七〇歳年下の君たちへ―こころが挫けそうになった日に―
1,485円(税込)
発売日:2018/07/31
- 書籍
エリート高校生たちを相手に、「人生の危機」からの脱出術をやわらかく伝えた奇跡の講義録。
「視線はできるだけ低く」「ユーモアと感受性で生き延びる」「不変な真理などない」「それでも人間を信頼する」……エリート予備軍の少年たちに、生きていく上でのピンチをいかに克服するか、かつてなく深く、丁寧に指し示した豊潤な授業の記録。そして数十年ぶりに訪れた母校早稲田での感動的な「学生との対話」を付す。
文芸・ジャーナリズム論系学生との対話
書誌情報
読み仮名 | ナナジュッサイトシシタノキミタチヘココロガクジケソウニナッタヒニ |
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装幀 | 新潮社装幀室/装幀 |
発行形態 | 書籍 |
判型 | 四六判変型 |
頁数 | 192ページ |
ISBN | 978-4-10-301725-7 |
C-CODE | 0095 |
ジャンル | 文学賞受賞作家 |
定価 | 1,485円 |
書評
人そのものと向き合う力
初めて五木先生の講義を受けたとき、先生はずっと立ち続けていた。涼しい顔で座る学生と、我々を睥睨する先生――この対比が、両者の間に超克不能の溝があることを象徴していた。
あの部屋を切り裂いていたのは対人力の差であった。朝鮮で終戦を迎え、ソ連軍の横暴を目撃し、日本では引揚者として差別される。そんな経験の中で人間の暗黒面を直視してきた先生の人生史を、温室育ちの若輩者が受け止められるはずもなかった。先生は『歎異抄』や『論語』のように聞き書きで生まれた古典を引き合いに、直接語られた言葉を虚心で受け止める重要性を説いた。そんな先生を前に、私は先生を“高名な作家”というレーベルを通してしか見ず、固有な体験の語り手として向き合う準備がなかった自分を恥じた。
人に対峙するのは難しい。自分が善と信じる人にほど悪が潜んでおり、逆に社会的に疎んじられる人にほど善が隠れている。それにも拘わらず私は自分の価値判断の絶対性を崩すのが嫌で、人々の間に境界線をでっち上げてしまう。“善なる私たち”に根付く暗黒面から目を背け、悪印象に隠された善の価値を認めないのだ。ソ連兵に姦淫された女性を侮辱した婦人、そのアンチテーゼとしての誠実さを私欲の犠牲にしない池袋の売春婦。彼女らのことを述懐する先生の言葉からは、先生が人間の絶対悪を他人事として葬り去らず、自分に潜む暴力性の鏡像として内省的に受け止めるからこそ、決して安易な善悪二分に陥らないのだと実感した。
二回目にお会いしたとき、先生の「他人の経験は語り継げない」との言葉に絶望した。先生の語りはどれも詳細な描写に満ち溢れていた。それを聞いているうちに、引揚者を差別する日本人の醜悪も、赤線地帯でも誠実さを捨てなかった女性の気丈さも、リアリティをもって眼前に立ち現れるように感じた。それなのに先生が「経験は語り継げない」という諦念を口にするのは耐えられなかった。先生の話にあれほどの現実味を感じていた自分の感性が全否定された気がしたのだ。
大学に入り、沖縄戦体験者の声を記録する活動を始めた今、ようやく先生が言いたかったことが飲み込めた。他者の経験を完全に理解し語り継ぐことが出来ると錯覚していた私は、無意識的に自分が理解可能な人間の虚像を他者に押しつけていたのだと気づいたからだ。自分と全く違う道を歩んできた他者は本質的に理解不能だ。理解を拒絶する他者性を受容し、しかし人として共有出来る部分を探そうと悪戦苦闘しながら、その人の生き様のディテールを見つめることによってのみ、固有の尊厳を持つ主体としての他者に対峙することが出来るのだろう。振り返れば私たち灘校生の質問は概して抽象的・観念的でディテールを掘り起こす力を欠いていた。畢竟私たちの経験は独り善がりな幻影を積み上げた砂上の楼閣だからだろう。小説で人を描くことは「不可解なことへのチャレンジ」だと言った先生の言葉が、やっと今心に染み渡った。
他者からの隔絶を直視するとき、「自分とは何か」「自分の現状は肯定されるのか」といった不安が常につきまとう。そんな時こそ具体的な対人関係が「特効薬」になるのだと先生は言う。救いようのない人間の悪も、ふとしたところに表出する愛すべき人間らしさも、全てをそのまま受容することで、人間としての自分を肯定できる。虚心坦懐に他者と対峙し、その生々しい営為を自分の血肉とする力――これが先生に教えられた対人力である。
五木先生は作家という職業を特別扱いせず、「表現者」という言葉を好んで使う。この言葉に先生の対人観が凝縮されている。先生にとって全ての人が自分の人生の表現者なのであり、だからこそ先生は人の営みの些細なディテールにこだわるのだ。表現者に序列をつけない謙虚さと、表現という営みへの崇敬こそ、先生の対人力の源である。
強いて作家としての役割を問うたとき、先生は「炭坑のカナリア」になることだと答えた。坑道で有毒ガスが発生するのをいち早く察知し人に知らせるカナリアのように、大衆が気づかぬ時代の趨勢や人間の本質を伝えるのが作家の役目だという。その仕事は毒の犠牲となる怖さも孕んでいるだろう。それでもなおカナリアでいようとする先生は、人から逃げない表現者としての強さを体現している。私も対人力を磨き、もう一度先生と膝を交えたい。その時まで先生がけたたましく鳴くカナリアでいて下さることを切に願っている。
(にしお・けいご 灘校OB・大学二回生)
波 2018年8月号より
単行本刊行時掲載
インタビュー/対談/エッセイ
後ろ向きに前へ歩め
心が挫けそうになった日の、二、三のささやかなヒント。
中瀬 五木先生は九月三十日がお誕生日ですが、今年で……。
五木 八十六になりました。
中瀬 先生の若々しさは驚異的ですね。「さらばモスクワ愚連隊」で小説現代新人賞を受賞してデビューされたのが昭和四十一年ですから、作家歴も五十二年の長さになります。ミリオンセラーを何冊も出すなど半世紀以上も小説界のトップランナーであり続けていますが、実は「対談王」の顔もお持ちですね。物凄い数の対談をしてこられた。
五木 はい。ある出版社がぼくの対談全集を企画してくれたのですが、担当者が数年間奮闘してくれた末に、「すみません、多すぎて無理です」と(笑)。
中瀬 今やもう歴史的人物というか、川端康成、井伏鱒二、稲垣足穂、深沢七郎といった文豪たち、あるいはカシアス・クレイ(モハメド・アリ)、ヘンリー・ミラー、フランソワーズ・サガン、ジャンヌ・モロー、ミック・ジャガー、フランシス・コッポラといった方たちとも対談されています。今日はわたくし如きで申し訳ないのですが、先生は……。
五木 あの、ぼくはどんな方と対談しても〈さん付け〉なんですけど。新人時代に、それこそ井伏鱒二さんと対談した時も、「井伏さん」と呼んでベテラン編集者から大目玉を食らったことがあった(笑)。できれば「中瀬さん」「五木さん」でお願いします。
中瀬 川端さんや井伏さんは五木さんより三十五歳くらい年上でしたよね。それが逆転して、この前「中央公論」で社会学者の古市憲寿さんと対談された時は、「五十二歳差対談」と謳われていました。今度出された本はもっと差が開いて、『七〇歳年下の君たちへ―こころが挫けそうになった日に―』という題で、灘高の生徒たちと対話されています。これだけ歳の差があると、いつもの対談とは勝手が違いませんか?
五木 十五歳も八十六歳も、だいたい人間は同じようなものですよ。こっちの精神年齢が低いのかもしれませんが(笑)。高校生のみなさんも最初は戸惑っていたようでしたが、だんだん共振してくる感じがあって面白かったです。
中瀬 この本は「こころが挫けそうになった日に」という副題が付いているように、五木さんがこれまでの人生を振り返りながら、心が折れそうになった時をいかにやり過ごすかの貴重なヒントを高校生たちに語っています。これは五木さんご自身がそんな憂鬱な時を何度もくぐり抜けてきたからこそ教えられるのだと思います。本の中にもありますが、まず大きかったのは終戦の時、平壌から内地へ引き揚げてくる時に大変な苦労をされた。
五木 その話をするとね、どうしても「可哀そうなはこの子でござい」みたいになるから本当はいやなんですよ(笑)。ただ、敗戦から引き揚げまでの二年ほどの間に、母親が死んだり、さまざまなことがあって、ぼくの戦後七十三年はそこで全て決ってしまった。未だにそこから脱け出せずに今日まで来た感じがありますね。
中瀬 お母様を亡くされ、気持ちが弱ってしまったお父様や小さいごきょうだいを連れて五木少年は引き揚げてきました。どうにか生き延びたのだけど、その代償として〈サバイバーズ・ギルト〉という十字架を背負わされた。
五木 敗戦時に植民地にいた旧宗主国の人間なんて、他人を突き倒して前へでるような強引さがないと生き残れないんです。例えば、トラックにあと三人しか乗れない時に下に五人いたとして、「お先にどうぞ」では絶対に帰って来られなかった。「善き者は逝く」という言葉通りです。そんな思いが根強くあるので、「引き揚げ者は全員悪人だ」と書いてすごいバッシングを浴びたこともありました。
中瀬 昭和二十七年に早稲田大学の露文科に入学されます。苦学生で、いろんなアルバイトをしながら大学に通われましたが、結局大学はヨコに出て――。
五木 早稲田は中退じゃないとカッコ悪いなんて言われたものですが(笑)、ぼくは中退ですらなくて抹籍でした。授業料が払えずに、自分から願い出て抹籍になった。三十年以上後に、早稲田の総長さんからすすめられて授業料を払い込んだので、今は晴れて正式の中退と名乗っております(笑)。
中瀬 その後はマスコミ業界に入って、作詞家や放送作家として売れっ子になるのですが、突然仕事を投げ捨てるように海外へ行かれたんですよね。
五木 当時は高度成長期で、CMソングが時代の先端を行く音楽として持て囃されていた。その草分けと言いますか、朝はトヨタの歌詞を書いて夜はニッサン、次の日は資生堂と花王、みたいな生活になって、活気はあっても非常に複雑な心境でしたね。一方で、祖国に帰れなかった人びとへの申訳なさを背負って、世間の片隅でひっそり生きていきたい、という気持ちをずっと持っていた。そのギャップでだんだん鬱っぽくなってきましてね。結局、仕事を整理して、ソ連と北欧に逃げだしたのです。その旅で見聞したものを小説の形で残しておきたいなと思ったのが、デビューのきっかけです。
中瀬 それが「さらばモスクワ愚連隊」になるわけですね。デビューの年にすぐさま「GIブルース」「艶歌」などを立て続けに発表され、後年野坂昭如さんが「ついに五木
五木 誰も信用してくれないんだけどね、その時の正直な気持ちは嬉しさが半分、鬱陶しさが半分でした。「また同じところに戻るのか」という気がした。だけど、賞を貰った以上は書き続ける責任があると思ったものですから。
中瀬 たちまち大流行作家になって、昭和四十四年には『青春の門』の連載も始まるのですが、四十七年に一度目の休筆をされます。
五木 再びソ連旅行の直前と似た状態になって――つまり、眠れないし、食事をしたくない。人に会いたくない、電話に出たくない、仕事をしたくない。体調もすぐれませんでした。そんな時に「週刊朝日」での大橋巨泉さんとの対談でポロッと「休もうと思う」と言ったら、勝手にマスコミが「休筆」という言葉を作ったんですよ。
中瀬 休筆って言葉は、五木さんのために作られたんですか! でも、編集者は「休まないでください」と言いませんでしたか。「じゃあ、文春と講談社はちょっと休んで、新潮社のだけ書きましょう」とか(笑)。
五木 当時の「小説現代」の編集長だった三木章さんに「流行作家というのは〈流行〉というところにアクセントがあるんだから、しばらく休んで戻ってきたって、君の椅子はもうないよ」と言われました。それで「また新人賞に応募しますから」と答えた(笑)。本気でそう思ってたんです。
中瀬 急に話が変わりますが、先日朝日新聞で五木さんのインタビューが連載され、若い頃のお写真が何枚も紹介されていました。もう照れないで仰って頂きたいのですが、五木さんはイケメン作家だと思われていましたよね?
五木 はい(笑)。でも作品の評価の上ではずいぶん損したなあ。「顔で書いている」なんて言われて。
中瀬 イケメンだと評価が下がる(笑)。
五木 でも、こっちも「そう、顔で書いてますから」って居直ってた(笑)。
中瀬 モテたでしょう?
五木 そんな暇がありませんでしたね。当時は、御三家と言われた「小説新潮」「オール讀物」「小説現代」の三誌合計で百何十万部という時代です。タクシーの運転手さんやバーの女の子が普通に「今月の『オール』の野坂さんの短篇は面白かったね」なんて言っていた。三誌に毎月書いていたのだから本当に大変でしたね。
中瀬 モテを享受する暇がなかった?
五木 マジで死ぬかと思った(笑)。芥川賞作家は受賞して十年以内に名作を書けばいいけど、直木賞作家は次の作家が登場するまでその場を繋がないといけない、全力疾走する義務がある、と編集者に言われるまま、真面目に義務を果たしていましたから。
中瀬 最初の休筆は二年続きましたが、無論五木さんの椅子は残っていました。休筆明けすぐに『かもめのジョナサン』を創訳されたり、『戒厳令の夜』や『四季・奈津子』などのベストセラーを連発します。しかし、また昭和五十六年から三年ほど休筆されますね。
五木 五十歳になる直前ですね。朝鮮から手を引いて帰ってきた弟が若くして亡くなったこともあって、脱力感というか、ちょっとやっていけない思いに囚われて。京都の龍谷大学の聴講生になって、プラプラしてました。
きちんと後ろを振り向けばいい
中瀬 そこで仏教を学ばれた。仏教で「苦」と呼ぶものについて、灘高の生徒たちに説明されていましたね。つまり、人生には必ず自分でどうしようもできないこと、不条理なことがあると。私だったら、なぜもっと美人に生まれなかったのかとか、なぜもっと細い胴体ではないのかとか(笑)。
五木 全国区の有名人が欲を出しちゃいけない(笑)。
中瀬 おちょくらないで下さい(笑)。私たちが、「苦」による屈託や心の挫折を味わった時、どのようにすれば立ち直るきっかけを得られるのでしょう?
五木 うーん……即効性のある方法はないんじゃないですか。ただ、後ろ向きで前へ進む手もあるんじゃないかな、とは思いますよ。背進という。ぼくのように晩年に差し掛かっている人間は、よく昔のことを考えます。思い出をまさぐるのは後ろ向きの行為で、まるでカウンターでコップ酒を飲みながら「昔は良かったなあ」とボヤいているみたいなものだと思われがちですが、実際はそうでもないんですね。あの時あんなことがあった、こんなこともあった――牛が反芻するように、〈心の引き出し〉から思い出を取り出してきて、繰り返し咀嚼していくうちに、案外いい結果が出て来ることがあるんですよ。さらに、その思い出を人に話しているうちに、漠然としていた記憶がより正確に、細密に、立体的になってくる。何十回も話していると、面白い鉱脈が自分の経験の中にあることが分かってきたり。これは鬱をかかえた人にもいい効用を
中瀬 二、三回も話すと、「その話、もう聞いたよ!」なんて言われそうですが(笑)。
五木 でも、話するたびに少しずつ変わっていきますからね。「話を盛る」ってこともあるでしょうが(笑)。蓮如が面白いことを言っています。「もう百ぺん聞いて暗記しているようなお説法でも、生まれて初めて聞くように新鮮な感動で聞かなくてはいけない」。つまり、お坊さんの説法を聞きながら、「ほら、ここであの冗談言うよ」「オチはまたあれだな」なんて思ってはダメだと(笑)。それに心の引き出しって、たまには開けてやらないと、うまく開かなくなるし。
中瀬 確かに大切な記憶でも、時々思い出してやらないと、錆びついてくるというか、うまく思い出せなくなりますよね。
五木 うまく開く引き出しをいくつか持っていると、「今日はこの引き出しが効きそうだな」といったこともできるようになりますから(笑)。いま思いついたのだけど、ぼくが重度の人間嫌い、あるいは自己嫌悪に陥りかけていると感じるたびに、慌てて心の引き出しから取り出してくる昔話を喋っていいですか? 『七〇歳年下の君たちへ―こころが挫けそうになった日に―』の中でも話したことだけど。
中瀬 こういう流れで、「それ、もう読みましたからいいです」とは言いにくいです(笑)。
五木 ある年の真冬ですけど、北海道でも一番寒いと言われる地方へ講演に行ったんです。女満別空港に降りて、そこから車で三時間くらいかかるような田舎町でね。空港には二人の男性がぼくを迎えに来てくれました。一人は講演する文化会館の館長さんで、元は小学校の校長を定年まで勤めたという小柄で痩せたご老人です。小さいくせに声は大きくて、快活で、百年の知己の如く親しげに明るく話しかけてきて、いきなりハグなんかしてくるし(笑)、ぼくのボストンバッグもひょいと奪い取っていく感じ。もう一人はドライバーで、身の丈六尺というような大男。眼光炯々として、髭もじゃで、森から伐り出したばかりの樫の木のように逞しく、無愛想で、瞬きもしない。無口で挨拶しても返事もしないんだけど、これはこれで日本男児らしくていいじゃないか、と好感をもちました。そして彼の運転するライトバンに乗って、町へ向かうことになった。
館長さんはサービス精神旺盛で、次から次へと喋り続けるんだ。「あれがエゾシカです。あいつらがタバコの苗を食べるもんだから、一頭いくらって懸賞金をつけたら、次の朝には役場の前にエゾシカが山のように積み上げられてて。鹿鍋も食べ飽きたよなあ、おめえ」。館長さんがそう言っても、大男はうんともすんとも答えないんだよね。
やがて雪の中に会場の文化会館が見えてきました。実に立派な建物で、館長さん曰く「こんなもの要らないって言ったんだけど、国がどうしても予算つけるからって。定員は千二百人ですが、一度も一杯になったことない。でも今日はお客さん、たくさん来ますから」。確かにお客さんは多かったのですが、ぼくの講演自体はマイクの具合が悪く、声が反響してしまい、まったくの不出来でした。うまく行かなかったなあとしょげて舞台をおりたら、館長さんが両手で握手してきて、「こんないい講演は初めてです、感動しました!」と。
その町にはホテルがないものですから、もう夜も遅かったのですが、また車に乗って女満別空港近くのホテルまで送ってくれました。雪の夜道を走りながら、意気消沈しているぼくを盛り上げるためでしょう、館長さんは「何先生や何々先生の講演より遥かに良かった。それに千二百人の会場に千三百人入ったというのは当文化会館始まって以来の新記録ですぞ」と言って、ぼくの背中をドンと叩いた。その時、それまでずっと黙ってひとことも口をきかなかった大男が突然くるっと振り返ると、「それは嘘だ!」と言った(笑)。ぼくよりびっくりしたのは館長さんで、「なに? どこが嘘だ!」と気色ばむ。ぼくの機嫌をとるために、調子のいい嘘を言ったとなると、ご本人の体面もある。「おめえ、おれがいつ嘘を言ったというんだ!」と館長さんは頬をピクピクさせてつめよる。でもドライバーは、真実以外絶対許さないという断固たる口調と野太い声で、また振り返るとこう言った。「十年くらい前にピンク・レディーが来た。その時は千六百人入った。あれが記録だ!」(笑)。ぼくは固唾を呑んで両者の対決を見守った。しかしカメの甲より歳の功というか、館長さんは一拍おいて、にっこり笑うと、「おめえ、千六百人入ったと言っても、ピンク・レディーは二人だべ? 一人頭で割ると八百人でねえか」。
中瀬 うまい!(笑)
五木 ぼくは思わず、「そうだ!」と館長さんの背中を叩いたんだ。しかしドライバーはまた振り返り、「一人だろうが二人だろうが、記録は千六百人のあのときだ」と言う(笑)。言い合いになった。そのたびに車がスリップしそうになる。走っているすぐ横は谷ですよ(笑)。ぼくは「もういいじゃないですか。ピンク・レディーには勝てませんから、前を向いて運転して下さい」とお願いしても、論争はやまない。本当に怖かったな。きっと、ぼくを降ろした帰り道も、あるいは翌日以降も顔を合わせるたびに「記録だ!」「違う!」なんて言い争ってたんじゃないのかな。
その二人組のことを思い出すと、「人間というのは結構面白いもんだよなあ、人間の暮らしって悪くないよなあ」と励まされるような気がして、人間不信や自己嫌悪が少しずつジワーッと快復してくる気がするんです。ばかばかしいけど、人間っていいな、という気持ちが冷い胸をじわっと温める感じでね。
中瀬 重大なことじゃなくてもいいんですね。むしろ、他愛もないことを心の引き出しから出してくる。
五木 そう。だれでも何がしかの思い出が必ずあるはずです。どんな些細なことでもいいんだ。それを振り返り、思い起こして自分で咀嚼したり、人に喋ったりしているうちに、ひょっとしたら鬱の状態を抜け出す糸口が開けるかもしれません。後ろを振り返りながら前に進めばいいと思いますね。
中瀬 すごく響く言葉です。私事ですが、長年一緒に暮らしてきたパートナーを三年前に亡くしました。亡くなった人を思う、思い出すということを、つい「そんなのは後ろ向きだから」と考えて、「もっと胸を張って歩かなきゃ。前へ進まなくちゃ」と思ったりするんですが、全然後ろを向いて構わないってことですね。
五木 きちんと後ろを振り向けばいいんだと思いますよ。「とにかく前向きに進め」というのが戦後何十年もの合言葉でしたが、これから必要なのは「後ろ向きのプラス思考」なのかもしれないね。
自分の場所から、共通の敵を撃つ
中瀬 少しズレるのかもしれませんが、五木さんはどこかで〈心の相続〉ということを仰っていましたね。
五木 相続というのは、土地や預金や株のことだけじゃないんです。ささやかなこと、例えば魚の食べ方が実にきれいな人がいる。焼魚をお箸だけでみごとに骨だけにしてしまうような女性がいたとして、それは彼女がたぶん親から相続したものですよね。ぼくは外地育ちですが、喋るイントネーションは、九州生れの両親から相続したものです。遺伝子や財産以外にも、家風とか躾と言うと古くさいけど、親から相続するものはいっぱいあるし、親が元気なうちに昔話をできるだけ聞いておいた方がいいような気がする。
中瀬 同じ話を何度されても、蓮如の言葉を思い出せと(笑)。
五木 そう。ところで、せっかく中瀬さんとお会いするんだから、伺おうと思っていたことがあるんです。こんど「新潮45」が休刊になりましたね。中瀬さんが元編集長だった雑誌でしょう?
中瀬 それは……一生懸命働いた古巣の雑誌がなくなるというのは、かなりショックなものです。私が編集長だった頃、LGBTという名称がまだない時代から、性的マイノリティの方々に執筆して頂いてきたし、寄り添ってきたとも思ってきました。ですから、LGBTを差別した雑誌というレッテルを貼られたまま休刊になるのは、個人的には非常に忸怩たる思いがあります。言論の自由も意見の多様性ももちろん大切ですが、だからといって何を言ってもいいというわけではなくて。今回の件は、雑誌を世に出す時には極めて繊細な思考や作業が必要なのに、そのための体制が十全ではなかったと思っています。五木さんは、どうご覧になりましたか?
五木 ぼくは小説家ですから、意見を表明する場をいろいろ持っています。LGBTに限らず、差別問題はぼくの大事なテーマで、自分なりに昔から丹念にフォローしてきたつもりですが、いろんなところに厳然と存在する社会的偏見に自分の場でどう立ち向かっていくかが問題ですね。ジャーナリストはジャーナリストとして、小説家は小説家として、歌を作る人間は歌を作る人間として、考え、自分のやり方で行動していけばいいと思っています。今度の休刊のことで、LGBTの問題を敬して遠ざけるようになるのが一番いけないと思う。
小説家には虚名があるものですから、署名運動とか、いろんな運動に協力してくれといった申し込みがたくさん来ます。ぼくの答えは決まっていて、「ぼくはご一緒にはやりません。ただ、自分の持っている仕事の場で、自分のやり方でやりますから」と言うんです。レーニンに「それぞれの砲座から共通の敵を撃て」という文句があるそうですが、ぼくのスタンスはそんな感じですね。表現者はそれぞれに異なったアドバンテージがあるのだから、わざわざ砲座を寄せ合ったりせずに、きちんと自分の場所から共通の敵を撃てばいい。時代に対する表現者、というのはそういうものだと思っているんですが。
於・la kagu soko
(いつき・ひろゆき 作家)
(なかせ・ゆかり 編集者)
波 2018年11月号より
単行本刊行時掲載
担当編集者のひとこと
五木寛之さんの作家デビューは昭和41年、処女作は「さらば モスクワ愚連隊」。以来、半世紀以上にわたって第一線の表現者であり続けています。
2018年9月で86歳になる五木さんに「講義」を申し込んだのが、超エリート校として知られる灘高校の生徒たち。五木さんは「とても教えたりする柄じゃないから、みなさんとの対話なら」と応じ、80代半ばの小説家と10代半ばの少年たちの「対話」が2年連続で行われました。その記録が本書です。
70歳の年の差を考慮してか、かつてないほど丁寧に、やわらかく、時には挑発的に、経験から生まれた知恵を語っていく五木さんに、いつしか少年たちが共振していくさまが鮮やかです。「視線はできるだけ低く」「それでも人間を信頼する」等々、生徒たちに聞かせるだけではモッタイない名言多数。ぜひ、老いも若きも関係なく、手にとってください。書いたものより、語られたものの方が大事かもしれない――という五木さんの主張が裏付けられたような名著です。
2018/09/27
イベント/書店情報
著者プロフィール
五木寛之
イツキ・ヒロユキ
1932(昭和7)年、福岡県生れ。1947年に北朝鮮より引き揚げ。早稲田大学文学部ロシア文学科に学ぶ。1966年「さらばモスクワ愚連隊」で小説現代新人賞、1967年「蒼ざめた馬を見よ」で直木賞、1976年『青春の門』で吉川英治文学賞を受賞。著書は『朱鷺の墓』『戒厳令の夜』『風の王国』『風に吹かれて』『親鸞』『大河の一滴』『他力』『孤独のすすめ』『マサカの時代』『こころの散歩』『背進の思想』『捨てない生きかた』など多数。バック『かもめのジョナサン』など訳書もある。