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西暦 |
中近東・小アジア・エジプト |
ヨーロッパ |
1077年 |
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神聖ローマ帝国皇帝ハインリッヒ四世、カノッサに赴き、破門を解くようローマ法王グレゴリウス七世に懇願(「カノッサの屈辱」) |
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1095年 |
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法王ウルバン二世、クレルモン公会議で十字軍結成を呼びかけ |
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1096年 |
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貧者ピエール、「貧民十字軍」を組織して中近東へと出発。ハンガリーで収奪を繰り返しながらコンスタンティノープルに到着 |
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トゥールーズ伯サン・ジル、ロレーヌ公ゴドフロアとその弟ボードワン、プーリア公ボエモンド、ボエモンドの甥タンクレディらが中近東へ向け出発。秋から冬にかけてコンスタンティノープルに到着 |
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1097年 |
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ビザンチン帝国皇帝アレクシオス、諸侯に臣下の礼を強要。諸侯はこれを形式上受け入れ、セルジューク・トルコ支配下の小アジアに向けて出発 |
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諸侯による十字軍、小アジアに入りニケーア、ドリレウムを次々と制圧 |
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ボードワン、本軍から離脱してエデッサに到着。現地の領主に養子として迎えられ、エデッサ伯に。最初の十字軍国家が成立 |
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1098年 |
七カ月の戦闘の末、シリア随一の大都市アンティオキアを制圧。突破の契機を作ったボエモンドが領主におさまり、アンティオキア公を名乗る |
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1099年 |
十字軍、パレスティーナへの行軍を開始 |
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七月、長年イスラム側の支配下にあったイェルサレムが陥落。ロレーヌ公ゴドフロアが「イエス・キリストの墓の守り人」を名乗り、実質の王となる |
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1100年 |
パレスティーナの沿岸都市アルスーフ、カエサリア、アッコンなどがゴドフロアに講和を申し入れ、十字軍の覇権下に入る |
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七月、ゴドフロアが死去。エデッサから弟のボードワンが召還され、イェルサレム王に即位。エデッサには兄弟の従兄弟であるボードワンが領主として派遣される |
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1105年 |
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ボエモンド、ヨーロッパに帰国。各国の首脳に引き続き十字軍の派遣を要請 |
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1118年 |
ボードワン、エジプトへの牽制攻撃に向う途中に死去。エデッサ伯となっていた従兄弟がボードワン二世としてイェルサレム王に即位 |
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伝承によれば、この頃聖堂騎士団が結成され、ボードワン二世治下のイェルサレム防衛の任務につく |
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同じ頃、当初医療に従事する修道士の集団として結成された聖ヨハネ医療修道会が「聖ヨハネ病院騎士団」へと変貌し、聖堂騎士団と並ぶ有力な戦力となる |
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1131年 |
十三年の治世ののち、ボードワン二世死去。娘婿のアンジュー伯フルクがイェルサレム王に即位。十字軍国家防衛の要となる城塞の建設に力を注ぐ |
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1143年 |
フルク死去。十三歳の息子ボードワン三世とその母メリゼンダが共同で王位に就く |
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1144年 |
モスールとダマスカスを支配下においていたイスラムの太守ゼンギ、エデッサを制圧し、破壊。最初の十字軍国家を喪失 |
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1146年 |
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シトー派の修道士ベルナール、フランスの小都市ヴェズレーの広場で十字軍結成を勧説。ルイ七世がこれに応える。続いて神聖ローマ帝国皇帝のコンラッド三世の説得にも成功。第二次十字軍の派遣が決まる |
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1147年 |
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コンラッドとルイが中近東に向けて出発 |
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1148年 |
コンラッドとルイ、イェルサレムに到着。イェルサレム王とともにダマスカスの攻撃を決定 |
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ゼンギの次男でアレッポを受け継いでいたヌラディンが、ダマスカスの領主からの支援要請を受け、ダマスカスに接近。十字軍はその翌日に撤退を決定する |
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コンラッド、はやくもパレスティーナを離れ、コンスタンティノープルを経由して帰国 |
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1149年 |
ルイ、シチリアを経由して帰国 |
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ヌラディン、兄の死によりモスールを支配下に置く |
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1150年 |
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ルイとアクィテーヌの相続人であった妻エレオノールとの結婚が無効とされる |
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1152年 |
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エレオノール、ノルマンディー公でのちにイングランド王となるアンリと結婚 |
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1154年 |
ヌラディン、ダマスカスを制圧し、イスラム全域の支配者となる |
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1156年 |
シリアで大地震。ヌラディンは支配地域の復興に努める |
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1158年 |
ボードワン三世、ビザンチンの皇女と結婚。アンティオキアの領有をビザンチンに譲渡 |
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1162年 |
ボードワン三世、死去。弟のアモーリーがイェルサレム王に即位 |
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1169年 |
ヌラディン配下の将軍シルク、甥のサラディンとともにファティマ朝のエジプトに侵攻し、制圧 |
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シルクの死をうけ、甥のサラディンがエジプトの宰相に着任 |
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1170年 |
エジプトのファティマ朝滅亡。サラディン、新たにアユーブ朝を設立 |
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1174年 |
アモーリーが死去。癩病の息子ボードワン四世がイェルサレム王に即位 |
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ヌラディンが死去。若い息子が跡を継ぎ、サラディンはこれに表面上の忠誠を誓うが、ダマスカスの実質的な領有に成功 |
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1182年 |
サラディン、アレッポを支配下に入れる |
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1185年 |
ボードワン四世が死去。前年に共同統治者となっていたわずか八歳の甥ボードワン五世が王位に就く |
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1186年 |
サラディン、イラクの重要都市モスールを支配下におき、イスラム世界の実質的な統合に成功 |
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ボードワン五世が死去。その両親であるシビッラとギー・ド・ルジニャンがイェルサレムの支配者となる |
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1187年 |
サラディン、大軍を率いてキリスト教勢力圏内に侵入 |
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ルジニャン率いるキリスト教軍、ハッティンの平原でサラディン軍と激突し、完敗。イェルサレム王のルジニャンはイスラム側の捕虜となる |
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サラディン、ティベリアスのほか、アッコンを中心とした海港都市を支配下におく |
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サラディン、イェルサレムを陥落。イェルサレムが八十八年ぶりにイスラム勢力下に入る |
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1188年 |
サラディン、ティロスの攻略に失敗 |
神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒ、軍勢を率いて中近東に向け出発 |
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1189年 |
サラディン、ルジニャンを解放 |
リチャード一世、イングランド王に即位 |
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ルジニャン、イベリンらとともにアッコン攻めを開始 |
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1190年 |
フリードリッヒ、小アジアに到達するも、コニア付近のゴクス川で溺死。ドイツ軍は行軍を続けた一部を残し、帰国 |
リチャードとフランス王フィリップ二世、ヴェズレーで合流、第三次十字軍として中近東に向け出発 |
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1191年 |
フィリップ、アッコンに到着し、攻防戦に参加 |
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リチャード、キプロスに到着。当時ビザンチン帝国の支配下にあったが、わずか五日間でこれを征服。以後キプロスは十字軍勢力の補給地となる |
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リチャード、アッコンに到着し、攻防戦に参加 |
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アッコン側が全面講和を申し入れ |
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フィリップ、帰国。続いてドイツ兵を率いていたオーストリア公も戦線を離脱し、残された兵がチュートン騎士団となる |
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リチャード率いる十字軍、アルスーフへの行軍を開始。行軍中にサラディン軍と戦闘し、勝利。アルスーフも支配下におく |
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十字軍、ヤッファとアスカロンを再復。イェルサレム侵攻の準備にとりかかる |
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1192年 |
モンフェラート侯コラード、ルジニャンにかわりイェルサレム王に即位するが、イスラム側に暗殺され、跡をシャンパーニュ伯アンリが継ぐ |
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フィリップ、リチャードの支配地域に侵入 |
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リチャードとサラディンの間で講和が成立。イェルサレムの領有はイスラム側にとどまるが、イスラム側はキリスト教徒の巡礼の安全を保証し、パレスティーナの海港都市の領有権はキリスト教側に譲渡される |
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リチャード、自領に向けて出発 |
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1193年 |
サラディン、死去。広範な支配地域は三人の息子たちと弟アラディールに分割されるが、息子たちの間で勢力争いが起き、アラディールがイスラム世界全域のスルタンとなる |
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1194年 |
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リチャード、イングランドに帰国。フィリップとの勢力争いが本格化する |
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1198年 |
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インノケンティウス三世がローマ法王に即位 |
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1199年 |
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リチャード、死去 |
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シャンパーニュ伯、ブロア伯、フランドル伯らフランス諸侯が第四次十字軍結成を誓う |
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1201年 |
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第四次十字軍の使節、ヴェネツィアを訪れ協力を要請。元首ダンドロはアラディールとエジプトを侵攻しない密約を結ぶ一方で、第四次十字軍の要請を受諾 |
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1202年 |
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第四次十字軍とヴェネツィア海軍が出発するも、海上輸送の費用を支払えないために十字軍側は主導権を握れず、ヴェネツィアの思惑に従ってアドリア海沿いの都市ザーラを侵攻、制圧 |
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ザーラ滞在中の第四次十字軍のもとをビザンチン帝国の皇子が訪れ、父を殺害して帝位についていた叔父を打倒するよう依頼。十字軍側はこの要請を受け、行き先をコンスタンティノープルに変更 |
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1203年 |
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十字軍とヴェネツィア海軍、コンスタンティノープルに到着 |
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1204年 |
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十カ月の攻防の末、コンスタンティノープルが陥落。ビザンチン帝国の皇帝が空位となり、新たに「ラテン帝国」が樹立される |
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1212年 |
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少年を中心にした「少年十字軍」の動きが起る |
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1218年 |
ローマ法王庁に促された当時のイェルサレム王ジャン・ド・ブリエンヌが第五次十字軍を組織。エジプトのダミエッタに侵攻 |
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アラディールが死去。長男でエジプトを任されていたアル・カミールが後継者となる |
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1220年 |
第五次十字軍、ダミエッタを制圧 |
フリードリッヒ二世が神聖ローマ帝国皇帝に即位 |
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1221年 |
第五次十字軍、ナイル河の氾濫を受け、撤退 |
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1225年 |
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フリードリッヒ、ジャン・ド・ブリエンヌの娘と結婚し、イェルサレム王に即位 |
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1227年 |
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法王グレゴリウス、再三の十字軍遠征を要請するも、先延ばしにし続けるフリードリッヒを破門 |
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1228年 |
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法王、ふたたびフリードリッヒを破門 |
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フリードリッヒ、第六次十字軍を組織し、中近東に向け出発 |
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1229年 |
フリードリッヒ、アル・カミールとの三カ月の交渉の末、講和を締結。戦闘を経ないでイェルサレムの奪還に成功し、自領に帰国 |
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1244年 |
シリアの一部族がイェルサレムを占拠。十五年にわたって守られてきた講和が破られる |
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1248年 |
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法王インノケンティウス四世の要請を受けたフランス王ルイ九世、第七次十字軍を組織 |
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1249年 |
第七次十字軍、ダミエッタに上陸。マンスーラへと軍を進める |
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1250年 |
第七次十字軍、元奴隷の兵士たちであるマメルークの軍勢との戦闘に敗れ、中心となる騎士たちが全滅。ルイ自身を含む第七次十字軍全体が捕虜となる。ルイ自身は莫大な保釈金を支払い、解放される |
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1254年 |
ルイ、フランスへ帰国するためにアッコンを発つ |
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1258年 |
モンゴル帝国が西進し、バグダッドを攻め落とす。引き続きアレッポとダマスカスを侵攻 |
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1260年 |
マメルーク出身で事実上のエジプトの支配者であったバイバルス、モンゴル軍を撃破 |
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1270年 |
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ルイ、再度の十字軍遠征を決意。第八次十字軍としてチュニジアへ向う |
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第八次十字軍、チュニジアに上陸するも、疫病が蔓延しわずか一カ月で撤退。ルイ自身も現地で落命 |
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1291年 |
マメルーク朝のスルタン、カリルがキリスト教側に唯一残されていたアッコンに総攻撃を仕掛ける |
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五月十八日、アッコンが陥落。中近東のキリスト教側の領地はすべて失われる。主だった残存勢力はキプロスへと避難した |
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1306年 |
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聖堂騎士団、フランスへと本拠を移す |
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フランス王フィリップ四世が法王クレメンス五世と教皇庁そのものをアヴィニョンへと移す。アヴィニョン捕囚の始まり |
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1307年 |
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聖堂騎士団の弾圧が始まる |
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1309年 |
病院騎士団、ロードス島に本拠地を移し、以後ロードス騎士団を名乗る |
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1312年 |
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法王、聖堂騎士団の解散を宣告 |