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鶴見俊輔伝

黒川創/著

3,190円(税込)

発売日:2018/11/30

  • 書籍
  • 電子書籍あり

戦後日本を代表する思想家の93年の歩み。幼少期から半世紀にわたって行動をともにした著者による、初めての本格的かつ決定的評伝。

後藤新平を祖父に、鶴見祐輔を父に生まれた鶴見俊輔。不良化の末、渡米してハーヴァードに入学。日米交換船で帰国して敗戦を迎える。その後の50年にわたる「思想の科学」の発行、「ベ平連」の活動、「もうろく」を生きる方法まで。あらゆる文献を繙き、著者自身の体験にも照らしつつ、稀代の哲学者の歩みと思想に迫る。

  • 受賞
    第46回 大佛次郎賞
目次
第一章 政治の家に育つ経験 一九二二―三八
第一節 女たちと「平城」
第二節 祖父・新平と父・祐輔
第三節 エロスと国
第二章 米国と戦場のあいだ 一九三八―四五
第一節 佐野碩のこと
第二節 「一番病」の始まりと終わり
第三節 牢獄にて
第四節 負ける故国への旅
第五節 悪の問題
第六節 『哲学の反省』を書く
第三章 「思想の科学」をつくる時代 一九四五―五九
第一節 編集から始まる
第二節 軽井沢
第三節 考えるための言葉
第四節 共同研究の経験
第五節 変わり目を越えていく
第六節 いくつもの土地
第七節 汚名について
第四章 遅れながら、変わっていく 一九五九―七三
第一節 保守的なものとしての世界
第二節 一九六〇年六月十五日
第三節 結婚のあとさき
第四節 テロルの時代を通る
第五節 問いとしての「家」
第六節 京都、ベトナム
第七節 裏切りと肩入れと
第八節 脱走米兵との日々
第九節 亡命と難民
第一〇節 沈黙の礼拝
第五章 未完であることの意味 ―二〇一五
第一節 「世界小説」とは何か
第二節 家と「民芸」
第三節 土地の神
第四節 入門以前
第五節 「まともさ」の波打ち際
第六節 もうろく
第七節 世界がよぎるのを眺める
第八節 最後の伝記
第九節 子どもの目
典拠とした主な資料
鶴見俊輔年譜
あとがき
人名索引
事項索引

書誌情報

読み仮名 ツルミシュンスケデン
装幀 17歳の鶴見俊輔。1939年9月、ハーヴァード大学入学の記念写真(ボストン市ボイルストン・ストリート154番地、サージェント・スタジオ撮影)/写真、平野甲賀/装幀
雑誌から生まれた本 新潮から生まれた本
発行形態 書籍、電子書籍
判型 四六判変型
頁数 568ページ
ISBN 978-4-10-444409-0
C-CODE 0095
ジャンル 哲学・思想、哲学・思想
定価 3,190円
電子書籍 価格 2,552円
電子書籍 配信開始日 2019/05/03

書評

まともであること

高橋源一郎

 おそらく、多くの書き手は、黙ってそうしているのだと思うけれど、うまく書けないと思うと手に取ることにしている本が何冊かある。そして、適当にどこかの頁を開き、読む。数頁で十分だ。一頁もいらない時もある。すると、狂っていた「調子」が戻り、書くことができるようになる。わたしにとって、鶴見さんの本がそんな存在だ。
 そのとき、わたしはいったい、何を読んでいるのだろう。文章だろうか。いや、そうではない。その奥にある何か。手応えのあるもの。それでいて柔軟なもの。それを確かめるために、いつも、わたしは鶴見さんの本に戻るのである。
 鶴見さんと初めてお会いしたのは、もう晩年に近く、埴谷雄高が『死霊』の第九章を発表し、しばらくして亡くなった後で、その追悼の対談のためではなかったかと思う。それまでお会いするチャンスがなかったので、わたしはひどく緊張した。それからもう一度、京都まで出かけてお話をしたのだが、どちらの回も、どんな話をしたのかまるで覚えてはいない。最初の対談の時には、手元にメモを置かれていて、それを頼りに話されるのだけれど、何かの拍子に鮮明に蘇ってくる記憶によって話される時の生き生きしたしゃべり方に魅了された。いや、こちらもしゃべりたいことはたくさんあるのだけれど、どう話せばいいのかわからぬまま、ただ時間がたっていったことの悔しさはいまも思い出として残っている。
 本書『鶴見俊輔伝』は最良の著者を得て書かれた。後年、鶴見さん自身が多くの伝記を書かれたが、そこで鶴見さんは、常に、書かれる対象の最良の理解者であった。あるいは、最良の理解者であるよう努めた。だから、鶴見さんの本の中で、遥か過去に生きた人たちが、いま目の前にいて直接わたしたちに向かい合うように思えた。著者は鶴見さんをよく知る人であり、また、子どもの世代にあたる。鶴見さんが対象に向かい合ったように著者は鶴見さんに向かい合った。この本の中で、鶴見さんは生きているように思えた。
 わたしのように、長く鶴見さんの本に親しんできた者には、懐かしいフレーズ、ことばが頻出する。ああ、このことばは読んだことがある。このエピソードは聞いたことがある。そして、不思議なのは、そこにある鶴見さんのことばが、書かれたものも含めて、彼自身の口から直接洩れだしたもののように思えることだ。
 戦後すぐに出版された、最初の大著となる『アメリカ哲学』で、鶴見さんは表音主義にこだわり、こんな文章を書いた。
「哲学お倒し、これお新しい哲学によつて置きかえる仕事わ、これからである。日本の社会に広く行われている哲学的思索法から何とかして離れる事ができるために、また日本だけでなく世界においてまだない新しい哲学お作る準備おするために、色々の場所から、哲学ぎらいの同志があらわれて来て、互いに誤りお正して哲学打倒の運動お有力なものとする事お望む。」
 何かが始まる、ということを伝えるために、これ以上の文章はないように思った。中身も表現も。書き手の考えが身体の中から直接出てきたような文章だ。そして、鶴見さんは、生涯、この方法を貫いたように思う。
 もう一つ、わたしは、この評伝を読みながら、鶴見さんを言い表すことばは「まともであること(‘decency’)」ではないかと強く思った。
 鶴見さんは、「米国で吹き荒れた赤狩りのなか、下院非米活動委員会で喚問された劇作家リリアン・ヘルマン」に触れ、「魔女狩りに対して、はっきりと立ち向かった最初の人が女性であった」ことの意義を考えた。そして、多くのものを失ったヘルマンが、それでも獲得したひそやかなものを‘decency’ と呼んだことに注意を向けるよう書いた。その‘decency’ を鶴見さんは「まともであること」と訳したのである。
 わたしがうまく書けないと思うとき、鶴見さんの本を開くのは、そこに行けば、「まともであること」が何かを感じることができるからだろう。「まともであること」が、途轍もなく困難であるような時代であるからこそ、いま、この本の中の鶴見さんのことばに耳をかたむける必要があるのだ。わたしは心の底からそう思うのである。

(たかはし・げんいちろう 作家)
波 2018年12月号より
単行本刊行時掲載

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あとがき

 鶴見俊輔の晩年、八〇歳を過ぎたころから、泊まりがけの所用などに同行する機会が増えた。以前は、重いボストンバッグ(対談相手の著書などに付箋をたくさん貼りつけ、いつもどっさり持ち歩いていた)を提げ、どこにでも一人で出向いていく人だった。荷物をお持ちしましょう、席を譲りましょう、と勧められても、頑なに辞退していた。

 だが、相次ぐ大病と手術をはさんで、足取りはじょじょにおぼつかなくなり、耳も遠くなる。それでも、この人は出歩くことをやめない。講演などの依頼された仕事だけでなく、自分からも新たな共同の計画を発案し、人に呼びかけ、さらなる実行に出ようとした。

 とはいえ、混みあう駅のコンコースの雑踏で、先を急ぐ旅行者にぶつかられるのはこわい。背後から押されたりして、よろけると、もはや体勢を立てなおすのも難しい。

 私は、そのころ東京で暮らしていた。だから、京都から鶴見が出向いてくるときには、互いの都合が合えば、東京駅の新幹線のプラットホームで待ち受け、所用先やホテルまで送る。そんなおりにも、電車やタクシーのなか、ホテルのロビーなどで、鶴見は、目下考えていること、思いだす過去の出来事などをあれこれと話していた。メモでも残しておけばよかったのかもしれないが、たぶん、いまでは多くのことが私の記憶からも消えている。

 二〇〇七年秋、伊豆のシニアハウスの好意によって、思想の科学研究会の地方集会を一泊二日の日程で開いたときには(雑誌「思想の科学」が終刊しても、研究会の活動は続いている)、三島駅の新幹線プラットホームで八五歳の鶴見と落ち合った。ちょうど昼どきで、いったん改札口を出て、繁華街の広小路にある古くからの鰻屋に案内した。席が空くまで、しばらく店先で待たされたのだが、鶴見は格子戸ごしに幾度も爪先立ちするように伸び上がり、「うまそうだなあ、……うまそうだ」とつぶやきながら、店内の様子をうかがった。

 三島広小路駅から伊豆箱根鉄道の電車で修善寺駅へ、さらにタクシーに乗り継ぎ、山間の川沿いにあるシニアハウスに到着した。午後から研究会の発表や討議が始まり、初日のプログラムが終わると、入浴、食事して、その後も食堂で歓談の輪の中心に鶴見はいた。そうするうちに、夜もかなり更けていた。

 相部屋で夜通し四方山話に付き合わせることになるのが心配で、鶴見には外来者用のシングルルームをあてがってもらっていた。部屋まで同行すると、彼はもう言葉数も少なく、持参した寝衣に着替え、薬を飲んで、入れ歯を外し、ベッドのなかに仰臥した。

 翌朝の食事の場所は、ここから少し離れている。「朝、お迎えに来ますから」と言い置き、部屋を去った。

 ――あくる朝、鶴見の部屋のドアを軽くノックし、返事がないので、施錠されていないのを確かめ、室内に入った。前夜と同じ仰向きの姿勢で、目を閉じ、かすかな寝息をたて、彼は眠っていた。掛け布団やカヴァーは整ったままで、寝返りさえ打たずにいたようだ。少し時間を置いて、出直してみたのだが、やはり彼は同じ姿でなお眠っていた。本来は神経がこまやかで、こんなふうに他人が寝室に出入りすれば、すぐに目覚めるたちであったろう。眠りつづける姿に、前日からの旅と行事で老躯に溜まった疲労の深さが思いやられた。

 さらにもう一度出直したときにも、まだ眠っていた。部屋の椅子に、そのまま腰を下ろして、目覚めを待つことにした。

 やがて、彼は目を覚ます。

 

「もし、あのとき自分がああいうことをしなければ、状況はいまとは違っていただろうに……」

 ものを考えるときには、なにがしか、悔恨に似た記憶の断片がまといつく。

 こうした思い自体は、いわば、事実に反する条件命題、つまり反事実的条件命題だと言えるだろう。鶴見は、米国の大学で哲学をまなんだおりに、その種の命題は実証不可能なものなので、ニセ問題とみなして問題の領域から斥けておくのが賢明だと、カルナップから教わった。

 けれど、だとすれば、こうした精緻な論理実証主義に立つ哲学は、つまるところ、最初から解きうる問題だけを対象としていることにならないか? 現実は、むしろ反対で、ある状況のなか、いま自分はどんな行動を取るべきだろうかと悩むとき、これからの行動に取るべき方向を示してくるのは、脳裏にまといつく反事実的条件命題であるとも思える。戦争中の自分の行動(というより、無行動)を思い起こすと、今度こそ、もう少しはっきり自分の意志を示して、戦争には反対、と言えるようでありたいと感じる。こうした初発のぼんやりとした考えをあらかじめ斥けてしまっては、哲学は、その根を断たれてしまうのではないか。六〇年安保のさなか、まだ三〇代のあるとき、そうしたことに彼は気づく。(鶴見俊輔「いくつもの太鼓のあいだにもっと見事な調和を」)

 ここが、カルナップ流の哲学と最後の別れをなす場所だった。方法論にこれを照らせば、鶴見自身の仕事が、分析的な手法から、例示的な手法へと移る、分水嶺にもあたっていた。

「戦争中、自分に捕虜殺害の命令が下っていたら、それを拒み通すことなどできただろうか?」

 この自問は、戦後七〇年間、彼のなかに生きつづける。それを拒めたかは、疑わしい。だからこそ、「敵を殺せ」と人に命じる国家という制度への憎しみと懐疑が、彼のなかで消えずに残る。

 状況のなかで考える――と、よく彼は言う。「状況」とは、歴史のただなかに身を置く、現在という場所のことだろう。

 過去に属する歴史(回想の次元)と、未来に属する歴史(期待の次元)がある。「回想の次元」については、結果を知り得ているので、批判も論評も下しやすい。だが、「期待の次元」は、まだ見ぬ不安と不確実性のなかにある。二つの次元を混同することなく、世界に目を向けることが必要だ。こうした歴史の見方について、鶴見は、米国の人類学者ロバート・レッドフィールド(一八九七─一九五八)のThe Little Community(一九五五年)から示唆を得た。そこには、ごく小さな 共同体社会コミュニティを考察するときにも歴史的方法を適用して、そこから世界総体をとらえていく階梯が示されていた。この本に協力した哲学者で人類学者のミルトン・シンガー(一九一二─九四)が、あるとき鶴見を訪ねてきて、出版直前の同書のゲラ刷りを手渡してくれたのだという。

 

 伊豆での思想の科学研究会、地方集会の二日目午前中のプログラムを終えると、休憩時間中に鶴見俊輔を促し、その夏に亡くなった心理学者・河合隼雄(一九二八─二〇〇七)についての回想を口述でICレコーダーに記録した。ある雑誌から寄稿を頼まれたのだが、いまの体力では京都に戻って書くより、口述したものに筆を入れるほうが、負担が少ないように思われた(鶴見は口述の原稿などにはわずかしか手を加えない)。

「そうしてもらうと、助かるな」

 とつぶやき、しばらく宙をにらんで考えをまとめると、二〇分あまり、いつもより小さな声で、河合隼雄について彼は話した。

 鶴見俊輔の年少の友人たちが、今世紀に入ってからも、次つぎに彼を追いぬくように世を去っていた。思想の科学社を一緒に支えた上野博正(一九三四─二〇〇二)、声なき声の会や雑誌「思想の科学」の自主創刊をリードしてきた高畠通敏(一九三三─二〇〇四)、そして、この夏には河合に一〇日あまり遅れて、ベ平連や九条の会の中心を担った小田実(一九三二─二〇〇七)も。彼らは、いずれも、いつかわが手で鶴見の葬式を挙げるつもりでいたはずの面々である。追い越されて、見送る鶴見の側の寂寥も深かった。

 思想の科学研究会の地方集会の日程は、あとは午後から自由参加で伊豆半島の各所を巡るバスツアーだけになっていた。鶴見も参加するとのことだったが、いちおう念のため、

「午後のバスツアーはキャンセルして、われわれは早めに帰ることにしませんか?」

 と勧めてみた。

 すると、意外にも、

「そうだな。……そうしよう」

 と、あっさり鶴見は同意した。

 修善寺駅までタクシーを頼んだが、三〇分ほど待ってほしいとのことだった。天気も良いので、また中庭のベンチに腰を下ろし、われわれは待つことにした。

 鶴見俊輔は、このとき、最近読み返したらしい、好きな英国作家クリストファー・イシャウッド(一九〇四─八六)のKathleen and Frank(一九七一年)について話しはじめた。イシャウッドは、二〇世紀英国を代表する作家の一人として知られながらも、日本で翻訳された作品は、映画「キャバレー」の原作となった『さらばベルリン』(Goodbye to Berlin)ほか、わずかしかない。Kathleen and Frankも訳書は未刊のままである。だが、鶴見は、この作品への愛着がとりわけ深いようで、過去にも幾度か、これに触れて書いている。

 キャスリーンとフランクとは、イシャウッド自身の母と父。母キャスリーンは、娘時代から欠かさず日記をつける人だった。父のフランクは軍人で、余儀なく引き延ばされた二人の独身時代も通して、戦地などからキャスリーンに手紙をよく書いた。この両親の没後、ときを隔てて息子クリストファーがそれらの日記や手紙類の整理にあたったことから、その本は生まれた。母キャスリーンの日記と、父フランクからの手紙が、代わる代わる現われて、それぞれの生涯の姿を浮かび上がらせる。

 父フランクは、第一次世界大戦下の一九一五年五月、息子クリストファーがまだ一〇歳のとき、ベルギーで戦死した。「英雄」の息子としてクリストファーは寄宿制の学校で賞賛を浴びるが、ゲイとしての自覚が早くからあった彼には、これに対して、そぐわない感じが残る。一方、母キャスリーンは、長じた息子の同性愛に同調するところがなく、母子の静かな葛藤が深まる(それでも彼女は、クリストファーの著作を熱心に読み、彼が反戦的な行動を取ることについても誇りとするところがあった)。キャスリーンは、夫の没後も再婚せず、名誉の戦死をとげた軍人の妻として敬われ、また、やがて米国に移り住んだ息子クリストファーには自分の暮らしについて頼らずに通して、さらに半世紀近い長命をたもった。

 クリストファーは、母の没後、自分自身も老境に差しかかりながら両親の日記や手紙を整理しはじめ、模範的な軍人として生きたわけではなかった父の姿を、そこに見いだす。

「――戦場で編み物をしていたっていうんだよ」

 目を大きく見開いて、鶴見は笑った。

 父フランクは、砲弾が炸裂するただなかの塹壕で、平静を保つために、編み物を続ける。それを妻に伝える手紙の文面に、ヴィクトリア朝育ちの型通りの英国紳士像には収まりきらない、べつの一人の男の姿が見えてくる。

 一九一五年春、フランクは、さらに妻への手紙に書いている。――《クリストファーが自分自身をたもって、個性を生かし、思うとおりの道を進んでいくかぎり、何を学ぶかはたいして問題ではないと思う。》

 彼は妻キャスリーンに向けて、息子を無理に軍人にする必要はない、と伝えていた。

 半世紀を越え、これを読み、クリストファーは、父親が呼びかけてくる声を聞く。

「私のように生きようとするな。私がなれなかったすべてのものになってほしい。私がしたくても決してできなかったこと、私がおそろしくてできなかったことをふくめて、そのすべてをしてみなさい。もしきみが、それがどういうことかさがしあてられるなら。世間が君に父にふさわしい息子であれという、そういう息子だけには決してならないようにしなさい。そういう息子はうんざりだ。私の求めるのは息子の道からはずれた息子だ。世間をおどろかせて、みなの見ている前で私の名をはずかしめるような息子になってほしい。それを私は見ていて、拍手をおくるだろう」(鶴見俊輔「イシャウッド――小さな政治に光をあてたひと」での訳出による。)

 母のキャスリーンは、九一歳まで生きた。没するのは、一九六〇年六月一五日。極東の日本では、六〇年安保闘争のなか、国会構内でかんば美智子という名の女子学生が生命を奪われた日であった。

 私から見れば、Kathleen and Frankは、一つの「家」に満ちた過剰なほどの愛をめぐる、すれ違いと誤解、遁走、そして、長い時間を要した再会と和解の物語である。いたるところにありそうで、しかも、一つひとつの「家」での愛の持て余しかたは、それぞれに違っている。だが、鶴見俊輔は、たしかに、そこのなかから現われてきて、最後のときまで、そこに残るものへと惹かれていた。

 

 この時期、私に、本書『鶴見俊輔伝』の執筆を促したのは、故人を身近に知る人びとが、急速に少なくなりつつあるという現実だった。こうした事情は、以前、大逆事件の犠牲者(大石誠之助)の親類で、文化学院の創設者・西村伊作の伝記(『きれいな風貌――西村伊作伝』)執筆を決心したときにも似たものがあった。そのときは、伊作の子どもたちが、すでに高齢に達していた。伊作の次女・坂倉ユリの訃報(二〇〇七年、九五歳で没)に接し、もう残る時間がないのだと思い至って、稿を起こすことにした。

 伝記作者として、恐れずにおれないのは、誤った事実関係を記してしまうことである。当事者、関係者が少なくなるほど、この危険は人知れず増している。いずれ近親の縁者もいなくなれば、伝記作者にケチがつく心配はたしかに少なくなるけれど、そういう気楽さは、伝記が恣意的なものに陥ることを代償としている。だから、なるべく直接の関係者が健在のうちに、という「締め切り」を私は意識せざるを得なかった。

 とはいえ、私は、これを書く過程で、関係者らに証言を求めて回ったりはしなかった。むしろ、そうした手法とは、ある程度の距離を保つことを意識した。そして、「事実」として扱う事柄の典拠を明らかにしながら、これを検証し、積み上げていくという方法を採っている。つまり、歴史学で言う一次史料と、それをめぐる史料批判を重く見た。

 さきに鶴見の方法として述べた、歴史における「期待の次元」と「回想の次元」の区別を明らかにしておく、という手立てに、ここで私自身も立っている。つまり、一〇歳の鶴見俊輔は、未来の彼がなにものになるかといったことは一切知ることなく、ただ生まれてから一〇年のあいだの知見だけを手に、そのときを生きている。伝記作者は、この彼を書く。同じように、一五歳の彼、二五歳の彼のことも、そこまでの知見だけに立って生きる存在として、書いていきたいと考えた。

 鶴見俊輔当人も、そんなふうに九三年間の生涯を生ききった。もしも、彼という存在がなければ、この社会のありようは、いまとはいくらか違ったものになっていただろうか? ともあれ、彼に限らず、ほかに替えられない生き方の一つひとつがあったことで、いまの私たちの世界は、かろうじて、このようなものとしてある。そこからしか、これについて問うことはできない。

 

 いくつか、こちらからの質問には答えて、あとは静観を保つという好意を示してくださった鶴見俊輔の遺族――、伴侶の横山貞子、子息の鶴見太郎、妹の内山章子、三氏にお礼を申し上げる。写真資料も提供していただいた。

 装丁の平野甲賀、編集の須貝利恵子の両氏とは、三〇年を越えて共同の仕事を続けてきた。連載時にお世話になった「新潮」編集長・矢野優、そして、ご苦労をかけ通した副編集長兼担当の松村正樹、この両氏とも、すでに一〇年以上にわたる道のりとなった。困難も続く状況のもと、新潮社の各部局の方たちが本書に力を尽くしてくださったことをありがたく思っている。

  二〇一八年一〇月一七日

黒川 創 

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著者プロフィール

黒川創

クロカワ・ソウ

1961年、京都市生まれ。同志社大学文学部卒業。1999年、初の小説『若冲の目』刊行。2008年刊『かもめの日』で読売文学賞、2013年刊『国境〔完全版〕』で伊藤整文学賞(評論部門)、2014年刊『京都』で毎日出版文化賞、2018年刊『鶴見俊輔伝』で大佛次郎賞を受賞。おもな小説に『もどろき』『暗殺者たち』『岩場の上から』『暗い林を抜けて』『ウィーン近郊』、評論に『きれいな風貌――西村伊作伝』、鶴見俊輔・加藤典洋との共著『日米交換船』、エッセイに『旅する少年』など。編著に『〈外地〉の日本語文学選』全3巻、『鶴見俊輔コレクション』全4巻、『鶴見俊輔さんの仕事』全5巻ほか。

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