オヤジギャグの華

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その6 MISHIMA DRIFT

オヤジギャグの華

 東京に滞在中、華やかな文芸イベントに私は出演することになっている。国際文化会館の主催で、多才なスター作家川上未映子と二人でトークをやるのだ。未映子とは二年ばかり前、私も寄稿している日本文学の雑誌『モンキー・ビジネス』英語版のツアーで彼女がニューヨークを訪れたときに知りあった。私がまた東京に来たら一緒に何かやろう、と私たちは話していたのである。
 というわけで、イベントもあと二晩に迫ってきて、すごく楽しみである。それがけさ、何と!
「どうしたのよ」ガールフレンドのコジマが訊く。
「歯が! 歯がすごく痛いんだ! ただの痛みじゃない、何か破滅的な、原初の痛みなんだ。これじゃイベントなんかできない! 耐えられないよ!」
 私は悶々としてソファを叩く。「また呪わしい運命が!」
 というのも、やはり日本絡みの、もうひとつの怪物級の歯痛の恐ろしい残響がここにはあるのだ。九〇年代前半、ロサンゼルスに住んでいた私は、コムデギャルソン春のメンズウェア・ショーのモデルの一人としてパリに招かれた(川久保玲はプロでない人間を好んで使うらしい)。というわけでパリに飛び、二、三日滞在した。結構な話である――ただ一点を除けば。埋もれている親知らずがものすごく痛んで、行き帰りのフライトでも、パリ滞在中も、すさまじい、いつ来るともわからぬ激痛にしじゅう苛まれていたのである。有難いことに、ステージを歩く最中は痛まなかった!
「そしてまたこれだ」と私は情けない声で嘆く。
「可哀想に」とコジマは言う。「でもこのへんにきっと、英語を喋れる歯医者がいるわよ」
「そりゃいるさ、だけどいくらかかると思う、破損してるだか感染してるだかの歯を外国人が抜いてもらうなんて? 僕の歯はどう見てもただ事じゃないんだよ」
 アメリカでは、歯医者に行くことは破産への近道である。
 だがほかに手はない。

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 歯科医院は近所の麻布十番にある、感じのいい小さなビルの一角を占めている。スタッフもみな感じのいい、てきぱき働く若い女性である。「虫歯ではありません。破損もありません」と、レントゲンと診察を終えた歯科医は英語で請けあう。「たぶん緊張から来る痛みです。歯ぎしりとか」
 私は呆然と目を丸くして彼女を見る。そしてさらに呆然として請求書を見る。ものすごく安いのだ。
 というわけで、安堵に心も軽く、イベント当日の午後に私は国際文化会館インターナショナル・ハウス、通称アイハウスに着く。歯科医に頼もしい言葉をもらって以来、歯痛は一気に和らいだ(人間の心理とはまったく妙なものだ)。そしてアイハウス――日本風五〇年代モダニズム国際様式の、何と気高い一例か。コンクリートの軽やかな幾何構造が、水平の線を何本ものばしている。コジマと私はここの宿泊施設の一室を一泊提供されていて、部屋は風通しがよく、禅的に静謐、優雅にシンプルで、窓からは名高い、美しいアイハウス日本庭園を見下せる。
「さっき知ったんだけど、ここで誰が結婚披露宴を開いたと思う?」と私は叫ぶ。「三島由紀夫だよ!」
「すごいわね。あの人結婚してたの?」とコジマが言う。
 私は館内を偵察に行き、コジマはベッドでくつろぐ。
 一階で未映子に出くわし、私たちは温かい挨拶の言葉を交わす。通訳がいないので、挨拶は簡潔にならざるをえない。
「いやあ、華麗な人だよ!」と私は部屋に戻ってコジマに言う。「白いシルクのシースドレスを着て、黒髪はふわっと内巻きで。僕、彼女と並んだらまるっきり田吾作に見えるね」
 それを証明するかのごとく、私はよりによって、持ってきたお洒落なシャツの襟にお茶をこぼしてしまう。
「ギャーギャー言うのやめなさい、しっかりしなさいよ!」とコジマが化粧鏡から叱る。「今夜はスカーフを巻いて出なさいよ、しみが隠せるでしょ」
 たしかに。晩は実に楽しく進んでいく。会場は満員。センセイさん――わが名高き翻訳者を私はこう呼ぶ――と二人で私は新作を朗読する。宝くじに当たったはいいが、賞品のきんとは融かした金箔を顔に塗られることだと知らされる男の話である。コジマと私の友人で東京に住むガイジンが最前列でガハハと笑い、コジマはそっと私に朗読の声を張り上げるなと合図する。未映子が朗読すると、私は気が散って英語の翻訳をいまひとつ追えないが、観客は大喜び。それから二人で「声」の大切さについて語りあう。途中、私はさりげなく、三島が国際文化会館で結婚披露宴を開いた話をもぐり込ませる。何とも興味深い文学的遺産ではありませんか?
 それから私たちは本にサインする。未映子はしきりにグループ・セルフィーを撮っている若いファンたちに囲まれている。私はニコニコ笑っているが、囲んでくれるファンの輪もなく内心ちょっと嫉妬している(感じのいい若いファンが一人寄ってくるが、私と対面してほとんど恐怖に震えている――私がふだんは施設に閉じ込められているとでも思っているみたいだ。無理ないわよね、とコジマは言うだろう)。一瞬、うしろの方にいる女の子が私と目を合わせる。白っぽいもしゃもしゃのアフロ・ウィグハットをかぶっている。何だか妙に見覚えのある女の子だ。
 打ち上げの夕食会が、近所のイタリアンレストランで開かれる。流行の最先端を行く未映子が東京出身ではないことを私は知る。彼女は大阪人なのだ。ゆえに彼女には、泥臭い、野卑と言ってもいい側面がある。「オオサカ! マンザイ!」と私は叫ぶ。「マンザイ!」と彼女は笑って答え、私たちはビールの巨大なジョッキをかちんと合わせる。わが歯痛をめぐる奇跡の物語を私は大きなテーブルのみんなに向かって語るが、フードライターのコジマがそれをさえぎり、あなたたちの一番好きなラーメンは何かと訊ねる。未映子は大量生産のラーメンが大好きだ。「私たち元気世代はうま味調味料中毒なの」と彼女は叫ぶ。「味の素――わかっちゃいるけどやめられない!」
「いい晩だったなあ!」と、午前零時を過ぎてアイハウスの部屋に戻った私は声を上げる。ラグーのソースがスカーフに染みていたって構わない。コジマはうなり声を漏らす。もうほとんど眠っているのだ。私はため息をつき、明かりを消す。ところが眠れない。この数時間を脳内でリプレーしていて、興奮が醒めないのだ。それに、アイハウスの季刊の会報に、ここでの宿泊について短い物語を書くよう依頼されていて、脳はすでにいろんな可能性をせわしなくいじくり回している。
 そっと外に出て、月光の日本庭園を散歩することにする。
 庭園とその影は、静寂を永遠に祝福する舞台装置を思わせる。石灯籠に護られた、建物の裏手にひっそり作られた小さな鯉の池に私は歩いていく。それからゆっくり庭園を見回す。月に照らされた、絹の如き地面。雲のかたまりのようにこんもり茂った暗い木々を背景にした、彫刻のごとく刈り込まれた藪の暗い幾何学模様。これをみんな独り占めしているのだと思うと笑みが湧いてきて、月光の下で私は自分を祝福する。
 と思ったら、独り占めではない――中年男の三人組が、建物の向こう側から、そうっと這うように現われるのだ。
 そして彼らの体は、ちらちら揺れている。
 私は目を白黒させる。
 幽霊……?
 私はそのへんの彫刻的な藪の蔭に隠れる。恐るおそる見てみる――と、そこにもう一人いることに私は気づく。
 小柄な若い女性が、一メートルばかり離れたところからそっと見ている。二十代前半、キュートな丸顔、頭には色の薄いもしゃもしゃのウィグハット。体がちらちら揺れている。私は目を白黒させる。
「あなたのこと、見ましたよね――今夜のイベントで」と私は小声でしどろもどろに言う。「すみません、英語は話せますか?」
「はい、夫に教わりました」と彼女は答える。軽く、幽霊風のお辞儀。「はは、ご覧なさいな、あの人たち」彼女はクスクス笑って、いまや裸足になりズボンの裾をまくって鯉の池の前に集まっている幽霊紳士三人組を指さす。
「あれ、何やってるんです? 誰です、あの人たち?」
 前世では三人ともこの建物を設計した著名な建築家だったのです、と彼女は答える。「あまりにもこの建物を愛しているので、くり返し戻ってきては、鯉の池のなかに永遠に隠れようとするのです。けれど鯉が許しません。ほら!」
 建築家たちはじりじり池に入っていく。水が抗議するように激しく渦巻く。彼らはよたよたと後ずさる。じきに悲しげな顔であきらめ、靴を手に持ちこそこそと、もと来た方へ退散する。
「ハハ! ハハ!」女の子と私は一緒に笑う。
 気まずい沈黙が生じる。
 私はえへんと咳払いする。「で、あなたも未映子のファン?」――ほかに何と言っていいかわからないのだ。
「ええもちろん。でもイベントは見ませんでした」と彼女は言う。「ここへ戻ってきたことに、すっかり心を奪われていたから」。彼女は藪から歩み出て、周りをほれぼれと眺める。「ああ、私たちの結婚披露宴の幸せな記憶、あの晩夫の家族と私の家族はほとんど口を利かなかったけれど。気の毒に、川端先生は何とか場をつくろおうと必死になっていらした」
 認識の戦慄が私の体内を貫く。「ちょっと待って――僕、あなたがそのウィグハットかぶっている写真見ましたよ。あなたの新婚旅行の! あなた、杉山瑤子さんですね、三島由紀夫の妻の」。突然、私はごくんと唾を呑む。「待って――あの人もここにいるんですか?」
 彼女は笑う。「いえいえ、いまも一晩じゅう仕事してます、昔と同じで」
「え、だって首が――」思わず口走りかけた無礼な一言が、辛うじて途中で消える。
「ほんとに綺麗」と彼女は、私が暗に訊ねた問いも無視して、じっと見たまま言う。「私、ここに若いころの姿で戻ってくるの大好き。ねえ!」と彼女はいきなり叫んでさっと体を回す。「ドライブ、行かない?」
「ドライブ? いま?」
「そうよ! 私ドライブ大好き、レーシングカーにも乗ってみたかったんだけど、夫に駄目って言われて」
「いやその、僕のガールフレンドが……」と私は断りかけ、静謐に幾何的な建物の、私の部屋の窓の方を身振りで示す。それから私は考える――お前、こんなチャンス逃すなんて、気でも狂ったか?
「いいとも!」と私は答える。
 キュートな一九六〇年代型ピンクのダットサンが、アイハウス玄関前でちらちら揺れて待っている。
「これ、僕も乗れるのかな、幽霊じゃないんだけど?」
「決まってるでしょ!」と彼女は笑う。
 私も笑い返して、乗り込む。「僕ねえ、東京ですごくたくさん幽霊に会ってるんだよ!」と彼女に言う。
「そりゃそうよ、日本ですもの」お洒落な運転用手袋をはめながら彼女はウインクする。
 ガタゴトと門を抜けると、車はアイハウスの壁沿いの坂を一気に下って大通りに出て、狂おしく尻を振り、漂うようにカーブして、彼女がハンドブレーキを引っぱるなか、やがてまっすぐ走り出し、飛ぶように進んでいく。
 ヤッホー!
「ねえ、『TOKYO DRIFT』っていうアクション映画観たことある?」と私は必死につかまりながら叫ぶ。
「何度も観たわ!」と彼女はハンドルをしっかり握ったまま答える。
 ディナーの会場だったイタリアンレストランの前も飛ぶように過ぎ、麻布十番に入っていく。
「あそこに見えてきた建物、あそこで歯医者に行ったんだ!」と私は指さす。そうしてわが歯痛のサーガを語り出す。
 きっとまた同じ話を聞かされて運命が苛立ったのだろう、ダットサンのタイヤがパンクしてしまう。車はガタガタ無茶苦茶に揺れ、髪も逆立つ恐ろしさだが、なんとか無事歩道に乗り上げる。
 夜のドライブもそこで終わる。パンクしたダットサンはここへ置き去りにして、日が昇ったら消えてもらうしかない。彼女は通常の幽霊的手段で早急に戻らないといけない。夫が夜ごとの仕事を終えて書斎から出てきたときに、出迎えねばならないのだ。
 というわけで、不器用に優しい思いに心を動かされつつ――二人とも、だろうか?――そそくさと別れの言葉を交わしたあと、私は独り、午前四時過ぎにアイハウスの入口ゲートから中へ戻っていく。ああ、なんという一夜だったか! 守衛がやっと玄関を開けてくれると――鍵は部屋に置いてきてしまったのだ――私は守衛に向かって、建物の隅でちらちら揺れてまた鯉の池に挑戦しようとしている三人の方を指さし、そっとウインクする。だが守衛は疲れた顔でうなり声を漏らすだけで、私が中に入るとドアに施錠し、カウンターに戻っていく。
 守衛もちらちら揺れている。
「ねえ」と私は彼に向けて、瑤子に訊き忘れた問いを発する。「ひょっとして、親父ギャグが好きな年輩の床屋、知りません?」
「床屋はだいたいみんな親父ギャグ好きですよ」と彼は答える。「ここは日本ですから」
 そうして守衛はあくびをして、お休みなさいの挨拶にお辞儀をする。

つづく
FLOWERS OF OYAJI GYAGU by Barry Yourgrau
Copyright(C)2019 by Barry Yourgrau
波 2019年10月号より

著者紹介

バリー・ユアグローBarry Yourgrau

南アフリカ生まれ。10歳のときアメリカへ移住。シュールな設定ながら、思いつきのおかしさだけで終わるのではなく、妙にリアルで、時に切なく、笑えて、深みのある超短篇で人気を博す。敬愛する作家・アーティストはロアルド・ダール、北野武ほか、また「ヒッチコック劇場」「トワイライトゾーン」などのTV番組にも大きな影響を受けたという。著書に『一人の男が飛行機から飛び降りる』『セックスの哀しみ』『憑かれた旅人』『ケータイ・ストーリーズ』(以上、柴田元幸訳)『ぼくの不思議なダドリーおじさん』(坂野由紀子訳)などがある。

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