野原
2,200円(税込)
発売日:2022/10/27
- 書籍
悲しみとは、生の躍動――。人の尊厳に迫る、このうえなく静かな長篇小説。
ミリオンセラー『ある一生』で国際ブッカー賞候補となったオーストリアの作家が、小さな町の墓所に眠る死者たちが語る悲喜交々の人生に耳を傾ける。たゆまぬ愛、癒えない傷、夫婦の確執、労働の悦び、戦争、汚職、ならず者の悲哀……。失意に終わる人生のなかにも、損なわれることのない人間の尊厳がある。胸を打つ物語。
書誌情報
読み仮名 | ノハラ |
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シリーズ名 | 新潮クレスト・ブックス |
装幀 | Ai Noda/イラストレーション、新潮社装幀室/デザイン |
発行形態 | 書籍 |
判型 | 四六判変型 |
頁数 | 256ページ |
ISBN | 978-4-10-590184-4 |
C-CODE | 0397 |
定価 | 2,200円 |
書評
そのようにしか語りえなかった声
さびれた墓地を老いた男が訪れ、白樺の下にあるベンチに腰掛ける場面から『野原』ははじまる。男は毎日のようにその場所へと赴き、「死者たちの声」に耳を傾ける。そのようすは、原稿用紙に向かう小説家にも似ている。もはやここにはいない者たちの顔を思い浮かべ、それが薄れつつある記憶が作り上げたイメージでしかないとわかりながら、戯れることを楽しむ。鳥のさえずりや虫の羽音のような、なにを話しているともしれない死者たちの話し声に、飽きることなく耳を傾ける。そして、男は信じている。自分の耳にしているものは、死者たちの声そのものにちがいないのだと。
パウルシュタットというオーストリアの架空の町に生きた、二十九名の死者たち。『野原』では、冒頭の男の短い章をはじめに、死者たちがかわるがわる現れては、おのおのの人生の断片を語ってゆく。ある死者の語りのなかにほかの死者が登場することもある。かならずしも親愛のもとに語られるわけではないが、ともかく死者たちは互いを照らしあい、そこに新たな横顔が浮かんでくる。
人の一生を余すところなく物語る。根源的には不可能なそのことを、ゼーターラーの前作『ある一生』はほとんど成しえていると感じた。村はずれの山腹で生涯の多くをすごし、妻と暮らした短い年月をのぞいて、ほぼ人とのかかわりを持たず生きた男、エッガー。その背景には、文明が、戦争が、自然が、死が、人の逃れることのできないあらゆる大きなものが、どれもエッガーの手に触れる具体的な事物の感触(石埃をたてる削岩機/敵前で放り投げた銃/掻き出せない硬い雪)を通して描かれ、だからこそ作中で語られることのなかった日々さえも、触れずともそこにあったとたしかめられるような感覚があった。150ページほどの長大とはいえない紙幅のうちには、踏まれなかった地平までもが広がっていた。
『野原』における死者のひとりで、パウルシュタットの町史に刻まれるとある事件の当事者である少年が、こんなふうに語る。
〈母さんはまだ知らない。僕自身がまだ知らないから〉
母さんが、僕自身が、いったいなにを知らないのか? そのことが説明されることはないまま、少年はただ死の当日までの出来事を、断片的に言葉にする。体の下で、地球の心臓が鼓動する感覚。ウサギの血みたいに黒い池の水。なにもかもが固まった冬のヒキガエル。
少年の謎めいたこのひと言が胸に残り、そうしてふたたび二十九名の死者たちの言葉をたどっていると、まるで死者たちがこう訴えてくるように感じた。あなたはまだ知らない。わたし自身がまだ知らないから。
たとえ死という終着地にたどり着いたとしても、ひとは自分自身の生の全貌を、まるごと見晴るかすことなどできはしない。二十九名の死者たちの語りには実際、謎や誤解が残り、誇張を免れず、時におろかな自己弁護さえはらんでいる。そうしたあくまで不完全なものとして、死者たちはそれぞれの来し方や、忘れがたい一瞬について物語ることを試みている。
ただひと言、罵詈雑言を述べる者がいる。記憶としての像を結ばない、客観的な記録を並べることしかできない者がいる。そのような死者たちの来歴や思いを読む者が知ることは、『野原』において、最後まで叶わない。けれども、少年の言葉を心に留めながら、このように感じる。それらの声は語るべきことが欠落したものではない。そのようにしか語りえなかった声なのだと。
語られた内容とは異なる、声のありようそのもの。そこにこそ実は、二十九名の生の相貌が刻まれているのではないか。たとえ言葉は多くの誤謬を抱えたままだとしても、その声にだけは、ひとつの真実が宿るのではないか。
〈ひとつひとつの声がもう一度聞く耳を得たらどうなるだろう〉
作品冒頭の老いた男がそんなふうに思いつくところから、『野原』ははじまっていた。死者たちが「声を得たら」ではない。生あるわたしたちが「耳を得たら」と、そう男が着想したことをあらためておもう。
『野原』が死者たちに与えるのは、慰めではない。それは慰めよりも冷ややかで、慰めよりも硬い。手にとって携えられる種類のものではなく、広大で、だからこそ誰をも誘い、好き好きに歩ませることができる。そんな地平こそが、死者たちには与えられる。ゼーターラーが二十九名の死者たちの向こうに描いた、新たな大きなもの。野原とも仮に呼びうるその広がりは、生きているわたしたちにもその静けさを届け、分け与えてくれる。
(こいけ・みずね 作家)
波 2022年11月号より
単行本刊行時掲載
インタビュー/対談/エッセイ
悲しみとは生の躍動。
名もなき男の生涯を描いた、この上なく静かな小説、『ある一生』がミリオンセラーとなり、国際ブッカー賞候補となったゼーターラー。パウルシュタットという町に生きた死者たちの声に耳を傾けた新作『野原』について語る。
――『野原』は一種の合唱ですね。もはやこの世にいない人たちが、人生を振り返って語りだす。彼らはどこから語っているのですか。
死というのは、ひとつの憶測にすぎません。我々は死について何も知らない。私は死を、我々がイメージを投影するスクリーンのようなものと考えています。でもそれは生者の想像であり、ファンタジーなんです。つまり「死後の生」ですね。この本で語る死者たちがどこにいるのかは、想像することすらしていません。死者はどこにもいないし、同時にどこにでもいる。
――『スプーン・リヴァー詞華集』という1915年に刊行された本に、インスピレーションを与えられたそうですね。
刊行当時、とくに学生たちのあいだでカルト的人気 を誇った詩集です。三百ほどのごく短い詩が収められていて、なかには死者が詠んだことになっているものもある。私はこの本を、三十五年以上持ち歩いているんですよ。そしてようやく、死者についての私自身の物語を語るときが来たというわけです。
――『野原』は三十ほどのモノローグで構成されています。たった一言の人もいれば、短篇小説なみの物語もあり、それぞれの話が交差します。彼らは同じ町の住民であることのほか、どんな点で結びついているのでしょう?
彼らをつなぐものは「人間らしさ」です。実際、小説の舞台も重要ではありません。山の人間も、海や都会の人間と根本的なところでは変わらない。我々は皆よく似ています。
――『野原』では、以前の作品よりも「死」が大きく扱われていますね。
生について語ろうとするなら、死についても語らなくてはなりません。我々にとって死は、別れに対する恐怖であり、あらかじめ先取りした悲しみです。でも死は、生の一部なんです。死のあとになにがあるのか、我々はまったく知らない。死は、我々への偉大な贈り物だと言うこともできるかもしれない。死がなければ、我々は永遠の生という地獄に存在し続けることになりますから。
――あなたはいつも、「素朴な人たち」を描くと言われますね。
もっとも偉大な感情というのは、しばしば単純な感情です。人生におけるもっとも大きな出来事は、つねに単純な出来事です。深みは単純であり、愛は単純です。少なくとも単純であり得る。まわりの状況が複雑さを生むだけです。ただ、「素朴な人間」とはいったいなんでしょう。誰だって、病気や死や、あるいは幸せが懸かっているとなれば、結局は単純な存在になるのではないですか。人の心はつねに単純です。
――どうして、そういう人たちのことがそんなによくわかるんですか?
私は登場人物たちをよく知りません。でも、とにかくできる限り正確に彼らのことを捉えようとしています。つまり、彼らの身になってみる。これ以上はうまく説明できません。私は書くときには、心で書きます。通俗的な言い方ですが、実際そうなんです。
――泣きながら書くこともありますか?
ずいぶん個人的な質問ですね。たしかにおっしゃるとおりですが、同じくらい笑うこともあります。私がときに彼らとともに味わう悲しみは、私にとっては生の証です。悲しみとは生の流れであり、言葉や涙で悲しみが表現されることは、生の躍動を意味するんです。
――多くの感情的なせめぎあいがあるんですね。でもあなたの文体はむしろ坦々としている。あなたの小説はどのようにして生まれるのでしょう?
つらくて厳しくて不快な仕事ですよ。家にこもってひとつひとつの文章を彫りこんで、頭のなかのイメージをできる限り正確に描写しようとするだけです。イメージが湧いてきて、感情が生まれる。でもその感情に抵抗し、身を守らなければならない。文章をできる限り簡素に明快に組み立て、私の中に吹き荒れるイメージを描写しようと心掛けています。
――彫るというのは?
私の父は木彫家で、実際に木を彫っています。彫刻のイメージと執筆が重なるのは、私にとって書くことは楽な作業ではないからです。文章が迸りでてくるなんてことはない。精密さが必要とされる点が、私にとって木彫の手作業と同様なんです。
――あなたにとって大切なのは、素朴で単純な人々に声を与えることでしょうか。
自分が誰かに声を与えるつもりはないし、なんらかの社会的な文脈や政治的な構造に自分を置くつもりもありません。私にとって重要なのは、つねに自分がつくりだし、描きだす人間たちの物語なんです。
Robert Seethaler
1966年、ウィーン生まれ。オーストリアの作家、脚本家、俳優。多くの舞台、映像作品に出演後、2006年『蜂とクルト』で作家デビュー。『キオスク』等で好評を博す。2014年刊行の『ある一生』がドイツ語圏で100万部を突破。グリンメルズハウゼン賞ほか多くの文学賞を受賞し、国際ブッカー賞最終候補にもなった。
“Der Tod dient vor allem als Projektionsflache”
Robert Seethaler und sein Roman “Das Feld” Deutschlandradio Kultur Archiv, Jun.7, 2018
(ローベルト・ゼーターラー)
「新潮クレスト・ブックス 2022-2023」小冊子より
単行本刊行時掲載
ハンザー出版からゼーターラーへの5つの質問 新作『野原』をめぐって
訳:浅井晶子
『ある一生』(新潮クレスト・ブックス)がドイツ語圏で百万部を超えるベストセラーとなったオーストリアの作家ローベルト・ゼーターラー。新作『野原』が今秋十月末に刊行になります。
1
――『野原』は、パウルシュタットという小さな町の死者たちが、おのおのの人生を振り返るという小説です。彼らの語る物語は、互いに寄り合って人間存在というひとつの大きな絵を描き出します。死者に語らせるというアイディアは、どこから来たものですか?
人生を振り返るというテーマには、以前からずっと興味がありました。死後には人生のなにが残るのか? 人間のなにが残るのか? 思い出はどうなるのか? 前作『ある一生』のテーマも同じです。いまから三十年以上前、私は1915年刊行の『スプーン・リヴァー詞華集』という本を手に入れました。その本のなかで、エドガー・リー・マスターズというアメリカ人が、ほぼ三百人の死者たちに、それぞれの人生の短い物語を語らせているんです。それに似たことを、私もやってみたいと思いました。私なりのやり方で。
2
――もし本当に、死後に自分の人生を振り返ることができるとしたら――私たちは、生きているあいだには見えなかった、どんなことを認識するのでしょう?
たぶん――人生の中身は、体験したことがらに依るのではなく、体験することそのものに依るのだ、ということでは。ただ、そもそもなにかを認識することがあるのかどうか、わかりませんよ。人というのは、認識したいと思うことしか認識できないものですから。死を体験した人間はいません。死はいわばスクリーンのようなもので、我々がそこに投影するのはすべて、生の立場から想像するものに過ぎません――つまり、「死後の生」という想像です。死は、生を語ることによってしか、語ることができないんです。我々の手のなかには、生以外にはなにもないのですから。
3
――あなたは『ある一生』では、一六〇ページほどで、ひとりの人間の人生を描かれた。『野原』では、ページ数はたいして増えていないというのに、三十以上の人生が描かれています。人生の本質的な部分に、どう迫っていかれるのですか?
いまこの瞬間に身を委ねることで、とか? いや、わかりません。まあ、とにかく苦労の多い仕事です。以前の私は、木を彫るようなものだと言っていました。不必要なものをそぎ落とさねばならない、と。でも、もちろんそれもバカバカしいたとえです。木は、彫ることが可能になるまで、まず何年も育つ必要がありますからね。それに、そもそも不必要なものとはなんでしょう? だいたい、人生の本質的な部分なんていうものはないんですよ。どの人生もそれぞれ違っています。そして、どれひとつとして、煮詰めて「本質的なもの」に還元してしまうわけにはいかない。そんなことをするのは、もったいなくもありますし。素晴らしい料理を、最終的にその栄養素(塩分、タンパク質、炭水化物など)のみに還元するようなものです――そんなことをしたい人がいますか?
4
――人生そのものがそうであるように、本書もそれぞれ異なる物語でいっぱいです。ところが、読んでいると、少し違ったことが――登場人物たちのあいだに、ほとんど魔術的とさえ言える、なんとも描写しがたいなにかが――起こる。そして最後には、まるでひとつの町が、住民たちの歴史を読者にささやきかけてくるかのように思われるんです。いったいなにが起きているのか、説明できますか?
できません。それは実り多い会話のようなもので、事前に計画することなどできないし、後から説明することも無理なんです。私は多くを本能的に書きます。自分の背後の足跡についてあまり考えすぎると、もう前を向くことができなくなり、つまずき続けることになります。
5
――ローベルト・ゼーターラーはこの本のどこにいますか? ご自身はどの程度パウルシュタットを故郷だと感じておられますか?
私は、自分の書く物語のなかで、町を歩いたり、走ったり、ぶらぶらしたりします。外の世界でするのと同じように。でも、本当にここが故郷だと感じることは、滅多にありません。私は、ひとつの憧れを追いかけるように書き、生きています。でも、憧れというのは常に謎めいたものです。近づいたと思ったり、憧れが現実になったと思ったとたんに、ふっとまた消えてしまうんです。
(ローベルト・ゼーターラー)
波 2022年9月号より
単行本刊行時掲載
©2022 Carl Hanser Verlag, Munchen
短評
- ▼Matsuie Masashi 松家仁之
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死ぬときは誰もひとり。ひとりきりで最期に見る景色、おもうこと。ここには二十九人の、切なく、あっけなく、ときにふてぶてしい最期、生の断片や瞬間が描かれている。どんな絶望もよろこびも、他人にとっては「とるにたらないもの」。だが、途中からは読みさすのが惜しくなるほど「とるにたらないもの」にのみこまれた。ここに書かれてあることはフィクション、物語だという思いが頭から消えてしまうほど、他人の死と生を間近に感じた。ひとりでいる人間の声を聴く。文学とは語ることではなく、聞きとどけることなのだ。
- ▼Frankfurter Allgemeine フランクフルター・アルゲマイネ紙
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『野原』における著者の関心は、失敗に際してもなお――実際、パウルシュタット市民の多くが人生に失敗している――損なわれることのない人間の尊厳にある。登場人物への著者ゼーターラーの愛は、読者の胸を打つ。
- ▼Die Zeit ツァイト紙
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本書と著者の強みは、簡素さ、そっけなさにある。その作風は、化合物も添加物も一切使わずに焼き上げられる質実剛健なドイツのライ麦パンを思わせる。
- ▼Focus フォークス誌
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ゼーターラーは静寂と終焉を、ほかの誰にもできないやりかたで描写することができる。ひとつひとつの瞬間を感傷を交えずに簡素に描く名人だ。
- ▼Der Spiegel シュピーゲル誌
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人生について、人生とはどういうものか、いや、どういうものであったかについて、著者は、おのずから展開していく素晴らしい小説を生み出した。
著者プロフィール
ローベルト・ゼーターラー
Seethaler,Robert
1966年ウィーン生まれ。俳優として数々の舞台や映像作品に出演後、2006年『ビーネとクルト』で作家デビュー。『キオスク』などで好評を博す。2014年刊行の『ある一生』は、ドイツ語圏で100万部を突破。2015年グリンメルズハウゼン賞を受賞。2016年国際ブッカー賞、2017年国際ダブリン文学賞の最終候補に。2018年刊行の『野原』は、「シュピーゲル」誌のベストセラーリスト1位を獲得、ラインガウ文学賞を受賞。名実ともにオーストリアを代表する作家の一人。
浅井晶子
アサイ・ショウコ
1973年大阪府生まれ。京都大学大学院博士課程単位認定退学。訳書にローベルト・ゼーターラー『ある一生』、エマヌエル・ベルクマン『トリック』、イリヤ・トロヤノフ『世界収集家』、パスカル・メルシエ『リスボンへの夜行列車』、ジェニー・エルペンベック『行く、行った、行ってしまった』、トーマス・マン『トニオ・クレーガー』ほか。2021年日本翻訳家協会賞翻訳特別賞を受賞。