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ともぐい

河崎秋子/著

1,925円(税込)

発売日:2023/11/20

  • 書籍
  • 電子書籍あり

己は人間のなりをした何ものか――人と獣の理屈なき命の応酬の果てには。

明治後期の北海道の山で、猟師というより獣そのものの嗅覚で獲物と対峙する男、熊爪。図らずも我が領分を侵した穴持たずの熊、蠱惑的な盲目の少女、ロシアとの戦争に向かってきな臭さを漂わせる時代の変化……すべてが運命を狂わせてゆく。人間、そして獣たちの業と悲哀が心を揺さぶる、河崎流動物文学の最高到達点!!

  • 受賞
    第170回 直木三十五賞
目次
一 冬山のぬし
二 人里へ
三 異物来たる
四 狩りと怒り
五 春の孤闘
六 根腐る
七 再び熾る
八 けだもの
九 ばけもの
十 片割れの女
十一 喰らいあい
十二 とも喰らい

書誌情報

読み仮名 トモグイ
装幀 丹野杏香/装画、新潮社装幀室/装幀
雑誌から生まれた本 小説新潮から生まれた本
発行形態 書籍、電子書籍
判型 四六判変型
頁数 304ページ
ISBN 978-4-10-355341-0
C-CODE 0093
ジャンル 文芸作品
定価 1,925円
電子書籍 価格 1,925円
電子書籍 配信開始日 2023/11/20

書評

ゆらめく野性に喰らいつくもの

東山彰良

 むくつけき猟師が宿敵の熊と死闘を演じる。その闘いをとおして彼はおのれを見つめ直し、幸福のなんたるかを知り、最後にはなまぬるい人間界へ堕ちるか、さもなければ孤高の魂を手放すことなく雪山に果てるか――読みはじめてすぐにそんな筋立てが見えたのだが、結論から言えば半分ほどは当たっていた。
 時代は日露戦争前夜、国家が戦争へと突き進む混乱は北海道の片田舎にも波及し、町で暮らす人々の生活を侵食しつつあるが、熊撃ちを本領とする熊爪の人生は単純明快な原理にのっとって動いている。獲物を狩ってその肉を喰らう。彼のすべてはその一点にかかっている。殺生は生きていくうえで必要な行為にすぎず、そこに善悪や悲喜の入り込む余地はない。殺したほうが得ならばためらうことなく殺すし、そうでなければ殺す必要はない。ただそれだけのことだ。
 そんな熊爪にとって、ほかの人間たちは異物以外のなにものでもない。彼らは煩雑で、熊爪には理解不能な行動原理に縛られている。だから熊爪は人里離れた山中に独居し、獲物が獲れたときだけ町へ下りて肉や毛皮を商う。人生とはその繰り返しで、いかなる変化も煩わしいだけだ。「お前の幸福というものは、何だろうね。あるいは、幸福というものを感じる能力が、お前にはあるのか、ないのか、どちらだろう」懇意にしている大店の主にこう言われれば、熊爪はこう切り返す。「毎日、なんも変わらなければ、それでいい」
 しかし、この有為転変の世界にあって、変化は否応なくやってくる。ある日、熊爪は熊に襲われた瀕死の男を救う。聞けばその男も猟師で、はるばる熊爪の山まで熊を追って来たのだという。しかも、ただの熊ではない。追跡者を返り討ちにしたのは冬眠を逃した「穴持たず」で、すでに何度も人間の集落を襲っている凶暴な個体だ。熊爪の縄張りに厄介な極道熊が入り込んでしまった。
 前述のとおり、熊との死闘はもちろんある。それによって熊爪が作り変えられ、彼なりに悟りを得るのもまた定石どおりだ。その過程で大自然の美しさ、残酷さ、人間存在の曖昧さ、危うさを活写していく筆も冴えている。しかしこの作品の凄味はなんといっても、私の読みが当たらなかったあとの半分にこそ宿っている。
 獣肉や毛皮を売りに行く大店で、熊爪は盲目の少女・陽子を見初める。男女の葛藤については、すでに多くの先人たちによって取り上げられてきた。生活を共にする男女がそれぞれの領分を守るために、もしくは相手の領分を侵略するために永劫不変の葛藤を繰り返す。が、本作ではその葛藤がより原始的で、けだものじみている。時代は明治に入り、人々は文明開化の洗礼を受けたとはいえ、舞台は文明社会から遠く隔たった北海道の僻地だ。厳しい自然のなかでの生活は、今日の我々の目から見ればまだ充分に荒々しい野性を残している。
 そのなかでも、熊爪と陽子の放つ野性はひときわ異質で濃厚だ。社会に溶け込めない、もしくは社会に組み込んでもらえないという意味で、ふたりともたしかに半端者なのかもしれない。だから、同類相哀れむのも理解できる。だけど、彼らの軸足がかかっている場所は根本的に異なる。二十一世紀的なジェンダーの概念など吹き飛んでしまうくらい、ふたりの立場は揺るぎなく凝り固まっている。こう言って差し支えなければ、けっして超越できない性別の壁によって分け隔てられている。彼らは男女ではなく、そう、一対の雄雌なのだ。さながら雄熊と雌熊が生存をかけて闘うように、熊爪と陽子も守るべきものを守るために本能をむきだしにして喰らい合う。
 クライマックスで熊爪が垣間見せる人間性は、彼を幸福にしたのだろうか? たとえそうだったとしても、逆説的には、という保留がつくかもしれない。陽子の揺らぎを、これもまた愛のかたちなのだと割り切ることができれば楽なのだけれど、この物語では西洋から輸入された概念としての愛の出る幕などない。熊爪と陽子はただおのれの来し方で掴み取ったもの、経験によって魂に刻みこまれたものだけを武器に現実に立ち向かったにすぎない。それでも最後の瞬間、熊爪はたしかに獣であることをやめた。あるいは、より高次の美しい獣になった。陽子は求めるものを手に入れた……。
 ともぐいの果てにふたりは理性の光を見たのだ、とうとう人間になれたのだ、とは言いたくない。ふたりは最後まで人と獣のあいだで揺らいでいた。人間の部分で相手をいたわり、獣の部分で攻撃した。あるいは逆に獣の部分で相手を慈しみ、人間の部分で恐れた。それが熊爪の在り方だったし、陽子の在り方でもあった。ふたりの末路に悲しみを感じることさえも、彼らの本質からすれば、上から目線の人間的感傷にすぎない。野性はそんなものをいっさい寄せつけない。今日的な幸福というちっぽけなヒューマニズムでは測れない、むきだしの物語だ。

(ひがしやま・あきら 作家)
波 2023年12月号より
単行本刊行時掲載

インタビュー/対談/エッセイ

動物、狩猟、そして炙り出される人間性

河崎秋子安島薮太

構成:加山竜司

目撃情報も相次ぎ、熊報道に事欠かない今。明治後期の猟師を題材にした小説『ともぐい』と、現代の女性猟師を描く漫画『クマ撃ちの女』の作者が、フィクションで熊を扱うことについて語り尽くす。

相次ぐ熊害と過熱する熊報道

河崎 私の実家は北海道の別海町で酪農をやっているのですが、OSO18が出没した標茶町の隣町なんです。車で1時間ほどかかるので、離れてはいるのですが、こちらに来たとしてもおかしくはない位置関係でした。ただ、放牧中の牛や馬がヒグマに襲われ、尻を噛まれたり引っ掻かれたりすること自体は、さほど珍しいことではないんですよね。

安島 僕が取材でお世話になっている猟師の方も、OSO18は特別ではなく“通常運転の熊”という言い方をしていました。たまたま被害が大きくなってしまったんだろう、と。OSO18に関しては、メディアが「怪物」を求めたような印象も受けました。熊の目撃例が全国的に増えていますけど、それは実感します?

河崎 私が子どもの頃よりは確実に増えています。ただ、うちの地域では、お互いに干渉しない関係は維持できているんですよ。それだけに、2021年に札幌市の東区でゴミを出している最中に人が襲われたというニュースを見たときは、すごくショックを受けました(注:東区で人が熊に襲われたのは1878年以来143年ぶり)。集落のなかで暮らしている人間が安心できなくなるというのは、ものすごく印象的な出来事でしたね。

安島 実際に熊を目撃されたことはありますか? 僕は動物園でしか見たことがないんです。

河崎 大体200メートルほどの距離で目撃したことがあります。大きな川沿いの、橋を渡ったあたりで、道路を横断していました。夏前でやせ細っていたし遠目だったので、最初は犬かと思ったんですが、どうもサイズが違う。さすがに「やばいな」と思いました。

安島 200メートルは怖い。僕は取材中にデントコーン畑(とうもろこしの一種)で熊の糞を見つけただけで、もう怖くて仕方がなかった。害獣の駆除が報道されると「可哀想だ」とか「ほかにやり方はなかったのか」と言われますけど、それは安全圏で見ている人の意見じゃないかな、と思います。

河崎 その感情は人間特有の優しさだと思うので、なきゃいけないことなんですけれども、それを現場で苦労している人にぶつけるのは違いますよね。ただ、私は『ともぐい』を物語として書いたのであって、熊への注意喚起のために書いたわけではないんですよ。

安島 僕の場合はちょっと違っていて、というのも長期連載のマンガの場合、連載中に何か事件や出来事があれば、その時々で自分の考えを作品に込められるんですよね。だから「熊を舐めている奴を怖がらせたい」という意図も、じつは少しだけありました(笑)。とはいえ、熊は怖いだけじゃないとも言いたいので、それはこれから描いていくところですね。注意喚起という点では、11巻の巻末のおまけマンガは、まさにそのためだけに描いたんです。

河崎 あれは本当に実用的で、興味深く拝読しました。

動物をどう殺すか、という問題

河崎 安島先生は、どういった発想から『クマ撃ちの女』を描かれたのですか?

安島 いちばんベースにある考え方は、自然と人間の関係性を描きたいということでした。もともとは動物商、つまり動物を売る人間を主人公にしたマンガを描こうとしていたところから変遷があって、現在の形にたどり着きました。だからテーマ自体は最初から変わっていなくて、「人間は動物をどう扱うのか」みたいなものですね。

河崎 私は明治から大正初期にかけての北海道の文献を読むのが好きで、そういったものを読んでいると、どうしても「熊の被害はセット」みたいなところがあるんです。いまよりも性能のよくない銃を使い、電気柵もないところで家畜を飼い、どうやって生き抜いてきたのか。人間がどのように動物に相対してきたのかに興味を持っていまして、それで14年前に熊に関する小説を書きはじめたんです。「人間は動物をどう扱うのか」というテーマは、どこから着想を得たのですか?

安島 いま学校教育では、動物の命の大事さや平等を道徳として教えますよね。しかし、親戚の家が肉屋を営んでいたのですが、そこでは害になるネズミとかをバンバン殺していたわけです。割と雑に。そういったものを幼少時から目の当たりにして、「あちらとこちらで言っていることには齟齬があるな」と。その矛盾について考え続けていたんです。幼少期の体験というのは大きいかもしれません。

河崎 私の場合、子牛が生まれたときに、両親から「名前をつけるんじゃない」と厳しく言われました。真っ白な子が生まれると、やっぱり「シロ」と名付けたくなるじゃないですか(笑)。でも、雄であればすぐ肉になるし、雌として10年近く乳を出してもらったとしても、最後は必ず肉になるんです。

安島 ああ、やっぱり名前をつけると愛着が湧いちゃいますよね。

河崎 結局は、人の食べるためのものをアウトソーシングし、生き物の命を奪うために育てているというのが本質だと思うんですよね。ただ、人間が動物にどういう感情を抱くか、そこに人間性が炙り出されると思います。

安島 本当にそうだと思いますね。

河崎 『クマ撃ちの女』は、猟師さんの癖の強さがそれぞれ描き分けられている点がすごいですね。同じ猟師であっても、キャラクターによって動物の扱い方がそれぞれ違う。どう扱い、どう殺すか。つまり「動物の殺し方」ですよね。目を逸らさずにそこを描かれているのが素晴らしいです。

安島 ありがとうございます。『ともぐい』を読んだときには、河崎先生も同じことをやろうとしているように感じられて、それで嬉しかったんです。

河崎 現代では、まったく狩猟に触れなくても生きていくことは可能じゃないですか。実際に狩猟免許や銃砲所持許可を取得するには、手続きや審査のハードルがすごく高い。それでも、あえて野生動物を狩猟することに意味があるとしたら、どういったものなのか。『クマ撃ちの女』では、それが物語の芯に通底していて、まさに現代日本で狩猟をする意味がすごく如実に描かれています。しかもそれが主人公の視点だけではなく、いろいろとあり、ときに衝突もしますよね。『クマ撃ちの女』ですごくリアルだなと思ったのが、主人公チアキの狩猟犬が熊に怪我を負わされて、動物病院に担ぎ込む回です(第6巻収録第43話)。

安島 獣医師が「治っても狩猟は無理かもしれません」「安楽死…させますか?」と問いかける回ですね。

河崎 手術が成功して狩猟犬が一命をとりとめたときに、チアキが「またクマが撃てますぅ!」と言うんですけど、それに対して獣医師が「……連れて行くのは構いませんけどね 本当に気をつけてあげてください」と冷静に注意する。回復した狩猟犬を再び狩猟に連れていくかどうかチアキがひとりで内省的に思い悩むのを描くのは簡単ですけど、第三者がちゃんとその立場にふさわしいことを言って、きちんと釘を刺してくれているんですよね。

安島 いまの社会では、動物をものとして扱ってはいけない風潮があるじゃないですか。でも、使役動物として扱う側面もあるので、その両面を見せたい、という気持ちがあるんです。世間一般では、犬は愛玩動物として扱われますけど、狩猟犬は使役動物ですから、同じ動物なのにその違いを端的に出せますよね。

河崎 私は1年間ニュージーランドに行って、住み込みで牧羊を教えてもらったことがあるんですけど、牧羊犬というのは、狩猟本能に蓋をして牧羊をさせるんですよ。新しく子犬を引き取ってきたときには、やっぱり子犬だから可愛がりたくなるんですけど、「やめなさい」と言われました。牧羊犬にするために褒めることは大事だけど、必要以上に可愛がると牧羊犬としての働きができなくなってしまう。そうなると「お前が自分で撃ち殺すことになるんだよ」と諭されました。

安島 ペットとして甘やかしすぎて番犬が務まらない、なんて話はよく聞きますよね。

河崎 使役犬としての犬は、その目的のために適切に使わないと、結局は役に立たないものとして、その個体を殺さなきゃいけなくなるんです。

安島 その一方で、「可愛いだけ」というのも役割なんだな、とも思うんです。最近、実家がペットとして犬を可愛がっているんですけど、そばにいるだけで人間の役に立っている。これだけ人間に懐く動物も珍しいですよね。

河崎 そうした命に対する異なった価値観が、先ほどあげたシーンの、たった2コマの中に凝縮されているところが素晴らしいんです。

お互いの作品の読み所

安島 『ともぐい』の主人公の熊爪は、すごく即物的な考え方をしているように感じられました。しかもそこが徹底されていて、ちょっとびっくりしたんです。

河崎 熊爪は熊に近めの人間、という意識で書いてましたね。

安島 お屋敷の若い衆が熊爪を運ぶときに「余りにも臭う」と表現するのがリアルでした。ああいうタイプの主人公って、あまり多くないと思うんですが、モデルはいるんですか?

河崎 ビジュアル的なイメージとしては、愚かしさも含めて『愛しのアイリーン』(新井英樹)の岩男ですかね。

安島 岩男でしたか、すごい! 新井先生の作品がお好きなんですか?

河崎 高校生ぐらいの頃に『愛しのアイリーン』を読んで、すごく衝撃を受けたんです。それが軸にありました。

安島 『ともぐい』は、最初は明治時代の狩猟者のルポみたいな始まり方をするじゃないですか。男性視点の。ルポとして読めるくらいな情報量なんですけど、次第に人間の正体を暴こうとしているように感じたんです。その物語展開が斬新でした。熊爪は即物的で軸があり、あまり揺らぎがないように見えて……、性の問題でブレてくる。

河崎 そうですね。揺らぐほどほかの世界を知らないというか、選択肢を知らないというか。自分にはこの生き方しかないだろう、と思っていたんですが、それが女関係で揺らぐことに。

安島 いやもうね、男の情けない感じも、女の怖い感じも、全部書いてある! これはマンガではできないなぁ、と。僕がやっているのは文学じゃなくて娯楽なんですけど、ちょっと負けた気がしました。

河崎 いや、そんな(笑)。

安島 何かもう、濃厚なものをぶち当てられた気がしています。完璧な小説ですよ。エンタメ性があるのは大前提として、まったく逃げずに人間のあり方を書こうとしています。帯文に「熊文学」と書かれていますが、『ともぐい』はまさしく文学ですね。

河崎 『クマ撃ちの女』のラストは、もう決まっているんですか?

安島 だいたいは想定してます。

河崎 安島先生の狩猟に対する視点とか、猟師さんに対する視点が、非常に公平で誠実でフラットなものですから、描き手を信頼しながら読み進めていけるんですよ。その安心感がすごくあり、物語の行く末、たとえば主人公が最初の願望をどのようにして叶えていくのか。主人公を取り巻く人たちがそれをどうやって見守っていくのか、今後も注目していきます。

(あじま・やぶた 漫画家)
(かわさき・あきこ 作家)
波 2024年1月号より
単行本刊行時掲載

イベント/書店情報

著者プロフィール

河崎秋子

カワサキ・アキコ

1979年北海道別海町生まれ。2012年「東陬遺事」で第46回北海道新聞文学賞(創作・評論部門)受賞。2014年『颶風の王』で三浦綾子文学賞、同作で2015年度JRA賞馬事文化賞、2019年『肉弾』で第21回大藪春彦賞、2020年『土に贖う』で第39回新田次郎文学賞を受賞。他書に『鳩護』『絞め殺しの樹』(直木賞候補作)『鯨の岬』『清浄島』などがある。

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