立ち読み:新潮 2025年11月号

第57回新潮新人賞受賞作
赤いベスト/内田ミチル

 ちょっと歩いてくると言って出ていった母は、今年九十八になる。まだ歩いていればの話だ。頭のほうはもうどうしようもなかったけど、歳のわりに健脚な婆さんだった。母は玄関の上りかまちに腰掛け、立っていても前に突き出している首をさらに前に突き出して肩を小さく揺らし、その動きから察するに老人靴に足を入れようとしているようだった。玄関の、模様の入った分厚いガラス戸から差し込む朝の光が、母の影を廊下に落としていた。背を向けて表情が見えなくとも、何度となく向き合った間の抜けたぼんやり顔がありありと頭に浮かんだ。
 洗面所で大きく揺れながら脱水モードに入っていた洗濯機がピーピーと鳴り、それに気を取られた瞬間から母の言葉がぼやけ、二回目の洗濯の段取りが頭の中を巡った。庭に行くのだろうと甘く判断したのはそのせいだ。四月だった。ムスカリ、シバザクラ、ビオラ、庭は花の盛りだった。私は気忙しく、はいはい、と言って洗濯機の方へ足を向けた。早く綿のシャツの皺を伸ばし、物干しにかけてしまいたかった。洗濯物を干し終わってから母を追いかけようとつっかけに足を入れた時、急に夢から覚めたように、母はどこかへ歩いて行ってしまったのだろうと確信めいた予感がした。案の定、家の周りをぐるりと一周しても母の姿はなかった。
 その前にも母は迷子になったことがあった。連絡を受けて母を迎えに行った警察署の警察官は、母には優しかった態度を一変させ、次は帰れなくなるかもしれないですよと睨むような上目遣いをした。体格の良い、甥の一弘よりいくらか若そうな男だった。私が悪いのかと反発を覚えながらも、私が悪いのだと納得してもいた。何か考えます、と𠮟られた子供のようにもごもごと言って、正義感に満ちた男の目を見つめ返しながら、男がビールを呷って赤ら顔で同僚と談笑する、スポーツジムで息を荒げて汗を流す、ショッピングモールで妻や子供と連れ立って歩く姿を想像した。

「大田さんの旦那さん、硬膜下血腫じゃったみたいよ」「あらあ、大変じゃあない」「なに? くも膜下?」「くも膜下じゃのうて硬膜下。転んだりして頭ぶつけるとなるんよ。うちも旦那のお父さんがしたことあるわ」「頭は怖いねえ。それで今入院しとるん?」「そうそう。県病院じゃって」「旦那のお父さんも県病院じゃったわ」「じゃあ大田さんしばらく来んかねえ」「来んじゃろう。面会やら、気持ちも忙しかろうし」
 ウォーキングの面々は途中で二列になったり三列になったりしながら噂話に盛り上がる。参加者の判子を押す係の大田さんは一昨日うちに来て、「しばらく歩きに行けんけえ、跡野さん代わりに判子やってくれん?」と判子を預けていった。どうしたのと聞いても、何か誤魔化すようにちょっと忙しくてねと言ったきりだった。
「跡野さん、大田さん元気そうじゃった?」ウォーキングの会の代表の佐々木さんは一際大きな体を揺らし、声の合間にふうふうと息遣いが聞こえる。「ほうじゃねえ。変わらんようではあったけど」「旦那さん良うなるとええけど。お義母さん看て苦労したのに、今度は旦那さんじゃあ気の毒よね」「ほうよ。きついお義母さんじゃったんじゃろ」「そりゃあもう、よう耐えた思うよ」「ねえ」私は訳知り顔で頷く。
 皆が持参した手帳に判子を押す。スタンプ台は思いのほか乾いていて上手く写らず、押した後にあ、と声を漏らした私に「ええよ見えるけえ。ありがとう」源さんがにっこり笑った。「あんた足がにがるん?」源さんは私の右足に目を落とす。「そうなんよ。冷房で冷えたんかね」「ああ、今時期はねえ」「ないと眠れんし」「そうよお。死ぬるよ」笑う源さんに頷いてみせながら、佐々木さんの手帳にスタンプを押す。佐々木さんに手帳を返して顔を上げると、源さんはもう背を向けて今村さんと何か笑い合っていた。Tシャツの後ろ姿が肩から背にかけて汗で濡れている。帰り道を歩き始めた皆の最後尾について歩き出すと、ジップロックに入れたスタンプ台と判子がカタカタと高い音を鳴らす。「明日の雨はどうかね」「大丈夫じゃろう、昼からになっとったよ」「まあ無理せんように」口々に言う彼女らに、じゃあねえ、と後ろから言うと何人かが応えてくれ、私は手を振りながら家の前の通りへ曲がった。
 大田さんの夫は近所と顔を合わせても会釈をするきりの愛想のない男だ。義母に厳しく当たられる大田さんを庇ったり感謝の言葉を口にすることもついぞなく、そのくせ、大田さんが長く家を空けると不機嫌になるのだと聞いた。自分がいなければ炊飯の仕方ひとつわからないと大田さんはしょっちゅう愚痴をこぼしていたが、どこか誇らしそうにも見え、仲は悪くはないようで、義母が亡くなった数年前からは並んで散歩をしているのを見かけるようになった。確かに、痩せぎすの大田さんの隣を歩くあの夫は、脂肪がついた四角い体を左右に揺らすいかにも転びそうな足取りで、腰が悪いのだといつか聞いた。あの夫の体が床に叩きつけられ、頭の中でじわじわと血が染み出し、静かに忍び寄るようにして死の気配が膨らんでいく様を思い浮かべる。私はその時間テレビを見ていたかもしれないし、食事をしていたかもしれないし、眠っていたかもしれない。

(続きは本誌でお楽しみください。)

[→]受賞者インタビュー 内田ミチル/方言を使い、自分から離れたところへ