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新 三河物語 上巻

宮城谷昌光/著

1,980円(税込)

発売日:2008/08/29

  • 書籍

今よみがえる、大久保一族の清冽な「忠」。戦国末期を描き切った待望の歴史巨篇、ついに刊行開始。

おのれの功を鼻にかけず、利を求めず。徹底した忠誠心をもって主君を天下人にした大久保一族。功とは何か、忠とは何か。武士の在り方を生涯問いつづけた大久保彦左衛門が見る、家康の天下統一への軌跡――主君と家臣、友と友、そして親と子にいたるまでが敵対して死闘を繰り広げ、家康最初の難所となった三河一向一揆を描く第一巻。

目次
三河の晨風
上和田砦
一向一揆
浄珠院
忠世と正信
川辺の風
東方の敵

書誌情報

読み仮名 シンミカワモノガタリ1
発行形態 書籍
判型 四六判変型
頁数 368ページ
ISBN 978-4-10-400422-5
C-CODE 0093
ジャンル 歴史・時代小説、文学賞受賞作家
定価 1,980円

インタビュー/対談/エッセイ

波 2008年9月号より 特集〔宮城谷昌光『新 三河物語』刊行記念インタビュー〕 三十余年を経て見つけた、大久保彦左衛門の素顔

三十余年を経て見つけた、大久保彦左衛門の素顔

『三河物語』の著者、大久保彦左衛門――本来なら歴史の波に埋もれてしまうはずの才能を、後世にまで輝かせたものは何だったのか。宮城谷昌光さんにお話をうかがいました。


 歴史小説の名手・宮城谷昌光さんが、初めて日本の戦国時代を描いた『風は山河より』(全五巻・新潮社刊)に続いて光を当てたのは、大久保彦左衛門忠教。講談では、「一心太助」の物語に登場する「天下のご意見番」として親しまれる彦左衛門を、宮城谷さんはどのような人物として描いたのか。

宮城谷 大久保彦左衛門については、数多くの逸話が残されています。将軍に面と向かって説教したとか、大だらいに乗って登城したとか【注1】。でも、そういった逸話のほとんどが、講談などのイメージによって作られた虚像です。彦左衛門は、永禄三年(一五六〇年)、桶狭間の戦いで今川義元が討たれ、松平元康(のちの徳川家康)が岡崎城に帰還した年に誕生しています。徳川幕府が成立するのが、それから四十余年後の慶長八年(一六〇三年)ですから、人生の大部分を、武人として合戦の場で活躍した人です。しかし、その武人としての顔は、あまり知られていません。

注1幕府が、旗本以下の者に駕籠に乗って登城するのを禁じた際、麻紐で竹竿にくくりつけた大だらいに乗って登城し、見咎めた役人に「これは、駕籠にあらず」と言い返した。
――眼鏡をかけた、頑固な老人のイメージですね。
宮城谷 それも、事実かどうかはかなり怪しい(笑)。もともと大久保家は、三河の松平家の家臣団でも、もっとも古くからある家のひとつです。儒学者の新井白石は、著作である『藩翰譜』のなかで、大久保家には五つの大功がある、と書いています。家康の祖父にあたる松平清康のために、山中城を取ったことが大功の一【注2】。家康の父、松平広忠のために岡崎城を奪回したことが大功の二【注3】。家康のために一向一揆を鎮めたことが大功の三……ここからは、『新 三河物語』で書いたことなのでここでは語りませんが、残る二つの大功は、彦左衛門の長兄である忠世と、その息子で彦左衛門の甥、忠隣によるものです。後世の学者に評価されるほど、徳川家への忠誠心の篤い一族なのに、あまり優遇されず、家康が天下を統一する直前に、断絶の危機に陥ってしまいます【注4】。大久保の名がつく人物はもちろん、他家に養子に入った人物まで断罪されるという、かなり厳しい処分が下されましたが、なぜか彦左衛門一人だけ、大久保家にかかわる一連の事件でも名前が挙がらず、大坂夏の陣に出陣し【注5】、さらに旗本として知行も得ている【注6】。大久保家の人間がすべていなくなってしまったのに、かれひとりが家康のもとに残った。そこには、何か特別な事情があったはずです。そのふしぎさに興味を持ちました。

注2一五二六年(または一五二四年)、松平清康は宇津忠茂(彦左衛門の祖父)とともに、山中城を攻撃して西郷信貞(松平昌安)を屈服させる。その結果、信貞の居城であった岡崎城を手中にすることとなった。
注3清康の子・広忠は、清康が横死した後、若くして岡崎城主となったが、大叔父の松平信定によって岡崎城を追われた。一五四二年、大久保忠俊(彦左衛門の伯父)は、密かに挙兵の準備をして信定を追放し、広忠を岡崎城に入城させた。
注4忠隣の与力であった大久保長安は各地の鉱山奉行を勤めていたが、一六一三年、長安の死後、幕府内で忠隣と対立していた本多正信・正純親子が、幕府へ納めるべき金銀を長安が横領していたと告発し、長安の七人の息子を含む遺族が処刑された。忠隣は処分を免れたが、その後、忠隣の養女と山口重政の無断婚姻をまたも本多親子に讒訴され、一六一四年、遂に改易となり近江へ追放された。本多親子は元・武田氏の家臣であった馬場八左衛門という老人を使って、忠隣に叛心あり、と家康に讒言させたとも言われている。
注5改易となった大久保一族の中で、彦左衛門は唯一大坂夏の陣に御槍奉行として参戦した。真田幸村の奇襲により、家康陣は一時窮地に陥ったが、その際に、「(家康の)幟旗が見えなかった」と証言する武将の多いなか、彦左衛門だけが「御旗は立っていた」と主張し続けた。
注6大久保忠隣の家が改易された後、彦左衛門は三河の額田(現・愛知県額田郡幸田町)に一千石を拝領した。現在でも幸田町では、年に一度「彦左まつり」が催されている。
――彦左衛門を書こう、と思われたのはいつごろですか。
宮城谷 最初に興味を持ったのは、もう三十年以上もまえのことです。そのころ彦左衛門を書くための文献は、『三河物語』【注7】しかありませんでした。いまそれを読みかえすと、かれはそこに自分自身のことをほとんど書いていないことが、よくわかります。家康がどのように強敵と戦ってきたか、大久保一族が徳川(松平)の家臣としてどのように活躍してきたのかが書かれているのですが、『三河物語』を読めば読むほど、彦左衛門という人間がわからなくなりました。また、徳川家に関する文献というのは、本当に曖昧なものが多いのです。中国の紀元前に関する文献を多く読んできたので、「たかが四、五百年前のことが、これほどわからないものなのか」と驚きました。そのころ入手できた資料では、とても日本の歴史小説が書けないと思い、古代中国を舞台とした小説に着手することにしたのです。しかし、中国ものを書いているときでも、彦左衛門のことはずっと気になっていました。

注7大久保彦左衛門によって書かれた家訓書で、一六二二年成立。三巻からなり、上巻と中巻では徳川の世になるまでの数々の戦の記録が、下巻では太平の世となってからの忠教の経験談や考え方などが記されている。門外不出とされていたが、写本が広まった。
――三十年間構想を温めてきた題材、ということですね。
宮城谷 『新 三河物語』の執筆の準備を始めるときに、以前に作った「彦左衛門ノート」と「徳川家ノート」を久しぶりに見直してみたのですが、これがまったく役に立たなくなっていました(笑)。ただでさえ、日本の歴史では、人物の名前が変わるし、同じ名前が頻出するので、原資料にあたった上で、自分で判断しなくてはいけない場面が多い。それなのに、この三十年の間で日本史の研究が進み、人物の客観的な見方が変わってしまいました。斎藤道三や北条早雲などが顕著な例です。だから、また一からノートを作り直すことに……【注8】。このような新発見があるのは、小説の著者としてはおそろしいことですが、歴史のおもしろさでもあると思います。

注8表紙の撮影にも使わせていただいたノートの一部は茶色く陽に焼けており、宮城谷氏が彦左衛門を想った時間の長さを感じさせる。
――文献にあたるだけでなく、宮城谷さんは実際に数多くの城址も訪れていらっしゃいます。
宮城谷 連載中の「古城の風景」の取材で訪れた、大久保一族の発祥の地である上和田(愛知県岡崎市)をはじめ、彦左衛門と忠俊、忠員(彦左衛門の父)の墓がある大久保家の菩提寺・長福寺(愛知県岡崎市)、忠世の墓がある大久寺(小田原)、忠佐(彦左衛門の次兄)の墓がある妙伝寺(沼津)、東京にもある彦左衛門の墓、立行寺(東京都港区)――大久保家に関わりのある場所はほとんど観ました。
――『新 三河物語』上巻の刊行と同時に、本誌連載中の『古城の風景 5―北条の城―』も刊行になりますね。今回はどのような城址をまわられたのでしょうか。
宮城谷 この第五巻では、忠佐の墓のある妙伝寺をはじめ、駿河、伊豆の古城を巡りました。『風は山河より』を書くときもそうでしたが、「古城の風景」シリーズの取材で、様々な場所を歩いていたことが、『新 三河物語』を書くにあたって随分助けになりました。実際に城址を訪ねてみると、思っていたよりも城と城との間が近かったりとか、川の流れが急だったりとか、地図で見ているだけでは判らないことがあるんですね。『新 三河物語』の上巻では、三河の一向一揆が物語のクライマックスになっています。ここに登場する史跡は、『古城の風景 3―一向一揆の城―』に詳しく書きました。愛知県、とくに北部の方には、史跡が数多く残っています。さきほども触れたように、彦左衛門の墓は、岡崎と東京の二か所にありまして、東京の白金にある墓は金網のようなものに囲まれて、人の手でふれられないようになってます。それはそれで彦左衛門への敬意を感じますが、岡崎にある墓は野に立っているようで、趣がある。そういった史跡を訪れて、往時を想像するのは楽しいですよ。
――大久保家ゆかりの地を訪れて、感じたことは。
宮城谷 上和田町の公民館の近くにある忠俊の屋敷城跡には、一族の発祥を示す石碑が立っています。その黒い石碑をながめたとき、雑念がなくなり、はじめて彦左衛門の素顔が見えた気がしました。傑物であった忠俊を知らなくては、大久保の名を世にひろめた忠世を知らなくては、彦左衛門は分からない、ということが分かったのです。……あとから調べると、彦左衛門は上和田ではなく、近くの羽根【注9】で生まれていたのですが(笑)。

注9愛知県岡崎市羽根町に城址がある。広忠と敵対する松平忠倫によって上和田を追われた大久保一族は、一時この地に逃れた。忠倫が暗殺され、忠俊が上和田に戻った際に、弟の忠員に譲られたと考えられる。
――大久保忠俊は、家康の祖父の清康のころから、松平家のために大変な活躍をしています。
宮城谷 この大久保一族というのは、どこか不思議な家です。彦左衛門が生まれたころの一門の宗家は忠俊の家ですが、忠俊自身は次男です。そして、忠俊の次に大久保一族を率いていたのは、忠俊の弟の忠員の子である、忠世でした【注10】。戦国期では、宗家は長男の家が継ぐことになっていました。長男以外は、家来のような立場に置かれるのが普通であるのに、この一族はとても兄弟仲がいい。忠員の正妻は、右大臣にまで昇った三条西公条の娘です。京都からくだってきた高貴な女性を大久保家に嫁がせたのは、松平家を佐けた大久保家への、清康からの感謝と信頼の証なのですが、本来その話を受けるべき忠俊は、婚礼をあっさりと弟に譲っています。忠俊、忠員、忠久らの仲のよさは、『風は山河より』にも書いたので【注11】、ぜひ読んでいただいて、この独特な雰囲気を味わっていただきたいですね。私はひとりっ子だったので、この兄弟関係にはとても惹かれるものがありました。とにかく、忠俊と忠世が類いまれな才をもった人物だったということもありますが、生まれを差別しない家風が、分家の、しかも八男として生まれた彦左衛門を腐らせず、自分の能力を活かす方向へ導いたと思っています。本来、影の存在であるはずの人物に、陽があたるのは何故なのか。そこには戦国期ならではのおもしろさと非情さがあります。彦左衛門をとおして、自分が不思議に思ったことを問い続けました。

注10忠俊の兄・忠平は、肥満のため合戦の場に出られず、忠俊の長男・忠勝は、三河一向一揆の際に左目を矢で射られ負傷し、合戦の場に立てなくなった。
注11広忠を岡崎城に帰還させる前夜、大久保忠久(忠員の弟)は計画の漏洩を防ぐため、寝言が出ないように顎を麻縄で縛って眠りにつき、計画が成功した折に、兄弟でその様を笑いあった。
――全三巻におよぶ『新 三河物語』を書き終えられた感想を教えてください。
宮城谷 愛知県人としての地理感覚で、三河の戦国期を描きたいと、ずっと思ってきました。三河にはどのような景色があって、どのような空気が流れているのか。それは、三河で生まれ育った自分が書くしかない、と。野田城主の菅沼定盈を主人公にした『風は山河より』で、東三河については描ききった、と思いました。日本を舞台とした作品としては二作目にあたる『新 三河物語』は、西三河版です。『風は山河より』で書けなかったことが、これですべて書けました。

(聞き手・編集部)

著者プロフィール

宮城谷昌光

ミヤギタニ・マサミツ

1945(昭和20)年、愛知県生れ。早稲田大学第一文学部英文科卒。出版社勤務等を経て1991(平成3)年、『天空の舟』で新田次郎文学賞を、『夏姫春秋』で直木賞を受賞。1993年、『重耳』で芸術選奨文部大臣賞を、2000年、司馬遼太郎賞を、2001年、『子産』で吉川英治文学賞を、2004年、菊池寛賞を、2016年、『劉邦』で毎日芸術賞をそれぞれ受賞。また、2006年に紫綬褒章、2016年には旭日小綬章を受章。『晏子』『楽毅』『管仲』『香乱記』『青雲はるかに』『新三河物語』『三国志』『草原の風』『呉漢』『孔丘』『公孫龍』『諸葛亮』等著書多数。

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