立ち読み:新潮 2018年10月号

ローマ帝国の三島由紀夫 全一幕/古川日出男

  ――沈黙は死の指輪である。

登場人物
ユキコ  女
サンボンギ  男
マサハル  男
ヤマノウエ  男
ヤマノウエ妻  女
オノ  男


地底(イタリア・ローマ)

幕が開いた瞬間が《始まり》ではない。それ以前に、すでに物事は始まり、継続――しつ継起――している。同様に幕が下りる瞬間が《終わり》ではない。

しかしとりあえず・・・・・幕は上がる。
するとステージには4ドアの車。
とどまっている(走ってはいない)。エンジン音は皆無……残骸の気配。だが廃車ではないらしい。
ヘッドライトを客席側に向けているが、点ってはいない。

 (車の助手席のドアを開けて、登場)顔を洗いたい。もちろん、洗えばいいんだけど、だんだん私、不安になる。あの水、大丈夫なのかなって。もちろん飲むのはぜんぜん大丈夫じゃない・・・・・・・・・・・。上水道じゃないんだし。地下にあるんだから、あれは下の水で、下の水って、つまり下水……下水道? (困惑し、顔をしかめる)そういう定義、わかんないよ馬鹿。そうだ、私、ワイパーになろう。

女、車のフロントガラスをワイパーが拭う音を、声で真似る。
最初、その模倣はたどたどしい。
しかし、ある瞬間、唐突にプロフェッショナルな模写に変ずる。
と、運転席側のドアが開いた。

 (登場して)楽しそうじゃないか。
 (ワイパー音を出しつづけながら、横目で男を見る)……。
 ういーんういーん言って。
 (無視)……。
 それ、厭味いやみだろ?

女、ワイパーの作動音の真似をすーっ・・・と速め、リズムも強調し、肩、膝なども反応させる。少しダンスっぽい。

 糞!
 (ぴたりとワイパー音を止めて)私さ、そういう立場かな?
 どういう立場のことを、俺に問うてる?
 いきなりシットって罵られる立場。
 俺は尽くしてる・・・・・だろ?
 そうだねサンボンギ。
男(サンボンギ) 呼び捨てにするなよ。
 悪かったねサンボンギ。
サンボンギ 「サンボンギさん」だろ?
 私、チャンスやってるんだけど。
サンボンギ いったい、これらの言葉の応酬の、奈辺なへんにチャンスありや?
 知ってるよ私。頃合いを見計らって、「ああこの女を呼び捨てにしよう」って考えてるの。あんたが。しかも「下の名前で呼びつけてやろう。もの・・にした感じで」って。
サンボンギ 下の名前……。
 (ふいに不敵に)いいんだよ、呼んでも。
サンボンギ (おそるおそる)ユキコ……。
女(ユキコ) さん付け・・・・はどうした?
サンボンギ お前だって、俺をさん付け・・・・からオミットしたから。
ユキコ ね?

ユキコ、にっこり笑っている。
サンボンギ、そこで「はっ」と悟った気配。

サンボンギ もしやチャンスはそのようにして俺に……。
ユキコ 転がり込んだ。ラッキーでしょ? でも、そんなことはどうでもいいの。私、下の名前うんぬんで思い出した。下の水道管。そういうのは下水管。だったら上の水道の、管は?
サンボンギ カンとはなんぞ?
ユキコ (まなじりをキッとあげて)上水道の!
サンボンギ それは給水管ではないでしょうか。
ユキコ 給水管も、ねえサンボンギ、地中に埋められてるの?
サンボンギ 大抵は、そうじゃねえかなあ。あ、ニッポンの場合ね。なんだか「ニッポンのバヤイ」って言いたい感じね。
ユキコ じゃあ上水道も地下にあるんだね。
サンボンギ ニッポンのバヤイは。
ユキコ イタリアもそうでしょう。
サンボンギ イタリーのバヤイも、そうなのか?
ユキコ 上水って、上の水で、それが地面の下にあったら、それって……。

ユキコ、口を閉ざす。
サンボンギも黙っている。
すると両者の無言しじまの彼方から、水音。どこかに水が流れているのだ。むしろ流れがあるのだ。この4ドア車が置かれた世界の、その何処いずこかに、川が。
しかし川音は去る・・

ユキコ 顔を洗いたかったんだ、私。
サンボンギ (優しく)ペットボトルの水、今朝飲む用にって取ってあるあれ、使えば?
ユキコ 炭酸ガス入りじゃん。
サンボンギ スパークリングだったか。
ユキコ 炭酸ガス入りじゃあ、ね、洗顔は、ね。
サンボンギ 荒れちゃう?
ユキコ お肌が、ね。
サンボンギ そういうもん?
ユキコ (ぶっきらぼうに)試したことねえよ。
サンボンギ うわあ、ごめん、ごめん。
ユキコ それから、今朝、とか言うんじゃねえよ。今朝もお昼も真夜中も、ないよ。ここには、ないよ。ないでしょ、サンボンギ?
サンボンギ 俺、確認はしてる。
ユキコ 時間を?

サンボンギがうなずいた。
なぜか、二人の間に親密な空気が流れる。

サンボンギ 時間は、要るんだ。襲撃するのに要るんだ。スーパーマーケットの、貯蔵室、下から襲うのにさ。あそこは夜間、ロックされる……何人なんぴとも入室不可となる、外からは……つまり真下から襲っても、誰も、俺を見咎めには来ない、ってことで。俺たち二人が生きのびる程度の、水、食料、その他、狩るのは簡単だ。狩猟ハンティングするのは。ああした大型スーパーは……。
ユキコ (真上を仰いで)ここには夜はないのにね。
サンボンギ 上には、あるからな。
ユキコ 違った。ここには夜しかないのにね。
サンボンギ けっこう明かりは、洩れ込んでるよ。
ユキコ そう?
サンボンギ そうだぜ。ローマは大都市だからな。人工照明は地中にもまた瀰漫びまんしたり、だ。ビル、交通網、建設工事現場……。
ユキコ 遺跡発掘現場。
サンボンギ (空笑そらわらって)ははは。
ユキコ あんたは私に尽くしている・・・・・・
サンボンギ (瞬時の動揺を経)……ユキコ。
ユキコ サンボンギ。
サンボンギ ユキコ!

ふっと身をひるがえすユキコ。車の後部――助手席の後ろ側――のドアを開けて、じーっと車内なかを覗いて、またバタンと閉める。ルーフ越しに(またはボンネット部分を挟んで)ユキコとサンボンギの目が合う。

サンボンギ (何かを言いたいが、ユキコの目力めぢからに圧倒される)……。
ユキコ お米をね、まずは炊いて、それからね、鍋に昆布と鰹節と、砂糖と醤油と、それに味醂だ、もちろん水も入れてね、弱火で六分煮立てるのね。出汁だしはボウルに濾します。そして鶏肉とりにく。食べやすい大きさに切らないと。
サンボンギ えーと、それは、いったい、いかなる――。
ユキコ しー! 集中させて。鍋にね、その切った鶏肉と、醤油、お酒を入れて、三分は置かなくっちゃ。「食べやすい」サイズって言ったら、長葱もそういう大きさに切らなくっちゃ。それから鍋の汁気を切って、鶏肉を焼いて。長葱も入れる。そうしたら出汁の出番。煮込みます。
サンボンギ 煮込む。
ユキコ そして、忘れては駄目! 二人前だったら四個の卵を、割るのね。ボウルを使って割って、ほぐして、その鍋に、およそ三分の一だけ流し入れます。そっとね。二分待とうかな。そうしたら、残りの三分の二も入れてしまって、蓋をして、火を消して、蒸らす時間はだいたい一分。
サンボンギ いま、二人前・・・って言ったね?
ユキコ どんぶりにご飯をよそいます。
サンボンギ 丼なんだね。
ユキコ そうだ。三つ葉も切って、散らさないと。そして山椒を振りかけて、完成です。
サンボンギ 何が完成したのだろうか?
ユキコ (さげすみのまなざし)当てられないの?
サンボンギ 丼物どんものであることは確かだ。
ユキコ で、主な材料は?
サンボンギ 鶏肉。だろ? あとはぁ、ええとぉ、……待て、思い出す、ええとぉ、卵だ。(理解に至る)親子丼!
ユキコ 私は親子丼が食べたい。
サンボンギ そうだったのかあ。
ユキコ サンボンギはどうなの?
サンボンギ その願い、成就するものならば。
ユキコ させてよ。
サンボンギ 肉と卵は、きっとオーケー。しかし、味醂……イタリアのスーパーで味醂は、ちょっとなあ。
ユキコ 三つ葉もきっと無理ね。意外に山椒はあるかも。
サンボンギ 中華の調味料だから?
ユキコ ポピュラーかも。ねえ、サンボンギ……私わかってるよ。私難題・・出してるって、わかってるよ。
サンボンギ 主な食材に関しては、難易度は低い。とり、卵、任せろ。
ユキコ 無理だよ。
サンボンギ 二人前……って、言ったじゃないか。ユキコ。ここでガスも使えるようにするし、ガス焜炉こんろをハンティングしてさ、そうしたら鍋や器を用意するだけじゃないか。あとは。
ユキコ そんなことよりにわとり飼おうよ。
サンボンギ (絶句)……。
ユキコ ペットにして可愛がるの。私いま気持ちが変わった。殺生せっしょう反対。
サンボンギ いや、それは駄目だよ。
ユキコ どうして?
サンボンギ あの連中は、鳥目だ。ここには向かない。
ユキコ そうか、地底は、鶏には……。
サンボンギ だから「殺生賛成」派に戻ろう、ユキコ。ぎりぎりまで試すんだ。望みを捨てるな。俺は、鶏肉も探すし鶏卵けいらんるし、三つ葉もだ。あとなんだった? 味醂? 味醂は焼酎からできてるんだろ。俺がグラッパか何かで作ってやる。あとは蒸した米とこうじで。ははは。やってやる! さあ、ひとまず、襲撃だ。今晩の襲撃・・・・・。俺は獲るものを獲る、炭酸ガスなしのミネラル・ウォーターも。ユキコ、お前が……お前が洗顔できるように、たっぷり。

サンボンギ、運転席の後ろ側のドアを開けて、そこからバックパック、工具類らしきもの、その他をひっぱり出し、バックパックは背負って、額にヘッドランプを装着して、ユキコに宣言する。

サンボンギ 出勤します。
ユキコ 行ってらっしゃい。

(続きは本誌でお楽しみください。)