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決定版 日本の喜劇人

小林信彦/著

3,960円(税込)

発売日:2021/05/20

書誌情報

読み仮名 ケッテイバンニホンノキゲキジン 
装幀 平野甲賀+吉良幸子/装幀、『日本一の男の中の男』/カバー表写真、『喜劇 とんかつ一代』/カバー裏写真、(C)TOHO CO.,LTD./写真
雑誌から生まれた本 から生まれた本
発行形態 書籍
判型 四六判変型
頁数 559ページ
ISBN 978-4-10-331828-6
C-CODE 0095
ジャンル ノンフィクション
定価 3,960円

エノケンから志村けんまで――。圧倒的影響力を持つ伝説の名著、愈々完結!

芸のみならず、喜劇人の人間性にまで肉薄し、〈笑い〉を批評の対象に高めた初版刊行から半世紀。加筆・改稿の上、BIG3・志村けん・大泉洋までに言及した新稿と著者インタビューを収録。戦前のロッパ、エノケンから森繁、渥美、植木、伊東四朗らを経て現在に至る系譜を明らかにする。喜劇を見続けて80余年、国宝級集大成がここに!

目次

◆日本の喜劇人

はじめに

第一章 古川緑波ロッパ
丸の内喜劇の黄金時代

第二章 榎本健一
THE ONE AND ONLY

第三章 森繁久彌の影
伴淳三郎 三木のり平 山茶花究 有島一郎 堺駿二 益田喜頓

第四章 占領軍の影
トニー谷 フランキー堺

第五章 道化の原点
脱線トリオ クレイジー・キャッツ

第六章 醒めた道化師の世界
日活活劇の周辺

第七章 クレイジー王朝の治世

第八章 上昇志向と下降志向
渥美清 小沢昭一

第九章 大阪の影
『てなもんや三度笠』を中心に

第十章 ふたたび道化の原点へ
てんぷくトリオ コント55号 由利徹

第十一章 藤山寛美
伝統の継承と開拓と

第十二章 日本の喜劇人・再説

最終章 高度成長のあと

◆日本の喜劇人2

はじめに

第一部 植木等
1 ジャズ喫茶(1958〜60)
2 歌で始まる(1961)
3 映画への進出(1962〜63)
4 スーパーマンの憂鬱(1964〜65)
5 頂点(1965〜67)
6 王朝の崩壊(1968〜72)
7 サウンドの評価と復活(1973〜91)

第二部 藤山寛美
1 東京オリンピックの年(1964)
2 成功への綱渡り(1965〜71)
3 「阿呆まつり」のころ(1971〜72)
4 成功と疎外感(1972)
5 黄金時代(1973〜74)
6 花のマクベス(1975)
7 終幕(1989〜90)

第三部 伊東四朗
1 〈トリオ〉からの出発(1962〜66)
2 自立と遅咲き(1967〜73)
3 最後の喜劇人(1974〜)

『決定版 日本の喜劇人』あとがき

附・小林信彦インタビュー ぼくは幸運だった
主要人名・グループ名索引

書評

私の人生を決めた『日本の喜劇人』について

ケラリーノ・サンドロヴィッチ

雑誌連載から50年、〈笑い〉を論じて初めて批評にまで高め、観客にも演者にも多大な影響を与えた名著が、加筆改稿されて愈々〈決定版〉刊行!

 大切に保管していたものに限って、気がつくと失くなっている。
 例えば、中学生の時に小林信彦氏から頂戴した、質問への回答ハガキだ。マルクス兄弟が晩年に共演したテレビ番組の8ミリフィルムを手に入れた中二の私は、知りたいことがあり、躊躇なく小林氏に往復ハガキで質問を送ったのだった。当時は作家の住所なぞ中学生でもすぐに調べられた。面白がってくれたのか、氏は、子供相手にも拘らず、万年筆書きの小さな文字で丁寧な説明を返してくださった。最後に「本当に中学生ですか? あまりの詳しさに呆れました」とあった。「すべては貴方の著書から学んだ知識ですよ」と返したい気持ちだったが、さすがに弁えた。
 たしか小学校六年生の時だと思う。当時は中原弓彦名義で刊行されていた小林信彦氏の初期の二冊の名著、『世界の喜劇人』『日本の喜劇人』を立て続けに読んでしまったことが、私のその後の人生を決定づけてしまったと言っても過言ではない。こんなことを迂闊に書く人もいるけれど、本当に過言ではないのです。だからこの原稿はきっと、書評なんていう客観的なものにはなりようがない。あしからず。
 ってことで、この度「決定版」として刊行された『日本の喜劇人』は、1972年に出版された同名書と、1996年に出た新潮文庫『喜劇人に花束を』の二冊を合わせ、加筆されたものだ。加筆部分の最後には大泉洋について触れているから、乱暴に言えば「古川ロッパから大泉洋まで(芸歴からいうと「エノケンから大泉洋まで」と書くのが正しいか)を網羅した、喜劇人の芸と歴史についての評論本」ということになろうが、そんな簡単なものではない。ロッパを除き、「本人との直接交流」を基調にして書かれているという点で、本書は巷に溢れる他の評論・評伝本とは一線を画す。この度「決定版」のゲラが届いたので、まえがきを読み返せば、文末に「芸人への賛嘆は、その芸人(の人間性)への幻滅の果てにくるものではないだろうか」とあって、なんと申しましょうか、その覚悟のほどに改めてため息が出た。この本が最初に世に放たれた時分には、エノケンは亡くなって間もなく、森繁御大をはじめ、登場する喜劇人たちのおおよそが、現役か、少なくとも存命だったことを考えれば、ため息の意味もお分かり頂けるのではないか。
 若き日の著者が書きつけた、詳細な日記やノートが大きな強味になっている点も他に類をみない。例えば植木等の章を読んでみると、1965年7月1日から4日間、東京宝塚劇場でクレイジー・キャッツの結成十周年記念公演があり、そこでどんなネタが披露され、終演後のパーティーで挨拶に立ったフランキー堺が何を言い、その後クレイジーの面々と何を話したかまで記されている。この項が書かれたのは1990年代であろう。とても記憶だけで追いつくものではない。私なぞ去年起こった出来事と三年前に起こった出来事の前後関係すら怪しい。
 巻末に付された最新インタビューにおいて、御本人も「時折、『日本の喜劇人』は作者の〈青春の終り〉〈青春の挫折〉の小説みたいだと評されもする」と発言しているが、それは本書に限ったことではない。小林氏の「喜劇人本」でいつも感動してしまうのは、対象となった喜劇人との(往々にして何十年にも及ぶ)日々の記述のなかで、植木等のことを書いていようが、藤山寛美のことを書いていようが、渥美清のことを書いていようが、横山やすしのことを書いていようが、萩本欽一のことを書いていようが、主人公たる喜劇人と同様に、いや、時としてそれ以上に、著者自身の状況や心情が、まさに青春小説のように鮮やかに浮かび上がる点である。同時に、昭和史、文化史、風俗史としても読めてしまうのもいちいち魅力であり、それもこれも、克明に記された日記あってのことだろう。私も日記をつけておけばよかった。
 ところで、巻末インタビューには、1972年に最初の版が出た時、一番喜んでくれたのが由利徹だという一節がある。最後にこんな私事を書くのもどうかと思うが、実は私は由利徹さんと、日劇の彼の楽屋で、『日本の喜劇人』について話をしたことがあるのだった。日記をつけていないので日付けは不明であるが、おそらく高一の時だ。由利さんは「雲の上団五郎一座」の二十周年記念公演で座長を務めていた(エノケンの娘さんが出ていたと記憶するが、日記をつけていないので確かではない)。ジャズマンだった私の父は、ある時期、由利さんや森川信、(『日本の喜劇人』にもほんの少しだけ触れられている)泉和助らと雀卓を囲む仲だった。私がまだ赤ん坊〜幼児だった頃の話だ。当時は、よく知るおじちゃん達がテレビに出ているのが不思議だったぐらいで、さしたる興味はなかった。が、『日本の喜劇人』を読んで以来、俄然興味が湧き、由利さんは特別な人になっていたのである。
 その時の日劇公演は一人で観に行ったのだけれど、父の名前を出して楽屋に押しかけた。押しかけたはよいが、とくに話すべきこともない。口をついて出た言葉が「『日本の喜劇人』読みました」だった。由利さんが「へえ、ああそう」と感心したように笑ったのは憶えているが、そのあとは忘れてしまった。日記をつけていないからだ。由利さんにしてみれば、あの時の赤ん坊が高校生になっていきなり楽屋に現れたことに面食らったのだと思う。サイン入りの公演パンフレットをくれた。いや、ロビーで買ったパンフにサインしてもらったんだったか。日記をつけてないのだ。
 いずれにせよ、そのパンフレットもいつの間にやら紛失してしまった。由利さんとはそれ以来会うことはなかった。大切に保管していたものに限って、気がつくと失くなっている。『日本の喜劇人』は、私ごときにはどうあがいても太刀打ちできない、名著中の名著である。

(ケラリーノ・サンドロヴィッチ 劇作家、音楽家、演出家、映画監督)
波 2021年6月号より
単行本刊行時掲載

関連コンテンツ

特別掲載・小林信彦インタビュー

ぼくは幸運だった(抄)――『決定版 日本の喜劇人』巻末付録より

――『日本の喜劇人』は雑誌「新劇」の一九七一年六月号から翌七二年三月号まで連載されました。七二年に最初の単行本が出て以来、名著の証でもありますが、〈定本〉〈文庫版〉など何度か版が新たになり、そのたびに加筆・改稿されてきました。いよいよ今回はその名の通り、『決定版』の刊行です。

小林 思い出話をすると、この本の新しい「あとがき」を書いたばかりなので、どうしても重なることが多くなりますが……。『日本の喜劇人』を書いたのは、「新劇」に連載する何年も前に、古波蔵保好さんに唆されたのがきっかけなんですよ。古波蔵さんも映画好きで、ぼくは編集者(「ヒッチコックマガジン」編集長)だったから、あれこれ喋っているうちに、「ご覧になってきた喜劇人について書いてみませんか」と誘ってみたんです。
 当時、「日本喜劇人協会」が出来て、エノケン、ロッパはともかく、やたらと金語楼などの幹部連中を持ち上げていましてね。あれはおかしい、ちゃんと過去の仕事は押さえるにしても、いま面白い人を評価しないといけない――。そんなことを喋っていたら、古波蔵さんが「それは君が書くしかないよ」と。ぼくもロッパ、エノケン、高勢実乗なんかは一九四〇(昭和十五)年頃から生で観てきたし、森繁がのし上がってきたのも高校生の頃に目の当たりにしたし、クレイジー・キャッツもそんなに売れてない頃からジャズ喫茶で観ていたしで、自分が長年実際に観てきたことを基にすれば書けるかな、と思ったんです。
 それで『喜劇の王様たち』(一九六三年。『世界の喜劇人』の原型)を出した後、次は『日本の喜劇人』だなと思って、いくつかの雑誌へ話を持ちかけたんだけど、どこも「面白いと思うけど、うちではちょっと……」という反応でした。そのまま何年かたって、『笑う男 道化の現代史』(七一年)を出す時に、版元の晶文社の中村勝哉社長と津野海太郎さんに新宿でご馳走になったんです。「次は何をやるんですか」と言うので、この話をしたら、津野さんが「それはうちでやらなきゃダメだ!」って飛びあがるような勢いで言ってくれた。彼が「連載する雑誌を探しますから」と言って、翌日には「新劇」の編集長から電話がかかってきましたよ。ぼくが「自分の好きなように書くから、迷惑かけるかもしれませんよ」と念を押したら、編集長が「うちは変わった意見は全然オッケーです」って(笑)。
 時折、『日本の喜劇人』は作者の〈青春の終り〉〈青春の挫折〉の小説みたいだと評されもするのは、これを書いた時、ぼくがもう三十代の終わりだったことも関係しているのでしょう。

――『日本の喜劇人』の最初の構想から実際の執筆まで数年かかったわけですが、その間、小林さんはテレビの台本を書かれたりして、いわば〈幕内〉の人間だった時期があります。

小林 編集者時代から面識のあった井原高忠さん(日本テレビ)に誘われて、四年ほど(六五〜六九年)ヴァラエティ番組の台本を書いていました。でも、それ以前から出演したりして、テレビの世界とはあれこれ関係があったんです。
 ぼくが幸せだったのは、この本に登場するような、いちばん優れた喜劇人たちと知合いになれたことですよ。「映画評論」に載せた「喜劇映画の衰退」(のち『喜劇の王様たち』『世界の喜劇人』所収)という長い喜劇映画論、ギャグ論を読んだ永六輔が、NHKの末盛憲彦ディレクターと一緒にあらわれて、『夢であいましょう』でギャグ特集をしたいんだ、と言ってきました。一九六一年夏のことです。
 ぼくの評論を原案にして番組を作るんだろうなとのんびり構えていたら、永さんは「あなたが出演して、解説と実際のスラップスティックを見せてみてよ」なんて言う。おかげでぼくは黒柳徹子さんと永さんからパイをぶつけられたり、プロレスラーのユセフ・トルコとミスター珍に水槽へ投げ込まれたりしました。土曜夜の人気番組でそんなことを五週にわたってやったものだから、会社の旅行で伊豆へ行った時、小学生たちがぼくを指さして笑うんだ。会社員として、これはまずい(笑)。でも、おかげで『夢あい』のスタジオで、レギュラーだった渥美清と出会うことができた。ぼくが何者かわからないけど、とにかく〈笑い〉が好きそうなので興味を持ったんでしょうね、渥美君が近づいてきて「金が欲しいねえ……」と呟いたのを覚えています。それからのことは『おかしな男 渥美清』(二〇〇〇年)に書きました。
 植木等さんとの付合いは、この本にある通り、一九六三年に取材のため、「週刊文春」の記者に渡辺プロの渡辺美佐副社長を紹介してもらったら、彼女から「クレイジー映画のブレーンになってくれない?」と頼まれた――というのがきっかけです。
 渡辺プロ社長の渡辺晋さんはミュージシャン上がりだから、クレイジー・キャッツでもザ・ピーナッツでも、次に何を歌わせたらヒットするかという見通しや勘は鋭いんだけど、ドラマ作りには弱いんですね。つまり、喜劇の設定やプロットではなく、ギャグを記憶しているだけなんです。だから、「植木にエノケンのあのギャグをやらせよう」というだけで、企画はうまく転がっていきませんでした。
 ただ、晋さんがそう言うから、東宝からエノケンの古い映画を借りてきて試写をやったんですよ。そこで観た『どんぐり頓兵衛』と『ちゃっきり金太』などが呆然とするくらい面白くて、エノケンというのは本当に凄かったんだ、偉い人なんだ、ということが初めてわかった。ただ困ったのは、その上映会にエノケンさん本人も来るんだ(笑)。
 まあ、そうやって面識ができていたおかげで、その後エノケンさんを井原さんの番組『九ちゃん!』へ呼ぼうという話にもなったわけです。そして井原さんによって『九ちゃん!』に起用されたのが、てんぷくトリオで、伊東四朗さんとの長い付合いもここから始まりました。萩本欽一さんと出会ったのも、この番組です。

――七二年に『日本の喜劇人』が刊行された時、こんなにも喜劇人の芸や歴史を明快かつ縦横に論じた本は前例がありませんでした。ここに登場する喜劇人たちの反応はいかがでしたか?

小林 よく書けば、「ありがとう」とは言わないまでも、友好的雰囲気にはなりますよね。本が出てから、わりとすぐ森繁さんが「会いたい」と言ってきたんです。六本木の小料理屋へ呼び出したぼくに向って、嘘かホントか、「あいつとは赤坂の芸者を奪い合って負けた」とか言って、田中角栄の真似をしてみせた(笑)。もちろん巧いものです。まだ角栄の真似がそんなに一般化してなかった頃だったから、「いい歳になっても、好きだなあ」と思いましたよ。森繁久彌の重みというのも、今ではわかりにくいかもしれませんね。ごく単純にいえば、〈ちゃんとした芝居のできる喜劇人〉でした。動きのスピードも速かった。かろうじて、DVDで全盛期の映画が観られるので、ご覧になってください。
〈ちゃんとした芝居〉ができなくてもいい場合もあって、たとえば、無手勝流の由利徹。ぼくは森繁久彌も由利徹も高く買っています。そうそう、『日本の喜劇人』をいちばん喜んでくれたのは由利さんでした。そりゃ、あの人はそれまで褒められたことがないもの(笑)。でも、ぼくのまわりはみんな由利徹が好きでしたねえ。
 一方、何でも勝手に書けばいいさと一切我関せずだったのが渥美清です。ただ、『日本の喜劇人』はまだ『男はつらいよ』が初期の段階で執筆しているから、ぼくとしては突っ込んで書けてないなと思っています。きちんと一章を割くべき人なのに、小沢昭一さんと対の扱いにしてしまっている。だからこそ亡くなった後に、『おかしな男 渥美清』を書いたとも言えますね。
 クレイジー・キャッツについては、この本が最初に出た一九七二年当時、彼らは下り坂にあったし、そもそもぼくが『植木等ショー』の台本を書き、映画の〈ブレーン〉だった以上、知り合って以降のことは書きにくかったんです。でもぼくはクレイジー・キャッツというか、植木さんのいわば〈追っかけ〉だったんだし、あんなに輝いていた時代を傍で観ていたんだから、もっと熱く書いてもよかったな、という悔いがありました。
 そこで再ブレイクした植木さんをクローズアップする形で年代記を書き、さらにほぼ全盛期までしか書けていなかった寛美さんの〈早過ぎる晩年と死〉を描いたのが『日本の喜劇人2』(最初は『植木等と藤山寛美 喜劇人とその時代』として九二年刊)です。『日本の喜劇人』『日本の喜劇人2』二冊を併せたこの『決定版』で、ぼくの言いたいことはひとまず書き尽くせているかなという気がします。

――今回の新たな最終章では、最後に大泉洋に触れられました。

小林 まだ、大泉洋については可能性を感じるというだけで、はっきりしたことは言えませんけどね。彼が〈喜劇人〉を志しているのかも分からないし、何より優れた作り手と出会えるかどうかにもよるし、覚悟の問題もあるし。
 やはり、思い出すのは渥美さんのことです。渥美清は〈笑い〉の世界で勝ち抜くことしか考えていなかったけれど、やはり上り調子の時の山田洋次監督と出会ったことが絶対的に大きかったですよね。そんな出会いは彼の意志だけではどうにもならない。
 寅さんで成功してからの渥美清と、雨の降る肌寒い日、ばったり地下鉄で会ったことを今回、加筆してあります。「これから松竹へ行くんだ」って言うから、ぼくが「松竹もタクシーくらい用意したってバチは当たらないだろうに」と応じたら、うまい喩えをしました。「おれみたいな役をやってるのは、車に乗ってちゃダメなんだ。こうやってパチンコの玉みたいにのべつくるくる動いてないと、錆びついちゃうんだよ」。びしりと、そう言いました。彼だって、それまではタクシーに乗ってたんですよ。寅さんの役のために、意識して地下鉄に乗るようになったわけです。こういうことも〈喜劇人としての覚悟〉ですよね。

『決定版 日本の喜劇人』より抄録しました。

波 2021年6月号より
単行本刊行時掲載

ミニシアター巡礼が私を作った

映画黄金期に育った少年は、やがて世界に冠たるミニシアター都市・東京でコロナ禍を迎える――

太田和彦

 私の趣味の第一は映画だ。
 戦後、中国から引き揚げてきた私の一家は、父の故郷松本の近くで、戦後は誰もがそうだった貧乏暮しとなった。当時映画は娯楽の王者。ある日父は苦労している母に「たまには映画でも見てこい」と、しかし女一人で映画館に行かせるのはためらわれ、乱暴な兄でなく、幼児の妹でもなく、小学一年の私を連れてバスに乗せた。映画は「君の名は」(監督:大庭秀雄)。私は大人が言い争いばかりしている暗い映画が嫌でたまらなかったが、その後の「帰りに何か食べてこい」を楽しみにおとなしくしていた。
 子供のうちは映画は親と行くものだったが、汽車通学で松本の高校に通い始め、生れて初めて一人で映画館に入った。それは黒澤明の特集上映で「生きる」「七人の侍」「野良犬」「酔いどれ天使」。
 もの心つき始めた十六歳、最初の映画体験にこれほどのベストがあるだろうか。何週間もこの映画が頭から消えなかった。今でも消えていない。
 以来「赤い河」(H・ホークス)、「わらの男」(P・ジェルミ)、「十戒」(C・B・デミル)、「ベン・ハー」(W・ワイラー)、「ウエスト・サイド物語」(R・ワイズ)、「太陽がいっぱい」(R・クレマン)、「地下室のメロディ」(H・ヴェルヌイユ)、「用心棒」「天国と地獄」(ともに黒澤明)、「座頭市物語」(三隅研次)などなどに胸をときめかせてゆく。
 私の高校は映画に力を入れ、時々市内の映画館を借り切りにして学年交替で鑑賞会を開き、作品はフィルムを取り寄せたのだから立派。「リラの門」(R・クレール)、「ジャイアンツ」(G・スティーブンス)、「黒いオルフェ」(M・カミュ)、「渚にて」(S・クレイマー)、「さすらい」(M・アントニオーニ)など作品選択も目が高かったと言えようか。
 1964年、大学入学で上京してからは乏しい金を映画につぎこみ、二番館、三番館に通う。
 下宿した下北沢には三館あって、例えば「グリーン座」の「座頭市地獄旅」(三隅研次)、「100発100中」(福田純)、「馬鹿と鋏」(谷口千吉)の三本立て。これらは後年見直したがいずれも秀作。通学乗換駅新宿の地下の小劇場「シネマ新宿」の「いぬ」(J・P・メルヴィル)、「コンクリートジャングル」(J・ロージー)、「殺人者たち」(D・シーゲル)も名三本立てで、メルヴィルは最も好きな監督になる。名画座の代名詞だった「新宿日活名画座」は〈秋の欧州名画週間〉など二本立て二日替わりの特集を組み、その新聞切り抜き上映表はいつも定期券入れに入っていた。
 まだ火災に遭う前の「東京国立近代美術館附属フィルム・ライブラリー助成協議会」の京橋講堂の上映にも通い始め、「夏の夜は三たび微笑む」「顔(仮面/ペルソナ)」「悪魔の眼」とI・ベルイマンに惹かれてゆく。今や伝説化した池袋「文芸坐」の鈴木清順監督五本立て土曜オールナイト全四週にも通い、白々と明けた朝の山手線で眠い目をこすりながら下宿に帰った。体力はあった。その20本で清順は最大のひいき監督となる。
 あわせて映画研究雑誌を読むようになった。1960年代は映画雑誌が最も活発で、双璧は「映画芸術」と「映画評論」だ。
「映画芸術」は映画評論家ではない一般文人にどしどし原稿を依頼。花田清輝、開高健、椎名麟三、遠藤周作澁澤龍彦、関根弘、安岡章太郎森茉莉、大岡信、小島信夫野坂昭如鶴見俊輔、栗田勇、丸谷才一倉橋由美子佐多稲子藤原審爾金子光晴、長谷川四郎、檀一雄瀬戸内晴美笹沢左保、白石かずこ、種村季弘、寺山修司長部日出雄、飯島耕一、針生一郎などなど、文学者がこれほど映画について書いた時期はなかった。
 編集長・小川徹が三島由紀夫に阿佐ヶ谷の名画座で「総長賭博」(山下耕作)を見させて書かせた論は〈場末のどことなく厠臭のする絶好の環境で〉と始まり〈あたかもギリシャ悲劇を思わせる完璧な構成〉とこの傑作を見事に論じ、後に主演・鶴田浩二との対談にもなった。三島は「切腹」(小林正樹)を題材に「残酷美について」として〈われわれの古典文学では、紅葉や櫻は、血潮や死のメタフォアである。民族の深層意識に深くしみついたこのメタフォアは、生理的恐怖に美的形式を課する訓練を数百年に亙ってつづけて来たので……〉と書く。後年これを実践したわけか。
 一つの映画がかくも多様に論じられることを知り、映画を見てその批評を読むのは、ものの見方を学ぶ日々の勉強になってゆく。当時は大学の映画研究会が盛んで「映画芸術」毎年2月号恒例の「年間ベスト10・ワースト10」には各大学映研の選も掲載され、映研部長による高邁な論が載る。田舎から上京したばかりの私は、学生はアートシアター系の芸術作や社会派を選ぶと思いきや、一般には娯楽映画の扱いである日活活劇などを真正面から推挙するのに驚き、学生人気ナンバーワンだった「狼の王子」(舛田利雄)は確かに傑作だった。その頃の学生は文学よりも映画派で「え、あれ見てないの?」とバカにされるのを恐れた。
「映画評論」は1956年に佐藤忠男が編集に加わると「長い評論」を提唱する一方、日本ヌーヴェルバーグを支持して、台頭する若い映画人に誌面を開放してゆく。
 それまでの映画批評は大新聞の映画記者、例えば朝日新聞の津村秀夫などが、文学への劣等感いっぱいに文芸映画や社会良識派をもちあげる印象批評だけで非常にレベルが低く、業を煮やした市川崑が「キネマ旬報」で対談した朝日新聞・井沢淳は、話にならないほど居丈高逃げ腰で、『シネアスト市川崑』(キネマ旬報社)の再録はその意味で貴重だ。佐藤は津村や井沢を「あの二人は威張っているだけで、謙虚ってことを知りませんでしたよ」と切り捨てる(2009年、高崎俊夫のインタビュー「『映画評論』、われらの時代に」より)。
 1961年、佐藤が、当時「ヒッチコックマガジン」編集長の中原弓彦(小林信彦)に枚数無制限で依頼した「喜劇映画の衰退」300枚を掲載。その後も中原は積極的に同誌へ執筆を重ね、1963年9月号「日活活劇の盛衰」は画期的な長編だった。文芸映画や社会派とは全く異なる見方で映画の持つ力を系統的に論じ、お手軽と称されたジャンルものやシリーズものが映画をいかに深めて行ったかの中原の論は、私に大きな影響を与えた。
 大学を卒業して銀座の会社に勤め始めても映画を見ることは続く。
 そのころ信頼を寄せた御三家は、和田誠、渡辺武信、山田宏一の三氏。千駄ケ谷に下宿していた私は、開店したばかりのモダンな内装で各界気鋭人のたまり場となっていたバー「ラジオ」によく通い、ある夜一人で飲んでいると、和田誠氏と渡辺武信氏が一緒に現れて近くに座った。大ファンだった私は下宿に走って帰り、渡辺著『ヒーローの夢と死』を持参、〈太田和彦様 一九七五・五・二 渡辺武信〉とサインをいただくと、ほろ酔いでにこにこ見ていた和田氏が「ボクはいいの?」と冗談を言ってくれた。
 名画座に通い、評論雑誌で学んだのは、主題解析だけではなく、作品を良くしている映画的要因を具体的に見抜く力だ。「面白かった」ではなく「どうして面白かったか」。山田宏一の文を読んでその作品を見に行き、帰ってからもう一度読むとそれがよくわかる。後年私は居酒屋の文を書くようになりその方法を真似た(すみません)。私の本で知った居酒屋に入り、帰ってからまた読むと納得する、という声はうれしかった。
    *
 そうして私は「名作は自分で発見する」個人シネマテークを作ってゆく。
 熱心に通うようになったのは1980年代以降で、まず通いつめたのは封切り以来どこでも上映されていないであろう日本映画旧作ばかりをかける大井町の名画座「大井武蔵野館」だ。
 支配人・小野善太郎さんは“日本映画の墓掘人”を自称、映画評論家や大新聞映画記者からは無視されていた新東宝作品や珍品面白映画、怪談映画などのマイナー作、カルト作品をどんどん特集し、従来の日本映画史が、いかに少ない作品しか取り上げていなかったかを上映をもって証明した。例えば「鴛鴦歌合戦」(マキノ正博)、「春秋一刀流」「天狗飛脚」(ともに丸根賛太郎)の発掘。特集「第一回・全日本とんでもない映画祭」「愛と哀しみの変身人間」などは忘れ難く、私は勝手に「OMF会報」(OMF=大井武蔵野館ファンクラブ)なる新聞を発行して小野さんの目を白黒させたが、そのうち館内に貼り出し、配ってくれるようになった。
 あわせて通ったのが三軒茶屋にあった「スタジオams」だ。支配人の吉濱葉子さんは、古い日本映画の代表作よりも、監督や俳優のデビューの頃や一般にはなじみの薄い作品ばかりを年間100本上映。長期シリーズ「検証・日本の映画監督たち」や女優特集は精緻をきわめ、岡田茉莉子は期間中毎日、高峰三枝子は亡くなるふた月前に来館。香川京子は全32本上映に何度も来られ、サインをいただいたこともある。私は大女優が自らの若き日の姿をそっと見に来ていることに胸を熱くした。川本三郎氏は当時「古い日本映画を見ることを全てのスケジュールに優先させる」と通い、その後数々の名著を書き下ろしてゆく。閉館が決まって、渋谷の居酒屋二階で「吉濱さんに感謝する会」を開き、小野善太郎、田中眞澄、武藤康史らが集まり、川本氏は都合がつかないのを残念がった。
 二館ともベストテン的映画史からは顧みられない作品の上映に絶大な意義があり、研究者に機会を与え、価値なしと思われていたものが優れた作品であると「発見」させた。しかし名画座はバブル景気に見放された場末感ゆえに閉館が続いてゆく。
 しかし2000年代に入り、新しくきれいな劇場の最良の上映で鑑賞できるミニシアターとして復活する。「シネマヴェーラ渋谷」「神保町シアター」「ラピュタ阿佐ヶ谷」「新文芸坐」「フィルムセンター」がそれだ。
 特徴は各館の工夫を凝らした特集にある。例えばシネマヴェーラ渋谷〈フィルム・ノワールの世界〉〈ジョージ・キューカーとハリウッド女性映画の時代〉〈蘇る映画魂/The Legend of石井輝男〉。神保町シアター〈恋する女優・芦川いづみ〉〈生誕百三十五年谷崎潤一郎/谷崎・三島・荷風―耽美と背徳の文芸映画〉〈生誕110年/森雅之―孤高のダンディズム〉。ラピュタ阿佐ヶ谷〈現代文学栄華館〉〈添えもの映画百花繚乱〉〈お姐ちゃんタイフーン〉。新文芸坐は洋邦とりまぜた圧倒的な本数で〈市川崑 初期ライト・コメディの誘惑〉や〈喜劇のデパート森繁久彌〉など。フィルムセンターが意義を強化して再々スタートした「国立映画アーカイブ」の三船敏郎や山口淑子の回顧は珍しい作品が頻出した。「古い映画を、ある観点でまとめて見る」という私の夢は完全に実現、通いきれない嬉しい悲鳴となる。
 映画好きの夢は一本撮ることではない。自分で選んだ作品を特集上映することだ。不肖私も神保町シアターで機会をいただき〈昭和の原風景〉を4週間28本、〈映画と酒場と男と女〉を3週間21本上映していただいた。苦心はそのラインナップだが、間近にどこかで上映された作品ははずし、滅多にかからない隠れたる傑作を軸にしながらも客の呼べる有名作も必要。「これが興行の難しさですな」と嬉しげに悩んでみせる。
 さらに力が入ったのはちらしの、1本60字程度の内容紹介文。さらに始まれば「入ってる?」と客入りの心配。調子にのって舞台挨拶までした。今や人気作となった「東京おにぎり娘」(田中重雄)はこの時の上映がきっかけと自負してます。
 新名画座ミニシアターは、古いポスターや宣伝プレスを探し出して展示し、幕間にはその作品の主題歌や当時の歌をかけ、俳優や製作者のトークショーも欠かさず、ちらしは資料価値があり、さらに自らニュープリントもするという、もはや研究機関。世界にこれだけ映画愛にあふれた名画座が多い都市はないだろう。客は購入チケットの順番を守って入場し、終わると出て次の回を待つ。同じ日に二本、三本と見るのは普通だ。
 そこにはしっかり名画座族が生れた。就中なかんずく、最も多く見ていると畏怖されるのは、噺家・快楽亭ブラック師匠と、音楽家・小西康陽の二氏だ。これも昔、当時宝島社にいた町山智浩さんに映画雑誌を発行しようと持ちかけられ、望むところと張りきり様々な記事を作った中で、ブラック氏に「この一年に見た作品一覧」をお願いしたところ、所定見開きに最小の活字でもおさまらず、編集後記まではみ出てようやくおさめた。この「映画宝島」は創刊準備号で終わってしまったのが残念だ。渡米した町山氏のその後の活躍はめざましい。
 ひまな中年オヤジ専用と見られていた名画座に、見違えるような若い女性が通い始めているのも新傾向だ。
 その一人、のむみち氏は手書きの名画座スケジュール表「名画座かんぺ」を毎月発行、巻末の資料がすばらしい「名画座手帳」を毎年発行、名著『銀幕に愛をこめて』(宝田明/構成のむみち)も作った、今やだれもが知る「名画座の女神ミューズ」。
 若手女性作家・山内マリコ氏が〈名画座通いに明け暮れる、永遠の29歳マリコフの世界展〉としてネット連載する「ザ・ワールド・オブ・マリコフ」は、例えば私はたいした作品ではないと思った「居酒屋兆治」(降旗康男)を〈つまりこの映画の世界では、女として生きることが許されるのは、「男の領域を邪魔してこない、非女性的で無害な妻」か、「男の欲望の捌け口を担っている、女性性を保った女(水商売限定)」の二種しかないことになるのです。そのどれでもない女は、死をもって成敗されるのです。うおぉおぉぉぉぉ!!!〉と鮮やかに指摘。ちなみにその三人は加藤登紀子、ちあきなおみ、大原麗子。
 古い日本映画の再上映は、新たな人気俳優を生んでゆく。双璧は市川雷蔵と若尾文子。角川シネマ有楽町などの特集上映は毎年恒例となり、観客は両人の幅広い役柄とスター性、一貫した作品の水準の高さを見抜いたのだ。
 古い作品を見続けるうち、いつしか「日本映画特有の表現とは何か」を考えるようになった。きっかけは1974年のフィルムセンターの特集「監督研究:清水宏と石田民三」だ。以降両監督の上映は欠かさず追いかける。文芸の研究に全作読破は必須だが、映画は上映が他力本願ゆえ、なかなか全作までは辿り着けず、貴重な機会を出張などで逃すとまた20年後になるのは普通だ。苦節ン十年、両監督の現存作ほぼ9割は消化した。全作すばらしいが代表作を挙げておくと、清水「按摩と女」「小原庄助さん」「蜂の巣の子供たち」、石田「むかしの歌」「花つみ日記」「化粧雪」あたり。共通するのは、劇性よりも情感を重んじ、人物を風景に溶け込ませ、日本画における余白の如き部分を大切にする、だろうか。

「これがニッポンの喜劇人だ!」ポスター

    *
 昨年4月、名画座ミニシアターに危機が訪れた。
 コロナ禍での緊急事態宣言による営業縮小要請で都内のミニシアターは、席を一つおきにテープで座れなくした無残な眺めとなり、休業館も出て継続が危うくなった。憂慮した映画監督、深田晃司・濱口竜介が発起人となり、4月13日にクラウドファンディング「ミニシアターエイド」による基金募集を始めると反響は大きく、1ヶ月後には3万人近い賛同者を得て、目標額を大幅に超えた3億3千万円余となり、全国118の劇場、102の団体に平均300万円を寄付することができた。ミニシアターがなくなっては困るファンはかくもいたのだ。
 その間も客は劇場に通い続けた。待機するロビーはみな無言ゆえにそれでも見るという意志を感じる。私は2019年に124本を見て、2020年は104本に減ったが、1本への愛が深まったかのように手帳に記す評価は甘くなり、五つ星が続いた。
 今年4月、三度めの緊急事態宣言となり、閉鎖を余儀なくされた館も出てきた。このままでは豊かな名画座文化、映画文化が消えかねない。
 渦中の5月22日、シネマヴェーラ渋谷で「小林信彦プレゼンツ/これがニッポンの喜劇人だ!」2週間の特集が始まった。中原弓彦名義『日本の喜劇人』が初版以来49年めに『決定版 日本の喜劇人』として刊行された記念で、榎本健一、花菱アチャコ、森繁久彌、フランキー堺、渥美清、植木等、藤山寛美、伴淳三郎、由利徹、宍戸錠、小林旭らの「隠れたる作品」が選ばれたようだ。
 ロビーの検温、消毒の厳戒態勢下、全員がマスクで顔を隠す集団はギャングかゾンビのように異様で、ふとトリュフォー「華氏451」で焚書令に抗してすべての書を記憶せんと輪になって本を読むシーンを思い出す。初回午前11時の上映開始前、やや暗くしたスクリーンに「ミニシアターエイド基金コレクターの皆様への感謝」とタイトルされて、賛同者名と全国のミニシアターの写真が流れる。
 ……河瀬直美、行定勲、のん、うっしー、原田美枝子、ヨウスケ、月永理絵、渡辺武信、狸丸、塚本晋也、かおりん、まことくん、鞍馬天狗、太田蜀山人、みしえる、アナコンダ、ナマケモノ、役所広司、こぶへい、おでん組、ゴジラ先輩、佐藤浩市、川上冷奴、かばどん、おやじ、電池停止、横浜のたぬき、矢部太郎、弥太っぺ、柄本佑、ごはんですよ、新文芸坐、早稲田松竹、株式会社アミューズ、ちば映画祭……。続く注意事項アナウンスは、マスク厳守、会話飲食禁止などを列挙し〈ミニシアターの映写持続のため皆様の一層のご理解とご協力をお願い申し上げます〉と結ばれる。
 ようやく本編が始まった。銀輪が七色にキラキラ光りまわる日活タイトルに続いてスクリーンいっぱいにおなじみ太字殴り書きで「ろくでなし稼業」がバーンと立ち上がって登場。
 ――これだ、これだよ、上映自粛などくそくらえ、名画座魂バクハツだぁ!
 伊豆あたりの港に現れたふてぶてしい“エースのジョー”と、一見余裕のろくでなし二谷英明はなんとなく気が合って、セコイ詐欺でひと儲けたくらむ。悪役はもちろん金子信雄。そのねちっこい横恋慕相手がセクシーな南田洋子(ダーイ好き♡)。だまされた父を信じる清純娘吉永小百合にほだされた二人は……。マンネリな話を生き生きと演じる役者陣、演出テンポの良さ。
「東京の暴れん坊」(斎藤武市)は、パリの裏町を思わせるセットにかわるがわる出てくるミュージカル調のタイトルバックが楽しい。お話は銀座「キッチンジロウ」の息子でパリ帰りの小林旭と、銭湯の娘・浅丘ルリ子の突っ張り合い恋物語。銀座八丁目に今もある銭湯「金春湯」はサラリーマン時代よく通ったのでなまじ嘘ではない。女湯脱衣場の恋のさやあて半裸取っ組み合いに、番台のルリ子(いいなあ)は男湯のアキラを呼びにゆくがその裸にびっくり赤面、小さなタオルを腰に巻かせて連れ出し仲裁にもみあうという、筋に必要ないきわどい場面が最高だ(こういうところを最高と言いますか)。小林旭の全く照れもけれん味もない(信彦氏いわく「無意識過剰」)スターっぷりがいい。
「ニッポン無責任時代」(古沢憲吾)の植木等は、歌って踊ってガハハと笑うリズム感ある図々しさが旧来の喜劇人を超えているのがよくわかる。
 渥美清の「続 拝啓天皇陛下様」(野村芳太郎/脚本:山田洋次ほか)は、戦中〜戦後の底辺を生きた庶民史として出色の力作で小沢昭一がすばらしい。テレビドラマ「田舎刑事 時間よ、とまれ」「田舎刑事 まぼろしの特攻隊」は、早坂暁の練りあげた脚本、橋本信也、森崎東の緊迫した演出で、あのご面相ゆえ喜劇味がただよってしまう渥美が、真っ直ぐに容疑者を見る目の力にうなった傑作だった。
 上映が始まれば現世を忘れられるのが映画の良さ。席を埋める客は笑い転げ、また水を打ったようにシンと集中する。マスクのゾンビは人間に戻ったのだ。
 特集全15本完全制覇は久しぶりに名画座通いの醍醐味だった。名画座ミニシアターは新しい文化、娯楽を生み、私の人生を豊かにし続けている。その灯を消してはならない。
 7月初旬、ラピュタ阿佐ヶ谷「蔵出し! 松竹レアもの祭」の一本「踊りたい夜」(井上梅次)は、かつて大井武蔵野館で見た傑作に、主演・鰐淵晴子様のトークがセット。用心して一時間前に行ったが満席完売。泣く泣く帰ったけれど、憧れの美女が若き日のこの作を大切に思っている様子がうれしかった。

(おおた・かずひこ 居酒屋研究家)
波 2021年8月号より
単行本刊行時掲載

担当編集者のひとこと

 本書は1972年に晶文社から刊行され、「芸と芸人を描いて初めて批評の域にまで達した」と、たちまち現代の古典となった名著です。77年に晶文社版定本、82年に新潮文庫版、2008年に新潮社版定本と新装改版が(そのたびに加筆改稿が行われて)出続けたのも、その証です。今回は、更なる加筆改稿が施され、最新インタビューも附された最終決定版。これまで登場した頃のタモリ、たけしまでだった論評も、令和までアップデートしました。
 本書を読んだ後、北野武氏は浅草での修業に入り、太田光氏は伝説の芸人高勢実乗に興味を持ち、さらに大瀧詠一氏、高田文夫氏、宮沢章夫氏など芸人やクリエイターたちに多大な影響を与えてきました。現場に立つ人間に影響を及ぼしたという点で、蓮實重彦さんの映画批評と双璧をなします。
 著者は1932年生れ。40年頃からエノケン、ロッパ、高勢実乗らの舞台や映画を観始めた筋金入りの〈プロの観客〉であり、60年代には植木等やてんぷくトリオなどの台本を書いた実作者であり、ポップ・カルチャーのすぐれた批評家でもありますが、何より一筋縄ではいかぬ小説家でもあります。その小説家としての力と味わいが、本書を一種の青春小説、遍歴小説として読めるようにしています。
 エノケン、ロッパ、森繁、のり平、トニー、フランキー、クレイジー、渥美、由利、寛美、萩本、伊東、いかりや、タモリ、たけし、志村等々。小林さんによる「史記列伝」の完成です。(出版部・K)

2021/05/27

著者プロフィール

小林信彦

コバヤシ・ノブヒコ

1932(昭和7)年、東京・旧日本橋区米沢町(現・中央区東日本橋2丁目)に和菓子屋の長男として生れる。幼少期より、多くの舞台や映画に触れて育った。早稲田大学文学部英文科卒業後、江戸川乱歩の勧めで「宝石」に短篇小説や翻訳小説の批評を寄稿(中原弓彦名義)、「ヒッチコックマガジン」創刊編集長を務めたのち、長篇小説『虚栄の市』で作家デビュー。創作のかたわら、日本テレビ・井原高忠プロデューサーに誘われたことがきっかけで、坂本九や植木等などのバラエティ番組、映画の製作に携わる。その経験はのちに『日本の喜劇人』執筆に生かされ、同書で1973(昭和48)年、芸術選奨新人賞を受賞。以来、ポップ・カルチャーをめぐる博識と確かな鑑賞眼に裏打ちされた批評は読者の絶大な信頼を集めている。主な小説作品に『大統領の密使』『唐獅子株式会社』『ドジリーヌ姫の優雅な冒険』『紳士同盟』『ちはやふる奥の細道』『夢の砦』『ぼくたちの好きな戦争』『極東セレナーデ』『怪物がめざめる夜』『うらなり』(菊池寛賞受賞)などがある。また映画や喜劇人についての著作も『世界の喜劇人』『われわれはなぜ映画館にいるのか』『笑学百科』『おかしな男 渥美清』『テレビの黄金時代』『黒澤明という時代』など多数。

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