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 その日は夜遅くまで私は鈴木氏と話し込んだ。私は、「ここは一歩後退・二歩前進で、『チーム』も解散し、私も異動し、対露外交は、新執行部の『お手並み拝見』で行くべきだ」と主張したが、鈴木氏はこれに反対した。
「この問題は、あんた個人にとどまらない。田中も小寺も超えてはいけない一線を超えた。これに対しては責任をとってもらわなくてはならない。あんたは日本の国益のためにここまで一生懸命にやってきたんだろう。そのあんたの仕事を評価しないのはおかしな話だ。もはや官僚の力ではあんたを守りきれない」
 私は「一歩後退・二歩前進」論を繰り返したが、鈴木氏は「今ここで一歩後退したら、次は十歩、その次は百歩後退することを余儀なくされる。これは国益に反する。官僚の喧嘩ではなく政争だから、もはや引くことはできないよ」と言った。
 鈴木氏がここまで言うのならと、私も腹を括ることにした。そして、紙を取り出し、相関図を描き、一九四一年初頭の国際情勢について、説明し始めた。
「現在の状況は、独ソ戦直前の国際情勢に似ています。以下のアナロジーでいきましょう。
 田中眞紀子はヒトラー・ドイツ総統です。
 外務省執行部はチャーチル・イギリス首相です。
 小泉純一郎はルーズベルト・アメリカ大統領です。
 そして、鈴木先生がスターリン・ソ連首相です」――。
 鈴木氏は「俺はスターリンなのか」と怪訝な面もちで問いかけるので、私は「そうです」と言って説明を続ける。
「ドイツとイギリスは既に戦争を始めています。イギリスは守勢なので、アメリカの助けが欲しいのですが、アメリカは当面、動きそうにありません。そこで、決して好きではないのですが、ソ連を味方に付けようとしています。外務省執行部は、鈴木先生と田中大臣が戦争を開始すれば大喜びでしょう。
 対田中戦争で外務省執行部は鈴木大臣と同盟を組むでしょう。しかし、これは本当の同盟ではありません。戦後に新たに深刻な問題が生じるでしょう。それに外務省内では田中大臣の力に頼り、権力拡大を考えている人たちもいます」
 鈴木氏は私が描いた相関図を手に取り、「あんたはどこにいるんだ」と問う。
 私は、「当時、チェコスロバキアの亡命政権は、ロンドン派とモスクワ派に分かれていました。モスクワ派首班のゴッドワルド・チェコ共産党書記長といったところでしょう」と答えた。
 すると、鈴木氏は、「外務省は勘違いしないことだな。俺は今のところスターリンだが、もしかするとムッソリーニ(イタリア首相)になり、ヒトラーと手を結ぶかもしれない」と冗談半分に微笑んだ。
 信頼する外務省幹部に鈴木氏とのやりとりについて話した。幹部は「それが君の見立てなのか。なるほど」とうなずいて、次のように続けた。
「田中大臣のエラーは、戦線を拡大しすぎたことだ。外務省から経世会(橋本派)の影響力を追い出すということで、敵を鈴木宗男、東郷、君に限定していれば、君もわかっているように、うち(外務省)には鈴木さんや君のことを面白く思っていない連中が多いから、うまく勝つことができたと思う。
 しかし、五月八日、アーミテージ米国務副長官との会談をドタキャンしたが、婆さん(田中女史)はその時、大臣就任祝いにもらった胡蝶蘭への礼状を書いていたんだ。これに対してみんなが危機感をもった。来日したアメリカ政府の要人に会うより、胡蝶蘭の礼状書きがプライオリティの高い仕事だというのだからね」
 にわかには信じられなかった。私は「ほんとうですか」と尋ねた。
「ほんとうなんだ。外交についてブリーフしようとしても時間をつくってくれない。そもそもサブスタンス(外交の実質)に関心がない。外務省を攻撃して、国民的人気を得ることと周囲に言うことを聞く人間を集める人事にしか関心がない。小寺人事をゴリ押しして、外務省を恣意的に支配しようとしている。
 科学技術庁ではそれができたかもしれないが(田中女史は村山富市政権時代に科学技術庁長官をつとめたが、その時に官房長を更迭したことがある)、うちではそうはいかない。これで組織全体を敵に回した。新聞は婆さんの危うさについてきちんと書いているんだけれど、日本人の実質識字率は五パーセントだから、新聞は影響力を持たない。ワイドショーと週刊誌の中吊り広告で物事は動いていく。残念ながらそういったところだね。その状況で、さてこちらはお国のために何ができるかということだが……」と幹部は続けた。
 すでにこの時期、田中外相と外務官僚の対立は世間に広く知られるようになっていた。対立の発端は、田中女史が就任早々に発した、「人事凍結令」だった。この凍結令で前外相時代に内定していた大使十九人と退任帰国予定の幹部七人の人事がストップされるという異例の事態になったのである。もちろん、これまで述べてきた小寺氏に関する人事もこのなかに含まれる。
 省内の緊張が高まる中で田中女史は「外務省は伏魔殿」と発言。さらに、川島事務次官、飯村官房長らを「大臣室出入り禁止」にしたことで外相と官僚の対立はいよいよ深刻なものとなっていた。
 米国務副長官との会談ドタキャン事件はこうした中で起こった。アーミテージ氏は日米外交のキーパーソンだっただけに、その彼との会談をキャンセルしたことは日米関係に悪い影響を与えるとして、いくつかのメディアで非難の対象となった。それでも、そうした批判は「眞紀子イジメだ」とする、感情的な論調がこの時点ではまだまだ支配的だった。
 私は、田中眞紀子女史は「天才」であると考えている。田中女史のことばは、人々の感情に訴えるのみでなく、潜在意識を動かすことができる。文化人類学で「トリックスター(騒動師)」という概念があるが、これがあてはまる。
「トリックスター」は、神話や昔話の世界によく見られるが、既成社会の道徳や秩序を揺さぶるが、同時に文化を活性化する。田中女史の登場によって、日本の政治文化が大きく活性化されたことは間違いない。しかし、問題は活性化された政治がどこに向かっていくかということだ。

 あるとき田中女史が何の前触れもなく、私が勤務する国際情報局分析第一課の部屋を訪ねてきた。外相のはじめての省内視察として、なぜかわが課が選ばれたのだ。課長はあわてて背広を着た。私はワイシャツのままで、椅子から立って、田中女史の来訪に歓迎の意向を表した。
 田中女史は白いスーツを着て、「この部屋は何をやっているのですか」とにこやかに問いかけてきた。そして、私の机の前にやってきた。私の向かいの机は空席で、そこにはロシアの新聞と北朝鮮の新聞が無造作に積まれていた。田中女史はロシア語の新聞を手に取り、私の方を向いて「これは何語の新聞ですか」と問いかけた。一瞬、私と眼があった。田中女史は、ほほえんでいたが、眼は笑っていなかった。爬虫類のような眼をしていた。
 私が黙っていると課長が「ロシア語の新聞です」と答えた。田中女史は、「この課はロシアのことをやっているの。ほかには何をやっているんですか」と課員に話しかけたところで、今井正国際情報局長が飛び込んできた。そして、国際情報局の仕事について説明しはじめた。
 この抜き打ちの訪問の後で、私は今井局長に呼ばれ、こう言われた。
「あれは佐藤さんの様子を偵察しに来たね。分析第二課にも一応出かけていったが、目的は佐藤さんの人相見だと思うよ。いったい誰が佐藤さんのことを吹き込んでいるんだろうね」
 その晩、鈴木氏から電話がかかってきた。
「あんた、田中大臣があんたのことを『ラスプーチンのところに行ってきたけれど、思ったよりもかわいい顔をしているのね』と言っていたそうだぞ。あんただったら田中眞紀子とも上手くやっていけるだろうから、秘書官になったらどうだ」と笑いながら問いかけてきた。
 私は「田中大臣の好みは歌舞伎役者のような美男子ですから、私は向かないでしょう」と答えると鈴木氏は「どうも髭を生やしているといけないらしいな。あんたは髭は生やさないのか」と言う。私は、「髭は手入れがたいへんなので生やしませんが一案があります」と答えた。
 翌朝、私は理髪店に行き、五分刈りにしてもらった。そして、衆議院第一議員会館の鈴木事務所に出かけた。
 鈴木氏が「あんた、いったいどうしたんだ」と言うので、私は「どうもラスプーチンとしての気迫が田中大臣に伝わらなかったようなので、頭を丸めてみました。戦闘態勢です」と答えた。そして、この丸刈りを私は田中女史が外相から解任されるまで続けた。