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  海猫が目覚める前に、
  私は人を愛したかったのです。


雪より白い花嫁

 五稜郭から南茅部に抜けるには、峠を一つ越えねばならない。函館山を背に太平洋に向かってまっすぐに進む道のりは、車で一時間もかからないが、間に挟まれた峠の深さから、函館に住みながら南茅部という土地の名さえ知らぬ者も多かった。
 峠の名は、川汲という。川汲と書いてカックミと読み、小さな温泉宿を三つほど抱えている。周囲には、鉄山や採石場があり、港町としての賑わいをのこす函館市内とはずいぶん趣も異なった。
 雪深い今は、山々も白く覆われ、北国の冬の色の中にあった。樹々も、起伏の激しい道も宿も、すべてが白い山の中に収まり、束の間晴れ渡った空から差す眩しい光を浴びながら、今一台のバスが静かに通りすぎて行く。
 運転手にとって、白無垢を着た花嫁を乗せた貸切バスを運転するのははじめてのことだった。ハンドルを握る手にかすかに汗が浮かんだ。函館の男らしく、祝い事のために景気良く下ろしたてのワイシャツを着ている。その上から、制服である紺色のヤッケを着ていたが、シャツの真新しい襟元が気になって仕方がない。それでつい首に手を当て、ついでにルームミラーで座席をのぞき込んだ。花嫁は、相変わらずおどおどした表情で窓の外を見たままだ。
 せめてよく晴れていてよかったっけ、と運転手は思う。川汲峠は、吹雪くと大変なことになる。運転手たちの間では、それが運試しにされるほどだった。道はすぐに閉鎖されてしまい、車は立ち往生するしかない。
「カックミを無事に抜けられたら、今日は馬でも当てようや」
 などと話して、バスに乗り込むこともある。大雪だからと滅入っていたりせずに、そんな日こそばん馬競馬にでも賭けるのが、港町の男たちの気風なのだ。
 それにしても、今日は風もなく素晴らしい陽気で、すでに積もった雪面がうっすらと溶けはじめている。太陽の反射が、目に痛いほどだった。運転手はいつものようにサングラスをしようかとダッシュボードに手をかけ、だがそのグラスが黒なのでやめておこうという気になった。改めてルームミラーで、座席に腰かけたうつむき加減の花嫁をのぞき見た。
 一体、なんて白い花嫁なんだべ、と思う。白い角隠しに、綿の入った白無垢を着ている。顔も首も白く塗られているのはもちろんなのだが、塗られているというのが感じられないほどその色は澄んで見えた。鼻先は小さく尖り、かすかに上を向き、赤く彩られた豊かな口元は少し開かれたままだ。青色がかった目は窓の外を向いたままで、表情からただ喜びだけを見出すのは、難しかった。花嫁というのは、普通は自信に満ちて輝いているものだが、この娘に限っては、視線は落ち着かず彷徨っている。
 こんなにきれいな花嫁だから、不安なんだべな、と運転手は思った。きれいな花嫁だから不安だ、というのはおかしな話だが、峠を越すことさえ難しい冬の日にバスで昆布漁の村に嫁ぐというのが、いかにも似合わない顔立ちに思えたのだ。
 通路を隔て花嫁の隣にいる母親は、恰幅良く、黒の留め袖に羽織り姿だった。指に一つきりつけた大振りの猫目の指輪が心の強さを現しているふうだが、花嫁の表情に秘めた不安に気付かないはずはないだろう。母親が今あえて胸をはっているのだとしたら、それは娘のために演じているのかもしれない、と運転手は思った。涼しげな目とふっくらした輪郭を持つ、純日本的な顔だちの彼女は、肌や髪の艶もそこそこで、年齢はまだ四十代のはじめといったところだろうか。脂ののった独特の色気があったが、花嫁と似ているところが見当たらない。
 母親の後ろでは、花嫁の弟が黒のコートの襟をたてて足を組んで座っていた。この年若い者が花嫁の兄、もしくは弟であるということは、誰の目にもわかる。白塗りをしていない分、その肌の透き通るような白さはますます顕著で、セルロイドの人形のように滑らかだった。寒さで頬は赤らみ、唇の色もくっきりしており、体も痩せていることもあり艶かしくさえあった。
 珍しく対向車があり、運転手は表面が雪で覆われた切り通しに注意深く車体を寄せる。
 
 弟はミラー越しに後ろを窺う運転手の視線をうっとうしく感じていたが、母の席まで顔を近づけると声を潜めるでもなく言った。
「母さんさ、姉さんが嫁ぐのに、結局幾ら使ったのさ」
「あなたには関係ありませんよ。こんな日に、また、やめてちょうだいな……」
 母は声を押し殺すように言ったが、息子をきっぱりとはね除けきれていないのは明らかで、どこかにまだ幼い子を叱るような甘さがあった。
「こんなバスまで借り切って。母さんも、いいふりこぎだな。ふん、それでもバスいっぱいになるような親戚もいなくちゃ、かえって姉さんに寂しい思いさせるだけだって言ったべさ?」
 後ろの席に座っていた親戚たちが、何ごとかを囁き始めたが、それでどうということもなかった。
 運転手にも、声は聞こえた。彼ははじめその息子をひどく不快に思っていたのだったが、今の言葉にふと心が溶けていった。案外正直な男なのかもしれないなと思った。そうだっけ、このバスに今何人乗っているかと言えば、花嫁を入れてもたったの八人なのだ。バスは息子が言うまでもなく、がらんと寂しく感じられる。
 そのとき、花嫁がはじめて口を利いた。
「孝志、私はゆったりしていてよかったわ。知ってるでしょう? 姉さんは、乗り物に弱いのだから」
 花嫁には、函館弁と呼ばれる言葉のアクセントが少なかった。思えば、母親の訛もそう強くはない。函館のように華を好んで成長した土地では、家によって訛の強さが異っている。してみるとこの家では、弟ばかりが、敢えて自分を偽悪的に見せるために肌の色とちぐはぐな函館弁を使っているのだ。
「乗り物に弱い女が、なんで漁師のところにいげるのさ? 姉さんもさ、こんな時代になんでそんな白無垢なんて着て、神妙な顔で嫁に行くんだ? 今ならまだ引き返せるってさ」
 弟はそう言うと、自分でふんと笑った。
 花嫁はかすかに苦笑し、静かに頬をゆるめた。表情が和らぐと、まだ幼さを秘めた顔立ちであることがわかる。だが同時に、匂いたつような美しさがあった。