世の中って結構残酷っぽくて、でもそれを受け入れるにはちょっと早いっぽくて、で、あたしどうすればいいかわかんないし、だから、今はとりあえずこーやって爪を齧ることしかできなくて、右手も、左手も、全部の指先がぼろぼろになって、真っ赤になって、爪と肉の境から血が滲んで、それを舐め取って、冷たい酸素に触れると焼けたように痛くて、それでも、あたしは生きてるんだって、生きていくしかないっていうか、それ以外のやり方を知らない、だけ?
残念なことに? 幸運なことに? うちらって意外としぶとくて、こんなに世界に絶望してんのにお腹すくし、喉渇くし、こうやって紙パックが潰れるまでスイカジュース飲んでるし。なおはもうおにぎり食べ終わって、ぼりぼり柿の種を嚙み砕いて、いる。
「ご飯食わんの」
なおが顔も上げずに聞く。
「食べても、どうせ吐いちゃうよ」
「死ぬよ?」
「そしたら、ラッキー」
肘でぐっと突かれる。今のは言っちゃいけなかったぽい。結構、痛い。
「冗談じゃん」
「あんたが言うとマジになっちゃうんだって」
午後。冬のつめたい日差しが二人分の影を階段にじりじりと刻み込んでいく。
家に帰ると阿姨がドラマを観ていた。広東語だったから内容は全く分からなかった。とっくのとうに忘れてしまったその言葉は、かつての母語とは思えないくらいよそよそしくて、それで、怒鳴り声みたいだと思う。
「帰ったね」
阿姨はあたしに気づくとテレビを消してソファから立ち上がり、背もたれに掛けていたエプロンをつけた。どんなに色あせても油染みだらけになっても、キティちゃんは笑顔を絶やさない。
「もう行くの?」
「あんた帰ったら、お店戻るって決めてた」
阿姨はスリッパをぺたぺた鳴らしながら一階へ降りていった。あたしはワイシャツを脱いで、ぼろぼろのスウェットに着替える。
あたしは香港生まれだけど、日本語しか喋れない。ずっと子供の頃から日本にいるし、阿姨も爸爸も香港人なのに、あたしには日本語で喋りかける。
昔、本当に昔、一度阿姨に広東語を勉強したいと言ったことがある。阿姨は広東語よりも英語を勉強しなさいって言って、あたしは広東語が喋れない香港人はいないよって返したら、あんたはもうずっと日本にいるから日本人でしょって、返されて、じゃあどうしてあたしのパスポートには中国と香港って書いてあるの、なんであたしたち黄緑のカード持ち歩かなきゃいけないのって聞いたら、阿姨はそれ以上なにも言わなくて、皿を洗う音しか聞こえなくなって。そしたらこの狭くて小さい家が更に小さく感じて。阿姨のゴム手袋がやけに緑色で。洗剤の突き刺さるあの匂いが脳にこびりついて。
あたしはイヤホンを差して、リュックから古典のノートを取り出して宿題を始める。べく、べから、べく、べかり、べし、べき、べけれ、べく、べから、べく、べかり、べし、べき、べけれ、
「はじめまして、黄星瑤です」と言ったときの、あの感じ。弛んでいた空気がピンと張り詰めるあの感じ。あー、このひと外国人なんだ。というフィルターがかかるのがすぐにわかるあの感じ。それでも別に私気にしないですよ、っていう、あの、感じ、に、いつまで経っても慣れなくて、多分一生、慣れない。それで、その後「どこから来たんですか?」と聞かれて、あたしってどこから来たんだろう、ずっと日本いるけど、フィリピンにもいたことがあるみたいだし、でも生まれたのは香港で、でも香港は国じゃなくて、香港は中国で、というか法律が違うし、でも人類はみんなアフリカ大陸から渡ってきて、それでそのはるか前は宇宙の塵だったわけで、遠い、何億光年も、あたしたちが数え切れないくらい遠くから、来てる、のかもしれなくて、あ、はい。そうですね、香港生まれです、生まれは。でも中国人じゃなくて、いや香港人でもないのかもですね、育ったのは日本だから、あーでも国籍は香港、っていうか中国で、中国語? っていうか、広東語のことですか? それなら喋れなくて、日本語で育てられたから、でも両親? は香港、中国人で、あの、ごめんなさいなんか、あたしもよく、わかんなくて、あたしのこと、なんか、もう代わりに決めてくれませんか? って、思ったその瞬間に教室へ吹いたその風に、ここじゃないどこかに連れて行ってもらいたいと、思った。正しい、あたしがいるべき場所へ。
「星瑤!」阿姨があたしを呼ぶ大きな声が、階段と廊下を伝ってイヤホンを差したあたしの耳に届く。イヤホンを引き抜いて、ドアを開けて、その急な階段を下りるまでの間に阿姨は6回あたしを呼んだ。
「何?」
「あんたの友達、呼んでるから。はやく」
外で待っていたのはなおだった。あたしに友達は一人しかいないから、必然的にそういうことになる。なおは制服のまま、スカートの下に真っ青なジャージを穿いて、スクールバッグをカゴに突っ込んで自転車に跨っていた。
「シンユおそい」
「LINEしてくれたらよかったのに」
「してもどうせ気づかないじゃん」
「それはそうだけど」
「じゃあ行こ。自転車置いてっていい?」
「いいけど、行くってどこ」
「ザリガニ。釣ろ」
なお、なおは、あたしの唯一の友達で、それで、いつもこんなんで、乾燥肌で、だいたいチリトマトのカップヌードル食べてて、それで、変。変なキーホルダーをいくつもつけた鞄を怠そうに背負って、ぼろぼろになったスニーカーを青色のダクトテープでぐるぐる巻きにしていて、おしゃれと変の間を行ったり来たりしているような生き方。心の底から憧れてるし、ちょっとバカにもしている。
(続きは本誌でお楽しみください。)