オヤジギャグの華

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その3 タワー・クレイジー

オヤジギャグの華

 私たちは東京タワーのすぐそばにアパートメントを借りた。より正確に言えば、そしてより華々しいことに、七階にある我々のスペースは東京タワーのほぼ真下に位置し、あいだには何本かの木が植わった場所と、小さな寺の付いたミニ墓地があるだけ。こぢんまりした華やいだメインルームの窓から、こぢんまりした裏のバルコニーに私たちは出て、あんぐり口を開けて見ている。
 巨大な記念碑的建造物と親密に暮らす――度肝を抜かれる、不安にさせられる体験である。複雑な格子を成す、塔の大きな足が、朝のコーヒーを飲む我々のすぐかたわらにあるのだ。居酒屋から千鳥足で帰ってくると、塔はそこにあって、ほのめく光を放っている。
「エッフェル塔の陽気なバージョンがルームメートになったみたいね」とガールフレンドのコジマが、陽なたのバルコニーで禁止の煙草をふかしながら言う。
 いかにも東京らしい。外国のランドマークの臆面もないコピーを、自分の人気アイコンに変えてしまうとは!
「実際、東京タワーって、エッフェル塔より高いんだよ」と私は指摘する。「それに、錬鉄じゃなくて鋼鉄で出来てるから、ずっと軽いんだ」
「どうだっていいわ」とコジマは賛嘆の目で見上げる。
 不格好に大きなタワーの基部に、私は黙って見入る。そこから上にすらっと、すぼまっていきながら空に溶け込む塔は、巨大で直接的な物体から、矢のように飛ぶ彼方の抽象物に変わっていくように見える。日が暮れると、タワーは垂直の特大ちょうちんのように柔らかに光る。
 ある朝私は、階段をのぼって白いメインデッキに行くと宣言する。「あそこの、真ん中のデッキ」と私は言う。
「あれって六百段あるのよ!」とコジマが言う。「ホームページにそう書いてあるわ」
「そりゃあ楽じゃないさ」と私は雄々しく認める。「でも僕は東京タワーと渡りあう! それにさ、幼稚園児でも十五分でのぼれるってホームページに書いてあるじゃないか」。さらにひと言、「まあ時には風がけっこう強くなるみたいだけど」とぎこちなく笑いながら私は言う。
 午後は夕方に近づき、春の穏やかさをたたえ、私は塔の土台を成す支柱部の、流れる巨大な弧の下の人波に加わる。かたわらには、ぶざまな、灰色の、観光客相手の「フットタウン」があって、やたらとキュートでやたらと陽気な土産物を多種多様な形態やメディアで揃えている。私は自分に「グッド・ラック!」とささやき、明るいオレンジ色の階段をのぼりはじめる。支柱や格子のあいだを私は抜けていく。
 一歩ずつ数えて、最初の百歩は順調に行く。私はしかるべく一息つこうと立ち止まり、上機嫌でニタニタあたりを見回す。日頃から運動のために地下鉄の階段をのぼっているから、こういうのには慣れているのだ。突然、風がさっと吹いてきて、危うくニット帽を飛ばされそうになる。苦笑いしながら、私は帽子をぎゅっと頭に押しつける。そして上りを再開する。はじめはほかにものぼっている人が周りにいたが、もう誰の姿も見えない。二五〇段くらいのぼったところで、今度は本気で立ち止まって休まないといけない。息はゼイゼイ荒くなっている。心臓が早鐘のように打っている。塔のオレンジ色の対角線を通して下を見ると、思わずめまいがしてくる。上の方で、若いカップルが凍りついているのが見える。驚いたことに、彼らはアルプス登山の格好をしている。体はロープでつながれている。一歩一歩、二人のかたわらを通り過ぎながら私は親指を上げて挨拶を送る。二人は目を丸くして私を見返し、息を呑む。風が一気に強まる。あまりの強さに、私は支柱にしがみつく。幼稚園児なんてぜったい宙に吹っ飛ばされる風だ! 「おい、これどうなって――」私は口から泡を吹く。頭上に貼られた脳天気なポスターが、ここまでで私が何カロリー消費したかを告げている。風がポスターを剥ぎとる。

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 恐怖の念が募るなか、私は登りを再開する。どうやらここにはエレベータなどというものはない。上で三人組が、体をべったり広げて登っているのが見える。三人とも大きな、エベレスト登山のパーカを着ていて、フードが突風にぱたぱたはためく。彼らは酸素ボンベを共有している! 酸素マスクの上の、憑かれたような目で、這いつくばって追い越していく私を彼らは呆然と見る。私はもう本気で怖くなってきて、パニックがひたひた忍び寄ってくるのを感じる。空気はひどく薄く、肺が燃えるように熱い。もう何歩来たかもわからなくなってしまった。風が激しく、容赦なく吹き荒れる。私は絶望してへなへなと階段に座り込む。
「助けてくれ!」と私は帽子を押さえつけながらわめく。「助けて!」
 たくましい両手がどこからか現われて私を掴む。手に引きずられて私はガンガン階段に叩きつけられ、風に揺られながら上がっていき、メインデッキにたどり着く。
 私は大の字になってゼイゼイ息をしている。私を救ってくれた人は、展望窓の前に行って外を眺める。ここには私たち二人しかいない。彼は大きな、背の高い、年上の外国人だ――日本人ではない。
「アリガトウ」と私は混乱した頭で、息も切れぎれに言う。「アリガトウ!」
 相手はちらっとこっちを向く。その顔が見えたとたん、私の息が止まる。私はあたふたと立ち上がる。
「あなた、ヴェルナー・ヘルツォークではないですか?」私はしどろもどろに言いながら彼の方に寄っていく。「映画監督の?」
「ヤー、ヤー、そうだ」と彼はほとんど苛立たしげに、ドイツ語訛りの英語で呟く。
「あなたがこのタワーで話しているのを見ましたよ――ヴィム・ヴェンダースの『東京画』で!」と私はなおもわめいて、彼の横まで行く。「一九八〇年代でした!」
「そうとも、そうとも」と彼は言う。「毎年ここに戻ってくるんだ、こっそりと」。そして突然、私たちの眼下に広がっているメガロポリスの混沌を身振りで示す。「そして私はまだ探している、いまもまだ」と彼は叫ぶ。「あの時もいまも、この東京の狂ったごちゃごちゃの中に、ひとつの澄んだ、透明な像を探しているんだ。だがどうしても見つからない――純粋な、透明な像は!」
 彼は私の袖を掴み、私の向こうを見やる。
「で、どうしたと思う?」彼は耳障りな声を上げ、目をギラギラ光らせ、薄くなってきた灰色の髪が揺れて踊っているように見える。「私は決めたんだ、私の心の中の東京を……パリにすることに!」。己の着想の見事さを強調するかのように、彼は私の体をぎゅっと掴む。己を讃えて高笑いを上げる。「私にとって、これは東京タワーじゃない、わかるか? エッフェル塔なんだ、掛け値なしの! 下にごちゃごちゃ並ぶビル? シャンドマルスさ、爽やかに広がる緑地だよ! あっちの摩天楼は六本木ヒルズでも虎ノ門ヒルズでも何ヒルズでもない、サクレクールとパンテオンとノートルダムさ。ま、たしかにあのうちのひとつはモンパルナスタワーだ――目障りなのがぽつんと建ってる。でももうすべてがシンプルでクリアなんだ! どうだ、見事だろう? え?」
 彼は目を輝かせ、私の体をさらに強く掴む。
 気の毒に、ここに上がってきてすっかり狂ってしまったのだ、と私は思う。
「ええ、まあ」私はごくんと唾を呑んで彼を見る。「つまりその……監督はあなたですから!」
 映画界ジョークを試みたひと言に、私は自分で笑う。彼は笑わない。
「さあ、これをやる、ここまでのぼって来たらどんな阿呆でもこの証明書がもらえるんだ」と彼は言って、どこからか紙切れを取り出す。「エレベータを使って降りなさい。私を放っておいてくれ、私のパリに一人でいさせてくれ――私だけのパリに!」
 エレベータのドアが閉まるとともに、私は声を上げて別れを告げる。彼には聞こえてもいないようだ。壊れた侘しい脳の生んだ勝利感に彼は浸っている。
「いいじゃない!」ヘルツォークにもらった〈階段登頂者公式証明書〉を見せるとコジマは言う。「エッフェル塔なんてどうでもいいわよ」と彼女は鼻を鳴らす。「東京タワーを愛せない人なんているわけないわ!」うっとりと彼女は見上げる。「すごく可愛くて、チャーミングで」
「可愛くてチャーミング?」と私は言い返す。「僕がどんな目に遭ったか、忘れたのか?」
 窓の内側の安全な場所から、私は警戒の目でそれを見上げる。
 この先、何が控えているか、私にはまるで見えていない。
 翌日、塔のオレンジ色の鋼鉄の基部でポーズをとっているコジマのセルフィーを、私はインスタグラムで見つける。彼女は鋼鉄を抱きしめ、頬をなすりつけ、うっとり微笑んで……タワーにキスしている。
「だってほんとに可愛いんだもの!」私が問いただすと彼女は言い返す。「チャーミングだもの!」
 セルフィーは止まない。
 アドバイスはないかとネット上をサーフしながら、私は「対物性愛オブジェクトフィリア」の現象に不安な気持ちで思いをめぐらす。ベルリンの鉄道駅に「恋している」女性。別の一人のねんごろな想いの対象は――よりによって――エッフェル塔。
 事態はますます剣呑になってくる。赤羽橋からアパートメントに向かって歩きながら、あるいは神谷町駅から出てきたとき、オレンジと白の尖塔のカーブがぬっとそびえているのが見える――これはもういつものこと。だがいまでは、何マイルも離れた原宿あたりにいても、見慣れたすらっとしたシルエットが、表参道ヒルズのショッピングセンターの上に、白い襞襟ひだえりをつけた首長のブロントザウルスみたいにそびえているのだ。私は愕然とする。
「あのさ、東京タワーが僕らのことストークしてるんじゃないかな」私は一緒にいるコジマに仰々しくささやく。
ストークしてるんじゃないわよ、あたしたちのことじゃないわよ」と彼女は答え、振り向いて手を振り、投げキスを送る。「あたしのこと崇めてるのよ、あたしが崇めてるのと同じに!」
 とうとう、ある日の夕方、落ち着かぬ、上の空の散歩から帰ってきた私は、わがガールフレンドが、こざっぱりとしたカウチに、高さ一メートル二十の東京タワーの精巧な模型と一緒に座っているのを目にして仰天する。
 ただし、それは模型ではない。
「ほんとに嬉しいわぁ」と彼女は叫ぶ。「タワーが縮んで会いに来てくれたのよ。きっと裏口から忍び込んだのね」
「なんだって?」私はあわてふためく。
 だが本当にそうなのだ。窓の外を見て、木々と墓地の向こうの、何もない空間に私の口があんぐり開く。「フットタウン」がぽつんと剥き出しの姿をさらしている以外は何もなく、周りをパトカーが囲んでいる。警官たちがそこらじゅうに群がり、一帯は犯行現場を表わす黄色いテープで仕切られている。
本気で狂ったのか?」私はコジマを問いつめる。「いますぐこいつを帰らせろ。有名な公共建築なんだぞ、こんなことしちゃいけないんだ! それに、こいつがいまここで元の大きさに戻るって決めたらどうするんだ!」
「何言ってんのよ」と彼女は言い返す。「この子がそんな迷惑なことするわけないでしょ」。彼女は護ろうとするかのようにタワーを抱きしめる。
 彼女は何を言っても聞かない。何もなくなった場所に、ティーンエージャーの女の子たちが群がり、花輪を置いて、泣き崩れる姿を私が指さしても甲斐はない。「どうやらこのタワー、少女漫画でも愛されてるんだな」と私は苦々しい声で言う。
 ガールフレンドは頑固に肩をすくめるだけだ。タワーは彼女のかたわらで、夜の光を発している。
 大荒れの一夜。私たちの寝室にタワーを入れることを私は拒む。コジマはタワーをなだめて、小さな客用寝室に入れ、子守歌でも歌うみたいにクークーあやしている。だがタワーは、ぐずって言うことを聞かない子供みたいに、私たちの寝室と接した壁を何度もガンガン叩く。コジマは二時間ごとにそっちへ行って相手をしてやらないといけない。一方、眼下の墓地では、幽霊たちが墓から漂い出て、かたわらに広がる大いなる空虚に向かって泣き叫ぶ。
 朝が来て、疲れはてたコジマはついに断念する。何分もかけて、客用寝室にタワーとこもり、事情を説明する。取り乱し、苦悩に包まれたタワーはさんざん暴れるが、やがてとうとうドアが開き、いつまでも変わらぬ愛をコジマが誓うと、元の場所と大きさに戻ることにタワーは同意する。私たちはタワーをシーツでくるんでこっそりビルの裏口から下ろし、自分で帰って行くようそこに残していく。
 東京を、そして国中を驚喜させたことに、見慣れた大いなるオレンジと白の塔が、ふたたびフットタウンから空へのぼっていく。
 その夜、わがガールフレンドは裏手のバルコニーに座り、煙草を喫いながらじっと見ている。ほぼ満月になった月が、東京タワーという名の大いなる垂直のちょうちんの上空でほのめく。それが叙情的な、心動かされる眺めであることは認めざるをえない。私はコジマの肩をそっと掴む。彼女の頬が濡れている。思いにふける彼女は優しく微笑む。情愛のふるまいは微妙なる神秘だ、と私は重々しく考える。彼女は指でスマホに触れる。自分が書いた俳句を、彼女は私に見せる。私は声に出してそれを読む――

    ふたつして
    わが胸照らす
    月と塔

つづく
FLOWERS OF OYAJI GYAGU by Barry Yourgrau
Copyright(C)2019 by Barry Yourgrau
波 2019年7月号より

著者紹介

バリー・ユアグローBarry Yourgrau

南アフリカ生まれ。10歳のときアメリカへ移住。シュールな設定ながら、思いつきのおかしさだけで終わるのではなく、妙にリアルで、時に切なく、笑えて、深みのある超短篇で人気を博す。敬愛する作家・アーティストはロアルド・ダール、北野武ほか、また「ヒッチコック劇場」「トワイライトゾーン」などのTV番組にも大きな影響を受けたという。著書に『一人の男が飛行機から飛び降りる』『セックスの哀しみ』『憑かれた旅人』『ケータイ・ストーリーズ』(以上、柴田元幸訳)『ぼくの不思議なダドリーおじさん』(坂野由紀子訳)などがある。

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