きことわ
539円(税込)
発売日:2013/07/29
- 文庫
- 電子書籍あり
貴子。永遠子。25年ぶりの再会。読むことの愉悦に満ちた、小説の奇蹟。芥川賞受賞作。
貴子(きこ)と永遠子(とわこ)。葉山の別荘で、同じ時間を過ごしたふたりの少女。最後に会ったのは、夏だった。25年後、別荘の解体をきっかけに、ふたりは再会する。ときにかみ合い、ときに食い違う、思い出。縺れる記憶、混ざる時間、交錯する夢と現。そうして境は消え、果てに言葉が解けだす──。やわらかな文章で紡がれる、曖昧で、しかし強かな世界のかたち。小説の愉悦に満ちた、芥川賞受賞作。
書誌情報
読み仮名 | キコトワ |
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シリーズ名 | 新潮文庫 |
発行形態 | 文庫、電子書籍 |
判型 | 新潮文庫 |
頁数 | 144ページ |
ISBN | 978-4-10-125181-3 |
C-CODE | 0193 |
整理番号 | あ-76-1 |
ジャンル | 文芸作品、文学賞受賞作家 |
定価 | 539円 |
電子書籍 価格 | 407円 |
電子書籍 配信開始日 | 2019/01/25 |
書評
忘れていた過去が蘇る
昔は、書店に行くと途方もない絶望感に襲われることがあった。この膨大な数の本を、死ぬまでに読み尽くすことは絶対にできない――。その事実にひどくがっかりし、焦りが募った。だが、今はもう諦めの境地に達し、書店で気になった本を次々と手にとって眺めてみるのは、ひたすら幸福なひとときである。
本を読み始めた二十代半ばの頃、自己啓発本を愛読した。ダンサーとしてメジャーデビューを目指す道の途中で、強くポジティブでストレートな言葉に背中を押され、勇気をもらっていた。本のなかに自分の悩みの解決策を探し、前進するための力を求めていた。
自己啓発本は今も大切な存在だが、最近は、未来ではなく過去に潜ってゆけるような文学作品に触れることも楽しい。
『きことわ』はまさにそんな作品だった。かつて同じ時間を共有したふたりの少女が、二十五年のときを経て再び会う。夢と現実、記憶と幻想が混じり合うような神秘的な雰囲気が物語全体に漂っている。貴子と永遠子が再会する場面にこんな一文がある。「おひさしぶりからはじまる時候と社交辞令のあいさつも、身の置きどころの迷いからでるぎこちない早口のおしゃべりもなかった」。
僕も同じような経験をしたことがある。幼稚園の同級生と、およそ十年の空白期間を経て、高校で一緒になった。一年生のときには、お互い「アイツだ」とわかっているのにひと言も話さなかった。二年で仲良くなり、彼の家に遊びに行くことになった。
かつては気安く話しかけていた彼のお母さんに、なんと挨拶するべきなのだろう。「お久しぶりです」なのか「お邪魔します」なのか。距離感がつかめず、ドキドキしながらドアを開けたとき、彼のお母さんは言った。
「ケンちゃん、カレー食べる〜?」
その瞬間に、僕は幼稚園児の「ケンちゃん」に戻った。「食べる食べる!」と言いながら、大股で友人の家へと上がりこんだ記憶が、『きことわ』の行間から飛び出してきた。
『海峡の光』の主人公・斉藤は、小学生の頃に自分を巧妙にいじめた花井が傷害の罪を犯した受刑者として現れたことに動揺する。刑務所看守の斉藤は、花井を監視・管理する立場にあるにもかかわらず、幼い頃と同じように花井に翻弄され、心乱されてゆく。
おそらく誰の心にもいる「常にアイツに悩まされている」と思わせるような存在。大嫌いなのに自分のなかの存在感は大きくて、どうしても意識してしまう相手。読みながら、何人かの顔が頭をよぎった。本作ではそんな厄介な関係性が看守と囚人という極限にまで研ぎ澄まされている。
斉藤にとってはこの関係性や状況はきわめて不条理だ。人間の醜さや悲しさとともに勧善懲悪とはかけ離れた世界が描かれていて、何も解決しなくてもいいんだ、人生はこう在ってもいいんだ、と思わせてくれる。
『あゝ、荒野』で寺山作品を初めて読んで魅了され、続いて『両手いっぱいの言葉―413のアフォリズム―』を手にとった。自分と接点のある、演劇やスポーツについての名言が特に心に残っている。例えば、
「人生はそのまま大河演劇であり、私たち自身は台詞を言い、演技論(という名の幸福論)を身につけ、そのとめどない劇の流れの中で、じぶんの配役が何であるかを知るために、『自分はどこから来たのか? そしてどこへ行こうとしているのか?』と自問しつづけている」
若い頃は、自分は何でもできる、自分の限界を決めつけてしまいたくない、などと思っていたが、自分の「配役」を知ることは可能性を狭めることではないと次第にわかってきたように思う。得意不得意を把握し、自分の専門性を追求することで、人生はもっと楽しく、奥深くなるのではないだろうか。
本を読むのは、朝晩の自宅と、ツアーやイベントのための長距離移動中が多かったが、コロナ禍のいま、長い移動はほとんどなくなった。思うように動けない今だからこそ、考えることを深めたい。文学を通して「自分はどこから来たのか?」という問いに向き合うことで、「どこへ行こうとしているのか?」という展望もより深く鮮明に描けるような気がしている。
(たちばな・けんち EXILE、 EXILE THE SECONDメンバー。
EXILE mobileにて「たちばな書店」更新中)
波 2020年10月号より
渋い。痺れる。
インタビュー取材を受けていて、小さいときはどんな子供でしたか、と訊かれ、咄嗟に答えが思い浮かばず、ええっと、あのお、普通の子供でした。と言うなどしてアホと思われたことが何度もある。
とはいうものの、こっちもまるっきりのアホではないので、どういうことを言えばアホと思われないですむかはわかる、すなわち、私は歌手をやっていたことがあるので、歌が好きな子供でした、とか、こんなことをして文章を書いたりするので、本を読むのが好きな子供でした、とか言えば筋褄が合い、アホと思われないですむのである。
それがわかっていながらそう答えられないのは、人に問われてではあるが、いま自分がいる場所からかつての自分を眺めるとき、歌と読書が好き、という風に大掴みに自分を捉えられないからである。
また、歌と読書が好き、というのも、そういえばそうだったのかも知れないが、それはいま現在の状況から逆算し、たまたま歌を歌っていて近所のおばはんに称賛されたのをことさら思い出したり、ただ、本を読んで過ごしたある日のことをたまたま思い出して、そういうことにしたに過ぎないかも知れない。
そして、もっと考えてみると、そういう粗い捉え方からはみ出る、というより、まったく無関係なことが無数にあって、しかもそれらは断片的で、なかには粉々に砕けてしまっているものもあり、拾い集めることもできないし、仮に一部を拾い集めたとしても、インタビュアーが納得するような、一定のある形にはけっしてならない。
しかし、そういう風に考えるのは恐ろしいことで、別にインタビューを受けなくても、自分はこんな子供で、こんな風にして生きてきて、その結果、いま現在、ここにいる、と粗く決めておかないと、自分の人間としての脈絡に自信が持てなくなり、下手をすると気がおかしくなってしまう。
なので人は記憶を大胆に整理して自身の脈絡と現実を保っているが、しかし記憶も黙って整理されている訳ではなく、整理された記憶、言い換えれば、殺された記憶は夢という形で蘇る。
ただまあ、それは所詮は夢であって、痴人、夢説く、と言い、また、なにを夢で屁ぇこいたようなこと吐かしとんねん、などと言うように、そんなものに拘泥していたら過酷な現実を生きていかれないと思われている。
しかしそうした夢があるからこそ現在が粉々になった過去によって侵蝕されないで済んでいるのであり、脈絡ある人間の現実は、整理された記憶と夢によって守られている。
その場合、大事なのは、右にも言うように、記憶と夢は現実を侵してはならないということで、自分は、この三者の調停者としてこの三者を峻別することによって、自分であり続けることができるのである。
『きことわ』はそうして、そういうことにしないと困るので一応そういうことにしている夢と記憶と現実を、実際の、というと奇妙だけれども、よくよく感じてみるとこう感じていた、みたいな実際の感じ、に基づいて書かれた奇跡的な小説であると思った。誰が。俺が。
なんかしとんじゃ、小説に奇跡があるかれ。然り。この小説を成り立たせているのは奇跡ではなく、時間そのもの、音楽そのものであるような、この小説の文章である。音楽について書くのではなく、言葉が言葉そのものの意味とは別に音楽のような意味をもって連なり、言葉のなかに時間の風が吹く。
いままでこんなことをやった人がありますか。と、俺はあの懐かしい田中角栄の口調で言ってしまう。俺は田中角栄にはなっていかないが、この本を読んだことで私はもはや整然とした記憶を失い、人格の脈絡を失い、パウダーみたいになってしまって、それがたのしい。
その、実際の感じ、を怪異として現実から隔てずに書くと、普通はそれ自体が怪異として隔てられるか、自ら隔ててしまうのだけれども、そうなっていない。
いたるところで、ばしっ、と決める手際が渋い。痺れる。酔う。死ぬ。なくなる。
(まちだ・こう 作家)
波 2011年3月号より
単行本刊行時掲載
著者プロフィール
朝吹真理子
アサブキ・マリコ
1984(昭和59)年、東京生れ。2009(平成21)年、「流跡」でデビュー。
2010年、同作でドゥマゴ文学賞を最年少受賞。2011年、「きことわ」で芥川賞を受賞した。他の著書に『TIMELESS』、エッセイ集『抽斗のなかの海』、『だいちょうことばめぐり』(写真・花代)などがある。