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世界は善に満ちている―トマス・アクィナス哲学講義―

山本芳久/著

1,760円(税込)

発売日:2021/01/27

書誌情報

読み仮名 セカイハゼンニミチテイルトマスアクィナステツガクコウギ
シリーズ名 新潮選書
装幀 駒井哲郎/シンボルマーク、新潮社装幀室/装幀
発行形態 書籍、電子書籍
判型 四六判変型
頁数 316ページ
ISBN 978-4-10-603861-7
C-CODE 0310
ジャンル 哲学・思想
定価 1,760円
電子書籍 価格 1,760円
電子書籍 配信開始日 2021/01/27

どうすれば肯定的に生きられるのか。

怒り・悲しみ・憎しみ・恐れ……どんなネガティブな感情も、丁寧に解きほぐすと、その根源に「愛」が見いだせる。不安で包まれているように思える世界も、理性の光を通して見ると、「善」が満ちあふれている。中世哲学の最高峰『神学大全』を、教師と学生の対話形式でわかりやすく読み解き、自他を肯定して生きる道を示す。

目次
まえがき
第一章 「希望」の論理学
「哲学の言葉」の魅力
感情には論理がある
「希望」の対象の第一条件――善であること
悪を希望することはできるか
「希望」と「恐れ」の区別
「希望」の対象の第二条件――未来のものであること
「希望」と「喜び」の区別
「希望」の対象の第三条件――獲得困難なものであること
「希望」と「欲望」の区別
「主観性」を論理で捉える
「感情」という言葉の使い方
「希望」の対象の第四条件――獲得可能なものであること
「希望」と「絶望」の区別
「絶望」と「恐れ」の区別
「感情」と「理性」は対立しない
「気づくこと」の重要性
第二章 「愛」はどのように生まれてくるのか
「愛」のなじみ深さ
「テクスト」に触れることの重要性
『神学大全』の構造
「項」の構造
「スコラ的方法」とは何か
「権威」か「典拠」か
「愛」の成立構造
愛は「受動的」な仕方で生まれる
「欲望」と「喜び」
あらゆる感情の根源にある「愛」
「愛」という感情の特別性
「欲望」は「愛」の原因になるか
「欲望」と「欲求能力」
欲求的運動の円環性
愛の二面性
第三章 感情の分類(一)――欲望的な感情
「欲望的な感情」と「気概的な感情」
「欲望的な感情」の分類
「愛」と「欲望」の違い
「欲望」の根底にある「愛」
「喜び」の根底にある「愛」
「憎しみ」「忌避」「悲しみ」
「現在の悪」はどのような感情を生むのか
「善い感情」と「悪い感情」
ペリパトス派とストア派
「愛」にも様々な「愛」がある
「不倫の愛」の構造
「欲望」は能動的か受動的か
古典を読解することの困難
「第一の変化」の謎解き
「欲望」の受動性
共同作業としての「欲望」
第四章 感情の分類(二)――気概的な感情
「気概的な感情」の分類
「容易な善」と「困難な善」
「希望」と「絶望」
「善い絶望」は存在するか
「然るべき程度」の絶望
「大胆」と「恐れ」
「勇気」のブレーキとアクセル
「徳」とは何か
四種類の「枢要徳」
「節制」と「抑制」の違い
「徳」と「技術」の共通性
節制することの喜び
「アクラシア」と「アコラシア」
「怒り」と対立する感情は存在しない
トマス感情論の全体像
第五章 「憎しみ」の根底には「愛」がある
中心的な感情としての「愛」
「愛」があるから「憎しみ」が生まれる
「憎しみ」が「愛」の原因になる場合
「憎しみ」の根底にある「愛」
「憎しみ」か「嫌い」か
「共鳴」と「不共鳴」
「適合」は「背馳」に先行する
『神学大全』における感情論の位置づけ
「憎しみ」の重要性
「愛」と「無関心」の関係
「偽ディオニシウス」の洞察力
悪は、善の力によらずには、はたらきを為すことがない
「憎しみ」が「愛」よりも強いように思われる場合
「愛」と「憎しみ」の対応関係
「動かすもの」としての感情
「愛」という土俵
秘められた感情
開かれたスコラ哲学
第六章 心の自己回復力――「喜び」と「悲しみ」の仕組み
「肯定の哲学」への手がかり
アウグスティヌスの「悲しみ」
「言葉の経験」の重要性
泣くことによって心が開かれる
心には自己回復力がある
「笑い」は「喜び」を増幅させる
悲しみは喜びの原因であるか
愛の記憶が「喜び」を生む
「悲しみの記憶」の与える「喜び」
「善という特質」
「悪」は「愛」の対象になるか
悪は、善の観点のもとにでなければ愛されることはない
第七章 「愛」のうちに「喜び」がある
「感情」の身近さ
心の動きの原点としての「愛」
「愛」と「喜び」の深い関係
二つの「一致」
「心における一致」とは何か
「実在的な一致」のほうが重要?
「心における一致」の積極的な意義
哲学のテクストとの「勝負」
「片想い」の喜び?
「気に入ること」の重要性
愛という喜び
二つの「喜び」の相違
第八章 「もう一人の自分」と出会う
愛するとは、ある人のために善を望むことである
アリストテレスの『弁論術』
「愛」には二つの対象がある
「友愛の愛」と「欲望の愛」
花を愛しているのは誰なのか
「もう一人の自己」とは何か
「善く在ること」と幸福
聖トマスが自らの解釈者である
愛の結果としての「相互内在」
愛する者が愛される者のうちにある
「もう一人の自己」を通じて「喜び」を感じる
トマスの「愛」の理論の普遍性
第九章 善には自己拡散性がある――「肯定の哲学」から「肯定の神学」へ
「肯定の哲学」とキリスト教
聖書の言葉が与えるインスピレーション
知的探究への促しとしての聖書
「感情論」というアングル
「世界」がわかると「神」がわかる
なぜ人に親切にすると喜びが生まれるのか
「人に善くすること」の根源
「善の自己拡散性」とは何か
「善性の伝達」としての創造論
人間における「善の自己拡散性」
人間が「神の像」である意味
神に「感情」は存在しない
「欠如」と「充実」に基づいて活動する
第十章 世界は「善」に満ちている
「何も好きになれない」ことのつらさ
「欲求されうるもの」とは何か
「欲求されうるもの」と「欲求する主体」との共同作業
「最善の味覚」は存在するか
ソムリエは何を訓練しているのか
「よく整えられた心の在り方」を有する人
「徳」を身につけると「喜び」が拡大する
「欲求されうるもの」に充ち満ちた世界
「虚しさ」を克服する方法
「傷つきやすさ」の重要性
「活動」としての感情
「善」の「刻印」を受ける
「自己肯定感」を超えて
「刻印」を育む
あとがき――トマス・アクィナスの「刻印」
トマス「感情論」からの刻印
トマス・アクィナスとは誰か
「肯定の哲学」の原点としての「感情論」
「理性」の立場
叡智の伝統への入り口
「開かれたスコラ哲学」を目指して
おわりに
更に学びたい人のための文献紹介

書評

温かい真理

國分功一郎

 知ってはいるが読んだことはない。文学の古典は少なからぬ人々にとってそのようなものだ。ユゴーの『レ・ミゼラブル』にはジャン・ヴァルジャンという人物が出てきて盗みを働いて云々という話は知っていても、この大作を読んだ経験のある人はなかなかいない。
 だが世の中にはまた、知られてはいるが、そもそも読むものだと思われていないそのような書き物も存在している。実に多くの人がアインシュタインの名前を知っている。少なからぬ人が「相対性理論」という名前を知っている。しかし、それが読まれるべき書き物として存在していると、いったいどれほどの人が思っているだろうか(『相対性理論』は岩波文庫に収録されている)。
 山本芳久氏の新著、『世界は善に満ちている―トマス・アクィナス哲学講義―』が紹介しているトマス・アクィナスの『神学大全』もまさしくそのような書き物だと言わねばならない。「相対性理論」ほど有名ではないかもしれないが、世界史をすこし勉強したことのある人なら、この書名には聞き覚えがあるだろう。しかし、それはそもそも読むものというカテゴリーに入っていない。それは単に暗記しておくべき書名である。
 だから山本氏のこの本を読みながら読者は驚くことだろう。暗記すべき書名をもった書き物に過ぎなかった『神学大全』には、我々の日常的な感情とまさに地続きの話が展開されていたことを知るからである。たとえば、何かが気になる存在になると、その魅力に人は引きつけられてどんどん「それが欲しい」という気持ちに駆り立てられる。遂にそれを手に入れた時には、駆り立てる気持ちは止み、喜びが訪れるのだが、だとしても、その魅力を発していたものへの想いそのものが消え去るわけではない。
 このような、まさしくスルリと受け入れられる感情の動きがトマスの描き出す「愛」の成立構造である。評者がさしあたり「駆り立てる気持ち」と呼んでみたものがトマスの言う「欲望」だ。トマスは今から七〇〇年以上も前にイタリアで生まれた、中世のスコラ哲学を大成したと言われる神学者・哲学者である。そんな人物の議論が今でも実感を以て読むことが出来るという事実はそれ自体が実に感動的である。
 もっとも、人がトマスを自分とは無関係な歴史上の人物と思ってしまうのは理由なきことではない。というか、トマスについて知れば知るほど、人は彼を遠い存在と思うかもしれない。
『神学大全』はトマスの主著だが、邦訳では全部で四五巻もある。それは日本では半世紀もかけて翻訳されたが、それでもトマスの全著作の七分の一程度に過ぎない。哲学者の中には極端に著作の多いタイプとそうでないタイプがいるが(たとえばハイデガーは前者であり、スピノザは後者である)、トマスは群を抜いている。専門家でも著作群の一部しか読んだことがないのが実情だという。
 おそらくトマスの著作が厖大であることの理由の一つは、彼の驚異的な思考および筆記のスピードにある。超高速で展開する思考に筆記が追いつこうとして残したその筆跡は「読解不能な文字littera illegibilis」と呼ばれている(ぜひネットで画像検索してみていただきたい)。トマスを巡るあらゆる事実が彼を超人のように思わせる。「人間離れした」とはこのような時に使う表現ではないか。
 その人間離れした人物が、にもかかわらず、世間から少しも離れていない感情論を残していること、したがって、『神学大全』は現代人にとって読むもののカテゴリーに置かれて然るべきものであること――山本氏が学生との対話という形で記した本書はそれを実に優しく読者に教えてくれる。
 評者の専門とする一七世紀の哲学では盛んに感情が論じられたのだが、その背景には新教と旧教の対立がもたらした宗教内戦があった。戦時に人間が普段では考えられないような情念に駆られることに当時の知識人たちは驚いた。その根源を探ろうと盛んに感情が研究されたのである。それ故であろうか、たとえばホッブズやデカルトやスピノザで理論的構えも結論も大きく異なるけれども、彼らの感情論には共通して冷酷な認識が感じられる。それは今でも読む者の目を覚まさせる冷たさを持つ。
 それに対し、評者が本書を通じて知ったトマスの感情論に感じられるのは、それとは正反対の温かさである。もちろんそれは中世的な人間観が持っていた調和のイメージなのかもしれないし、こんな風に述べるのはある種のノスタルジーなのかもしれない。だがこの感情論には、超人が知りえた世間的なものの真理があると思われてならない。真理は冷たいものばかりではなかろう。だからこそ「善は自己拡散的である」というトマスが述べた温かい真理は今でも我々の心を打つのである。

(こくぶん・こういちろう 哲学者)
波 2021年2月号より

インタビュー/対談/エッセイ

「人生のソムリエ」になろう

山本芳久若松英輔

善は悪よりも優位にある

若松 じつは山本さんとは三十年来の友人で『キリスト教講義』(文藝春秋)という共著を出したこともあります。これまでも折にふれてトマス・アクィナスのことを教わってきました。

山本 トマスは中世ヨーロッパを代表する哲学者・神学者です。その主著『神学大全』は世界史の教科書で必ず紹介されるので、名前だけは知っている人も多いと思いますが、日本語訳で全四五巻もあり、実際に読んだことがある人はほとんどいない「読まれざる名著」です。

若松 まずはタイトルの『世界は善に満ちている』にある「善」についてお伺いします。私たち日本人は「善と悪」は対等なものと考えがちですが、トマスは違うと言っていますね。

山本 「善」と聞くと、道徳的によいという意味に捉える人が多いと思いますが、トマスは、道徳的善だけでなく、有用的善、快楽的善の三つがあると考えます。私たちも、たとえば「よいレストラン」と言う時は、シェフが道徳的に高潔な人物だとかではなく、料理がおいしくて雰囲気もよいから、そう評価するわけですね。つまり有用性や快楽、そのような何かしらの「価値」を与えてくれるものが善なのです。

若松 その考え方に従えば、空気や水など私たちの身の回りにある多くのものが善として捉えられるわけですね。

山本 一方「悪」は、そういう善が損なわれてしまう状態です。これも道徳的なものに限らず、たとえば地震が起きて蛇口をひねっても水が出ない、あるいは感染症が流行してレストランが閉店してしまうなどということも、有用性が損なわれているという意味で「悪」になります。

若松 善を損なうものが悪であるなら原理的に、善がなければ悪は存在しえないことになります。

山本 ですから、もし「世界は悪に満ちている」と感じている人がいても、じつはそれらの悪に先行して、善がこの世界に満ちていることが前提になっているのです。トマス哲学の視点から世界を見直すと、より肯定的に生きられるようになると考えています。

若松 西田幾多郎の『善の研究』では善と悪を対比し、分かちがたいものであると考え、それを突破しようと考えましたが、それとはちょっと違う視座で興味深いですね。

感情は受動的に生じる

若松 トマスの「感情」の捉え方も独特です。「感情が豊かだ」とか「感情的にならない方がいい」といいますが、これは私たちが感情を、心の中にある能動的なものだと捉えている表れだと思います。しかしトマスは、感情は受動的なものだという。

山本 トマスの言う「感情」は、ラテン語のpassioパッシオです。英語のpassion(熱情)やpassive(受動的)の語源で、感情を意味すると同時に受動という意味でもあります。そこには深い含意があって、感情は心の中で能動的に生じるのではなく、外界からの働きかけを被ることによって、受動的に生まれてくると理解されているのです。

若松 本居宣長は「感く」と書いて「うごく」と読みましたが、この感覚は案外トマスの考え方と近いのかもしれません。
 私も講演などで「受動的な創造性」という話をすることがある。ものを書いたりする時に、能動的に創造的であるよりも、受動的に創造的である方が、むしろ自分らしく書ける。この感覚は人に伝えるのがなかなか難しいのですが、トマスの哲学によれば的確に語れるような気がしました。

山本 創造性について、トマスはラテン語のcreatioクレアチオ(英語のcreationの語源)という言葉を用いて説明しています。これは本来、無から何かを創り出すという意味で、神のみにしか使えない言葉です。なぜなら、人間は何かを作るとき、必ず材料を必要とするからです。
 文章を書くという営みも、ゼロから言葉を紡ぎ出すわけではなく、先人たちが使ってきた言語を使い、先人たちが積み重ねてきた議論を前提に、そこにほんの少し自分の新たな発想を付け加えることで成り立っています。その意味で、人間の創造性も、やはり受動性から出発する側面が強いわけです。

四つの枢要徳

若松 本の中では「枢要徳」と呼ばれる四つの徳、すなわち賢慮・正義・勇気・節制の話も出てきますね。

山本 枢要徳は、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』の議論を、トマスが受容しつつ発展させたものです。
 賢慮は、ひと言でいうと判断力です。自分が置かれている状況を把握し、今ここで何をするべきなのかを判断する力ですね。これが枢要徳の中でも最も重要な力とされています。
 もちろん、正義(他者や共同体に適切に関わる力)や勇気(困難な悪に立ち向かう力)も大切です。しかし、状況判断が適切でないと、かえって正義や勇気が害をなすこともありますから、賢慮がもっとも重要なのです。
 節制は、自分の欲望をコントロールする力です。正義や勇気があっても欲望にだらしないために失敗してしまうこともあるわけですね。

若松 気候変動の問題をめぐってアメリカでは「気候正義(Climate Justice)」という言葉を使う。先進国の人たちが思慮なくエネルギーを浪費することによって、貧しい国の人が苦しむのは正義に反するというわけです。

山本 日本で正義と言うと、一人一人の問題というよりは、社会とか制度の問題として語られることが多い印象があります。でもアリストテレスやトマスの言う正義は、一人一人が他者や共同体と適切に関わる力を指しています。日本でも、個人としてそのような徳を充実させていくことが、社会全体の善さにつながっていくという発想が、もっと強くあってもいいかもしれません。

若松 気候変動の問題を考える際に、もう一つ大事な枢要徳は「節制」ですね。私たちはエネルギーの消費を少なくしなければならないわけですから。
 本書では節制と抑制は違うという話があって「節制の喜び」という現代日本ではなかなか見かけない表現も出てきて、とても興味深く読みました。

山本 節制と抑制は何が違うかというと、たとえば机の上に置いてある甘いお菓子を食べたいけれども、ダイエット中だからと、いやいや我慢するのが抑制です。
 それに対して、それを食べるのは自分の健康にとってよくないことだと判断して、自ら食べないという選択をする。すると「今日も健康な食生活を送ることができたな」という喜びを感じることができる。これが節制です。

若松 つまり節制という「徳」を身につけることは、むしろ自分が真に望んでいるものを見つけ、本当に満足するあり方へと自分を導いていくことなんですね。私たちが善く生きていくために、非常に重要な見解だと思います。

徳をどう身につけるか

山本 トマスは、徳を身につけるのは、技術を身につけるのと似ていると言っています。たとえば子どもがピアノを習うとき、最初は上手く弾けないからいやいや練習するけれど、ある程度弾けるようになると、だんだん楽しくなってくる。節制もそれと同じだというわけです。トマスの定義では「徳=善い習慣」なんです。

若松 習慣という言葉は近代日本では必ずしも良い意味ではなかった。たとえば柳宗悦などは、日用品に慣れてしまいその美を顧みない、惰性のような意味で用いています。しかしトマスにおいては、習慣はもっと積極的なもので、じつに創造的な何かなんですね。

山本 習慣はラテン語ではhabitusハビトゥスですが、これは惰性のような軽い意味ではなく、ある意味で人間そのものなんです。人間とは「習慣の塊」であって、その人が積み重ねてきた習慣がその人らしさを形成している。ですから善い習慣を身につけることは、善く生きる上で決定的に重要なのです。

若松 私は下戸ですが、美味しいワインを味わうためには、美味しいワインを味わう習慣を身につける必要があるという話が印象的でした。

山本 これも元ネタはアリストテレスですが、「整えられた味覚を有する人に美味しいと思われるものが、真に美味しいものである」という言い方をしています。何を美味しいと思うかは人それぞれですが、だからといってまったく何の基準もない相対的なものではない。味の善し悪しを適切に見分けられる「最善の味覚を有する人」がいるとトマスは言うんです。

若松 「善」と「味覚」が合致しているのも興味深い感覚です。「味わう」ということも再考してみたいと思いました。

山本 本当にそんな人がいるのかとツッコみたくなると思いますが、たとえばソムリエという職業がありますよね。ワインのテイスティングの訓練をして「これは何年モノの良質な逸品だ」とか云々するわけですが、ソムリエによって個性はあるものの、てんでばらばらなことを言うわけではありません。訓練をきちんと積めば、ワインを味わう舌が整えられて、味覚がある種の方向に収斂していくわけです。
 もちろんアリストテレスやトマスは、ワインの話をしたいのではなく、人間が生きていくうえで何が善くて何が悪いかを判断していくのも、それと似たところがあると言いたいわけです。

若松 「徳=善い習慣」を身につけていくことによって、さまざまなものの「善」が見えてくる。これは心の問題でも同じだと思います。幾多の経験を重ねることで、微細な感情を感じられるようになってくる。
 あるいは、言葉との関係でも同様のことがいえると思います。音楽や絵画などの芸術経験においても同様でしょうね。

山本 この世界の善さというのは、最初からすべて分かるものではなく、善いものに触れる習慣を形成していくことによって、だんだんと分かってくる。
 そのような習慣を身につけるのは、必ずしも楽しいことばかりじゃなくて、ピアノの練習の例のように、最初の方は半分いやいや努力するという側面もあったりします。しかし、善い習慣を積み重ねることによって、この世界の善さに自らが開かれていき、それを深く味わえるようになる。
 このように、世界の善の味わい方を教えてくれるトマスの哲学は、いわば「人生のソムリエ」になるための教科書として読むことができるのです。

(本稿は、二月六日にNHK文化センター青山教室の企画としてオンラインで行われた対談に、両氏が加筆修正を施したものです)

(わかまつ・えいすけ 批評家、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授)
(やまもと・よしひさ 哲学者、東京大学教授)
波 2021年4月号より

著者プロフィール

山本芳久

ヤマモト・ヨシヒサ

1973年、神奈川県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科教授。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。千葉大学文学部准教授、アメリカ・カトリック大学客員研究員などを経て、現職。専門は哲学・倫理学(西洋中世哲学・イスラーム哲学)、キリスト教学。主な著書に『トマス・アクィナスにおける人格(ペルソナ)の存在論』(知泉書館)、『トマス・アクィナス 肯定の哲学』(慶應義塾大学出版会)、『トマス・アクィナス 理性と神秘』(岩波新書、サントリー学芸賞受賞)、『キリスト教講義』(若松英輔との共著、文藝春秋)など。

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