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「海の民」の日本神話―古代ヤポネシア表通りをゆく―

三浦佑之/著

1,815円(税込)

発売日:2021/09/24

  • 書籍
  • 電子書籍あり

古事記研究の泰斗が描く、この地の人と神の真の姿――。

古代日本、「ヤポネシア」の表通りは、いかなる世界だったのか。筑紫、出雲、若狭、能登――『古事記』等の文献は勿論、考古学や人類学も含めた最新研究を手掛かりに、海流に添って古代の世界を旅すると、ヤマトに制圧される以前に、この地に息づいていた「まつろわぬ人々」の姿が見えてきた。三浦版「新・海上の道」誕生。

目次
序章 古代ヤポネシア「表通り」
多様な日本列島「ヤポネシア」/律令国家以前の日本の姿/地名の掌握=国家の支配/穏やかな内海としての日本海/古代ヤポネシア「表通り」はいかなる世界だったのか
第一章 海に生きる――筑紫の海の神と海の民
舟で来たスサノヲ/新羅と出雲/大和中心主義の限界/安曇氏と宗像氏/筑紫と出雲/信州・安曇野に到達した安曇氏/筑紫の海の民たちの交流/新羅と結託した磐井の乱/邪馬台国はヤマト国
第二章 海の道を歩く――出雲・伯伎・稲羽
外につながる出雲/海にかかわる神話――スクナビコナとカムムスヒ/ヤマトにつながれた出雲/稲羽の素兎をめぐって/流罪とスキャンダル/日本海側の弥生遺跡/貝の女神によって生き返ったオホナムヂ
第三章 神や異界と接触する――但馬・丹後・丹波
ヤマトとの距離/渡り来る開拓者――アメノヒボコ/異界往還――タヂマモリと浦島子
第四章 境界の土地をめぐる――若狭と角鹿
海の幸の若狭/再びアメノヒボコとヒコイマス/祠をもたない神/角鹿――敦賀へ/蟹の芸謡/丸邇という集団/海から訪れた人――ツヌガアラシト
第五章 北へ向かう、北から訪れる――越前・越中・能登
北への旅立ち/箱庭と立山——都人の風景/出現する大王/高句麗使の渡来/粛慎と呼ばれる人びと、沈黙交易/渤海使の往来/能登のはやり歌
第六章 女神がつなぐ――高志と諏訪、そして出雲
巡り歩くオホナムヂ/ヤチホコの求婚/翡翠の川の女神/贈与品としての翡翠/タケミナカタの洲羽への敗走/つながる表ヤポネシア
終章 国家に向かう前に
倭に先行した吉備と出雲の王権/二人の女神/高志人、出雲に来て堤をつくる/対等な関係/垂直と水平とが交わる世界/国家を指向しない人びと
あとがき
参考文献
古代ヤポネシア年表

書誌情報

読み仮名 ウミノタミノニホンシンワコダイヤポネシアオモテドオリヲユク
シリーズ名 新潮選書
装幀 駒井哲郎/シンボルマーク、新潮社装幀室/装幀
発行形態 書籍、電子書籍
判型 四六判変型
頁数 256ページ
ISBN 978-4-10-603872-3
C-CODE 0395
ジャンル ノンフィクション
定価 1,815円
電子書籍 価格 1,595円
電子書籍 配信開始日 2021/09/24

書評

国家史から解放された神話の世界

上野誠

 副題にある「ヤポネシア」は、島尾敏雄(1917―1986)に学ぶものであるが、それは、日本も一つの「シマ」であり、広く東南、北東アジアの地域の一つとして位置付けて、「日本」という国家史の枠組みから解放するための用語である。
 本書は、広くいえば「海の民」の交流から見た日本神話論であり、著者の長年の研究から導き出される新論、いや新々論といえよう。目次を示すと、次のようになる。

序章  古代ヤポネシア「表通り」
第一章 海に生きる――筑紫の海の神と海の民
第二章 海の道を歩く――出雲・伯伎・稲羽
第三章 神や異界と接触する――但馬・丹後・丹波
第四章 境界の土地をめぐる――若狭と角鹿
第五章 北へ向かう、北から訪れる――越前・越中・能登
第六章 女神がつなぐ――高志と諏訪、そして出雲
終章  国家に向かう前に

 通覧すると、あぁ、裏日本、日本海流の交流史から見た神話論か、とわかるだろう。が、しかし。本書の問いかけは、今日の日本列島を中心とした国家史から神話を解放するものなので、読者はこの点を注意して読むべきである。
 もともと「クニ」という語は、小地域を示す言葉であった。たとえば、律令国家の「大和国」のなかにも「ヨシノノクニ」(奈良県吉野地方)や「ハツセヲグニ」(奈良県桜井市長谷)などがあった。それぞれの「クニ」が交流、競争、協調して、それぞれの時代の生活があったわけである。たとえば、「イヅモノクニ」と「コシノクニ」が「海の民」によって結ばれ、交流して、ヒト、モノの交換をして、それぞれの「クニ」が成り立っていたのである。その交流の跡を、翡翠の流通やヤチホコの神の〈ヨバヒ〉伝承からも学ぶことができるのである。
 今の国家史の枠組みから見れば、「新羅国」は、かつて朝鮮半島に存在した一国家だが、古代の「イヅモノクニ」の人びとから見れば、交流していた「クニ」の一つに過ぎない。スサノヲやアメノヒボコの記紀神話を見ても、ちょっと遠くから来た神くらいにしか、見ていないことがわかる。
 本書が仮想敵としているのは、
(1) 近代国家を無意識に前提とした国家史
(2) 国家の中でも、鉄と米による王権支配論
(3) ヤマト中心史観
 の三つである。読み進めていて、ふと独言を発してしまった。
 えぇ、石母田正(1912―1986)なんて、コテンパンやなぁ、今の三浦先生には――。
 石母田古代史学は、国家と国家の権力史であり、その中で、東アジアの国家関係を捉えようとするものであった。発表された当時は、刮目の雄であったが――。
 じつは本書は、まさしく、今、読まれるべき本なのである。
A ネットで自由に結ばれ、ヒトとモノの移動が自由にできるようになり、国家や国境の意味が問われている時代
B 高度経済成長時代は、鉄の生産量と米の生産量の多寡が幸福度を計る目安であったが、もうこの二つが幸福度とは結びついていない時代
C 中央と地方との関係ですべてを考えても、もう新しいものは生まれてこない。地域間での交流や都市交流の方が、実際の生活では大切ではないのか、と思われている時代
 そういう観点を反映して、本書は書かれているし、読者も、日本の古代社会の多様性について学べる本だと思う。
 あらゆる歴史像は、すべて近代史であるとは、評者もわかっているのだが、それを研究に活かすことは難しい。評者なりに考えると、近代国家のゆらぎの中で生まれた学問には、一つの潮流があると思う。その一つは、ソフトなものの歴史を扱うことだ。「ムラ」から歴史を見る民俗学。香や木陰にも歴史はあると説いたアラン・コルバン(1936―)。非稲作民の歴史を説いた網野善彦(1928―2004)。彼らは、新しい歴史像を構築しようとした。本書は、その流れの中で、リニューアルされた新々神話論なのである。
 もう一つ、本書の重要な特徴がある。それは歩く神話論、古代交流史になっていることだ。つまり、交流の痕跡を辿る旅になっているということである。ひっそりと、祀られている神社の神が、遠くからやって来た神だったりする。
 交流によって、その地に残された痕跡というものがある。中国で発見された古代ローマの硬貨。北斎とゴッホ。なんで山の中に、海の民の祀る神のお社があるのか。糸魚川の翡翠がここにも。
 近代の学問は、あまりにも頭でっかちになり過ぎている。本書を読むことによって、私たちは「古代」への旅に誘われることになるのだ。私も、ここには、行ってみたいというところがいくつかあった。そこには、付箋が貼ってある。

(うえの・まこと 國學院大學教授(特別専任))

波 2025年6月号より

「国家」に抗する「海の民」

赤坂憲雄

 思えば、『出雲神話論』(講談社)の衝撃から二年足らずで、その続編との邂逅を果たすことになった。前著で先送りされた、「古代ヤポネシアの表通り」の史的景観がくっきりと浮き彫りになったことに驚きを覚える。補論の域ではない。未踏のあやうい領域に、三浦佑之さんは怖れげもなく足を踏み入れ、道標のいくつかを打ち込んでみせたのだ。守りの姿勢がかけらもない。もはや、国文学という牙城に身を寄せることもない。これは膨大な文献読みには留まらず、フィールドを訪れて読みを深めることを重ねてきた成果の詰まった著書なのである。
 古事記日本書紀・風土記、そして万葉集はいずれも、古代律令国家としての「日本」の誕生以後に属している。三浦さんが力説されてきたように、もはや「記紀神話」の時代は終わった。出雲こそがリトマス試験紙となる。なにしろ日本書紀は、出雲を視野の外に祀り捨てたテクストだった。しかし、出雲神話を豊穣に抱えこんだ古事記とて、出雲の背後に沈められた海の世界を真っすぐに物語りしているわけではない。
 だから、三浦さんは古事記を核としながらも、考古学や歴史学の新しい研究を越境的に摂りこみ、古代ヤポネシアの掘り起こしへと向かわざるをえない。ここで、ヤポネシアとはむろん、島尾敏雄の綺想に富んだヤポネシア論を承けている。それは奄美・沖縄から黒潮によって北上してゆく海上の道に沿った、「日本」を超えるためのもうひとつの日本文化論の試みであった。三浦さんはさらに、古代の日本海文化圏を「表通り」へと転倒させながら、もうひとつのヤポネシア論へと足を踏みだしていったのである。
 三浦さんが表明してきた、古代律令国家とともに誕生した「日本」にたいする懐疑と批判を、わたしもまた共有している。都から放射状に伸びる陸の道によって地方を支配する中央集権的な国家像としての「日本」は、中世という例外はあれ、現代にまで生きながらえてきた。だから、「日本」の誕生以前の「古代ヤポネシアの表通り」をなす環日本海世界の掘り起こしが必要とされた。古代の「日本」は陸の道によって、海の道が繋いできたヤポネシア世界を分断し、不可視の場所へと追いこんでいった、と三浦さんはいう。
 その豊かな構想力が描きだした、埋もれた列島の黎明期の「国家に抗する社会」(ピエール・クラストル)に熱い共感を覚えている。そのうえで、わたし自身の妄想メモを書き留めておきたくなった。列島の古代に見いだされる国家に抗する社会としては、東北の蝦夷たちの、ゆるやかに連携する「山の民」の部族社会が浮かぶ。それにたいして、三浦さんが発見しているのは、日本海を舞台とした海の道で繋がれる地域分散型の「海の民」の社会である。それはたとえば、多島海型のネットワークで繋がれた地域連携とは異なった、もうひとつの「国家」に抗する「海の民」による地域連携であろうか。
 この本の隠れた主人公は潟湖、つまりラグーンであった。それはいたるところに遍在している。三浦さんは周到に、たくさんのラグーンの所在をあきらかな名前とともに書きこんでいる。ラグーンの意味を問いかけるとき、柳田国男の明治四十二年のエッセイ、「潟に関する聯想」はいまも豊かな刺激に満ちている。日本海岸では風景の特色が潟に集まっている、と柳田は書いた。太平洋側にも、リアス式海岸ばかりでなく、潟のある風景が見られないわけではない。留保が必要か。
 日本海に沿ってラグーンを抱いた海岸景観が、本州の北から南へとたどられていた。そこに見いだされていたのは、漁業/交通/稲作が交叉することで編まれてきた天然と人間との交渉史であった。「潟に関する聯想」には、三浦さんがそっと書きこんでいた潟湖の名前が次々に拾われている。そこから『「海の民」の日本神話』を照射してみるのもいい。
 ラグーンに生まれる海村は、その前面に広がっている海によって遠く離れたいくつものラグーンの村と繋がり、水平的な関係のもとで交易や交流、婚姻の網の目を張り巡らしていた。と同時に、そこに流れこむ川や沢を通じて、内陸の稲作農村や、焼畑・狩猟・採集などの稲作以前をかかえた山村へ結ばれていた。山―里―海を有機的に繋いでいる結節点としてのラグーン、そこに埋めこまれたかんしんぱくを起点とした交通の諸相にこそ、眼を凝らしてみたい。そして、この先には、避けがたく「青潮文化論」との連携が求められるにちがいない。

(あかさか・のりお 学習院大学教授)
波 2021年11月号より

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著者プロフィール

三浦佑之

ミウラ・スケユキ

1946年、三重県生まれ。千葉大学名誉教授。成城大学文芸学部卒業。同大学院博士課程単位取得退学。古代文学、伝承文学専攻。『村落伝承論――「遠野物語」から』(第5回上代文学会賞)、『浦島太郎の文学史――恋愛小説の発生』、『口語訳 古事記』(第1回角川財団学芸賞)、『古事記を読みなおす』(第1回古代歴史文化みやざき賞)、『風土記の世界』、『列島語り――出雲・遠野・風土記』(赤坂憲雄氏との対談集)、『出雲神話論』等著書多数。

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