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木挽町のあだ討ち

永井紗耶子/著

1,870円(税込)

発売日:2023/01/18

  • 書籍
  • 電子書籍あり

疑う隙なんぞありはしない、あれは立派な仇討ちでしたよ。芝居町の語り草となった大事件、その真相は――。

ある雪の降る夜に芝居小屋のすぐそばで、美しい若衆・菊之助による仇討ちがみごとに成し遂げられた。父親を殺めた下男を斬り、その血まみれの首を高くかかげた快挙は多くの人々から賞賛された。二年の後、菊之助の縁者という侍が仇討ちの顛末を知りたいと、芝居小屋を訪れるが――。現代人の心を揺さぶり勇気づける令和の革命的傑作誕生!

  • 受賞
    第169回 直木三十五賞
  • 受賞
    第36回 山本周五郎賞
目次
第一幕 芝居茶屋の場
第二幕 稽古場の場
第三幕 衣装部屋の場
第四幕 長屋の場
第五幕 枡席の場
終幕 国元屋敷の場

書誌情報

読み仮名 コビキチョウノアダウチ
装幀 村田涼平/装画、新潮社装幀室/装幀
雑誌から生まれた本 小説新潮から生まれた本
発行形態 書籍、電子書籍
判型 四六判変型
頁数 272ページ
ISBN 978-4-10-352023-8
C-CODE 0093
ジャンル 文芸作品
定価 1,870円
電子書籍 価格 1,870円
電子書籍 配信開始日 2023/01/18

書評

芝居に救われた人たちの物語の、その先に

大矢博子

 小説を読む。映画を見る。
 テレビドラマの感想をSNSで語り合い、コミックの発売日を待ち侘び、舞台のチケット入手に情熱を燃やす。
 私たちの周囲にはさまざまなフィクションが溢れている。嘘の話なのに、絵空事なのに、どうして私たちはここまでフィクションを求めるのだろう。
 その答えを『木挽町のあだ討ち』が教えてくれた。
 舞台は人気芝居小屋・森田座を擁する木挽町。ある雪の夜、そこで一件の仇討ちがあった。まだ元服前の美しい若衆・菊之助が、父を殺して逃げていた下男を見事討ち取ったのだ。その様子は木挽町の語り種となった。
 それから二年。菊之助の知り合いを名乗るひとりの武士が木挽町を訪れた。彼は仇討ちの現場にいた人々のところを巡っては、当時の話を聞かせてほしいと頼む。呼び込みの木戸芸者、舞台の立師、衣装係の女形、小道具職人とその妻、そして芝居の台本を書く筋書。彼らは自分が見た仇討ちの様子を説明するが、すでに決着した一件の、いったい何をその武士は知ろうとしているのか?
 物語は一話ごとにそれぞれの人物が語る、持ち回りのインタビュー形式で進む。菊之助とどんなふうに出会い、どんな交流を持ち、どんなふうに仇討ちのことを知り、そして当日どんなふうにそれが起きたか。なるほど、仇討ちの背景をこうして炙り出していく趣向なのだな、と思った。
 ところがそれだけではなかった。武士は、それぞれの話し手の来し方も知りたがるのだ。どのように生きてきて、何があって芝居小屋で働くことになったのかを教えてほしいのだと。
 最初は首を傾げた。目撃者たちの過去が仇討ちに何の関係があるというのか。だがその疑問はすぐに忘れた。なぜなら、彼らの語る話が実に胸を揺さぶってきたから。
 吉原の遊女を母に持ち、吉原で幇間をやっていた男がなぜ芝居小屋の木戸芸者をやっているのか。剣の腕で身を立てるつもりだった武士が芝居小屋で働くようになった理由。孤児となって火葬場で育った衣装係の壮絶な過去。一人息子を亡くして失意の中にあった職人夫婦が立ち直ったきっかけ。放蕩者だった旗本の次男を筋書の道へと背中を押した存在。
 ひとりひとりにまったく異なるドラマがあり、涙や怒りや虚無があり、けれどそれを乗り越えて今日を生きている。何度も胸が詰まった。そして共通点などないように見えた彼らの過去が、ひとつの点に集約されることに読者は気づくだろう。
 これは芝居に救われた人たちの物語なのだ。
 自分に嘘をついたり、理不尽な運命に苛まれたり、居場所がなかったり、大きな悲しみを抱えていたりして、自分ひとりの力ではどうしようもなかった。視野が狭まり、思考が固まり、絶望で体も心も身動きがとれなくなった。そんなとき、ひょんなことから芝居に触れる。そのフィクションが彼らを救うのである。
 もちろんそれで問題が解決するわけではない。けれどフィクションだから伝えられることがあるのだと、嘘の話だからこそ響くものがあるのだと、彼らは教えてくれる。芝居のいったい何が彼らを変えたのか、一話ごとに異なるそのドラマをどうかじっくり味わっていただきたい。フィクションに救われた彼らの〈物語〉は、そのまま読者である私たちを救ってくれる。だから私は小説を読むのだと、小説を紹介する仕事をしているのだと、すとんと腹に落ちた気がした。
 ところが驚くべきことに、この物語にはその先があるのだ。第五話の途中で思わず声を上げてしまった。そこにつながるのか、そういうことか。物語は終盤で大きくその様相を変える。もちろんその展開をここで明かすわけにはいかないが、そこまで積み上げてきたエピソードの本当の意味が、永井紗耶子がこの物語に託した本当の狙いが、思いがけない形で浮かび上がるのである。本書は時代ミステリとしても一流だとだけ言っておこう。実にテクニカルだ。
 これは〈物語〉を生み出す側としての、永井紗耶子の決意表明だ。すべての小説好きに、フィクション好きに本書を薦めたい。〈物語〉の持つ真の力が、ここにある。

(おおや・ひろこ 書評家)
波 2023年2月号より
単行本刊行時掲載

インタビュー/対談/エッセイ

古典を現代に活かすために 後篇

神田伯山永井紗耶子

いまウケる登場人物像とは? 田中角栄も演説の出来が気になった? 歴史・時代小説と講談のトップランナー2人が、それぞれの技藝の勘どころを語り合います。

(前篇はこちら)

永井 江戸時代後期に実在した商人、杉本茂十郎を主人公にした『商う狼―江戸商人 杉本茂十郎―』という長篇小説を書いたことがあります。莫大な金を動かし、「金は刀より強い」と、疲弊していた文化期の社会制度を次々と改革したすごい人物ですが、なぜかほとんど知られていません。
 彼の人生についての史料も少なくて、書きあぐねたときに、「そうか、講談の手法を使えばいいんだ」と。講談は、セリフ中心の落語と違って、小説でいう「地の文」が多いですよね。「皆様ご存じの」と、読み手の予備知識に頼ることがまったくできない杉本茂十郎を書くには、説明的な要素もおもしろく語る講談をイメージして書けばできるのではないか。そう思って、講談を聞きに行ったり、動画を見たり、速記本を読んだりしました。
 講談は長尺、かつ重い話もやれるところがすごいですね。

伯山 講談は何年何月何日の話か、その日の天気など周辺の細かいことにも言及して、語る人物に奥行を出すんです。落語はあえて、「八っつぁん」「熊さん」と人物を記号化するし背景をぼかすこともあります。

永井 杉本茂十郎のように、「皆様ご存じの」が通じない演目をやるときは、どういう工夫をされるのですか。

景気がよければ

伯山 「赤穂義士銘々伝」をやったあと、ツイッターで、「すごくおもしろかったけど、自分に赤穂義士の知識があればもっと楽しめたのに」というコメントを見つけたことがあります。私はエゴサ好きなので(笑)。「あ、お客さんをひとり置いて行ってしまった。もっと赤穂義士の説明を丹念にしてからやればよかったなあ」と。
 知名度のほかに、世相も意識します。たとえば、今の人には豊臣秀吉はあまりウケないんですね。田中角栄が活躍していた時代なら、景気もよくて、秀吉が人気だったと思います。今は大河ドラマ「どうする家康」の、弱い家康がウケる時代です。

永井 松本潤さん演じる、葛藤する家康を楽しく拝見しています。でも、家康といえば「独眼竜政宗」(1987年)の津川雅彦さんですね。

伯山 あのタヌキ親父ぶりは忘れられません。津川さんが体現していたように、実際には、家康は総合的にみれば「史上最強の武将」でしょう。戦国時代の覇者なわけですから。
 私はあえて弱々しくしてみせることを「弱者芸」と呼んでいるのですが、令和の人々にとってはそれが一番しっくりくるのでしょうね。身近な家康というか。ドラマでも後半は盛り返して来られると思いますけど。

永井 私と同世代の時代小説、歴史小説家は、勝つ栄光ではなく、敗けた苦悩に重きを置いて人物を書くことが多い気がしますね。私は1977年生まれの就職氷河期の世代で、好景気の恩恵を受けたことがありませんので。

伯山 『木挽町のあだ討ち』の登場人物も子どもに先立たれた夫婦、身寄りのない人、ネグレクトされて育った人など、つらい身の上の人が多いから、弱者芸とはちょっと違いますが、今の読者がその悲しみに心を寄せやすいのでしょうね。
 私は心奮い立たせたいとき、YouTubeで田中角栄の演説を見るんですよ(笑)。お年寄りが角栄の話にうっとり引き込まれていて、信じられないような笑顔でパーッと笑うんですよ。そのときの内容は「お年寄りを大事にしよう」くらいなんですけど。実に大衆的な話芸なんですよね。それを見ると元気が出てくる。

永井 角栄、エモいんですね。

伯山 同時代人だったら、そんなに好きな政治家ではなかったかもしれませんし、「ああなりたい」というわけではないんですけどね。

永井 過去の人間という距離感がいいのでしょうか。

伯山 岐阜羽島では落語や講談が他の地域よりは流行っていて、ときどき行くのですが、駅前に衆議院議長まで務めた大野伴睦夫婦の像が立っています。「何もない岐阜羽島に、大野伴睦先生が強引に新幹線を通してくれたおかげで短時間で来られる。あんまり利用者いないけど」とか思いながら、そのマッチョな史実に、毎回胸が熱くなります。全体でみるとどうかと思いますが、私は便利という(笑)。

永井 少し距離がある昭和史だから、いわば物語として熱く心を寄せられるのでしょうね。そういうところが、伯山さんは古典芸能に向いているのではないでしょうか。

歌舞伎の攻め

伯山 そのとおりかもしれません。永井さんはなぜ歴史もの、時代小説にこだわるのですか。

永井 私も距離感が好きなんです。現代人に興味がないわけではないのですが、たとえば、渋谷のスクランブル交差点に立っている、つらい身の上の人を想像したとき、それだけでどっと疲れてしまいます。
 日が暮れたら暗くなって、四季の移り変わりに生活も合わせて……そんなシンプルな古典の世界観が好きですね。現代とは、社会風俗の点ではズレたところがありながら、いつの時代も変わらない人間ドラマを描くのが好きです。

伯山 時代背景が違うからかえって人間の普遍性が浮き彫りになり、伝わりやすくなるというのは、ありますよね。
 以前、歌舞伎を観て、「長いなあ。もっとギュッと縮められるだろうに」と思ったことがあり、歌舞伎役者さんにそう話しました。そうしましたら、「いや、昭和のはじめ頃はもっと短くてスピーディだったんですよ。今はかなり長くなっているんです」と。伝統ある歌舞伎も時代に合わせて試行錯誤していることに感心しました。
「風の谷のナウシカ」とか「ファイナルファンタジーX」はじめ、歌舞伎は次々と新作を発表して、攻めの姿勢が本当にすごい。FF歌舞伎なんて、休憩も入れてですが昼、夜合わせて七時間とか。誰か大人が止めなかったのか、って話ですよ(笑)。行った人には評判良いですけど。

永井 年齢を経て、好きなネタが変わってくるものでしょうか。

伯山 だんだんと洗練されている、キッチリしているものがしっくりき始めますね。ただ冗長なのはせっかちなので嫌になっちゃう(笑)。単純に年齢だけでなく、子どもをもつと、『木挽町のあだ討ち』にも出てきた「菅原伝授手習鑑」の子どもが犠牲になるエピソードがつらくなったりします。

永井 TikTokを「おもしろいでしょ」と若者に見せられて、ちょっとよくわからなかったのですが、「その感性をわかりたい」とは思いますね。

伯山 若い人が何をおもしろいと思うのか、理解しようとするのは素敵なことです。ただ私の場合、そういう意識がだんだん薄れてきまして、最近、「若い老害」になりつつあるのを感じますね。そもそも若いときから同年代と合わなかったので、今なんかより合うわけがないなと(笑)。
 そうそう先日、相撲を砂かぶりで見物したのですが、全然違うんですね。力士の激しい息づかいもわかるし、巨体が目の前に投げ飛ばされてきたりもして、衝撃でした。同じ相撲でも、テレビで見る、両国国技館の上の方の椅子席で見る、砂かぶり席で見る、それぞれ見え方が違うんですね。相撲に限らず、違う角度、違うパターンによっていろんな楽しみ方ができるのではないか。裏を返せば、演じる側としては、さらにおもしろくできる余地がまだあるのではないか。そう希望を持ちました。

永井 十年近く前、ライターをしていたときに今の松本幸四郎さん、当時の染五郎さんの取材で、こんぴら歌舞伎へ行って「女殺油地獄」を見たことがあります。あの小屋はあえて昔ふうに照明があまりありませんよね。うす暗いなかで本物の油に見えるような液体が舞台に撒かれ、染五郎さん演じる与兵衛がこけつまろびつ油だらけになりながら中村壱太郎さん演じる人妻お吉を殺めたときには、殺人現場を実際に目撃したかのようなショックを受けました。

伯山 ライブは、小屋のサイズ感、演者はおろか見る人の体調にまで左右されるほど、有機的なものですよね。今日も国立演芸場でやってきましたが、観客のなかにお子さんがいたんですね。小学校低学年らしき子どもの「けらけらけら」というかわいらしい笑い声が場内にひびいて、それを聴いた三百名の観客も演者も幸せな気持ちに包まれました。ライブはひとつとして同じことがないから、やっていても見ていてもおもしろいんですね。角栄も演説したあとで、「今日はよかった」「今夜はイマイチだった」とか言っていたのかなあ(笑)。

永井 政治家の演説はリズム感が良かったり、おもしろいですね。駅前などで街頭演説をやっているところに通りかかると、つい聴いてしまいます。

伯山 『木挽町のあだ討ち』は、語りのリズム感もいいのですが、第二幕で役者が「忠っていう字は心の中って書くでしょう。心の真ん中から溢れるもんを、人に捧げるってことだと思うんで」と忠義の真の意味について語るところなど、名台詞がいくつも出てきます。あれは日頃からストックしているものですか。

永井 登場人物が話してくれる言葉を書き留めたもので、私が考えたものではないんです。前に座ってもらって、話してもらっている感じです。

伯山 エッ。憑依芸だったんですか! 「ドカベン」の水島新司先生の、「岩鬼が打つ気はなかったのにホームランを打った」みたいな話じゃないですか(笑)。

永井 危ない人みたいに見えるかもしれませんが、私に限らず、そういうふうにして書く小説家は多いのではないでしょうか。イタコみたいなものかもしれません。聞き取った言葉を書いて原稿を提出して、担当編集者に「あの言葉が良かった」と言ってもらえると、「良かった。私じゃなくて登場人物が勝手に言ったんだけど」と思ったりしますね。

伯山 永井さん、志らく師匠と気が合いそうですね。志らく師匠も、「談志が降りてきた」とおっしゃったりするから(笑)。
 北方謙三先生もそうなのかな。YouTube「神田伯山ティービィー」で対談させていただいたことがありますが、たったひとり、私がサイン会に並んだことのある作家です。連続もののおもしろさを教わった『水滸伝』全十九巻には、下がかった描写が四十頁ごとくらいに出てきて、箸休めになって好きなんですけど……あれは北方先生が憑依されているんでしょうね(笑)。

永井 伯山さんも、実在の人物から、「鹿政談」の鹿、「寛永宮本武蔵伝」の狼まで憑依して語っているように見えます。

弟子に教わる

伯山 憑依しているかのように「見せている」という状態ですね。私はもともと感情過多なところがあり、確かに終わったあと楽屋で放心状態に陥ることもあります。ただ、それが講談としていいのか悪いのか、わかりません。もう少し歳を取ると、肩の力が抜けて、演目とちょうど良い距離感が保てるのかもしれません。
 今日、ここへ来る前に、十九歳の三番弟子に稽古をしてきました。前回の稽古で、一語一句覚えないといけないところを言葉が抜けたりしていたことがあり、「プロとして、この先数十年やっていこうというときに、最初の一歩がこれではいけない」と厳しい話をしました。そうしたら、今日は全然違っているんです。ずいぶん稽古したんでしょうね。「どうだ。これだけ稽古したから文句ないだろう」という気迫と落ち着きがある。そこまでいくと、聞き手に伝わってくるものが前回とまるで違ってくるのです。弟子に教えながら、私も「そうか。腹に落ちるまで稽古しないといけないな」と教わりました。

永井 演目が同じでも、演じ手で全然違いますよね。例えば「中村仲蔵」。私は落語でよく聞いていたのですが、伯山さんの仲蔵はずしりと重くて、内面までぐっと迫れて、とても魅力的でした。落語の軽妙さと講談の深さ、どちらも面白いです。

伯山 落語で「子ほめ」を師匠と弟子で一語一句違わずやっても、まったく違う印象になるんですよね。ある弟子が「師匠、なぜ僕はウケないのでしょうか」と聞いたら、師匠に「三十年経てばわかるよ」と言われたそうです。

永井 それだけ長い時間かかってやっと、ということでしょうか。

古典の“精巧さ”

伯山 間合いひとつとっても、一見ハリボテのようにも見える「つくり」の裏側がどれほど精巧に、計算し尽くされて作られているものなのか。それがわかるのにかかる年月なんでしょうね。『木挽町のあだ討ち』でも、元武士の立師、与三郎が自分がそれまで腕を磨いてきた実際に人を斬る剣術と、舞台で美しく見える、魅せる剣術が全く異なることに驚き、学んでいく場面がありますね。あそこはぐっときましたね。

永井 与三郎は一番苦労して書いた人物なので、うれしいです。

伯山 講談以外の演芸であっても、見るとその精巧さにしびれるんです。そういう細やかさを知るにつけ、僕はつくづく芸能が好きだな、と思います。歌舞伎は好きで良く観に行くのですが、本当に細かい芸が凝らされています。先日も「身替座禅」を観に行きました。

永井 浮気の話ですね。

伯山 よく浮気の話だけで六十分やるな、とまず感心する(笑)。尾上松緑さんが恐妻家なのに浮気に走る大名・山蔭右京、激しい気性の奥方玉の井を中村鴈治郎さんが演じていらっしゃいました。浮気相手の話をさんざんしているそばに、かみさんがいた。そのことに気づいた瞬間、山蔭右京の松緑さんが十秒ほど黙り込むんです。
 観客でも長く感じますから、演者の体感としては、二十秒、三十秒もあるのでは、というような勇気のいる間です。どえらい間ですが、それを可能にしているのは「古典への信頼性だ」と考えると感激しますね。

永井 伯山さんは、体感で間を空けるのですか。

伯山 そうですね。「もうちょっと待て、焦るな焦るな」と心のなかで自分に言い聞かせて、お客様を引き付けてから、ポンと次のセリフを言いますね。歌舞伎と講談の違いはあると思いますが、自分が「中村仲蔵」で空ける間も、せいぜい六、七秒ですから、十秒は未知の領域です。自分に照らし合わせて感心しました。

永井 ある演出家さんが「舞台で客に背中を向けて黙って立っているだけで、目を離せないたたずまいをみせるのが一番すごい俳優だ」とおっしゃったことがあって。それは確かにすごいことだと。

伯山 最近、すべての芸能の基本は「踊り」にあると気づきましてね。踊りは、繊細な動きをすることで、どういう感情がお客さんに伝わるのかという細かいボディランゲージを学べますから。弟子たちに「俺はもう間に合わないけど、君たちは踊りを習いなさい」と話したところです。
 長い時間、そのものを愛さないと、付け焼き刃では醸し出せないものがあるんでしょうね。『木挽町のあだ討ち』は古典芸能を長らく愛してきた永井さんだから書けたのだと思います。そういう意味で、まさに「踊り」が入っている小説でした。講談、落語、歌舞伎など、ジャンルを問わず、全演芸好きの方に勧めたいです。

(かんだ・はくざん 講談師)
(ながい・さやこ 小説家)
波 2023年6月号より
単行本刊行時掲載

人生に脇役はいない 前篇

神田伯山永井紗耶子

不思議な縁があるふたりが、話題のベストセラー時代小説『木挽町のあだ討ち』について縦横に語り合って――。

落語から学んだ「江戸」

永井 『木挽町のあだ討ち』の帯に推薦のお言葉をよせてくださって、ありがとうございました。

伯山 本当におもしろかったです。一気に読ませていただきました。永井さんには昔から妻がお世話になっているそうで。

永井 伯山さんとご結婚される前に、奥様とは雑誌の仕事でご一緒していました。今回、版元の皆さんが、ぜひ伯山さんに帯をお願いしたいと言い出した時も、友人の旦那さんとは気づかないまま、「そんな有名な講談師さんに読んでいただけるんでしょうか」なんて言っていたんです。それが帯をめぐってやり取りしているうちに、伯山さんと友人の関係に気づいて、びっくりしました。実は、奥様のおかげで江戸時代を書けるようになったんです。

伯山 それはまたどういうことですか。

永井 デビュー前は、鎌倉時代や戦国時代の小説を書いていたのですが、デビュー作で初めて江戸時代に挑戦したんです。歌舞伎などはよく見ていたのですが、さて二作目に取り掛かろうと思ったところで、江戸時代の知識が足りないと気づきまして……。それがちょうど奥様が寄席演芸興行の事務所「いたちや」を創業された頃で、主催の落語会に私も通うようになりました。

伯山 五街道雲助師匠の会にも通っていらっしゃったとか。

永井 ええ、直接お話もうかがえて、「江戸時代の商人の所作は肩をおとして、肘をはらないんだよ」など、いろいろと教えていただいたのは貴重な体験です。

伯山 談志師匠も「雲助の落語には江戸の風が吹いている」と言っていたほどの方ですからね。

永井 ほんとうに。雲助師匠が表現なさる江戸の世界にどっぷり浸かることで、私の中の「江戸」の輪郭がはっきりしてきた気がします。そうして二作目『福を届けよ 日本橋紙問屋商い心得』が書けました。今日までやって来られたのは、奥様のおかげです。

伯山 おもしろいご縁ですね。デビュー作からこれまで何作書かれたのですか。

永井 七作くらいでしょうか。短篇をどう数えるかにもよりますが。

伯山 永井さんが一番思い入れのあるのは、どの作品ですか。

永井 いつでも、「今書いている小説」ですね。現在、産経新聞で「きらん風月」という江戸時代の戯作者・栗杖亭鬼卵について連載しているのですが、やはり取り組んでいる最中の作品に気持ちが向いているかな……と。

伯山 そうか、一月に刊行された『木挽町のあだ討ち』は、「前の作品」になるわけですね。

永井 三月に江戸の呉服屋の人々を描く『とわの文様』を刊行しましたので、「前の前の作品」になるんです。

伯山 そうなると、もう『木挽町のあだ討ち』に以前ほどの熱がないのに、こういった対談をするのも大変じゃないですか。

永井 いえいえ、本当にありがたいことです。小説の感想をうかがえるのは、いつだって楽しいですし。おもしろかったと言っていただけると、「旅立った子が愛されているんだな。うれしいな」と、書いていた当時の思いが蘇り、喜んでいます。

伯山 『木挽町のあだ討ち』、のめり込んで読みました。うわー、かみさん、すごい友達がいるな、って思いましたよ(笑)。
 舞台になっている芝居小屋は、講談師には馴染の世界で、『木挽町のあだ討ち』の主たる登場人物である裏方さん、職人さんたちは、いわば私の「同僚」です。でも、だから親しみやすかったのではなくて、やはり永井さんの腕に乗せられたのだと思います。全六話、それぞれ異なる語り手が、ある仇討ちについて語っていくのですが、臨場感ある口調に最初からぐっと引き込まれました。
 第一幕の語り手、一八は、木戸芸者という天職を見つける前は、宴席を盛り上げるのが仕事の幇間でした。幇間は太鼓持ちとも呼ばれますが、私は実際に太鼓持ちをしている知り合いがたくさんいます。ですから、いろんな知り合いをあてはめながら読みました。

永井 幇間を直に知っている方は、なかなかいないですよね。

神田伯山

伯山 幇間は、いかに宴席でお客さんを気持ち良くさせるか、というのが仕事ですが、持ち上げすぎてもいけないし、はしゃぎすぎてもいけない。何を求めているのかは本当にひとそれぞれ。なかなか骨の折れる仕事です。作中にも、「騒々しいのが好きな人もいれば、年増の芸者の爪弾く三味線のが好きだという人もいる」と、その難しさを書かれていましたね。実際、一度だけ前座時代にお会いした幇間の方は、打ち上げのときは部屋の片隅でめちゃくちゃ濃い水割りをひとりで飲んでいましたね。あの方は例外中の例外の気はします(笑)。

永井 打ち上げが盛り上がろうが盛り下がろうが、関係ないと(笑)。

伯山 一八のほか、元武士で立師になった与三郎、女形のほたる、小道具係の奥さんのお与根、今でいう脚本家の金治など、それぞれ厄介な過去のある、ひと癖もふた癖もある登場人物が出てきます。彼らが語り、やがて明かされる真相にまたグッときます。
 大正時代を舞台に、江戸っ子の芸人や遊女の人間模様を描いた川口松太郎の『人情馬鹿物語』が大好きで何度も読んでいるのですが、余韻のある読後感が似ていると思いました。

永井 そんなにほめていただくと、もうここで成仏しそうです(笑)。

脳内で行ってみる

伯山 『木挽町のあだ討ち』を読むと、こんなにおもしろい時代小説があるんだよ、と若い人にも知ってもらいたくなります。でも、彼らにどうしたら届くのか。ツイッターを見ると「俺たち、現代に生きているのに江戸時代の話なんてわかるわけないだろう」なんて意見を稀に目にしますが、永井さんはどう思われますか。

永井 「江戸もおもしろいよ。脳内で行ってみれば」と。

伯山 まったく同じ思いです。こういう意見に対しては「まだそこにいるのかよ」と思いますね。江戸時代であろうと、現代であろうと、人間の本質は変わらないですからね。

永井 若い人でも見たら楽しめると思うんです。伯山さんの講談も、張扇の音とリズミカルな口調、声……いつの間にか引き込まれました。歌舞伎も能も落語も狂言も、古典芸能の中にある「人」の描かれ方が、私は好きなのかもしれません。

伯山 今思い出しましたが、私も学生時代は歌舞伎役者のドキュメンタリーとか観ると、「つらい」とか言いながら稽古しているのが鼻につきましたね。血筋での継承もわかるんですが、やりたいからやる商売だろと。ならシステムを変えればいいじゃないかと(笑)。でも、いざ古典芸能の世界に入ると、ジャンルは違えど大変な世界だなと気づきます。落語家の某師匠も、「落語家の二世、三世で幸せそうな人を見たことがない」と仰っていました。

主役よりも脇役?

永井 二世の方は、「やらされている」というお気持ちもどこかにあるのでしょうか。あるいは、自分から望んでやるにしてもすごく責任の重さを感じるとか。

伯山 両方ではないでしょうか。一人芸だと、はっきりと先代と比べられますしね。私は三十九歳ですが、この歳になって、二世、三世の御家を背負う大変さに想いを馳せられるようになりました。年齢によっていろんなことがわかるようになりますね。
『木挽町のあだ討ち』に話を戻すと、いわば脇役たちの物語でもありますよね。彼らが主役の菊之助を守り立てていく。先日、八十歳になる私の師匠、人間国宝の神田松鯉が「主役というより、脇役が頑張らないと芝居だって何だって成り立たないよ」と言ったのを思い出します。

永井紗耶子

永井 怖い言葉ですね。寄席で見習いの方が挨拶に来ても、座布団をはずしてご挨拶されるという、大変な人格者のお師匠様ですね。松之丞時代の伯山さんのご本『絶滅危惧職、講談師を生きる』(聞き手・杉江松恋)でそのエピソードを拝読しました。

伯山 松鯉はそういう人ですから、「主役というより」の裏には色々なお考えがあるとは思うんです。2020年に神田伯山を襲名して以来、私も主役のような扱いを受ける局面が多くなりました。でも、神輿を担がれるのはイヤですし、早くこの神輿から降りたいなと思っていました。担ぐ人の方がいいなぁと。松鯉のこの言葉にはゾクッときましたね。
 脇役がしっかりしていればいい、というのは、濃いキャラの人々が活躍して主役の菊之助を守り立ててラストへ向かっていく『木挽町のあだ討ち』にも通じるものがあるなと思いました。

永井 確かに、菊之助も優等生タイプで、人生経験豊富な他の登場人物より「キャラ薄」かもしれません。でも作者としては、脇役は作らない、各話の語り手六人全員が主役だ、という気持ちで書きました。日頃から、どんな無名の市井の人であっても、それぞれの人生の主役はその人しかいない、と考えています。

伯山 だから、六人全員の印象がこれほど強いのですね。登場人物の挫折や悲しい過去などのさまざまなディテールは、「よく思いつくなあ」と感心しました。どこからパクってきたのですか(笑)。

永井 ライター時代に取材させていただいた人、小説に限らず読んだ本、新聞、観た映画、ドラマなどで、「出会った人すべて」ですよ(笑)。

「忠臣蔵」は何の物語か

伯山 本書では、父親を殺した下男の首を主人公・菊之助が打ち取り、仇討ちがみごと成し遂げられます。日本で一番有名な仇討ちといえば「忠臣蔵」ですね。講談では「赤穂義士伝」と言います。

永井 伯山さんは最初から、忠臣蔵という物語を受け入れられましたか。

伯山 私が小学生だった1980年代や1990年代には、年末年始、毎年のようにドラマ化されていました。テレビ東京が「大忠臣蔵」を、ぶっとおし六部連続、十二時間もやっていたり。あれで忠臣蔵にアレルギーを起こしたタイプです(笑)。子どもだった私にとっては「古くさくて、うーん厳しいな」と。

永井 私は伯山さんより年上ですが、同じです!

伯山 永井さんのインタビューを拝見したのですが、「忠臣蔵の良さは『忠義』にある」という歌舞伎役者さんに対して、永井さんは「ついていけないと思った」と仰っていた。正直な方だなあ、と感心したんです。神田愛山先生に教わったのが、「赤穂義士伝」は「人と人との別れの物語だ」ということです。私が講談の監修をしている漫画『ひらばのひと』の作者・久世番子さんは「人と人のすれちがいを描いている」と。そういうふうに視点を変えると、現代人でも理解しやすくなりますね。もっとも、だんだんと忠義の面もグッとくるんですがね。

永井 私もドラマで苦手感をもって以来、忠臣蔵に近寄らないようにしていましたが、あるとき、親戚が「腰を痛めて行けないから」と歌舞伎座の忠臣蔵のチケットをくれました。上演時間が長いので、最後まで我慢できるかなあと思いながら、しぶしぶ行ってみたら、とてもおもしろかったんですね。「別れの物語」の描き方、エピソードをどんどん加えていく盛り上げ力といったエンタメとしての完成度に心打たれてしまいまして、アレルギーが治りました(笑)。確かに、「忠義の物語」と言いすぎない方がいいのかもしれませんね。

伯山 現代の仇討ちといえば、米国同時多発テロです。あの時、私は高校生でした。ビルに飛行機が突っ込んでいく映像を目の当たりにしたとき、お互いが憎しみ合うという現実をまったく受け入れられませんでした。一緒にすべき案件ではないかもしれませんが。ですから、私もあくまでエンタメのなかでの「仇討ちの良さ」でいいと思っています。

永井 「倍返し」という言葉を流行らせたドラマ「半沢直樹」も大人気ですし、エンタメで復讐ものを見るのはスカッとするところが確かにあります。でも、本当は復讐した側もダメージを受けると思いますから、現実にはそうそう気が晴れるものにはならないのではないでしょうか。

伯山 その想いが込められているのが、『木挽町のあだ討ち』の「あだ」がひらがなになっているところですね。

永井 そうなんです。講談も同じかもしれませんが、史実をどこまでいじって、エンタメ小説を作っていくのかは、見きわめが難しいところがあります。「ウソであってもおもしろい方が勝ち」というのは一理あると思いますが、史実だからこそのおもしろさもあり……日々葛藤です。

史実とフィクションの関係

伯山 中央義士会という赤穂義士の研究会があります。そこには四十七士の子孫の方も稀にいらっしゃったりして、史実を重んじるのですね。赤穂義士銘々伝の「勝田新左衛門」を読んだあとに、ある高齢の男性がすっと立ち上がって、「勝田の子孫です。とても良かったです」と挨拶してくださいました。嬉しかったですね。

永井 フィクションだからといいながら、どうしても史実にこだわるところは自分のなかにもありますね。

伯山 でも、史実だけではなく、フィクションの要素を入れることで、確実におもしろくはなりますよね。「難しそう、と思っていたものが実はおもしろい」というのがお客様が一番喜ぶパターンです。
 糸井重里さんがブログで「講談とか芝居、今なら漫画とかが、おもしろおかしくかみくだいて伝えてくれるから、皆が興味を持てる。おもしろくかみくだいて伝えるって大事だよね」というようなことを書いていらっしゃるのを見つけたことがあります。講談師としても嬉しい言葉でしたが、まさに『木挽町のあだ討ち』も「入口」になる作品ですよね。
 この作品をきっかけに、ほかの時代小説も読んでみようとか、歌舞伎を見てみようというように古典芸能に興味をもつ人も出てくるのではないでしょうか。「入口」とか「入門編」は簡単だとバカにされがちですが、実はこれほど尊い存在はないんです。

永井 ありがとうございます。今度こそ、本当に成仏しそうです……。

伯山 成仏されると困るので、永井さんが聞きたくないようなことをひとつだけいいましょうか(笑)。

永井 はい、お願いします。

伯山 各話の語り手が仇討ちの状況がどうだったかの詳細を語ったあとで、「いいよ、俺の人生の話なんて」と拒んでみせながら、わりとすぐ「そんなに聞きたいんだったら仕方ないね」みたいに身の上話を始めますね。講談でも枕から本題にうつるタイミングは難しいので、「つなぎ」が大変なのは承知のうえですが、あそこが毎回ちょっと強引だな、って思っちゃいました。あれは「お約束」で、好きなんですけどね(笑)。

永井 あそこは、落語家さんの「羽織を脱ぐ」みたいなかんじです。これから本編が始まるよ、という合図ですね。ラジオ「問わず語りの神田伯山」さながらの辛口コメントが聞けてうれしいです(笑)。

(後篇は波 2023年6月号に掲載)

(かんだ・はくざん 講談師)
(ながい・さやこ 小説家)
波 2023年5月号より
単行本刊行時掲載

大人気声優・関智一さんが本書を朗読!

スペシャルプレゼント

今もっとも注目される歴史・時代小説家、永井紗耶子さんの新刊『木挽町のあだ討ち』の刊行にあたり、『鬼滅の刃』不死川実弥役や『呪術廻戦』パンダ役など、話題作に多数出演している声優・関智一さんが本書の冒頭を朗読! 新潮社公式YouTubeチャンネルにスペシャル音声を公開しました。

さらに書籍ご購入で20分のフルバージョンをお聴きいただけます。関智一さんが演じるのは、雪の夜の惨劇を目撃した木戸芸者。物語の世界に誘う、朗々たる語りをお楽しみください。

※購入者特典は事前の予告なく掲載が終了する場合があります。
※購入者特典は帯の二次元バーコードよりお聴きいただけます。ご購入の前に帯をご確認ください。

【声優・関智一さんコメント】
この度、永井先生の小説『木挽町のあだ討ち』の冒頭部分を朗読させて頂きました。講談調あり歌舞伎調ありの飽きさせない文章で一読して引き込まれました。先生の素敵な文体を損なわないように、自分なりに工夫して朗読させて頂きましたので、小説と併せて聴いて下さったら嬉しいです。
最後には感動と驚きが待っていますので、是非ご一読を!

【朗読:関智一】
声優・ナレーター・俳優
主なアニメ出演作は「機動武闘伝Gガンダム」ドモン・カッシュ役、「ドラえもん」スネ夫役、「PSYCHO-PASS サイコパス」狡噛慎也役、「鬼滅の刃」不死川実弥役、「呪術廻戦」パンダ役など。
また自身が座長を務める『劇団ヘロヘロQカムパニー』での舞台活動の他、近年では映画・TVドラマにも出演。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では土御門通親役を演じた。バラエティ番組「新世界 メタバースTV!!」ではMCも行っており、現在多方面で活動中。

著者プロフィール

永井紗耶子

ナガイ・サヤコ

1977年、神奈川県出身。慶應義塾大学文学部卒。新聞記者を経て、フリーランスライターとなり、新聞、雑誌などで幅広く活躍。2010年、「絡繰り心中」で小学館文庫小説賞を受賞し、デビュー。2020年に刊行した『商う狼 江戸商人 杉本茂十郎』は、細谷正充賞、本屋が選ぶ時代小説大賞、新田次郎文学賞を受賞した。2022年、『女人入眼』が第一六七回直木賞の候補作に。他の著書に『大奥づとめ よろずおつとめ申し候』『福を届けよ 日本橋紙問屋商い心得』『横濱王』などがある。

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