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ごくらくちんみ

杉浦日向子/著

605円(税込)

発売日:2006/06/28

  • 文庫

とっておきのちんみ、美味い酒、愛おしい命。「江戸の達人」が現代の女と男に贈る傑作掌編小説集。

未婚の母を決意したタマヨが食べたいという「たたみいわし」。幼なじみの墓参の帰りに居酒屋で味わう「かつおへそ」。元放蕩息子のロクさんが慈しみつつ食す「ひょうたん」。ほかにも、「青ムロくさや」「からすみ」「ドライトマト」など68種。江戸の達人が現代人に贈る、ちんみと酒を入り口にした女と男の物語。全編自筆イラスト付き。粋でしみじみ味わい深い、著者最後の傑作掌編小説集。

書誌情報

読み仮名 ゴクラクチンミ
シリーズ名 新潮文庫
発行形態 文庫
判型 新潮文庫
頁数 240ページ
ISBN 978-4-10-114918-9
C-CODE 0193
整理番号 す-9-8
ジャンル 文芸作品
定価 605円

書評

日本語と酒とちょっぴり珍味

鈴木啓吾

 私が能楽と出会ったのは大学に入ってから。いま能楽師として能を生業にしているわけだが、もとより能の家の子ではない。能とは全く関係のない家に生まれ育ち、大学の能楽のクラブに所属して稽古するうちどっぷりと能にハマり、親の反対を押し切って師匠家に入門した、いわば落研に入って落語に目覚め、そのまま噺家の道に進んだという方々と同類である。
 国文学を専攻した私が在学中から三十年以上にわたって拘ってきたのは「歴史的仮名遣ひ」いわゆる旧仮名での文章表記であった。が、日頃から旧漢字・旧仮名・変体仮名まで用いられている謡本に慣れ親しんでいるはずの能楽師や能楽愛好家でも、現代人が記す文章が旧仮名表記だと奇異に感じるのか、一歩引かれてしまう感が否めなかった。まして普段から古典に親しんでいない人の目には不可解な文章としか映らなかったようであった。旧仮名表記に拘るあまり、その結果読み手の心に言葉が届かないのでは意味がない。あるとき書籍の執筆のお誘いをいただいたことをきっかけに私は「旧仮名」を捨てた。随分と拘ってきただけに、それまでの自分を自ら裏切るような、否定するような複雑な気分であった。大袈裟に言えば正しいと信ずる表記法を捨て去ることへの罪悪感めいたものすら感じていたのだが、その凝り固まった頑なな気持ちをほぐしてくれたのが井上ひさし氏の『私家版 日本語文法だった。

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「……正しい、美しい、理想の日本語などというものはない。それは永遠の幻である。いま、ある日本語。われわれがいま喋り、聞き、書き、そして読んでいるもの、それが日本語の総和である。正書法を求める人たちは、だから虹の橋を渡ろうとしているロマンチストたちのことであると言い得るだろう」

 さぁ、ほっとしたところで一杯ろう……。
 はて、考えてみるに私はいつも同じような物をツマミに、同じ酒を飲んでいる。外で飲んでもこの店ではこれとこれ、あの店ではあれとあれといった具合で変化を楽しむ習性がない。これはもちろん拘りということではないけれど。元来冒険のできない質だが、好きなお酒ぐらい冒険心を持って楽しもうじゃないか。きっとその好奇心を充分に満たしてくれるに違いない、そう思って手にしたのが吉行淳之介氏と開高健氏の『対談 美酒について―人はなぜ酒を語るか―。この二人の巨人の積み重ねてこられた国内外の酒・性・文化・文学などの豊かな経験、尽きぬ話題はまさに冒険王。巻末に載せられた銘酒豆事典により一段と深くお酒の知識を得ることができ有難いのだが、何しろこのお二人のお酒とその生き様……。とてもついてゆけず、読むだけで酔いが回って、くらくらとしてくるような濃い一冊である。

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開高 ……コニャックでもスコッチでも、ウオツカ、ホワイトラム、テキーラ、極上品を全部飲んだ自信がありますが、そこで一言言いたいのはその極上品と言われるものには全部共通した性格が一つある。それは水に似ている。とくに喉を通っていくときに水に似てくる。いくらでも飲める。
吉行 それはよくわかるな。日本酒にも言えるんじゃない。
開高 おっしゃるとおり。焼酎でもそうです(中略)淡々として水のごとし、君子の交わりですね……」
 確かに良い酒はそうだなぁ……と共感するのであるが、それにしてもこのお二人は酒呑みとしてのスケールが大きすぎる。もう少し我が身の丈にあった小さな冒険はできないものか……。

 ある時仕事で訪れた福井の街。街中の小さな鮨屋のカウンターで塩うにを嘗めつつ地酒を呑み、これはまさに“ごくらくちんみ”だ! と、杉浦日向子氏の掌編小説『ごくらくちんみ』を思い出した。

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「ちょっぴり嘗める。ちょっぴり呑む。舌にいつまでも濃厚にまとわりつく塩うには、荒磯の香りを充溢させる。そこへ、コニャックの芳醇なヴェルヴェットのようなふくらみのある酒が融和すると、己の体の輪郭さえ、部屋の空間に溶け、散華する恍惚感に包まれる」
 どんな食レポも杉浦氏の筆致には敵わぬと思えるほどの豊かな表現。ごくごく短い掌編の物語の中に、珍味とお酒の味わいが絡み合い、一編一編の小説がそのままひとつひとつの珍味と人生の、熟成した深い味わいとなっている。

 拘りを捨て、旨い酒と珍味を求める……。以来、無駄にとらわれることの無い心の自由と、ごくごく小さな冒険のワクワクが私にも芽生えた。

(すずき・けいご 観世流シテ方能楽師)
波 2022年11月号より

しみじみと、ふんわりと ――杉浦日向子さん一周忌によせて 『お江戸でござる』『ごくらくちんみ』『4時のオヤツ』新潮文庫三冊同時刊行

畠中恵

 初めて読んだ杉浦日向子さんの作品は、漫画だったと覚えています。
 時代小説はよく読んでいたものの、当時の私にとって、江戸時代の市井を描いた漫画は、珍しいものでした。
 読み返したおりには、描かれている江戸っ子の髷が、随分と細くて後ろの方についているなぁとか、女の人の髷に、色々な種類があるみたいだとか、テレビで見ている時代劇との違いに、目が行きました。
 しかし最初はそういったことより、作中の江戸の、ゆったりとした、そして肌に触れてくるがごとき雰囲気に、大層心地よく浸ったように思います。
 それは、地上の乏しい明かりが届かぬ江戸の夜空に、煌々と白く光る月光の明るさを描いたようでありました。また、舗装しておらず突き固めてあるばかりなので、砂埃が舞い雨でぬかるむ道の、いささか難儀な泥の感覚でもあったと思います。
 その感触は、空の星が見えにくくなるほどに、明かりの絶えない夜や、水たまりの跳ね返りすら無い道に慣れてしまった今の暮らしから、どうにも遠くなってしまったものやもしれません。頭の中で思っているよりも、もっと肌感覚からは遠ざかってしまったもの。杉浦さんの漫画は、そんなものを持っている気がするのです。
 そうして杉浦さんのファンとなりました私は、番組の最後の方で、杉浦さんが「おもしろ江戸ばなし」の解説をしておいでだった、NHKの「お江戸でござる」もよく見ておりました。
 面白さと、いささか滑稽な感じの漂う、時代物の短いお芝居も面白かったのですが、やはり楽しみにしていたのは、その後杉浦さんがなさった江戸についての解説でした。
 何百年か前の時代を語るそのお話は、面白かった上に、錦絵やセットで形を示してあったりして、分かりやすいものでした。知っているようで知らない、江戸の頃の事実を色々聞くことができる、見逃せないひとときだったと思います。
 また杉浦さんは漫画だけでなく、他にエッセイやショートストーリーなども書かれていました。一連のお話を思い浮かべるとき、真っ先に頭に浮かぶ言葉があります。それは「美味しそう」という一言です。
 文章は現代を書かれたときでも、どこか洒脱な感が漂う、すっきりとしたものでした。そこによく、何とも心引かれる美味しそうな一品が、ひょっこりと顔を出しているのです。
 ことに酒の肴が、目を引きましたね。杉浦さんは大層お酒に強そうだなぁ、などと勝手に思い描きつつ、己も少しは粋に飲んでみたいものだと思ったものでした。
 そして作中に甘味が顔を出してくると、今度は酒の代わりに、珈琲か紅茶かハーブティーが欲しくなったりします。楽しく読んでいる文章の中に甘いものが出てくると、不思議と口にしたくなったりしませんか?
 そうなったら本を一時閉じて、あり合わせの甘味を、本の中の一品の代わりに出すことになります。飲み物を添えてから、またページをめくると、時間がゆったりと流れていってくれるのでした。
 杉浦さんが書かれた短いお話を読むと、その話が始まる前と、終わった後に、流れてゆく長い時があるように思えたものでした。登場人物達が過ごしている、日常の別のひとこまが、浮かんでくるのです。
 話の中で垣間見た恋の続き。翌日出会った美味しい食べ物。先週行った面白そうな場所。一月後に見かけた、面白い出来事。そんな話をまた読みたくて、次の本に手を伸ばしていたのかもしれません。
 終わって欲しくないと思える話ほど、物凄く早く、ラストに行き着くような思いをしたことがあります。そういうときは、終わる少し手前で、ちょっとだけ本を閉じてしまったりするのですが……先が気になるので、直ぐに開けてしまって、やっぱり早々に読み終わってしまうのでした。楽しい一日だと、時間の経つ速さに加速がつくのと同じです。
 杉浦さんの書かれるものは、そんなお話だったように思うのです。
 もう一度、そして新しい気持ちを持って時々読み返しては、一緒に時を重ねてゆく。そんな話を書かれる方でした。

(はたけなか・めぐみ 作家)
波 2006年7月号より

著者プロフィール

杉浦日向子

スギウラ・ヒナコ

(1958-2005)東京生れ。文筆家。「通言室乃梅」で漫画家としてデビュー。以来、一貫して江戸風俗を題材にした作品を描き、1984(昭和59)年『合葬』で日本漫画家協会賞優秀賞、1988年『風流江戸雀』で文藝春秋漫画賞を受賞。『二つ枕』『百日紅』『東のエデン』『ゑひもせす』など漫画作品のほか、『江戸へようこそ』『大江戸観光』『隠居の日向ぼっこ』『お江戸風流さんぽ道』などエッセイストとしての著書も多いが、『ごくらくちんみ』『4時のオヤツ』では小説家としても腕の冴えを見せた。2005(平成17)年7月、下咽頭がんのため46歳で逝去。最後まで前向きで明るく、人生を愉しむ姿勢は変わらなかった。

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