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決定版 日本の喜劇人

小林信彦/著

3,960円(税込)

発売日:2021/05/20

書誌情報

読み仮名 ケッテイバンニホンノキゲキジン 
装幀 平野甲賀+吉良幸子/装幀、『日本一の男の中の男』/カバー表写真、『喜劇 とんかつ一代』/カバー裏写真、(C)TOHO CO.,LTD./写真
雑誌から生まれた本 から生まれた本
発行形態 書籍
判型 四六判変型
頁数 559ページ
ISBN 978-4-10-331828-6
C-CODE 0095
ジャンル ノンフィクション
定価 3,960円

エノケンから志村けんまで――。圧倒的影響力を持つ伝説の名著、愈々完結!

芸のみならず、喜劇人の人間性にまで肉薄し、〈笑い〉を批評の対象に高めた初版刊行から半世紀。加筆・改稿の上、BIG3・志村けん・大泉洋までに言及した新稿と著者インタビューを収録。戦前のロッパ、エノケンから森繁、渥美、植木、伊東四朗らを経て現在に至る系譜を明らかにする。喜劇を見続けて80余年、国宝級集大成がここに!

目次

◆日本の喜劇人

はじめに

第一章 古川緑波ロッパ
丸の内喜劇の黄金時代

第二章 榎本健一
THE ONE AND ONLY

第三章 森繁久彌の影
伴淳三郎 三木のり平 山茶花究 有島一郎 堺駿二 益田喜頓

第四章 占領軍の影
トニー谷 フランキー堺

第五章 道化の原点
脱線トリオ クレイジー・キャッツ

第六章 醒めた道化師の世界
日活活劇の周辺

第七章 クレイジー王朝の治世

第八章 上昇志向と下降志向
渥美清 小沢昭一

第九章 大阪の影
『てなもんや三度笠』を中心に

第十章 ふたたび道化の原点へ
てんぷくトリオ コント55号 由利徹

第十一章 藤山寛美
伝統の継承と開拓と

第十二章 日本の喜劇人・再説

最終章 高度成長のあと

◆日本の喜劇人2

はじめに

第一部 植木等
1 ジャズ喫茶(1958〜60)
2 歌で始まる(1961)
3 映画への進出(1962〜63)
4 スーパーマンの憂鬱(1964〜65)
5 頂点(1965〜67)
6 王朝の崩壊(1968〜72)
7 サウンドの評価と復活(1973〜91)

第二部 藤山寛美
1 東京オリンピックの年(1964)
2 成功への綱渡り(1965〜71)
3 「阿呆まつり」のころ(1971〜72)
4 成功と疎外感(1972)
5 黄金時代(1973〜74)
6 花のマクベス(1975)
7 終幕(1989〜90)

第三部 伊東四朗
1 〈トリオ〉からの出発(1962〜66)
2 自立と遅咲き(1967〜73)
3 最後の喜劇人(1974〜)

『決定版 日本の喜劇人』あとがき

附・小林信彦インタビュー ぼくは幸運だった
主要人名・グループ名索引

書評

私の人生を決めた『日本の喜劇人』について

ケラリーノ・サンドロヴィッチ

雑誌連載から50年、〈笑い〉を論じて初めて批評にまで高め、観客にも演者にも多大な影響を与えた名著が、加筆改稿されて愈々〈決定版〉刊行!

 大切に保管していたものに限って、気がつくと失くなっている。
 例えば、中学生の時に小林信彦氏から頂戴した、質問への回答ハガキだ。マルクス兄弟が晩年に共演したテレビ番組の8ミリフィルムを手に入れた中二の私は、知りたいことがあり、躊躇なく小林氏に往復ハガキで質問を送ったのだった。当時は作家の住所なぞ中学生でもすぐに調べられた。面白がってくれたのか、氏は、子供相手にも拘らず、万年筆書きの小さな文字で丁寧な説明を返してくださった。最後に「本当に中学生ですか? あまりの詳しさに呆れました」とあった。「すべては貴方の著書から学んだ知識ですよ」と返したい気持ちだったが、さすがに弁えた。
 たしか小学校六年生の時だと思う。当時は中原弓彦名義で刊行されていた小林信彦氏の初期の二冊の名著、『世界の喜劇人』『日本の喜劇人』を立て続けに読んでしまったことが、私のその後の人生を決定づけてしまったと言っても過言ではない。こんなことを迂闊に書く人もいるけれど、本当に過言ではないのです。だからこの原稿はきっと、書評なんていう客観的なものにはなりようがない。あしからず。
 ってことで、この度「決定版」として刊行された『日本の喜劇人』は、1972年に出版された同名書と、1996年に出た新潮文庫『喜劇人に花束を』の二冊を合わせ、加筆されたものだ。加筆部分の最後には大泉洋について触れているから、乱暴に言えば「古川ロッパから大泉洋まで(芸歴からいうと「エノケンから大泉洋まで」と書くのが正しいか)を網羅した、喜劇人の芸と歴史についての評論本」ということになろうが、そんな簡単なものではない。ロッパを除き、「本人との直接交流」を基調にして書かれているという点で、本書は巷に溢れる他の評論・評伝本とは一線を画す。この度「決定版」のゲラが届いたので、まえがきを読み返せば、文末に「芸人への賛嘆は、その芸人(の人間性)への幻滅の果てにくるものではないだろうか」とあって、なんと申しましょうか、その覚悟のほどに改めてため息が出た。この本が最初に世に放たれた時分には、エノケンは亡くなって間もなく、森繁御大をはじめ、登場する喜劇人たちのおおよそが、現役か、少なくとも存命だったことを考えれば、ため息の意味もお分かり頂けるのではないか。
 若き日の著者が書きつけた、詳細な日記やノートが大きな強味になっている点も他に類をみない。例えば植木等の章を読んでみると、1965年7月1日から4日間、東京宝塚劇場でクレイジー・キャッツの結成十周年記念公演があり、そこでどんなネタが披露され、終演後のパーティーで挨拶に立ったフランキー堺が何を言い、その後クレイジーの面々と何を話したかまで記されている。この項が書かれたのは1990年代であろう。とても記憶だけで追いつくものではない。私なぞ去年起こった出来事と三年前に起こった出来事の前後関係すら怪しい。
 巻末に付された最新インタビューにおいて、御本人も「時折、『日本の喜劇人』は作者の〈青春の終り〉〈青春の挫折〉の小説みたいだと評されもする」と発言しているが、それは本書に限ったことではない。小林氏の「喜劇人本」でいつも感動してしまうのは、対象となった喜劇人との(往々にして何十年にも及ぶ)日々の記述のなかで、植木等のことを書いていようが、藤山寛美のことを書いていようが、渥美清のことを書いていようが、横山やすしのことを書いていようが、萩本欽一のことを書いていようが、主人公たる喜劇人と同様に、いや、時としてそれ以上に、著者自身の状況や心情が、まさに青春小説のように鮮やかに浮かび上がる点である。同時に、昭和史、文化史、風俗史としても読めてしまうのもいちいち魅力であり、それもこれも、克明に記された日記あってのことだろう。私も日記をつけておけばよかった。
 ところで、巻末インタビューには、1972年に最初の版が出た時、一番喜んでくれたのが由利徹だという一節がある。最後にこんな私事を書くのもどうかと思うが、実は私は由利徹さんと、日劇の彼の楽屋で、『日本の喜劇人』について話をしたことがあるのだった。日記をつけていないので日付けは不明であるが、おそらく高一の時だ。由利さんは「雲の上団五郎一座」の二十周年記念公演で座長を務めていた(エノケンの娘さんが出ていたと記憶するが、日記をつけていないので確かではない)。ジャズマンだった私の父は、ある時期、由利さんや森川信、(『日本の喜劇人』にもほんの少しだけ触れられている)泉和助らと雀卓を囲む仲だった。私がまだ赤ん坊〜幼児だった頃の話だ。当時は、よく知るおじちゃん達がテレビに出ているのが不思議だったぐらいで、さしたる興味はなかった。が、『日本の喜劇人』を読んで以来、俄然興味が湧き、由利さんは特別な人になっていたのである。
 その時の日劇公演は一人で観に行ったのだけれど、父の名前を出して楽屋に押しかけた。押しかけたはよいが、とくに話すべきこともない。口をついて出た言葉が「『日本の喜劇人』読みました」だった。由利さんが「へえ、ああそう」と感心したように笑ったのは憶えているが、そのあとは忘れてしまった。日記をつけていないからだ。由利さんにしてみれば、あの時の赤ん坊が高校生になっていきなり楽屋に現れたことに面食らったのだと思う。サイン入りの公演パンフレットをくれた。いや、ロビーで買ったパンフにサインしてもらったんだったか。日記をつけてないのだ。
 いずれにせよ、そのパンフレットもいつの間にやら紛失してしまった。由利さんとはそれ以来会うことはなかった。大切に保管していたものに限って、気がつくと失くなっている。『日本の喜劇人』は、私ごときにはどうあがいても太刀打ちできない、名著中の名著である。

(ケラリーノ・サンドロヴィッチ 劇作家、音楽家、演出家、映画監督)
波 2021年6月号より
単行本刊行時掲載

関連コンテンツ

特別掲載・小林信彦インタビュー

ぼくは幸運だった(抄)――『決定版 日本の喜劇人』巻末付録より

――『日本の喜劇人』は雑誌「新劇」の一九七一年六月号から翌七二年三月号まで連載されました。七二年に最初の単行本が出て以来、名著の証でもありますが、〈定本〉〈文庫版〉など何度か版が新たになり、そのたびに加筆・改稿されてきました。いよいよ今回はその名の通り、『決定版』の刊行です。

小林 思い出話をすると、この本の新しい「あとがき」を書いたばかりなので、どうしても重なることが多くなりますが……。『日本の喜劇人』を書いたのは、「新劇」に連載する何年も前に、古波蔵保好さんに唆されたのがきっかけなんですよ。古波蔵さんも映画好きで、ぼくは編集者(「ヒッチコックマガジン」編集長)だったから、あれこれ喋っているうちに、「ご覧になってきた喜劇人について書いてみませんか」と誘ってみたんです。
 当時、「日本喜劇人協会」が出来て、エノケン、ロッパはともかく、やたらと金語楼などの幹部連中を持ち上げていましてね。あれはおかしい、ちゃんと過去の仕事は押さえるにしても、いま面白い人を評価しないといけない――。そんなことを喋っていたら、古波蔵さんが「それは君が書くしかないよ」と。ぼくもロッパ、エノケン、高勢実乗なんかは一九四〇(昭和十五)年頃から生で観てきたし、森繁がのし上がってきたのも高校生の頃に目の当たりにしたし、クレイジー・キャッツもそんなに売れてない頃からジャズ喫茶で観ていたしで、自分が長年実際に観てきたことを基にすれば書けるかな、と思ったんです。
 それで『喜劇の王様たち』(一九六三年。『世界の喜劇人』の原型)を出した後、次は『日本の喜劇人』だなと思って、いくつかの雑誌へ話を持ちかけたんだけど、どこも「面白いと思うけど、うちではちょっと……」という反応でした。そのまま何年かたって、『笑う男 道化の現代史』(七一年)を出す時に、版元の晶文社の中村勝哉社長と津野海太郎さんに新宿でご馳走になったんです。「次は何をやるんですか」と言うので、この話をしたら、津野さんが「それはうちでやらなきゃダメだ!」って飛びあがるような勢いで言ってくれた。彼が「連載する雑誌を探しますから」と言って、翌日には「新劇」の編集長から電話がかかってきましたよ。ぼくが「自分の好きなように書くから、迷惑かけるかもしれませんよ」と念を押したら、編集長が「うちは変わった意見は全然オッケーです」って(笑)。
 時折、『日本の喜劇人』は作者の〈青春の終り〉〈青春の挫折〉の小説みたいだと評されもするのは、これを書いた時、ぼくがもう三十代の終わりだったことも関係しているのでしょう。

――『日本の喜劇人』の最初の構想から実際の執筆まで数年かかったわけですが、その間、小林さんはテレビの台本を書かれたりして、いわば〈幕内〉の人間だった時期があります。

小林 編集者時代から面識のあった井原高忠さん(日本テレビ)に誘われて、四年ほど(六五〜六九年)ヴァラエティ番組の台本を書いていました。でも、それ以前から出演したりして、テレビの世界とはあれこれ関係があったんです。
 ぼくが幸せだったのは、この本に登場するような、いちばん優れた喜劇人たちと知合いになれたことですよ。「映画評論」に載せた「喜劇映画の衰退」(のち『喜劇の王様たち』『世界の喜劇人』所収)という長い喜劇映画論、ギャグ論を読んだ永六輔が、NHKの末盛憲彦ディレクターと一緒にあらわれて、『夢であいましょう』でギャグ特集をしたいんだ、と言ってきました。一九六一年夏のことです。
 ぼくの評論を原案にして番組を作るんだろうなとのんびり構えていたら、永さんは「あなたが出演して、解説と実際のスラップスティックを見せてみてよ」なんて言う。おかげでぼくは黒柳徹子さんと永さんからパイをぶつけられたり、プロレスラーのユセフ・トルコとミスター珍に水槽へ投げ込まれたりしました。土曜夜の人気番組でそんなことを五週にわたってやったものだから、会社の旅行で伊豆へ行った時、小学生たちがぼくを指さして笑うんだ。会社員として、これはまずい(笑)。でも、おかげで『夢あい』のスタジオで、レギュラーだった渥美清と出会うことができた。ぼくが何者かわからないけど、とにかく〈笑い〉が好きそうなので興味を持ったんでしょうね、渥美君が近づいてきて「金が欲しいねえ……」と呟いたのを覚えています。それからのことは『おかしな男 渥美清』(二〇〇〇年)に書きました。
 植木等さんとの付合いは、この本にある通り、一九六三年に取材のため、「週刊文春」の記者に渡辺プロの渡辺美佐副社長を紹介してもらったら、彼女から「クレイジー映画のブレーンになってくれない?」と頼まれた――というのがきっかけです。
 渡辺プロ社長の渡辺晋さんはミュージシャン上がりだから、クレイジー・キャッツでもザ・ピーナッツでも、次に何を歌わせたらヒットするかという見通しや勘は鋭いんだけど、ドラマ作りには弱いんですね。つまり、喜劇の設定やプロットではなく、ギャグを記憶しているだけなんです。だから、「植木にエノケンのあのギャグをやらせよう」というだけで、企画はうまく転がっていきませんでした。
 ただ、晋さんがそう言うから、東宝からエノケンの古い映画を借りてきて試写をやったんですよ。そこで観た『どんぐり頓兵衛』と『ちゃっきり金太』などが呆然とするくらい面白くて、エノケンというのは本当に凄かったんだ、偉い人なんだ、ということが初めてわかった。ただ困ったのは、その上映会にエノケンさん本人も来るんだ(笑)。
 まあ、そうやって面識ができていたおかげで、その後エノケンさんを井原さんの番組『九ちゃん!』へ呼ぼうという話にもなったわけです。そして井原さんによって『九ちゃん!』に起用されたのが、てんぷくトリオで、伊東四朗さんとの長い付合いもここから始まりました。萩本欽一さんと出会ったのも、この番組です。

――七二年に『日本の喜劇人』が刊行された時、こんなにも喜劇人の芸や歴史を明快かつ縦横に論じた本は前例がありませんでした。ここに登場する喜劇人たちの反応はいかがでしたか?

小林 よく書けば、「ありがとう」とは言わないまでも、友好的雰囲気にはなりますよね。本が出てから、わりとすぐ森繁さんが「会いたい」と言ってきたんです。六本木の小料理屋へ呼び出したぼくに向って、嘘かホントか、「あいつとは赤坂の芸者を奪い合って負けた」とか言って、田中角栄の真似をしてみせた(笑)。もちろん巧いものです。まだ角栄の真似がそんなに一般化してなかった頃だったから、「いい歳になっても、好きだなあ」と思いましたよ。森繁久彌の重みというのも、今ではわかりにくいかもしれませんね。ごく単純にいえば、〈ちゃんとした芝居のできる喜劇人〉でした。動きのスピードも速かった。かろうじて、DVDで全盛期の映画が観られるので、ご覧になってください。
〈ちゃんとした芝居〉ができなくてもいい場合もあって、たとえば、無手勝流の由利徹。ぼくは森繁久彌も由利徹も高く買っています。そうそう、『日本の喜劇人』をいちばん喜んでくれたのは由利さんでした。そりゃ、あの人はそれまで褒められたことがないもの(笑)。でも、ぼくのまわりはみんな由利徹が好きでしたねえ。
 一方、何でも勝手に書けばいいさと一切我関せずだったのが渥美清です。ただ、『日本の喜劇人』はまだ『男はつらいよ』が初期の段階で執筆しているから、ぼくとしては突っ込んで書けてないなと思っています。きちんと一章を割くべき人なのに、小沢昭一さんと対の扱いにしてしまっている。だからこそ亡くなった後に、『おかしな男 渥美清』を書いたとも言えますね。
 クレイジー・キャッツについては、この本が最初に出た一九七二年当時、彼らは下り坂にあったし、そもそもぼくが『植木等ショー』の台本を書き、映画の〈ブレーン〉だった以上、知り合って以降のことは書きにくかったんです。でもぼくはクレイジー・キャッツというか、植木さんのいわば〈追っかけ〉だったんだし、あんなに輝いていた時代を傍で観ていたんだから、もっと熱く書いてもよかったな、という悔いがありました。
 そこで再ブレイクした植木さんをクローズアップする形で年代記を書き、さらにほぼ全盛期までしか書けていなかった寛美さんの〈早過ぎる晩年と死〉を描いたのが『日本の喜劇人2』(最初は『植木等と藤山寛美 喜劇人とその時代』として九二年刊)です。『日本の喜劇人』『日本の喜劇人2』二冊を併せたこの『決定版』で、ぼくの言いたいことはひとまず書き尽くせているかなという気がします。

――今回の新たな最終章では、最後に大泉洋に触れられました。

小林 まだ、大泉洋については可能性を感じるというだけで、はっきりしたことは言えませんけどね。彼が〈喜劇人〉を志しているのかも分からないし、何より優れた作り手と出会えるかどうかにもよるし、覚悟の問題もあるし。
 やはり、思い出すのは渥美さんのことです。渥美清は〈笑い〉の世界で勝ち抜くことしか考えていなかったけれど、やはり上り調子の時の山田洋次監督と出会ったことが絶対的に大きかったですよね。そんな出会いは彼の意志だけではどうにもならない。
 寅さんで成功してからの渥美清と、雨の降る肌寒い日、ばったり地下鉄で会ったことを今回、加筆してあります。「これから松竹へ行くんだ」って言うから、ぼくが「松竹もタクシーくらい用意したってバチは当たらないだろうに」と応じたら、うまい喩えをしました。「おれみたいな役をやってるのは、車に乗ってちゃダメなんだ。こうやってパチンコの玉みたいにのべつくるくる動いてないと、錆びついちゃうんだよ」。びしりと、そう言いました。彼だって、それまではタクシーに乗ってたんですよ。寅さんの役のために、意識して地下鉄に乗るようになったわけです。こういうことも〈喜劇人としての覚悟〉ですよね。

『決定版 日本の喜劇人』より抄録しました。

波 2021年6月号より
単行本刊行時掲載

担当編集者のひとこと

 本書は1972年に晶文社から刊行され、「芸と芸人を描いて初めて批評の域にまで達した」と、たちまち現代の古典となった名著です。77年に晶文社版定本、82年に新潮文庫版、2008年に新潮社版定本と新装改版が(そのたびに加筆改稿が行われて)出続けたのも、その証です。今回は、更なる加筆改稿が施され、最新インタビューも附された最終決定版。これまで登場した頃のタモリ、たけしまでだった論評も、令和までアップデートしました。
 本書を読んだ後、北野武氏は浅草での修業に入り、太田光氏は伝説の芸人高勢実乗に興味を持ち、さらに大瀧詠一氏、高田文夫氏、宮沢章夫氏など芸人やクリエイターたちに多大な影響を与えてきました。現場に立つ人間に影響を及ぼしたという点で、蓮實重彦さんの映画批評と双璧をなします。
 著者は1932年生れ。40年頃からエノケン、ロッパ、高勢実乗らの舞台や映画を観始めた筋金入りの〈プロの観客〉であり、60年代には植木等やてんぷくトリオなどの台本を書いた実作者であり、ポップ・カルチャーのすぐれた批評家でもありますが、何より一筋縄ではいかぬ小説家でもあります。その小説家としての力と味わいが、本書を一種の青春小説、遍歴小説として読めるようにしています。
 エノケン、ロッパ、森繁、のり平、トニー、フランキー、クレイジー、渥美、由利、寛美、萩本、伊東、いかりや、タモリ、たけし、志村等々。小林さんによる「史記列伝」の完成です。(出版部・K)

2021/05/27

著者プロフィール

小林信彦

コバヤシ・ノブヒコ

1932(昭和7)年、東京・旧日本橋区米沢町(現・中央区東日本橋2丁目)に和菓子屋の長男として生れる。幼少期より、多くの舞台や映画に触れて育った。早稲田大学文学部英文科卒業後、江戸川乱歩の勧めで「宝石」に短篇小説や翻訳小説の批評を寄稿(中原弓彦名義)、「ヒッチコックマガジン」創刊編集長を務めたのち、長篇小説『虚栄の市』で作家デビュー。創作のかたわら、日本テレビ・井原高忠プロデューサーに誘われたことがきっかけで、坂本九や植木等などのバラエティ番組、映画の製作に携わる。その経験はのちに『日本の喜劇人』執筆に生かされ、同書で1973(昭和48)年、芸術選奨新人賞を受賞。以来、ポップ・カルチャーをめぐる博識と確かな鑑賞眼に裏打ちされた批評は読者の絶大な信頼を集めている。主な小説作品に『大統領の密使』『唐獅子株式会社』『ドジリーヌ姫の優雅な冒険』『紳士同盟』『ちはやふる奥の細道』『夢の砦』『ぼくたちの好きな戦争』『極東セレナーデ』『怪物がめざめる夜』『うらなり』(菊池寛賞受賞)などがある。また映画や喜劇人についての著作も『世界の喜劇人』『われわれはなぜ映画館にいるのか』『笑学百科』『おかしな男 渥美清』『テレビの黄金時代』『黒澤明という時代』など多数。

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