打っていた下村さんは、
「そんなの、糞喰らえって感じだよ。職場には仕事しに来てんだよ」
 短く見解を述べて、その場を立ち去った。
 終電間際に慌てて飛び乗った地下鉄で、車窓を眺めながら、下村さんのことを考えていた。ひとつ思い出すと、次のひとつが呼び水のように繋がって呼び覚まされる。下村さんに怒る気持ちは引いてすっと冷静な自分が戻ってきた。
(下村さんに何があったのだろうか)
 もやもやした気持ちのまま一人暮らしの部屋に帰った。疲れ切っていた私は、お風呂も入らないまま引き摺り込まれるように眠りに落ちた。

 翌日、下村さんは出社してきた。最近、どうかしたんすか。なるべく自然体を装ってそう聞くと、下村さんが顔を上げて、
「今日、時間ある?」
 と聞いてきた。
 結局ふたりで飲みに行くことになった。そんな展開になるのは二年間働いてはじめてのことだった。下村さんは親しみやすい人だったけど、距離を詰めてくるようなこともしない人だった。自分ひとりで堂々と立っている。そんな感じの人だ。
 職場の近くによく行くベトナム料理屋があるから。下村さんはそう言った。私は体質的にお酒が一滴も飲めない。だからというわけでもないのだろうが、歓送迎会や忘年会以外に職場の同僚と飲みに行ったことは一度もない。
 電飾が店内中に飾られたベトナム料理屋はこぢんまりとしていて感じがよかった。春巻きやフォーや日本でいうお好み焼きみたいなやつ、と下村さんが補足説明してくれた料理を次々に頼んで、ビールと烏龍茶で乾杯したところで、下村さんは今までの人生で最高で三十六時間飲み続けたことがあるという話を始めた。若い頃は、ハイボール四十杯ぐらいなら余裕だったよ、地元にハイティーン・ブギっていうカラオケボックスがあってさ、たぶん私らが潰したもんねと笑いながら自分の話に自分で頷いている。次々に運ばれてくるどれも半透明な色合いの料理を私たちはお腹いっぱい食べた。
「それで三角関係に陥っちゃってさ」
 すでにべろべろに酔っぱらった下村さんが俯きがちに髪をかき上げながら突如打ち明け話をしはじめた時にはその声はすっかり湿っぽいものに変わっていた。だから私仕事どころじゃないのよ、と下村さんは笑いながら言った。
「いや、関係ないですよ。仕事はして下さいよ」
 そう言うと、下村さんは「そうだよね」とけらけら笑った。それから、同じ係の田中さんと下村さんは周囲に黙って二年間同棲していたこと、結婚の話が出ていて両親に挨拶に行ったこと、なんか様子がおかしいなと薄々感じていて、問い詰めたら浮気をしていて、その相手が同じ係の佐藤さんだったという事実が語られた。なんか私の方が別れることになって、ふたりが今は付き合っているわよ。下村さんがやっぱり自分の話に自分で頷きながら言う。佐藤さんは四ヶ月前に採用されたばかりの非常勤職員だ。それっていつの話ですか? 思わず聞くと、
「いつの話ってどこからどこまでのこと? 私が別れたのは一週間前よ」
 一度始めてしまったら止まらなくなったのか下村さんの話は深夜一時まで続き、酔っぱらって歩くこともできない下村さんを無理やりタクシーに詰め込んで自宅まで送って行った。自宅というのは、つまり田中さんと二年同棲していたという自宅で、田中さんの方が佐藤さんの家に身を寄せる形になり、下村さんは今、その家で一人暮らしをしているそうだ。お風呂大きくて、気に入っているんだよ。そう言いながら、下村さんはまたけらけら笑った。

(続きは本誌でお楽しみください。)

[→]受賞者インタビュー 竹中優子/歌人、詩人、小説家の三刀流で